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八百比丘尼伝説
第一幕 八重/後編
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一ヶ月後、少し離れた所にある大きな村で盆祭りがあった。八重のいた集落では今年は豊漁で、行商に持って行った魚介類もよく売れ、生活にも余裕が出た。
それで今年は一家総出で祭りに参加したのであった。
そんな中、盆踊りに興じるうちに八重は家族とはぐれてしまった。
家族が八重を探し出した時、八重の周りには村の若衆が群れていた。その中には、村長の息子もいた。聡明で人柄もよく、村長の跡取りとしても大きな期待を受けていた。
その三ヶ月後。
冬の漁が始まる前に、八重は隣村の村長の息子に嫁入りをした。家族へは祝いの品だけでなく、八重が抜ける分以上の作業人が補填されもした。元より人当たりも良く、人との交流を楽しんで行なう質であった八重は、将来の村長の妻として村人との折衝も問題なく行なっていた。
村長一家も八重を大事にし、八重自身も新しい家族を尊重し、尽くした。
順風満帆と言える日々が過ぎ、村長が隠居して、新たな村長となった夫とともに幸せな時が続いていくかに見えた。
ただ一つの問題が。とても大きな問題が解ってしまうまでは。
八重は子供が授からなかった。
夫婦ともに健康な若い者同士。情交も知らぬ身ではない。
始めの一年ほどは、巡り合わせでそういうこともあろうという話で済んでいたが、丸三年が過ぎる頃には、家人の目が変わり始めた。
そして五年目の春に、村長となった夫以外の者から離縁を言い渡されたのだった。家長である、義理の父の言動が最も大きかった。
夫は最後まで、いや、離縁を決められてなお抵抗を続けたが、村長としての立場がそれ以上の抵抗を許さなかった。
村長という立場でなくば、夫婦二人きりで家から離れるという事もできたかもしれない。ただし、それはそれで違う苦しみを味わう事となってしまうのだが、それについては後に語ることとする。
夫は泣く泣く、八重との別れを選ばざるを得なかった。八重自身からは何も言うことは許されなかったし、跡取りを産むことができぬ引け目から、言うこともできなかった。
八重は離縁され、実家に戻った。五年も経つことであり、世間体もあることから、祝いの品や作業に補填された者の扱いには特に何も話はなく、そのままとなった。補填で来てくれた者も仕事にすっかり慣れて、新たに家庭を持った者もいて、強制されることは何もなかったので、そのまま村に住み着いた。
だが、僅か一週間後、別の村の豪農の使いが家を訪れた。八重を嫁にもらいたいという話であった。
八重の実家では長男である八重の弟が家業を継いでおり、あの時の妹も嫁いでいた。心持ちもなんとか落ち着いて、今後の身の振り方を考えようか、という矢先の出来事であった。
最初、八重は戸惑いがあった。自分に子供が授からなかった故に受けた離縁から、僅か一週間後である。この先も子供が授かることができるものなのか、不安が大きかったのである。
当時としては年増と言える年齢に差し掛かりかけていた身であり、嫁として迎え入れてくれるのであれば、願ったり叶ったりではあるが、八重も他の家族も、その豪農と今までに交流がなく、なぜ急にお呼びがかかったのかがわからなかった。
それも嫁としてということは、側妻ではなく、本妻である。
だが話を聞けば、八重を嫁としてと迎えたいと言っているのは、その豪農の三男であった。五年前の盆祭りの日に八重を取り巻いていた中の一人である。歳は八重より一つ下。
迷いを絶つことができたのは、子はなくともよいという旨の言葉だった。その家では八重が離縁に至った内情も調べていたのだった。彼は三男の身であり、長兄である兄の持つ土地の中で、様々な作物を作る、いわば農業研究を生業としていた。調べ得たものを継いでくれるのならば、己が子供であることには、全くこだわっていなかった。
八重が新たな夫となる男の元へ行くと、男は驚嘆の言葉を漏らした。失望してのことではない。五年前と変わらぬ若さを保つその姿に思わず言葉が出たのであった。
八重はその夫の元で安息の場を得ることができた。農家の仕事は知らぬことばかりであったが、学んだ。見たこともない作物が土地に根付く度に、また新たな発見があった。
三十年、二人は夫婦としてその土地に住まった。
夫は年老い、体は自由が効かなくなり始めていた。その頃で五十といえば、寿命を迎える歳である。夫はそれでもまだ元気な方であった。今日も共に畑へと出る。八重が夫の手を引いてゆく姿は、娘というより、孫が手を引いているかのごとくであった。
八重の年恰好は三十年間、何一つ変わることがなかった。
八重が自分の異変を明確に理解したのはここに嫁いで十年目のことであった。
容姿が変わらない点では、十年程度では変わらない人も少なからずいるであろう。若さを保っている姿は、夫は元より他の家族からも好意的に受け止められ、生活は安定していた。
ある日、畑で新しい作物の収穫中、硬い茎に鎌が滑り、手を大きく切ってしまった。隣にいた夫がすぐに手ぬぐいで止血し、家に戻った。
だが、手ぬぐいを取った時、驚くことに大きく切れていた筈の怪我が跡形もなく消えていたのだった。切ったことは間違いない。手ぬぐいもべっとりと血で濡れている。
何が起こったのかわからぬ二人は、ここの農業研究の手助けをしてもらっている学者を訪ねた。
その学者にとっても、そのような事は見たことも聞いたこともなく、二人と同じく首をひねるばかりだった。
その一年後に村を訪れた旅の学者の話で、八重が人魚に関わりがあるのではないかという話がもたらされた。だが、八重にその記憶はない。その学者の話にしても、そのような伝承があるというだけのもので、人の体に関する学術的なものではなかったのだが。
しかし、事実としては、ワセィの行なった事が八重の肉体を変貌させていたのであった。
ーーーーーーーーーー
ワセィが一族の長となったのは、今より二百年ほど前のことだった。
その前の長であったレイヨにワセィが挑んだ時、レイヨは衰えを見せ始めていた。それでもまだ長としての仕事には精力的にこなしていたし、体力も充分にあった。だが、若い、その力が頂点に達していたワセィは力まかせに長の地位を勝ち取った。
そして幾星霜。また交代の時が来るのは世の必然であろう。
自分の存在証明とでもいうのだろうか。だが、理屈で考えたものではなかった。ワセィは何も話さなかったが、衰えていたのだった。
八重が目を見張ったワセィの腕の怪我の治る速さ。人間の基準からすれば、驚異的とも言える速さであったわけだが、人魚の基準的にはかなり遅くなっていた。つまり、体の衰えを目の当たりにしたのだった。それがあの時八重が感じていた、ため息であったのだ。
ワセィはツスミガとの戦いの前に一族の者、自分の子を産んだ女たちやその子供たちと別れの儀式を済ませていた。それは戦いの前の儀礼であり、無論ツスミガも同じことをしている。敗れた方はそのままそこを去ることとなる。
敗れたワセィはそのまま去り、八重を訪ねた。
そして八重にも別れの儀式を行なったのだった。
状況としては口づけをしただけなのだが…。
人と人魚。上半身の姿こそ酷似しているとはいえ、生物としては全く異質の存在である。お互い知的存在ゆえ、交流はできても交配はできない。
そして、人魚には伝承があり、人に対し自らの何物であっても肉体の一部をもたらすのは人魚にとって禁忌とされていた。
ワセィは友人である八重にも今生の別れを告げる意味で、別れの儀式、口づけを行なった。だが、それによってわずかな唾液が八重にもたらされてしまったの だった。
人間にとって人魚の肉も体液も基本は強烈な死に至る毒である。だが、稀にそれを受け入れる肉体を持つ者がいる。
受け入れた者は、人魚に匹敵する、いやそれ以上の強靭な、再生と言えるほどの代謝能力と永遠とも言える寿命を得ることとなる。確率的に正に稀、奇跡的といえるが、人魚以上の存在を生む危険性がある故の人魚にとっての禁忌なのだった。
ただし、体力や精神、思考に関しては何も変わらない。怪我は短時間で治癒し、疾病、特に伝染病には絶対的な抵抗力を持つが、怪力であるとか、人の心を覗くというような特別な能力がもたらされるわけではないのだ。
ただし、不死身というわけではない。脳髄を失うほどの頭部の損傷、心臓をえぐり取られるような回復できぬほど破損するといったことがあれば、死に至ることとなる。
そこに一見、不老不死とも言える者が、人魚の肉などを得る幸運と、自らの肉体がそれに耐えるものであったことの二重の幸運に恵まれた者が、いかに稀な確率であるとはいえ、長きにわたって跋扈し、世の中に溢れかえらない理由がある。
不老不死となったと思えたその後、何事でも成し遂げられるであろう強靭な体と時間を得られた直後は精力的に動くことができる。だが、それを成し遂げてしまう、またはその体をもってしても不可能であると確信してしまった後は、ただ、無為なる時間だけが自分の前にある事を知ることとなる。異なる目的に向かえる者はよいが、ほとんどの者は二百年もする頃には、その地獄とも言える無為なる永遠の時間と対面させられてしまう。先の見えない永遠の闇の如きその無為は、人の心を完膚なきまでに壊してしまう。
心を壊され絶望に全てを満たされた者には、自らの命を絶つ以外の思いは生まれない。その光景は凄惨極まりない。先にどうなれば死に至るかを記述したが、各人がその事を知っているわけもなく、普通の人間ならば死に至る方法を繰り返すことになる。
心の臓を突き刺す程度では、気を失っている間に回復してしまう。
毒を喰らっても、苦しむだけ苦しんで元に戻る。
入水しても、息ができぬ間だけが、ただ苦しいだけ。
高所から飛び降りたとしても、頭部から落下し頭が粉々に飛び散るようなことでもなくば、折れた骨、破損した部位が元に戻るまで苦痛が続くだけである。
自分一人でできる内容ではとても死に至るものではないのだ。何度も何度も、無為の闇に追われるように自殺行為を繰り返し、より激しい内容となり、やっと黄泉への旅路につくことができる。その現場を目にする者は、間違いなく地獄絵図を見るような光景になって。
だが八重はその性格から、物事に頓着しない。事実をそのまま受け止めて、苦悩することなく、一日一日を新しく生きるので、この先百年千年の未来があろうとも心を砕かずに居るのであった。
さらに八重は人魚の持つ魅了の能力。人と、特に異性と目を合わせると、その者を虜としてしまう力までも得ていた。それが村祭りの場で男たちに囲まれることとなった原因であり、最初の夫がいつまでも執着した理由であり、次の夫が五年を経ても八重を忘れていなかった理由である。
そして、全てのいかなる病にも対抗しうる万能の抗体が、体に侵入した如何なる異物も排斥してしまう。それが自分の物でないなら、人間の物であろうと何であろうと。愛する夫の精であっても…。
八重は二人目の夫を看取った後、そのままその土地に住まい、夫の成していたことを引き継いだ。家は更に栄えており、八重が仕事を続けることにも異論はなかった。
歳を取らぬ八重に、神と言わぬまでも、敬いと畏怖を感じていたこともある。
また四十年の年が過ぎた。
粗末ではないが、古い家の中には布団が敷かれて、一人の年老いた男が横たわっていた。
老齢で今はただ一人を除いて身寄りもなく、病も得ていた身は、もう命が尽きようとしていた。病といっても不治の病などでもなく、老齢になればよく罹患する病であった。
老人が目を開ける。何かを訴えかけるように、布団の横に座っているただ一人の身内である若い女性に何かを言おうとしたようだった。だが、それは言葉とならず、再び目を閉じた。老人の目はそれきり二度と開くことはなかった。
傍の女性は優しく布団を直してやり、外にいた村人に声をかけた。その村人は半ば怯えたような顔で村の世話役の所に走った
女性は…八重は中に戻り、亡くなった老人のために祈りを捧げた。
八重が二人目の夫を看取り、一人で仕事を引き継いだ八年後。
その地は凄まじい台風に襲われた。豪農の家だけではなく、村の家はことごとく破壊され、多くの人が死んだ。八重の住んでいた土地は比較的被害が少なく、家も一部が壊れただけで生活には支障は出なかった。だが、本家では家は完全に倒壊し、ほとんどの者が死んだ。生き残ったのは、八重からすると甥にあたる、夫の兄になる次兄の末の息子と、そのまた姪になる幼い女の子とその乳母だけだった。
その甥は台風の来る一週間ほど前から使いに出ており、難を逃れた。幼児は台風から避難して隣村の母親の実家に行っていた。当初母親も共に実家に行っていたのだが、たまたま戻らねばならぬ事があり、風雨の弱まった合間に戻っていたのだが、家で難を受けたのだった。
一家が壊滅状態になったので、八重の元には新たな作物は来ることはなく、甥と共に残った作物を作り続けて、ほぼ自給自足の生活になった。
残された四人が食べてゆくには必要な量を収穫できたので、村が復興するまでと考えていた状況が延び延びになり、甥とは何とは無しに夫婦の関係となる。幼かった女の子を乳母と共に実の娘のように愛しみ、嫁入りできるまでに育て上げ、無事に手を離れた。
そして再び、甥であった三人目の夫を看取り、この一族の最後の一人になった。
八重は今、百歳に迫ってなお、若い姿のままであった。
(続く)
それで今年は一家総出で祭りに参加したのであった。
そんな中、盆踊りに興じるうちに八重は家族とはぐれてしまった。
家族が八重を探し出した時、八重の周りには村の若衆が群れていた。その中には、村長の息子もいた。聡明で人柄もよく、村長の跡取りとしても大きな期待を受けていた。
その三ヶ月後。
冬の漁が始まる前に、八重は隣村の村長の息子に嫁入りをした。家族へは祝いの品だけでなく、八重が抜ける分以上の作業人が補填されもした。元より人当たりも良く、人との交流を楽しんで行なう質であった八重は、将来の村長の妻として村人との折衝も問題なく行なっていた。
村長一家も八重を大事にし、八重自身も新しい家族を尊重し、尽くした。
順風満帆と言える日々が過ぎ、村長が隠居して、新たな村長となった夫とともに幸せな時が続いていくかに見えた。
ただ一つの問題が。とても大きな問題が解ってしまうまでは。
八重は子供が授からなかった。
夫婦ともに健康な若い者同士。情交も知らぬ身ではない。
始めの一年ほどは、巡り合わせでそういうこともあろうという話で済んでいたが、丸三年が過ぎる頃には、家人の目が変わり始めた。
そして五年目の春に、村長となった夫以外の者から離縁を言い渡されたのだった。家長である、義理の父の言動が最も大きかった。
夫は最後まで、いや、離縁を決められてなお抵抗を続けたが、村長としての立場がそれ以上の抵抗を許さなかった。
村長という立場でなくば、夫婦二人きりで家から離れるという事もできたかもしれない。ただし、それはそれで違う苦しみを味わう事となってしまうのだが、それについては後に語ることとする。
夫は泣く泣く、八重との別れを選ばざるを得なかった。八重自身からは何も言うことは許されなかったし、跡取りを産むことができぬ引け目から、言うこともできなかった。
八重は離縁され、実家に戻った。五年も経つことであり、世間体もあることから、祝いの品や作業に補填された者の扱いには特に何も話はなく、そのままとなった。補填で来てくれた者も仕事にすっかり慣れて、新たに家庭を持った者もいて、強制されることは何もなかったので、そのまま村に住み着いた。
だが、僅か一週間後、別の村の豪農の使いが家を訪れた。八重を嫁にもらいたいという話であった。
八重の実家では長男である八重の弟が家業を継いでおり、あの時の妹も嫁いでいた。心持ちもなんとか落ち着いて、今後の身の振り方を考えようか、という矢先の出来事であった。
最初、八重は戸惑いがあった。自分に子供が授からなかった故に受けた離縁から、僅か一週間後である。この先も子供が授かることができるものなのか、不安が大きかったのである。
当時としては年増と言える年齢に差し掛かりかけていた身であり、嫁として迎え入れてくれるのであれば、願ったり叶ったりではあるが、八重も他の家族も、その豪農と今までに交流がなく、なぜ急にお呼びがかかったのかがわからなかった。
それも嫁としてということは、側妻ではなく、本妻である。
だが話を聞けば、八重を嫁としてと迎えたいと言っているのは、その豪農の三男であった。五年前の盆祭りの日に八重を取り巻いていた中の一人である。歳は八重より一つ下。
迷いを絶つことができたのは、子はなくともよいという旨の言葉だった。その家では八重が離縁に至った内情も調べていたのだった。彼は三男の身であり、長兄である兄の持つ土地の中で、様々な作物を作る、いわば農業研究を生業としていた。調べ得たものを継いでくれるのならば、己が子供であることには、全くこだわっていなかった。
八重が新たな夫となる男の元へ行くと、男は驚嘆の言葉を漏らした。失望してのことではない。五年前と変わらぬ若さを保つその姿に思わず言葉が出たのであった。
八重はその夫の元で安息の場を得ることができた。農家の仕事は知らぬことばかりであったが、学んだ。見たこともない作物が土地に根付く度に、また新たな発見があった。
三十年、二人は夫婦としてその土地に住まった。
夫は年老い、体は自由が効かなくなり始めていた。その頃で五十といえば、寿命を迎える歳である。夫はそれでもまだ元気な方であった。今日も共に畑へと出る。八重が夫の手を引いてゆく姿は、娘というより、孫が手を引いているかのごとくであった。
八重の年恰好は三十年間、何一つ変わることがなかった。
八重が自分の異変を明確に理解したのはここに嫁いで十年目のことであった。
容姿が変わらない点では、十年程度では変わらない人も少なからずいるであろう。若さを保っている姿は、夫は元より他の家族からも好意的に受け止められ、生活は安定していた。
ある日、畑で新しい作物の収穫中、硬い茎に鎌が滑り、手を大きく切ってしまった。隣にいた夫がすぐに手ぬぐいで止血し、家に戻った。
だが、手ぬぐいを取った時、驚くことに大きく切れていた筈の怪我が跡形もなく消えていたのだった。切ったことは間違いない。手ぬぐいもべっとりと血で濡れている。
何が起こったのかわからぬ二人は、ここの農業研究の手助けをしてもらっている学者を訪ねた。
その学者にとっても、そのような事は見たことも聞いたこともなく、二人と同じく首をひねるばかりだった。
その一年後に村を訪れた旅の学者の話で、八重が人魚に関わりがあるのではないかという話がもたらされた。だが、八重にその記憶はない。その学者の話にしても、そのような伝承があるというだけのもので、人の体に関する学術的なものではなかったのだが。
しかし、事実としては、ワセィの行なった事が八重の肉体を変貌させていたのであった。
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ワセィが一族の長となったのは、今より二百年ほど前のことだった。
その前の長であったレイヨにワセィが挑んだ時、レイヨは衰えを見せ始めていた。それでもまだ長としての仕事には精力的にこなしていたし、体力も充分にあった。だが、若い、その力が頂点に達していたワセィは力まかせに長の地位を勝ち取った。
そして幾星霜。また交代の時が来るのは世の必然であろう。
自分の存在証明とでもいうのだろうか。だが、理屈で考えたものではなかった。ワセィは何も話さなかったが、衰えていたのだった。
八重が目を見張ったワセィの腕の怪我の治る速さ。人間の基準からすれば、驚異的とも言える速さであったわけだが、人魚の基準的にはかなり遅くなっていた。つまり、体の衰えを目の当たりにしたのだった。それがあの時八重が感じていた、ため息であったのだ。
ワセィはツスミガとの戦いの前に一族の者、自分の子を産んだ女たちやその子供たちと別れの儀式を済ませていた。それは戦いの前の儀礼であり、無論ツスミガも同じことをしている。敗れた方はそのままそこを去ることとなる。
敗れたワセィはそのまま去り、八重を訪ねた。
そして八重にも別れの儀式を行なったのだった。
状況としては口づけをしただけなのだが…。
人と人魚。上半身の姿こそ酷似しているとはいえ、生物としては全く異質の存在である。お互い知的存在ゆえ、交流はできても交配はできない。
そして、人魚には伝承があり、人に対し自らの何物であっても肉体の一部をもたらすのは人魚にとって禁忌とされていた。
ワセィは友人である八重にも今生の別れを告げる意味で、別れの儀式、口づけを行なった。だが、それによってわずかな唾液が八重にもたらされてしまったの だった。
人間にとって人魚の肉も体液も基本は強烈な死に至る毒である。だが、稀にそれを受け入れる肉体を持つ者がいる。
受け入れた者は、人魚に匹敵する、いやそれ以上の強靭な、再生と言えるほどの代謝能力と永遠とも言える寿命を得ることとなる。確率的に正に稀、奇跡的といえるが、人魚以上の存在を生む危険性がある故の人魚にとっての禁忌なのだった。
ただし、体力や精神、思考に関しては何も変わらない。怪我は短時間で治癒し、疾病、特に伝染病には絶対的な抵抗力を持つが、怪力であるとか、人の心を覗くというような特別な能力がもたらされるわけではないのだ。
ただし、不死身というわけではない。脳髄を失うほどの頭部の損傷、心臓をえぐり取られるような回復できぬほど破損するといったことがあれば、死に至ることとなる。
そこに一見、不老不死とも言える者が、人魚の肉などを得る幸運と、自らの肉体がそれに耐えるものであったことの二重の幸運に恵まれた者が、いかに稀な確率であるとはいえ、長きにわたって跋扈し、世の中に溢れかえらない理由がある。
不老不死となったと思えたその後、何事でも成し遂げられるであろう強靭な体と時間を得られた直後は精力的に動くことができる。だが、それを成し遂げてしまう、またはその体をもってしても不可能であると確信してしまった後は、ただ、無為なる時間だけが自分の前にある事を知ることとなる。異なる目的に向かえる者はよいが、ほとんどの者は二百年もする頃には、その地獄とも言える無為なる永遠の時間と対面させられてしまう。先の見えない永遠の闇の如きその無為は、人の心を完膚なきまでに壊してしまう。
心を壊され絶望に全てを満たされた者には、自らの命を絶つ以外の思いは生まれない。その光景は凄惨極まりない。先にどうなれば死に至るかを記述したが、各人がその事を知っているわけもなく、普通の人間ならば死に至る方法を繰り返すことになる。
心の臓を突き刺す程度では、気を失っている間に回復してしまう。
毒を喰らっても、苦しむだけ苦しんで元に戻る。
入水しても、息ができぬ間だけが、ただ苦しいだけ。
高所から飛び降りたとしても、頭部から落下し頭が粉々に飛び散るようなことでもなくば、折れた骨、破損した部位が元に戻るまで苦痛が続くだけである。
自分一人でできる内容ではとても死に至るものではないのだ。何度も何度も、無為の闇に追われるように自殺行為を繰り返し、より激しい内容となり、やっと黄泉への旅路につくことができる。その現場を目にする者は、間違いなく地獄絵図を見るような光景になって。
だが八重はその性格から、物事に頓着しない。事実をそのまま受け止めて、苦悩することなく、一日一日を新しく生きるので、この先百年千年の未来があろうとも心を砕かずに居るのであった。
さらに八重は人魚の持つ魅了の能力。人と、特に異性と目を合わせると、その者を虜としてしまう力までも得ていた。それが村祭りの場で男たちに囲まれることとなった原因であり、最初の夫がいつまでも執着した理由であり、次の夫が五年を経ても八重を忘れていなかった理由である。
そして、全てのいかなる病にも対抗しうる万能の抗体が、体に侵入した如何なる異物も排斥してしまう。それが自分の物でないなら、人間の物であろうと何であろうと。愛する夫の精であっても…。
八重は二人目の夫を看取った後、そのままその土地に住まい、夫の成していたことを引き継いだ。家は更に栄えており、八重が仕事を続けることにも異論はなかった。
歳を取らぬ八重に、神と言わぬまでも、敬いと畏怖を感じていたこともある。
また四十年の年が過ぎた。
粗末ではないが、古い家の中には布団が敷かれて、一人の年老いた男が横たわっていた。
老齢で今はただ一人を除いて身寄りもなく、病も得ていた身は、もう命が尽きようとしていた。病といっても不治の病などでもなく、老齢になればよく罹患する病であった。
老人が目を開ける。何かを訴えかけるように、布団の横に座っているただ一人の身内である若い女性に何かを言おうとしたようだった。だが、それは言葉とならず、再び目を閉じた。老人の目はそれきり二度と開くことはなかった。
傍の女性は優しく布団を直してやり、外にいた村人に声をかけた。その村人は半ば怯えたような顔で村の世話役の所に走った
女性は…八重は中に戻り、亡くなった老人のために祈りを捧げた。
八重が二人目の夫を看取り、一人で仕事を引き継いだ八年後。
その地は凄まじい台風に襲われた。豪農の家だけではなく、村の家はことごとく破壊され、多くの人が死んだ。八重の住んでいた土地は比較的被害が少なく、家も一部が壊れただけで生活には支障は出なかった。だが、本家では家は完全に倒壊し、ほとんどの者が死んだ。生き残ったのは、八重からすると甥にあたる、夫の兄になる次兄の末の息子と、そのまた姪になる幼い女の子とその乳母だけだった。
その甥は台風の来る一週間ほど前から使いに出ており、難を逃れた。幼児は台風から避難して隣村の母親の実家に行っていた。当初母親も共に実家に行っていたのだが、たまたま戻らねばならぬ事があり、風雨の弱まった合間に戻っていたのだが、家で難を受けたのだった。
一家が壊滅状態になったので、八重の元には新たな作物は来ることはなく、甥と共に残った作物を作り続けて、ほぼ自給自足の生活になった。
残された四人が食べてゆくには必要な量を収穫できたので、村が復興するまでと考えていた状況が延び延びになり、甥とは何とは無しに夫婦の関係となる。幼かった女の子を乳母と共に実の娘のように愛しみ、嫁入りできるまでに育て上げ、無事に手を離れた。
そして再び、甥であった三人目の夫を看取り、この一族の最後の一人になった。
八重は今、百歳に迫ってなお、若い姿のままであった。
(続く)
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