九尾

マキノトシヒメ

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八百比丘尼伝説

第一幕 八重/前編

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 どこにでもあるような漁師の集落があった。
 集落としてはやや大きい方で、二十ほどの家があり、他の集落や村も遠いといえない距離に二、三ヶ所あって、人の行き来もあった。
 その中の集落のやや北側にある若夫婦が住まう家には、女の子の子供がいた。嫁は隣の集落から来た娘で、やはり漁師の家の出であり、集落同士の交流も多かったので、ここの暮らしに馴染むのも早かった。
 二人の間にできた女の子の名前は八重という。人と話すのが好きで、知らぬ人ともすぐに仲良くなれた。
 器量はまあまあというか、普通であるが、やや細いタレ目でいつも微笑んでいるような印象を受ける。明るく話好きであり、幼くも人当たりの良いところもその事をよい方向に見せていた。

 八重が十五になった年のことである。
 当時、集落には子供は多くはなく、八重と同年代の子供は三人しかいなかった。家では八重は長子で弟妹とは少し歳が離れている。弟とは五歳、妹とは七歳違うので、弟妹と遊んでいると保護者的立場になってしまうために、自由な遊び方はできなかったが、小さい頃は両親からの愛情を一身に受けていたこともあり、意識はしていなかったが幼い弟妹にそれを分けているのであった。
 当時十五歳といえば、嫁ぐことも当たり前にあった時代である。八重の母も嫁入りしたのは十六のときで、八重が産まれたのは十八の時だった。八重にはまだそういった話はなかったが、機会に恵まれれば、はばかる理由もなかった。
 人より秀でた技術があるわけではない普通の女の子であるが、弟妹の面倒見がよく家事もよく手伝う。そして、健康で友好的である面は嫁ぎ先にも喜ばれる事であろう。

 その日は前日の嵐のために海が荒れており、天候は回復していたが漁に出ることができず、必然、漁獲を処理するための仕事もなく、網の処理も前日に終わらせてしまっており、八重は波打つ浜辺を何をするでもなく歩いていた。弟妹は両親と共に家にいる。
 砂浜になっている海岸線の途中にある岩場に何かが打ち上げられているのが見えた。
 近寄ってみた八重は驚いた。人であったからである。上半身だけが海から出ており、まだ荒い波が何度も打ち付けていた。
 八重は急いで駆け寄った。うつ伏せになっていて顔は見えない。だが、髪は長く女であるようだった。また、何も着衣がなく白い背中が何度も泡立つ波に洗われていた。
 八重がその女の脇に手をやり、海から引きずり出した。引き上げることに力を入れるために目をつぶっていたが、目を開け、浜に上がったその女の姿を見た八重は悲鳴をあげて後ずさりした。
 下半身が人の姿ではなく、魚のものだったからである。
 そこにいたのは人魚、物語の中でしか聞いたことのない人魚であった。

 八重は後ずさりはしたものの、人魚が全く動かない様子を見て、少しだけ落ち着きを取り戻した。改めてその姿を見る。
 見れば見るほど、物語に出てくる人魚そのものの姿である。もう少し近くで見ようとして一歩近寄ったときに、人魚が顔を上げた。
 もろに目が合ってしまった。
 人魚が動いたことで、八重はその場で動けなくなった。人魚もそれ以上は動かずに、ただ八重のことを見ていた。
 しばらく見つめ合うこと数瞬後。
 人魚が動く、と見えたのだが、人魚がしたことはといえば、大あくびであった。
『あれえ? なんで上に上がっちゃってるの』
 八重の頭に直接響いてきた。実際、唇も動いていなかった。
「ごめんなさい。あたしが引き上げちゃって。誰か溺れてたと思って」
『そうなんだ。戻るのに手伝ってくれる?』
「は、はい」
 八重が手伝って海に戻ると、人魚は肩から上を水面から出して同じように声を出さずに八重に語りかけた。
『あなた、誰』
「八重。あなたは?」
『ワセィ』
「ここで何をしてたの。それとも迷ったの」
『ワセィは寝てました』
「…お昼寝?」
『おひる…? 海が荒れるといろんな魚が出てくるので、美味しい魚をたくさん食べて眠くなっちゃったの』
 見た目は八重よりもずっと年上。二十四、五といったところであろうか。最も、人魚の年齢というものもよくわからない事なので、見た目では判断するのは難しいだろう。
「人魚…ですよね」
『はい』
「人魚の人と話すのは初めて」
『人間と話をするのは50年ぶりくらいですね』
 それはさすがに八重も驚いた。だが、ふと思い出したことがあった。
「その人の名前は覚えてる?」
『もちろんです。しずと言いました』
 八重の思い出した通りの名であった。
 人魚と話をして多くの事を教わったと吹聴し、狂人扱いされていた老婆の名である。暴力的な事はしなかったので、避けられてはいたが、集落から追放されるまでの扱いはなく、作業の末端をもらう事で細々と暮らしていた。
 皆からそのような扱いを受けていたので、八重は直接に話を聞いた事はない。周りの人たちが、しずがどのような事を言っていたという噂をしていたのを聞き及んだ程度である。
(本当の事だったんだ。でも…)
 自分もまた人魚と会話をしたと言おうものなら、しず婆と同じ扱いを受けることになろう。自分だけではない。家族が揃って同じような事になるのも、あり得ることだった。両親に話をしたところで、二度とその話はするなとたしなめられるのは、目に見えている。両親としても信じてはくれるかもしれない。だが、その上で家族以外には話をすることを禁ずるであろう。
 この時代の十五歳にしてはまだ無邪気なところのある八重であったが、自分が長子であることもあり、家族を想う点についてはよくわきまえていた。それでも人魚に対しての興味は大きい。
 この先、自分の行動が集落の者から疑われるようなことがあるなら、自ら話を切り出そうとは思わなかった。話すとなるなら、嘘をつく理由はないが、積極的に話をする理由もない。
 そのことが八重の運命にとって幸であったのか、不幸であったのか…。

 その日、会うのは三度目になる。ワセィは八重にその知識を惜しげもなく伝え話していた。特に天候と海流の関係、そこからくる季節毎の漁場の変化については、人魚の一族の数百年に及ぶ知識の集成によるものであり、ほとんど予知と言っていいくらいに細かやかな点にまで至る内容であった。
 それが魚の収穫について、人魚と人間が重なることが無いよう、お互いが利を得られることのできるように。また、人魚と人間が出会うことでの騒動が起こらぬように、考え抜かれてもいる内容であった事に八重は驚嘆した。
 八重は知らぬことであったが、大昔に人魚と人間が友好を結んでいた時期もあった。だが、不漁となった時に、特に人間側の欲望は激しく、大きな衝突となり、危うく紛争にまでなりかけたことがあった。その時は、人魚の側が引くことによって、事を納めていた。
 交流が失われる始まりでもあったのだが。
 ワセィと八重が初めて会った時の如く、人魚の一族は基本的に穏健である。人間と滅多に巡り会うことはないが、会った時にも常に冷静である。
 ー方、人間側の反応と言えば、八重がなったように、慌てふためくというのが普通であろう。交流のない、知らぬ者に対する排他的感情からくる拒絶反応のひとつである。
 その日に話をしている中、ワセィは八重からすればとんでもないことを言い出した。
『ワセィは男ですよ』
「え、ええっ?」
 ワセィの話し方は、常に穏やかであり、優しいものだった。そして、その姿。上半身の姿はどう見ても女性である。長い髪はもとより、豊満と表現して差し障りない乳房もある。だが、ワセィの言い方は、何を当たり前のことを、という感じであった。
「で、でも胸が」
『人魚は皆この形ですよ。人間のように男と女でああも違うという事の方が不思議』
「でも、違うのは役割が違うから」
『子供を作ることですか』
「そう、そこ。一番違うところ」
『確かに人魚も女が子供を産みます。人間に比べればとてもとても小さい子供』
 つまり、水中で生活する人魚は、その浮力により体重の殆どを支えられているため、人間ならば超未熟児と言える段階で出産する。骨格もまだ完全にできていない段階なので、出産そのものにも苦痛はまったくないという。
「む、胸は…」
『この胸の膨らみは人魚の息の溜まり場なのです。産まれた時から皆持っているのですよ』
 人魚の胸の膨らみは、水を媒体とした高度な肺機能である。水をその機関に蓄積しておくことで、一定時間、水上でも活動することができる。下半身が魚類の形態であるから、水中でなければ速い動きはできないが、大波に不意に打ち上げられた程度なら余裕で戻ることができるのである。

 月に一、二回会う、逢瀬とまでも言えない友人関係であった。その中でもただ一つだけ八重には気になることがあった。
 最初に会った時以来、ワセィは八重の顔を見ようとしないのであった。普段から声は出していないのだが、話をしている時、ワセィは必ずと言っていいほど横を向いていた。それは一応海の方角であったので、そういうものなのかと思っていた。時に正面から対峙することもあったが、その時は目が豊かな髪に隠れて見えないようになっていた。

 過日、漁の合間の時期であった。
 干し魚作りも終わり、八重の母も行商の一員に入っていた。初めは八重も同行する予定であったが、妹が熱を出してしまい、世話のために残る事になった。妹の熱はニ日ほど続いたが、今は熱も下がり、食事もとれるようになって、めきめきと回復していた。完全な回復にはもう一息というところであったが、今は眠っている。明日には床をあげることができるだろう。片づける物も片付けてしまい、ちょっと暇ができた。
 そんな折を狙っていたかのように、頭に声が響いた。
『八重』
「ワセィ?」
 思わず八重は周りを見渡した。今までワセィと会話していたのは、すぐ側にいた時だけである。海岸線から多少なりとも離れている八重の家にまでは、ワセィは来るわけもなく、近くにいないのは間違いなかった。
「どうしたの?」
『すこ… と… …る』
「え? なに?」
『た… が…』
 名前を呼ばれたときは、はっきり聞こえたように思えたのだが、その後は内容は何もわからなかった。
 八重は妹の方を見たが、落ち着いて眠っている様子だったので、家を出ていつもワセィと会っている場所に向かった。
 いつものように岩場の陰にワセィはいた。
「ワセィ!」
 ワセィの体は傷だらけであった。右腕は何かに引き裂かれたような裂傷までがあった。見た目からは不思議と思えるほど血は流れていなかったが、その分、切り裂かれた肉がそのままに見えた。
 下半身の魚の部分もあちこちで鱗が逆立っており、外傷となっているのは明白だった。
『八重…』
「ワセィ、何があったの」
『ワセィは負けました』
「え?」
『皆の主人は、ツスミガになりました』
 今までワセィの話には出た事はなかったのだが、ワセィは周囲の人魚を統率するおさたる存在であった。
 ワセィに何か瑕疵があったわけではない。力のある若いものが台頭し、その地位に挑んできたのであった。ワセィ自信も通ってきた道であり、過去幾度か挑まれ打ち破ってもきた。
「ええと、怪我はどうしたらいいの」
『心配はいらないですよ』
「いや、血は…そんな出てないけど、あれ? こんなにきれいだったっけ」
 八重はワセィの体を見直した。もっと多くの傷を負っていたはずだったのが、小さい傷がほとんど消えていた。心なしか腕の裂傷も小さくなっている。
『これくらいは、すぐに治るのですよ』
 腕の怪我もゆっくりではあるが、見た目に小さくなっているのがわかる。
「すごい」
 一時間も過ぎた頃、腕の怪我も含めてすべてきれいに治りきっていた。
『…』
 ワセィは無言であったが、八重にはため息をついたように思えた。
「怪我は治ったけど、戻るの?」
『落とされた者は帰らないのがしきたりです』
「それじゃ、どうするの」
『八重に頼みがあります』
「頼みって…」
 八重が言い終わらぬうちに、ワセィは髪をかき上げて八重を正面から見つめた。正面からワセィの顔を、目を見たのは二度目であった。だが、最初に会った時と違い、その目には強い力が感じられた。
「な…に」
 八重はワセィの眼差しから目を外せなかった。体から徐々に力が抜けると同時に体が熱くなる感覚もあった。
 段々と意識が遠のき、自分ではない何かになって顔を突き合わせている二人を周囲の景色ごと見ているような感覚が覆い、次第に視界が離れてゆき見えなくなった時点で意識が途絶えた。

 八重が目を開いた時、ワセィはいなかった。
 日が西に傾き、夕刻が近くなっていた。
 八重はゆっくりと起き上った。家に向かう足取りは遅かった。妹のことが気にかかったが、体が重く、どうしても速くは歩けなかったのだった。
 ようやく家に着いた頃には、また意識が朦朧としていた。妹の寝ている布団の傍まで行き、妹の寝顔を見た時、再び気を失った。

 八重は眠り続けていた。
 母親は八重が倒れた次の日の昼前に帰ってきた。その時、八重が倒れこんでおり、妹は起きぬ八重を案じて泣いていた。母の姿を見た妹は母にすがりついてまた泣きじゃくった。
 母は事情を聞いたが、眠っていた妹は何も知るわけもなかった。
 八重は苦しむ様子もなく、ただ懇々と眠っていた。静かであるがゆえに、いつまで続くものなのか分かるものはいなかった。

 三日後。
 八重は目覚めた。
 だが、倒れた時の直前のことを何も覚えていなかった。
 家族のことも、妹の病気の事も覚えている。だが、なぜ倒れたのか、その経緯は何一つ覚えてはいなかった。無論、人魚に関する事、しず婆と人魚との関連もである。

 八重はそれ以外に変わった様子は見られなかった。そのときは…。

(続く)
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