17 / 23
北海道紀行
第五話
しおりを挟む
「でも、どうやったらいいの。ボクは人間と仲良くしたいんだ」
「じゃがのう、仲良くしたいのじゃったら、お主のやっておる事は逆効果ではないか」
「でも、わからないんだ。どうやったらいいのか」
「ううむ、いろいろ大変そうじゃのう。お主はやはり九尾狐ではないのじゃな」
九尾狐は力量差というものはほとんどないと言って良い。術の種類による得手不得手はあるが、その術の源となる力を量的なことでいうと、全く同じと言っていいのだ。まがりなりにも神仙を銘とするものである。力量は言わば最大値であって、それ以上はまさに神仏の領域なのだ。
その点から見ると、九郎太の術のレベルは低い。まだ使い慣れていないとしてもである。
そして、上記のように九尾狐同士、神仙同士は力量差がないが故に対等であり、お互いを呼ぶ場合は、対等の表現が用いられる。お前、お主、君、あなた、ご同輩、等々。年功序列的に「先輩」が使われることもあるが、それは茶化して言っている事が多い。
だが、九郎太の言動は二人の関係からすれば、目上に対する呼び方である。さらには神仙を銘打つものは性別も超越している。呼称に男女の区別が明確である「お姉さん」は益々おかしい。九郎太には九尾比丘尼の実体が九尾狐であることも一切見えておらず、そもそも、九尾狐というものが何であるかも知らない。その外見しか見えていないのだ。
「九尾狐…って、なに?」
「そこからよなあ。まあいろんな力を持った者じゃ。狐は九尾狐と呼ばれる。狐以外には狸が多いな。狸は八畳狸。猫もいるな。あまりいないが、狼やイルカ、猿もある。ああそう、人の場合は仙人じゃな。これらは総合的に神仙と呼ばれる者じゃ」
「九尾比丘尼様、それは大雑把すぎますよ。九郎太も入ってしまうじゃないんですか?」
「うん? まあ、そうか。そこでじゃ、お主のことを詳しく知りたい。我慢してくれぬか」
九尾比丘尼は、九郎太の頭に手を乗せる。
「こわい…」
「少し探れば、あのヒリヒリするという感じを避けることができるようになる。最初だけじゃ。それでも、お主が嫌だと言うのならやめるが」
九尾比丘尼は一旦手を離した。しばらくの間、九郎太は黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「よいのじゃな」
「うん」
九尾比丘尼は手を再び九郎太の頭に乗せて力を注いだ。九郎太は最初顔をしかめたが、やがて落ち着いた表情になった。
「なんということじゃ…。百五十年、いや百八十年は経つか。妖狐に今一度会えようとはな」
九郎太の正体は妖。いわゆる妖狐であった。それもまだ生まれてたった一年ばかりの若い狐なのだ。妖狐になって一年ではない。正真正銘、母親に産み落とされてから一年程度しかたっていないのである。
それがなぜ妖となったのか。
先天的には資質があったのであろう。そうでなくては、どのような状況があったとしても、そう簡単に妖狐となるはずがない。
妖狐はその力を成長させ続けてゆき、限界がない。今の九郎太のように成り立てのものは、人をごまかす程度の力しかないが、百年もする頃には九尾狐を凌ぐ能力を身につけると言う。つまり、神となりうる資質を持っているのである。そういった存在が跋扈せぬのは、まず産まれくる数自体が極めて少ないことと、成り立てのものが力に溺れて、やりすぎた行動から殺められてしまう事が多いからである。
そしてもうひとつ、妖狐は本質は狐と変わらない。九尾狐のように、高度な知識や自分の置かれた状況をどこからともなく知らされることもない。よって、妖狐は九尾狐のような不死に近い体の代謝変換の能力を得られずに、狐であるところの寿命を迎えてしまう者もいる。
事の始まりは母狐の死であった。
その日、道路を横断しようとした母子狐に車が迫り来た。母狐は子狐をかばい、車に撥ねられ命を落とした。この時、九郎太はまだ二ヶ月足らず。巣からの遠出を始めたばかりの九郎太は動かなくなり冷えてゆく一方の母狐に寄り添い、次第に出なくなってゆく乳を吸うことしかできなかった。狩りを覚えるにはまだ早いし、もう教えるものはいなかった。
しかし、九郎太が幸運であったのは、通りがかった動物保護団体に保護されたことだった。母狐と九郎太が渡ろうとしていた道路は新規に開通した道路で、工事中こそ工事車両や機械、人が大勢ひしめいていたが、ここ数ヶ月、先に完成していた部分は何も通らない静かな場所であった。そのため、この母子狐に限らず、多くの動物が道路を横断して行き来していた。道路が開通し車が行きかうようになって、多くの動物がはねられて死傷している。
野生動物の保護団体がその情報からパトロールを始めたのは、母狐が死んだその日の前日であった。
九郎太は逆らうこともなく職員に抱かれて死した母狐の元を後にした。まだ警戒するものしないものの区別もわからない幼さであったこと、空腹を覚えるまでの時間は経っていなかったこと、職員が優しい性格であったことも幸いした。再び暖かな体に抱かれて、安心して眠りについていた。
九郎太という名前を付けられたのは、その団体においてである。単純に九番目の男の子という意味である。実際には狐は九郎太を入れて二頭しかいなかった。それ以前の狐たちは回復して野に戻ったか、介抱の甲斐なく死亡している。
母狐と過ごす期間が短かった九郎太は人に良く懐いた。小さな仔が懐くのは、世話をする側としては嬉しい事であるが、保護団体の目的はあくまで「野生動物」の保護である。飼い慣らす事は許されない。その点は徹底するために、「飼う」ための場所は用意されてはいないのだ。
九郎太も保護されてから八ヶ月目になって、野生に帰る時が来た。段々と野に行く時間を増やして、慣れた段階で山中へと放たれた。
九郎太は賢い仔であった。後ろ髪引く想いは大きかったが、どこが行くべきところであるかはわかっていた。
ネズミなどの小動物を見つけた時は、身体の内に沸く衝動に任せて狩った。
生活にも慣れて、まだ子供ではあったが、立派に野生の狐として生きていた。
だが、時々強烈に胸に去来する感情があった。
(会いたい)
(また一緒に遊びたい)
人と会って共に暮らすことを欲する気持ちが、本能を越えて湧き出して来ていた。だが、それも出来ることではないとわかっていたために、抑えに抑えていた。
そして遂にその感情が爆発した時、雷が落ちたかのような号砲が鳴り響き、九郎太の周りの木々は押し倒され、その中心には九郎太が、人の少年の姿に変わった九郎太がいた。
九郎太が普通の狐であるなら、最初に「会いたい」と思ったときに人里へ向かったのであろう。しかし妖狐としての資質がこの結果を生んだ。九郎太は戸惑っていたが、同時に嬉しくもあった。これで堂々と人間の元へ行くことができる、そう考えが起きると矢も盾もたまらず、人里へと降りて行った。
人里へ行ってから、様々な事があったが、そこはそれ妖狐であるのだから、その力を本能的に使い、ごまかしが効いたのだった。だが初めは人の社会の中にいるというだけで満足できたのであるが、段々と直接的な関わりを求めるようになっていった。
しかし、人間側からのアプローチ、それも可愛がられるということしか知らない九郎太は、何をすればいいのかわからなかった。神仙たる九尾狐であれば、その辺りも知恵だけでなく、知識までに消化して身につけているのだが、妖狐の実態はあくまで狐。学ぶ機会がなければ知りようがなかったのだ。
最初は街中を歩いていた時だった。それでも拙い知恵を振り絞って考えながら歩いていたので、他の歩行者とぶつかってしまった。
相手はどこにでもいるような中年の男性だった。そんなに強く当たったわけではないが、びっくりした九郎太が何も言わずに見上げていると、「気をつけろ」と捨て台詞を残して立ち去った。中年男性の方も九郎太に気付いていなかったようで、何か問題を抱えてイライラしていたのか、九郎太が何も言わなかったことに腹を立てたのか、かなり強い口調であった。
どんな内容であれ、人里に降りて、初めて人から声をかけられたのだった。それを嬉しいと感じてしまったのが間違いであった。
最初は中年女性。普通に注意されただけだった。嬉しかった。
老齢男性。元気だねと褒められた? 嬉しかった。
二十代くらい女性。邪魔と言われた。嬉しかった。
十歳くらいの女の子。始めキョトンとしていたが、泣き出した。…嬉しくなかった。
三十代男性。大声で怒鳴られた。嬉しかった。
つまるところ、九郎太のやっていたことは当たり屋であった。相手からの反応がどういった内容であっても、言葉であれば嬉しい感情が湧いたのであった。そんな事が続いていれば、問題として見る者がいるのは当然の成り行きである。一人の女の子は怪我こそなかったが、突き飛ばされて(女の子当人の印象ではそうだった)泣かされていた。まだ幼い九郎太は、事を終わらせた後のフォローをすることが、まったく頭になかったのである。
元よりさほど市街地は大きくはない町である。見覚えのない少年が学校へも行かず、街中をうろついて、道行く人に幾度もぶつかっている。それも自分から当たっているようだと噂が広まり、報告を受けた警察から、少年課の警官が様子を見に来た。
その日も九郎太は、同じ事を繰り返していた。一人目は小柄な男性で、危ないな、と軽く言われただけだったが、やはり嬉しかった。二人目に狙いをつけたときに黒いジャンバーを着た男が前をふさいだ。
「坊や、どこの子かな」
九郎太は戸惑った。話しかけられたときに嬉しい感情がわかなかったからだった。その原因は、その警官はベテランで子供への対応が半ばルーチンワーク化していたためであった。無論、効果を上げていないわけではない。むしろその逆で、多くの子供を更生させている、腕利きなのである。ならばなぜルーチンワークとなっていたのか。
この警官は子供との対話を進める事によって、子供の適性を知り、更生に必要な適切な方法を模索するのである。そのため、一番最初、取りかかりのときに差が出ないように、同一の方法にしていた。最初のはしごをかける場所が違えば、後もまた違ってきてしまうのである。
この警官自身が経験によってあみだしていた、自分のためというより対話を進める子供達の将来のための手法であった。相手の現在だけを見ているのではなく、将来を見据えている。
だが、それは九郎太にとっては、今までに経験したことのない得体の知れないものになってしまった。
「いや…」
九郎太は思わず後ずさっていた。表情もかなり固い。自分の知り得ぬものに対する、野生から生まれる警戒心だった。さらにはそれは恐怖心へと変わる。
「坊や?」
「おじさん、なんなの!」
九郎太は警官を突き飛ばして、逆方向に駆け出した。突き飛ばしたと言っても、体は子供である。警官は軽くよろめいた程度で、逃げ出した九郎太を追いかけた。
「待ちなさい。坊や」
成り立てとはいえ、妖狐と化していた九郎太の足に人間の足が叶うわけもない。そしてこの後、この警官を目にしても、気配を感じていても、その場から離れていた九郎太を警官は見かけることすらできなくなってしまった。その後、九郎太も意識してはいなかったが、少しばかり行動を控えるようになっていた。
たまに感じるヒリヒリした感触も、それだけであり、その時は嫌な気分になったが、普段から気にやむほどではなかった。
だが、今日になって、そのヒリヒリした感触の中に何か懐かしい感じを含んだものがあった。それが気になった九郎太はいつもより大胆な行動に出て、九尾比丘尼と出会うこととなった。
九尾比丘尼が九尾狐となる前、前身である狐は種別で言えばホンドギツネであり、アカギツネの亜種である。同じくアカギツネの亜種であるキタキツネとは非常に近い間柄にある。人間で言えば、アジア種(黄色人種)での中国人と日本人程度の差だろうか。平均的な体のサイズや一部に身体的特徴の差はあるが、ちょっと見た程度では違いは簡単にはわからない。
確かに九尾比丘尼の前身の狐は雄であるが、九尾狐となった時点で雌雄の特色はあいまいとなり、繁殖にせよ応対にせよ、自分の意思で適切な行動が可能となっている。今までに経験がなかったために、九郎太に直接に甘えられた時も、一瞬は戸惑ったが、すぐに母性を感じられる対応をしている。
九郎太も漠然と、九尾比丘尼が近しい種族の甘えられる対象として感じていたのであろう。それが「いい匂いがする」であったわけである。
「さてどうしたものか」
九郎太は九尾比丘尼の膝で眠っていた。九尾比丘尼は九郎太の反射的な警戒を避るように力を回してはいたが、妖狐としての力が発展し始めていたためか、負担をなくすようにはできなかった。
「何か問題でも?」
「妖狐は極めて稀有な存在なのじゃ。九郎太は人との生活を望んでいるが、力を増すとそうも言っておれなくなる。九郎太と人を共にするとなれば、妖狐としてではなく、ただの狐としてのみじゃ」
「稀有、とは九尾狐よりもですか」
「今、わしが知るだけでも九尾狐は四名おる。八畳狸は目立たぬ故知りうる数は少ないが、実数は十倍はおろう。神仙の数に比べれば、妖狐は…、いや今は妖と呼ばれるものがおらぬようになってしまった。前には百八十年前に出会ったことはあったが、それ以来じゃ。妖に会ったのもな」
「そんなに…」
「昔、そうさな三百年ほど前は、いくらでも、と言うくらいいたのじゃがな。人とは共存共栄するというわけではないが、関わりは多かった。妖、妖怪と呼ばれる者の物語は多数あろう。物語などではなく、実話に相違ない物もあるのじゃ。されど今の世は本当に妖がいなくなってしもうた。なぜなのかが、皆目見当もつかぬ。人の心が物欲に溺れ妖自体を忘れてしまったとか、科学が否定したからとか、色々と言われてはいるが、妖は決してそこまで弱い存在などではない。妖、妖怪と言っても、起源は種々雑多でな。それによって力量も天地ほどの差もある。神仙の起源が動物、それも哺乳類ばかりであるのに比べ、妖は際限がない。同列に妖と呼ぶのもどうかと思えるくらいにな」
「例えば?」
「哺乳動物だけでなく、ヘビ、カエル、虫、クモやムカデのような節足動物。植物も妖と化すこともあるし、元が命なき物であることまであろう」
「ああ、人形とか」
「もっと単純に付喪神のようなものも入れていいじゃろうな。さらには、実態のない霊魂であったり、怨念であったりな」
「なんでもありなんですね」
「その中でも、妖狐は別格じゃ。古来より妖怪と称された中でも五本の指に入るじゃろうな。しかし、もしやすると、九郎太がいまある妖の唯一かもしれんのじゃよ。人と暮らすとなればただの狐としてでなくてはならぬとは言ったな。それには妖狐としての性質を全て消し去らねばならん。そして、それは、わしならば可能なのじゃ…が」
九尾比丘尼は言い淀んだ。
「妖として唯一かもしれない妖狐を失うことになるわけですね」
「うむ。妖狐は良く育てば神にも匹敵する救世主となる資質を持っている。わしの独断でやるとしては荷が重いわ」
「…こういうことを言うのはなんですが、逆の方向に向かうということもあり得るのではないですか」
「救う存在ではなく、滅ぼす存在ということか。あるな。救いであるか、滅びであるか、というのは被行為者の状況、立場で違うからな。極端な例じゃが、重傷を負って死を免れることが叶わぬ者が苦しんでいる時に、とどめを刺すのは救いであるか、滅びであるか」
「哲学か禅問答ですね」
「簡単に言えば、絶対的な善も悪もない。第三者がどう受け取るかということじゃ」
「それでしたら、九郎太をただの狐にするということ自体にも、善も悪もないということではないのでしょうか」
九尾比丘尼は九郎太に目線を注ぎ、また上を見た。
「九郎太には聞くまでもないか。まあ、一応聞いてはおこう。さて、そうと決まれば、やれることをやっておくか」
(続く)
「じゃがのう、仲良くしたいのじゃったら、お主のやっておる事は逆効果ではないか」
「でも、わからないんだ。どうやったらいいのか」
「ううむ、いろいろ大変そうじゃのう。お主はやはり九尾狐ではないのじゃな」
九尾狐は力量差というものはほとんどないと言って良い。術の種類による得手不得手はあるが、その術の源となる力を量的なことでいうと、全く同じと言っていいのだ。まがりなりにも神仙を銘とするものである。力量は言わば最大値であって、それ以上はまさに神仏の領域なのだ。
その点から見ると、九郎太の術のレベルは低い。まだ使い慣れていないとしてもである。
そして、上記のように九尾狐同士、神仙同士は力量差がないが故に対等であり、お互いを呼ぶ場合は、対等の表現が用いられる。お前、お主、君、あなた、ご同輩、等々。年功序列的に「先輩」が使われることもあるが、それは茶化して言っている事が多い。
だが、九郎太の言動は二人の関係からすれば、目上に対する呼び方である。さらには神仙を銘打つものは性別も超越している。呼称に男女の区別が明確である「お姉さん」は益々おかしい。九郎太には九尾比丘尼の実体が九尾狐であることも一切見えておらず、そもそも、九尾狐というものが何であるかも知らない。その外見しか見えていないのだ。
「九尾狐…って、なに?」
「そこからよなあ。まあいろんな力を持った者じゃ。狐は九尾狐と呼ばれる。狐以外には狸が多いな。狸は八畳狸。猫もいるな。あまりいないが、狼やイルカ、猿もある。ああそう、人の場合は仙人じゃな。これらは総合的に神仙と呼ばれる者じゃ」
「九尾比丘尼様、それは大雑把すぎますよ。九郎太も入ってしまうじゃないんですか?」
「うん? まあ、そうか。そこでじゃ、お主のことを詳しく知りたい。我慢してくれぬか」
九尾比丘尼は、九郎太の頭に手を乗せる。
「こわい…」
「少し探れば、あのヒリヒリするという感じを避けることができるようになる。最初だけじゃ。それでも、お主が嫌だと言うのならやめるが」
九尾比丘尼は一旦手を離した。しばらくの間、九郎太は黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「よいのじゃな」
「うん」
九尾比丘尼は手を再び九郎太の頭に乗せて力を注いだ。九郎太は最初顔をしかめたが、やがて落ち着いた表情になった。
「なんということじゃ…。百五十年、いや百八十年は経つか。妖狐に今一度会えようとはな」
九郎太の正体は妖。いわゆる妖狐であった。それもまだ生まれてたった一年ばかりの若い狐なのだ。妖狐になって一年ではない。正真正銘、母親に産み落とされてから一年程度しかたっていないのである。
それがなぜ妖となったのか。
先天的には資質があったのであろう。そうでなくては、どのような状況があったとしても、そう簡単に妖狐となるはずがない。
妖狐はその力を成長させ続けてゆき、限界がない。今の九郎太のように成り立てのものは、人をごまかす程度の力しかないが、百年もする頃には九尾狐を凌ぐ能力を身につけると言う。つまり、神となりうる資質を持っているのである。そういった存在が跋扈せぬのは、まず産まれくる数自体が極めて少ないことと、成り立てのものが力に溺れて、やりすぎた行動から殺められてしまう事が多いからである。
そしてもうひとつ、妖狐は本質は狐と変わらない。九尾狐のように、高度な知識や自分の置かれた状況をどこからともなく知らされることもない。よって、妖狐は九尾狐のような不死に近い体の代謝変換の能力を得られずに、狐であるところの寿命を迎えてしまう者もいる。
事の始まりは母狐の死であった。
その日、道路を横断しようとした母子狐に車が迫り来た。母狐は子狐をかばい、車に撥ねられ命を落とした。この時、九郎太はまだ二ヶ月足らず。巣からの遠出を始めたばかりの九郎太は動かなくなり冷えてゆく一方の母狐に寄り添い、次第に出なくなってゆく乳を吸うことしかできなかった。狩りを覚えるにはまだ早いし、もう教えるものはいなかった。
しかし、九郎太が幸運であったのは、通りがかった動物保護団体に保護されたことだった。母狐と九郎太が渡ろうとしていた道路は新規に開通した道路で、工事中こそ工事車両や機械、人が大勢ひしめいていたが、ここ数ヶ月、先に完成していた部分は何も通らない静かな場所であった。そのため、この母子狐に限らず、多くの動物が道路を横断して行き来していた。道路が開通し車が行きかうようになって、多くの動物がはねられて死傷している。
野生動物の保護団体がその情報からパトロールを始めたのは、母狐が死んだその日の前日であった。
九郎太は逆らうこともなく職員に抱かれて死した母狐の元を後にした。まだ警戒するものしないものの区別もわからない幼さであったこと、空腹を覚えるまでの時間は経っていなかったこと、職員が優しい性格であったことも幸いした。再び暖かな体に抱かれて、安心して眠りについていた。
九郎太という名前を付けられたのは、その団体においてである。単純に九番目の男の子という意味である。実際には狐は九郎太を入れて二頭しかいなかった。それ以前の狐たちは回復して野に戻ったか、介抱の甲斐なく死亡している。
母狐と過ごす期間が短かった九郎太は人に良く懐いた。小さな仔が懐くのは、世話をする側としては嬉しい事であるが、保護団体の目的はあくまで「野生動物」の保護である。飼い慣らす事は許されない。その点は徹底するために、「飼う」ための場所は用意されてはいないのだ。
九郎太も保護されてから八ヶ月目になって、野生に帰る時が来た。段々と野に行く時間を増やして、慣れた段階で山中へと放たれた。
九郎太は賢い仔であった。後ろ髪引く想いは大きかったが、どこが行くべきところであるかはわかっていた。
ネズミなどの小動物を見つけた時は、身体の内に沸く衝動に任せて狩った。
生活にも慣れて、まだ子供ではあったが、立派に野生の狐として生きていた。
だが、時々強烈に胸に去来する感情があった。
(会いたい)
(また一緒に遊びたい)
人と会って共に暮らすことを欲する気持ちが、本能を越えて湧き出して来ていた。だが、それも出来ることではないとわかっていたために、抑えに抑えていた。
そして遂にその感情が爆発した時、雷が落ちたかのような号砲が鳴り響き、九郎太の周りの木々は押し倒され、その中心には九郎太が、人の少年の姿に変わった九郎太がいた。
九郎太が普通の狐であるなら、最初に「会いたい」と思ったときに人里へ向かったのであろう。しかし妖狐としての資質がこの結果を生んだ。九郎太は戸惑っていたが、同時に嬉しくもあった。これで堂々と人間の元へ行くことができる、そう考えが起きると矢も盾もたまらず、人里へと降りて行った。
人里へ行ってから、様々な事があったが、そこはそれ妖狐であるのだから、その力を本能的に使い、ごまかしが効いたのだった。だが初めは人の社会の中にいるというだけで満足できたのであるが、段々と直接的な関わりを求めるようになっていった。
しかし、人間側からのアプローチ、それも可愛がられるということしか知らない九郎太は、何をすればいいのかわからなかった。神仙たる九尾狐であれば、その辺りも知恵だけでなく、知識までに消化して身につけているのだが、妖狐の実態はあくまで狐。学ぶ機会がなければ知りようがなかったのだ。
最初は街中を歩いていた時だった。それでも拙い知恵を振り絞って考えながら歩いていたので、他の歩行者とぶつかってしまった。
相手はどこにでもいるような中年の男性だった。そんなに強く当たったわけではないが、びっくりした九郎太が何も言わずに見上げていると、「気をつけろ」と捨て台詞を残して立ち去った。中年男性の方も九郎太に気付いていなかったようで、何か問題を抱えてイライラしていたのか、九郎太が何も言わなかったことに腹を立てたのか、かなり強い口調であった。
どんな内容であれ、人里に降りて、初めて人から声をかけられたのだった。それを嬉しいと感じてしまったのが間違いであった。
最初は中年女性。普通に注意されただけだった。嬉しかった。
老齢男性。元気だねと褒められた? 嬉しかった。
二十代くらい女性。邪魔と言われた。嬉しかった。
十歳くらいの女の子。始めキョトンとしていたが、泣き出した。…嬉しくなかった。
三十代男性。大声で怒鳴られた。嬉しかった。
つまるところ、九郎太のやっていたことは当たり屋であった。相手からの反応がどういった内容であっても、言葉であれば嬉しい感情が湧いたのであった。そんな事が続いていれば、問題として見る者がいるのは当然の成り行きである。一人の女の子は怪我こそなかったが、突き飛ばされて(女の子当人の印象ではそうだった)泣かされていた。まだ幼い九郎太は、事を終わらせた後のフォローをすることが、まったく頭になかったのである。
元よりさほど市街地は大きくはない町である。見覚えのない少年が学校へも行かず、街中をうろついて、道行く人に幾度もぶつかっている。それも自分から当たっているようだと噂が広まり、報告を受けた警察から、少年課の警官が様子を見に来た。
その日も九郎太は、同じ事を繰り返していた。一人目は小柄な男性で、危ないな、と軽く言われただけだったが、やはり嬉しかった。二人目に狙いをつけたときに黒いジャンバーを着た男が前をふさいだ。
「坊や、どこの子かな」
九郎太は戸惑った。話しかけられたときに嬉しい感情がわかなかったからだった。その原因は、その警官はベテランで子供への対応が半ばルーチンワーク化していたためであった。無論、効果を上げていないわけではない。むしろその逆で、多くの子供を更生させている、腕利きなのである。ならばなぜルーチンワークとなっていたのか。
この警官は子供との対話を進める事によって、子供の適性を知り、更生に必要な適切な方法を模索するのである。そのため、一番最初、取りかかりのときに差が出ないように、同一の方法にしていた。最初のはしごをかける場所が違えば、後もまた違ってきてしまうのである。
この警官自身が経験によってあみだしていた、自分のためというより対話を進める子供達の将来のための手法であった。相手の現在だけを見ているのではなく、将来を見据えている。
だが、それは九郎太にとっては、今までに経験したことのない得体の知れないものになってしまった。
「いや…」
九郎太は思わず後ずさっていた。表情もかなり固い。自分の知り得ぬものに対する、野生から生まれる警戒心だった。さらにはそれは恐怖心へと変わる。
「坊や?」
「おじさん、なんなの!」
九郎太は警官を突き飛ばして、逆方向に駆け出した。突き飛ばしたと言っても、体は子供である。警官は軽くよろめいた程度で、逃げ出した九郎太を追いかけた。
「待ちなさい。坊や」
成り立てとはいえ、妖狐と化していた九郎太の足に人間の足が叶うわけもない。そしてこの後、この警官を目にしても、気配を感じていても、その場から離れていた九郎太を警官は見かけることすらできなくなってしまった。その後、九郎太も意識してはいなかったが、少しばかり行動を控えるようになっていた。
たまに感じるヒリヒリした感触も、それだけであり、その時は嫌な気分になったが、普段から気にやむほどではなかった。
だが、今日になって、そのヒリヒリした感触の中に何か懐かしい感じを含んだものがあった。それが気になった九郎太はいつもより大胆な行動に出て、九尾比丘尼と出会うこととなった。
九尾比丘尼が九尾狐となる前、前身である狐は種別で言えばホンドギツネであり、アカギツネの亜種である。同じくアカギツネの亜種であるキタキツネとは非常に近い間柄にある。人間で言えば、アジア種(黄色人種)での中国人と日本人程度の差だろうか。平均的な体のサイズや一部に身体的特徴の差はあるが、ちょっと見た程度では違いは簡単にはわからない。
確かに九尾比丘尼の前身の狐は雄であるが、九尾狐となった時点で雌雄の特色はあいまいとなり、繁殖にせよ応対にせよ、自分の意思で適切な行動が可能となっている。今までに経験がなかったために、九郎太に直接に甘えられた時も、一瞬は戸惑ったが、すぐに母性を感じられる対応をしている。
九郎太も漠然と、九尾比丘尼が近しい種族の甘えられる対象として感じていたのであろう。それが「いい匂いがする」であったわけである。
「さてどうしたものか」
九郎太は九尾比丘尼の膝で眠っていた。九尾比丘尼は九郎太の反射的な警戒を避るように力を回してはいたが、妖狐としての力が発展し始めていたためか、負担をなくすようにはできなかった。
「何か問題でも?」
「妖狐は極めて稀有な存在なのじゃ。九郎太は人との生活を望んでいるが、力を増すとそうも言っておれなくなる。九郎太と人を共にするとなれば、妖狐としてではなく、ただの狐としてのみじゃ」
「稀有、とは九尾狐よりもですか」
「今、わしが知るだけでも九尾狐は四名おる。八畳狸は目立たぬ故知りうる数は少ないが、実数は十倍はおろう。神仙の数に比べれば、妖狐は…、いや今は妖と呼ばれるものがおらぬようになってしまった。前には百八十年前に出会ったことはあったが、それ以来じゃ。妖に会ったのもな」
「そんなに…」
「昔、そうさな三百年ほど前は、いくらでも、と言うくらいいたのじゃがな。人とは共存共栄するというわけではないが、関わりは多かった。妖、妖怪と呼ばれる者の物語は多数あろう。物語などではなく、実話に相違ない物もあるのじゃ。されど今の世は本当に妖がいなくなってしもうた。なぜなのかが、皆目見当もつかぬ。人の心が物欲に溺れ妖自体を忘れてしまったとか、科学が否定したからとか、色々と言われてはいるが、妖は決してそこまで弱い存在などではない。妖、妖怪と言っても、起源は種々雑多でな。それによって力量も天地ほどの差もある。神仙の起源が動物、それも哺乳類ばかりであるのに比べ、妖は際限がない。同列に妖と呼ぶのもどうかと思えるくらいにな」
「例えば?」
「哺乳動物だけでなく、ヘビ、カエル、虫、クモやムカデのような節足動物。植物も妖と化すこともあるし、元が命なき物であることまであろう」
「ああ、人形とか」
「もっと単純に付喪神のようなものも入れていいじゃろうな。さらには、実態のない霊魂であったり、怨念であったりな」
「なんでもありなんですね」
「その中でも、妖狐は別格じゃ。古来より妖怪と称された中でも五本の指に入るじゃろうな。しかし、もしやすると、九郎太がいまある妖の唯一かもしれんのじゃよ。人と暮らすとなればただの狐としてでなくてはならぬとは言ったな。それには妖狐としての性質を全て消し去らねばならん。そして、それは、わしならば可能なのじゃ…が」
九尾比丘尼は言い淀んだ。
「妖として唯一かもしれない妖狐を失うことになるわけですね」
「うむ。妖狐は良く育てば神にも匹敵する救世主となる資質を持っている。わしの独断でやるとしては荷が重いわ」
「…こういうことを言うのはなんですが、逆の方向に向かうということもあり得るのではないですか」
「救う存在ではなく、滅ぼす存在ということか。あるな。救いであるか、滅びであるか、というのは被行為者の状況、立場で違うからな。極端な例じゃが、重傷を負って死を免れることが叶わぬ者が苦しんでいる時に、とどめを刺すのは救いであるか、滅びであるか」
「哲学か禅問答ですね」
「簡単に言えば、絶対的な善も悪もない。第三者がどう受け取るかということじゃ」
「それでしたら、九郎太をただの狐にするということ自体にも、善も悪もないということではないのでしょうか」
九尾比丘尼は九郎太に目線を注ぎ、また上を見た。
「九郎太には聞くまでもないか。まあ、一応聞いてはおこう。さて、そうと決まれば、やれることをやっておくか」
(続く)
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ある辺境伯の後悔
だましだまし
恋愛
妻セディナを愛する辺境伯ルブラン・レイナーラ。
父親似だが目元が妻によく似た長女と
目元は自分譲りだが母親似の長男。
愛する妻と妻の容姿を受け継いだ可愛い子供たちに囲まれ彼は誰よりも幸せだと思っていた。
愛しい妻が次女を産んで亡くなるまでは…。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる