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第三章
第16話 だ、大好き……!?
しおりを挟む8月の下旬。あの灯籠流しの夜から、あっという間に一週間が経った。
相変わらず楓は忙しそうで、朝は会わず、夜に「おかえり」「おやすみ」と、少し言葉を交わす程度。
疲れて帰ってくる楓は、いつも甘い瞳で俺を見る。そのたびに俺は、胸がぎゅっと苦しくなる。
でも、これがなんなのか、うまく答えを出せずにいた。
「…胸焼け、だろうか…」
「は?」
「え?」
お昼時、寮の食堂で、篠岡と玉置と共に昼を食べる。俺の呟きに、二人が変な顔をした。
「楓と会う時間だから、夜だな。なぜか、毎日決まって、その時間に胸が苦しくなるんだ。」
冷やし中華の麺を、箸で二、三本だけ取り、ちゅるりとすすった。
二人は顔を見合わせると、篠岡は吹き出し、玉置はこめかみに手を当てて、困ったように首を振った。
「ぷっ、ハハハ!陸クン~、お前多分、重症だわ」
「やはりそうか…、一週間も続いているんだ」
「ぶふっ、ハハハ!」
「一週間…、ふーん?祭りの夜かな?」
眉を下げ、でも口元は笑いながら篠岡が俺の肩をたたく。玉置は玉置で蕎麦を啜りながら何か呟いている。
「千秋に聞いたのかよ?天音先輩と付き合ってんのかって」
「え?…あ、ああ。」
「なんて?」
「噂は嘘らしい。付き合ってないと言っていたし…、」
──俺が好きなのは、陸だから。
「っ!」
耳元で、あの日の楓の声がリフレインした。あの夜の、少し湿った肌にまとわりつくような空気も、汗ばむ暑さも、川のせせらぎ、灯籠の光、そして、楓の真剣な眼差し…。
一瞬で身体中が燃えるように熱くなる。
まただ。
胸が切なく痛み、思わず手で押さえた。
「ほほーん…?玉置先生、これは由々しき事態だと私は思いますねぇ?」
「そうですね、篠岡先生。我々の知らないところで、進展があったと思われます」
2人がメガネをかけ直すような仕草をした。…2人とも、メガネはいつもかけていないはずなんだが…。
「涼海、お前、千秋に告られた?」
「っ!!?な、何故それを…!?」
「やっと言ったんだね~千秋。」
突然篠岡が、俺の頭の中を覗いたかのように言い当てた。驚かされたのは俺だけで、2人は、知っていてさも当然という感じだ。
楓から聞いていたのだろうか。
「その…、俺は、知らなくて…。」
楓のことを思い出すと、耳の先まで熱が回る。
考えに集中して、手が止まる。箸を持ったまま、手を膝に置いた。
「れ、恋愛経験というものは全くないから…、よく、分からないんだ。」
俯いたまま、二人を見上げる。
「はあ~。とりあえず、胸焼けの件は後回し。そっちを先になんとかした方がいいぜ?」
「そーそー。それで?千秋のことどう思ってんの?」
「そ、それは…」
楓に、まさか好きだと思われているだなんて、夢にも思っていなかった。
俺も、楓のことは好きだ。…友人としては。
でも、楓の言うような、その、ふ、触れたい、とか…、そういう“好き”って…。
「あーあ。また赤くなっちゃったよ。これで分からないって言うんだから、タチ悪いよねぇ。千秋はよく我慢してると思う」
「ウケんな~!天然記念物だな、ここまでくると!」
楽しげに会話する二人の言葉は、半分も耳に入ってこない。
頭の中は、楓のことでいっぱいだ。
今まで目にした楓の表情が、次々と浮かんでくる。余裕そうに笑う顔、面倒くさそうに口を歪める顔、子供のように泣く顔、優しく俺を見つめる顔…。どの楓も人間くさくて、好ましいと感じる。
そして、手のひらに視線を移す。
体で感じた、こと。
俺の手を引いてくれた時の、楓の手の温かさ。俺を見つめた時の、チョコレート色の瞳の甘さ。腰に触れられた時の、首筋にかかった吐息の熱さ…。
「……、」
「すげー、まだ赤くなる。そのうち湯気でも出てきそうだぜ?」
「おーい、涼海~?戻ってきて~」
顔の真ん前で玉置に手を振られ、目の前の二人に意識が戻る。
「す、すまない…。」
気付けば、二人はすでに食事を終えていた。篠岡が、コップの水を飲み干してから、俺に尋ねた。
「涼海さ、千秋が天音先輩と付き合ってるかもって聞いた時、どう思ったんだ?」
「え…、楓が、誰と付き合おうと、…それは楓の自由だ…。」
「そうじゃなくてさー、」
「?」
篠岡の否定の言葉を、玉置が引き継ぐ。
「『嫌だ』、『苦しい』。そんな風に思わなかった?」
「なっ…」
まさか、そんな。と、言いたかったのに、内心ギクリとした。
そんな気持ちを抱くつもりは、無かった。なぜなら、それは、ひどくわがままで迷惑な考えだから。そのような感情を人に向けては、いけないに決まっている。
楓が誰を好きで、誰といようと、それは俺がコントロールできることではない。「嫌だ」とか「苦しい」なんて思うことは、エゴでしかない。
「図星って顔してる」
「そんな…ことは……」
「ほんと強情な奴だな~。まっ、ゆっくり考えてみろよ。千秋の我慢がいつまで続くか見てるのも面白れぇし!」
篠岡が俺の背中を叩いて食堂を出ていく。玉置も「補習行ってくるからまたね」と手を振って席を離れた。
皿に残ったままの冷やし中華と俺だけが、その場に取り残された。
「ただいまー」
「あ…、おかえり。」
夜、胸がまた、例の症状を訴える。
Tシャツとジャージに、首からタオルをかけた楓は、見るからに疲れている。それでも、俺と目が合うと優しく微笑む。その柔らかな眼差しに、鼓動が早くなる。顔が、火照る。
「今日も遅かったな。お疲れ様」
「まーね、そろそろ本番も近いからねー。」
へらっと笑う楓。本人はあまり頓着していないようだが、楓は、整った顔をしていると思う。背も高くて、スタイルもいい。きっと舞台に立つ姿も似合うだろう。
「百合羽先輩なんて、ますます燃えててコーチより厳しいくらい。マジ怖ぇ~」
口では文句を言いながら、表情は明るい。声も生き生きしていて、舞台練習が楽しいのだと、言っているようだった。
でも、楓が、そうやって嬉しそうにするたびに、胸の奥がざわめく。
天音先輩を「百合羽先輩」と呼ぶ度に、無意識に奥歯を噛み締める。
ダメだ、なんでそんな気持ちを抱くんだ。
「陸は?地域クラス行ってみた?」
「あ、ああ。先輩たちの発表練習を見学させてもらった。いろんな側面からこの町の研究をしていて、面白そうだった!楓も…」
一緒に行こう。言いかけた言葉を飲み込んだ。
身体が固まる。
「…楓も、当日、見られるといいな。」
誤魔化したり、嘘をついたりすることは、苦手だ。
楓の顔を見ていられなくて、横のホワイトボードに目を移した。今日も楓の独特なイラストが描かれている。
…なんとか言葉を繋げたが、不自然じゃなかっただろうか。
楓の足音が近付き、頭にぽんと、手を置かれた。楓を見上げる。
「陸、その…、返事、だけど…」
楓の頬は微かに赤い。
緊張で喉が閉まった。無理に唾を飲み込む。
「俺から告白しといて、悪いけどさ…、総合祭が終わるまで、言わないでほしい」
「え…?」
楓の手が離れていく。それだけで、体の中に冷たいものが流れる。
「どんな返事だとしても、先に聞いちゃうと、舞台に集中できない気がして…。勝手なこと言ってごめん。」
「…構わない。それが楓の応援に繋がるなら、そうしよう。」
「ん。ありがと。」
楓の口元が、夜空にかかる月のように柔らかく弧を描いた。
「じゃ、風呂行ってくるから、陸はもう寝とけよ?」
「…ああ。おやすみ」
「おやすみ」
目を細め、白い歯を覗かせながら微笑む楓が、風呂場に消えていく。
ふぅ、と深く息を吐いた。
いつからだろう、「楓と一緒に」と考える癖がついてしまったのは。
今までだって、仲の良い友人はいた。でも、考えの足りないまま突っ走ってしまう俺の悪い癖のせいで、最後には距離ができてしまった。
楓が初めてだったんだ。一人で走る俺を、追いかけて、手を取って、一緒に進んでくれたのは。
「…、」
手のひらを見つめ、ぎゅっと握る。
楓がいると、安心する。
呆れ顔をする時も、そっけない言葉を吐く時も、瞳の奥は優しい。
どんな時も、俺の声を、しっかり聞いてくれる。
──離れたく、ない。
とくん、と心臓が脈打った。
楓がいる、風呂場の方へ視線を向ける。
風呂場からは、シャワーが床に打ちつける音が響いている。
この気持ちは、「好き」と同じなのだろうか。
「好き」とは、相手の幸せを願って、思いやる気持ちではないのだろうか。
そうだとしたら、俺の気持ちは、「好き」とは違う。
これは、思いやりとは程遠い、自己中心的で、好ましくないものだ。
このまま楓の告白に、はい、と返事をしたなら、それは楓を幸せにするんだろうか。
楓の自由を縛ろうとするような、このわがままな気持ちが。
口の中が、苦い。
そんな気持ちを抱いては、ダメだ。そう思っているのに、楓と一緒にいたい気持ちが抑えられない。
風呂場から視線を逸らし、階段の冷たい手すりに手をかける。
…自分の心が、二つあるみたいだ。
肩に乗る見えない重みを感じながら、一人、暗い寝室へ向かった。
この気持ちを、なんと名付けたらいいのか、分からないまま。
緑に囲まれた翠和神社は、耳にうるさいほど蝉の声が響いていた。
「すみません、」
「はーい。あ、陸先輩」
「祐希人!」
夏休みもそろそろ大詰めという頃。境内の参拝客は少なく、無人状態の授与所のカウンターに声をかけると、奥から祐希人が出て来た。
「どうしたんですか?」
「ここに、まどかちゃんが来ていると聞いたんだが…」
「ここだよ!陸お兄ちゃん!」
ひまわりのような黄色のワンピースに、日に焼けた顔。祐希人の後ろから顔を出したまどかちゃんが、ツインテールを揺らしながらにっこり笑った。
「まどかちゃん!あの…、少し相談があって…、いいだろうか?」
「もちろんいーよ!ゆきとくんも、いっしょ?」
「僕も同席してもいいんですか?」
「あ、ああ。構わない。」
「ありがとうございます。陸先輩、外は暑いですから、中にどうぞ。」
祐希人に促され、裏の社務所入口に回る。
そう、俺は、恋愛の先輩であるまどかちゃんに相談に来たのだった。
社務所は、エアコンで冷やされた畳が、足先にひんやりと気持ちよかった。ちゃぶ台の上には、食べかけのお菓子とお茶、それと計算ドリルが広げられていた。
「ゆきとくんに、おしえてもらってたの!」
「そうだったのか、邪魔してすまない…」
「ちょうど休憩中でしたから、大丈夫ですよ。」
まどかちゃんが、座布団を一つ追加で並べて、祐希人は俺の分のお茶を用意してくれた。
「まどかにおはなしって、なぁに?」
「えっと…、俺の、友人の話なんだが…」
少しだけ恥ずかしくて、ぼかして話す。
「友達だと思っていた人に、好きだと言われて…、」
「ぶッ!」
「大丈夫か、祐希人?」
「あ、はい。すみません。続けてください…。」
お茶を吹き出した祐希人が、けほけほ咳き込む。背中をさすってやろうと立ちあがろうとした俺を手で制すると、口元をハンカチで抑え、微笑んだ。続きを促される。
「えっと…、でも『好き』って、どんな気持ちなのか分からなくて、悩んでいるんだ…、じゃなくて、悩んでいるらしいんだ。」
伝聞調で言い直す。
まどかちゃんは、恋愛話だと分かると瞳を輝かせ、手を顎に当て、考えるような仕草をした。
「そうなんだね!好きかどうか、わかんないんだ!?」
「ああ。」
「あのね、好きな人のことかんがえると、どきどきして、ふわふわして、ぎゅーってするんだよ?」
「ぎゅーって…、胸がか?」
「そう!」
頬を染めて話すまどかちゃん。その症状には、心当たりがあった。そっと、自分の胸に手を当てた。
「…でも、相手のことを思いやる気持ちより、『自分のために、その人と離れたくない』と、自分勝手な気持ちを抱いているんだ。…それは、相手を幸せにしないと、思わないか?相手を困らせるような気持ちは、『好き』な相手に抱いて良いものと、思えないんだが…」
8歳のまどかちゃんに聞くには、言葉が難しかったかもしれない。胸に当てた手をぎゅっと握りしめながら、机の上の湯呑みに視線を落とした。
緑茶の優しい香りが、ざらつく心に寄り添うようだった。
「陸先輩、」
きょとん顔のまどかの横で、祐希人が口を開いた。俺が祐希人を見ると、祐希人は「はぁ」とため息を吐いてから、続けた。
「それは、紛れもなく『好き』ですよ」
「…っ!?」
迷いなく言い切られ、絶句する。
「独占したいとか、離れたくないとか、それは歴とした恋心です。しかも、かなり、強い気持ちだと思います。…誰も、横槍なんて入れられないくらいに。」
ふっと、繊細なまつ毛が伏せられる。
祐希人の言葉で少し理解できたのか、まどかちゃんも笑顔で話しだす。
「そっか!いっしょにいたいって、思うんだね?それはもう、だいだいだーいすきっ!てことだよ!」
「だ、だいだい……」
「だーいすき!」
「だい、す…っ、」
羞恥で言葉が止まる。みるみる身体中に血が巡る。
そう…、なのか…。
俺は、楓のことが…。
だ、大好き……!?
「ちょっ…、と、用事をお、思い出し…、えっと、その、二人とも、ありがとう…。」
よろめく足で立ち上がる。正座で足が痺れた訳ではない。それなのに、身体に上手く力が入らなかった。自分の身体ではないみたいにふわふわして、うまく感覚が掴めない。
「ええ~、もういっちゃうの?」
「まどかちゃん、陸先輩は忙しいみたいだから、僕たちも宿題の続き、しようか?」
「はぁい。陸お兄ちゃん、ばいばい!」
「あ、ああ、…また。」
震える手でまどかに手を振りかえし、社務所のドアを開く。
外に出た途端、蝉の大合唱と外の熱気に包まれるが、それをどこか遠くに感じる程、俺の心臓はうるさく鳴っているし、身体は熱かった。
大好き?楓のことが?
そう…、そうだった、のか…!
胸焼けのような苦しさも、
わがままな気持ちも、
その全てが
──好き、の正体。
「陸先輩」
背後のドアが開き、振り返ると、祐希人だけが社務所から出てきた。
「陸先輩、…楓先輩のこと、そこまで好きだったんですね」
「そう…、い、いや!これは友人の話で…」
「ふふっ、陸先輩、嘘つくの、下手すぎます。」
くすくすと笑う祐希人。
夏の日差しが四方八方から目に飛び込み、眩しい。それなのに、軒下に立つ祐希人だけは、影に包まれている。
まるで、祐希人だけが、俺とは別世界にいるように見えた。
「楓先輩に伝えてください。」
「?」
「『他人のものには興味がありません、どうぞご安心ください』と。」
「…?わかった、伝えよう。」
「お願いします。では、陸先輩、…さようなら。」
「ああ。またな」
いつものようににっこりと微笑み、小さく手を振る祐希人に背を向け、歩き出す。
楓に、応えよう。
ありのまま、この気持ちを。
山から海へ吹く風が、俺の背中を境内から外へ押し出す。
顔を上げた先には、遠くに輝く海が見えた。
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