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第68話 自己嫌悪

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  安堂が温室までおおよそ五十メートルの距離に近づいた頃、自分の疑念は被害妄想的な勘違いなのではないかと疑い始める。その美しい外観は夜の闇に幻想的に映え、温室というよりはカフェ、あるいは社交場のような雰囲気を醸し出しているからだ。坂巻を案内したあの男も短腹だがジェントルで、もしかしたらこの温室か、または隣の豪邸でクレームの詫びに夫婦揃って坂巻を手厚くもてなしているのではないだろうか。
「人の善意を悪意に解釈する癖が出た」 安堂は、そこでようやく走る足を止めた。
「こういう所が父そっくりで嫌になる」 呼吸を整えながら乱れた髪やネクタイを直す。
「いくら取り繕っても俺は叔父のようにはなれないのか」
 苛立たしげに作業ズボンの裾についた埃や草を払う。
「所詮、俺は陰気で気の小さい父親の血を引き継いだ息子でしかなく、忠敏叔父のような度量の大きい強い男にはなれないのか」
 なし崩しに感情がネガティブの方向へと落ちて行く。家庭が崩壊し、忠敏叔父夫妻の家に逃げ込んで居候した数年間、その背中を見て自分なりに叔父の振る舞いや考え方を身につけたつもりでいたが結局はハリボテを被っていただけなのではないかと。
「判ってないのは本人だけってか」
 表向きは豪快なふりをしても、内心は常にビクビクと他人に怯え、被害者意識を抱えている。母を発端としたトラウマは消えず、そこから派生した「悪癖」の尻拭いは同僚や部下にしてもらっている情けなさ。木田に対しても、はなから愛情なんて持てず、だらだらと受け身の関係を続け、終いには自分の中で完結したらハイさよなら。冷血インポと罵られても当たり前であろう。弁解の余地は皆無である。
「何かこう、今までの混乱の答えの断片が少しずつ出て来たような気がする。あくまで断片だが」
 例えばその中の一つ、坂巻のような人間を渇望するのは、自分が甘えたいからだ。依存したいのだ。いつも自分の側で花のように微笑んで、自分に優しく接して欲しいのだ。
「ふん……ここでも花か。どこまで行ってもしみったれてんな。俺は」
 呼吸と心拍は平常に戻ったが、作業ブルゾンの下のワイシャツは汗でズブ濡れだ。早とちりして坂巻の身を案じ、全力疾走したのが恥ずかしくなる。
「さあ、今から設定変更だ」
 安堂は訪問先で長っ尻をかます部下を連れ戻しに来たという口実を立て直す。そこに上下関係を持ち出す所が自分のいやらしい部分だと自覚しながら。
「もう急ぐ必要なんかない。間抜けな一人芝居はお終いだ。大汗かいて、損をした」
 息せききって走ることなど最初からなかったのだ。無駄な徒労にムカムカと腹が立てながら、安堂は意図的にゆっくりと温室へ歩を進める。
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