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『補正反応』
しおりを挟む交差点の向こう、ビルのガラス。
そこに、何かが映っていた。
人の形をしているようで、どこか違う。
目と口の位置が微妙にずれていて、腕は長すぎる。
顔は笑っていた。だが、口元が耳の近くまで裂けていた。
目が合った、気がした。
その瞬間、ざらりと背筋が逆立った。
助けを求めるように、周りを見る。
──すぐそばで、女が大きなあくびをした。
隣の男も。
そのまた隣も。
列をなすように、全員が順に、静かに口を開ける。
だが、誰も異変に気づいた様子はなかった。
•
その日から、“それ”は別の場所にも現れるようになった。
電車の窓。
自販機の反射。
歩道橋のガラスに浮かぶ姿。
どれも人間のようで、少しずつ違っていた。
──いや、違っていた“はず”なのに、少しずつ整っていく。
最初に見たときより、輪郭は自然になっていた。
ただ、目の位置が合っていない。どこかを見ているようで、どこも見ていない。
まるで、姿を“調整”しているみたいだった。
俺は確かめたくなった。
「いまの、見えたか?」
同僚に訊ねると、彼は不思議そうに首を傾げ──
そして、あくびをした。
「なんか眩しかったな。昼間ボーっとしてると、変な錯覚見るよな」
他の人にも訊いた。
見せた。
けれど、誰もが必ずあくびをしてから“何もなかった”ように振る舞った。
人は“それ”を見たとき、あくびをして記憶を消している。
“あくび”はただの生理現象なんかじゃない。
世界を正常に保つための、無意識の“補正”。
──けれど俺は、できなかった。
•
地下通路。
掲示板のガラスの中に、それが映った。
首の角度が変だ。
手の指が、一本多い。
でも、それ以外は──もう、ほとんど人間だった。
あくびをしようとした。
だが喉が詰まり、顎が動かない。
息も、声も出ない。
代わりに周囲の人間が、口を開ける。
通りすがる人々が、順にあくびを繰り返す。
誰も目を合わさず、何も言わず。
“見てしまった記憶”を消しながら、通り過ぎていく。
俺だけが、そのまま立ち尽くしていた。
同期されなかった。
補正されなかった。
“見た”という事実だけが、俺の中に残った。
俺だけが世界からズレたままだった。
•
数日後、ふとビルのガラスに目をやった。
今度は、俺の隣に立っていた。
肩幅も、姿勢も、髪の分け目も──完全に一致していた。
ただ、口元だけが微かに歪んでいた。
──もうすぐ、完成するのだろう。
俺の“代わり”が。
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