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8.夏の恋歌(マドリガル)(4)

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 コンコン。
「…」
 コン…コン。
「ん……」
 夢の中で響いたノックがまだ聞こえてやがる、と思いながら寝返りを打つ。
 昼間見た光景のせいか訳のわからない夢で、あの礼拝堂の扉を誰かが叩き続けている、そのくせ開いて中には入ろうとしない、そんな夢だった。入りたい、とにかく中に入りたい。一途な焦燥が訪問者の心を乱れさせている。どうしても入りたい、なのに入れない。訪問者は誰もいない礼拝堂の扉を一人、叩き続ける、返ってこない答えを求めて……。
 コ…ン……コン……。
「っ」
 ひどくためらいがちなノックが再び聞こえてきて跳ね起きた。左へ滑り降りようとして、嫌というほど頭と足を壁にぶつける。
「いてっ?!」
 首を傾げる。どうしてこっちに壁がある?
「滝さん?」
「へ?…え、周一郎? え? ここ? …あ、そうか」
 俺はようやく、自分がスペインにいる事、あの女主人の家に泊まった事を思い出し、頭を摩りながら、ベッドから右側へ滑り降りた。
 腕時計は真夜中近いと教えている。眠気で重い体をのろのろ引きずってドアを開けると、外に居た周一郎がはっとしたように顔を上げた。
「……おい、寒くないか、その格好」
「大丈夫です」
 周一郎は青い縞のパジャマに軽く上着を引っ掛けただけだ。
「で……何だ?」
 ふぁあ、とあくびが出た。
「…大悟のことばがあるんです」
「んー?」
「『青の光景』を見たければ、満月の夜中に礼拝しろって。『青の光景』の裏にミッセージがありました………今夜は完全に満月じゃないけど…」
「うん…?」
「…だから…」
 周一郎は口ごもって俯いた。
「その、高野を起こすのは、可哀想だし……」
 あれ、こいつ、ひょっとして。
 ふと閃いた。確認とからかい半分で返答してみる。
「んじゃ何か、俺は可哀想じゃないっつーのか?」
「そんな訳じゃないんですけど……ただ………。わかりました。もう結構です」
 周一郎は唐突にふてた口調になった。
「夜中にお起こししてすみません。おやすみなさい」
 くるりと背を向ける。
「待てよ。一人で行くには危なっかしいだろ」
 部屋に戻ってパジャマの上からセーターを着た。コートを片手に戸口に戻る。ばさっとコートを周一郎に掛けてやって、軽く相手の頭を叩いた。
「じゃ、行こうぜ。一人で行かせて、庭でこけられでもしたら、俺が高野に恨まれる」
「一人じゃありません」
「にゃい」
「お、何だ、お前もいたのか」
 キラッと闇の中に緑の火を光らせて、ルトが姿を表した。しっかり洗ってもらったせいで、元通り『ピカピカ』の青灰色猫になっている。
「まあこっちに来いよ。またシッポ踏むぜ」
「にゃぐ」
 企むところがあって、俺の足に身を擦り付けていたルトは、我が意を得たりと言わんばかりに、『明るく可愛くあどけなく』俺の手に爪を立ててよじ登った。
「ちちっ…あ、あのな、ルト」
「にゃ?」
「いい加減に爪を立てずに肩に登る方法覚えてくれ」
「にー」
 無理だよそんな事、そう言いたげに、ルトは鼻に皺を寄せて鳴く。
 わかった俺がバカだった、お前に説教なぞしても無駄だってことをころっと忘れてた。
 ルトの温もりにちょっとほっとしながら、周一郎と一緒に歩き出す。
 コト……コト……コト……コト……。
 邸に松葉杖の音が響く。
 ふと理由もなく、ようやくこいつも人間になってきたな、と思った。そうだ、少なくとも『人間』なら足音を立てるもんだ、うん。
 内庭(パティオ)は、昇った月にお伽話じみた空間に変わっていた。地に映る建物と木々の影。それは昼間見る太陽の影とは違った、優しい甘さをたたえている。
「スペインの内庭(パティオ)は、夜、影を落として最も美しいように造られているんです」
「へえ…」
 周一郎の口調もどこか優しい、頼りない響きをたたえている。
 ギッ……。
 礼拝堂の鍵は、周一郎が女主人から貸し与えられている。鍵を回して開いた礼拝堂の中は、深い闇に身を沈める昔語りの魔の洞窟のように、人の侵入を拒む気配があった。怯みもせずに足を踏み入れた周一郎が、促すように俺を振り向く。
「う…うん」
 まあ、日本の幽霊もスペインくんだりまで海外出張はしないだろう。そろりそろりと入り込み、ゆっくり扉を閉める。たちまち、窓のない部屋は、墨一色に変わった。
「……どうだ? 何かわかるか?」
 黙っていることの重さに問い掛ける。答えはなかったが、少しずつ闇に慣れてきたらしい目に、周一郎がかぶりを振るのがぼんやり見えた。
「そうか…」
 俺はもぞもぞと身動きした。ゆっくり辺りを見回す。十字架のキリスト像は、骨ばった体を広げてこちらを見ている。静まり返った邸内には、物音の一つもない。
「……きっと…」
「ん?」
「ぼくを一番愛してくれたのが、イレーネなんでしょうね」
「…」
 沈んだ声に、答える術なく黙り込んだ。
「どうして…なのかな…」
 暗闇に安堵したのか、迷ったように低い呟きが続く。
「光が強くなればなるほど、影も濃くなっていく………それで、ぼくは結局……自分の影に滝さんまで引き摺り込んで……」
「おい…」
 周一郎の言おうとしていることに気づいて、思わず口を出した。
「お前、勘違いするなよな。俺が厄介ごとに突っ込むのは『習性』なんだからな」
「…」
「今度だって、断ろうと思えば断れたんだ。それをいつものお節介で、俺が勝手に飛び込んできたんだからな。お前が責任感じる必要ないんだからな」
 10年も前の恨みを背負い込んで、痛めつけられて、傷ついて、それで十分なんだからな。これ以上、お前が負い目を持つこた、ないんだ。
「………」
「聞いてんのか?」
「…でも」
「でももへったくれも何もない! お前はそれでいいんだ!」
 俺は続けた。
「いいか? よく聞けよ、お前はそれでいいんだから。お前がお前だってことを負い目に思うこたないんだから。お前はお前であって、お前でないってことはありえなくって、つまりお前はお前でないはずがなくって…」
 ええい、くそ!
「だから、影があろーがなかろーが……え? 影?」
 ぎょっとした。
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