『ラズーン』第二部

segakiyui

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1.忘却の湖の伝説(1)

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 ざぶん、と重い水音が響いて、ユーノは振り向いた。
 光にきらきらと水面を輝かせている湖の岸で、一人の少女が深く頭を垂れて祈っている。表情は見えないが、俯いた沈鬱な気配から何か胸に想いを抱えているようだ。
 その側で、もう一人別の少女が胸の前に抱いていた白い布包みをゆっくりと差し上げた。太陽に顔を向けて目を伏せる、頬に水飛沫とは違うものが伝い落ちてどきりとする。小さく呟き、やがてきつく唇を結んだと思うと、頭上まで両手を差し上げて、一気に布包みを湖の方へ放り投げる。
 ざぶんっ……。
 音に俯いていた少女も顔を上げ、湖の彼方を見た。涙に濡れた頬を晒しながら、もう一人の少女も湖を見つめる。
 厳しく寂しい顔だった。切なく潤んだ瞳だった。
 けれど波打つ布が藍色の湖の奥深くに消えて行く頃には、二人とももう泣いてはいなかった。静かに身を翻して湖の畔から立ち去っていく。
(あんな風に)
 ユーノもまた、自分の全てを捨てるつもりだった、今までの自分だったなら。

 ガズラには、国の中央部にあたる盆地に大きな湖がある。
 湖は忘却の湖と呼ばれ、数多くの旅人が様々な想いとそれにまつわる物を捨てにやってくる。
 湖面は吹き渡る風に穏やかなさざ波をたてている。 
 陽光が照らすのは、ほんの表層のみ、じっと見つめていると、夜更けて頭上に広がる星空のように底知れぬ遠さに意識が吸い込まれそうになる。
 心弱い者ならば、ついふらふらと引き寄せられてしまうだろうが、いざ水に足先をつけて気づくはずだ、その穏やかさとはほど遠い凍るような冷たさに、この湖は命あるものの棲まう場所ではないのだと。
 清冽な水。
 清すぎて、命の曖昧さや柔らかさを受け入れない。
 だからこそ、人は自分の抱え切れないものを捨てる場所として、ここを選ぶのかもしれなかった。
 湖の周囲は馬で一日以上かかる広さ、深さも底にどこかへ繋がる洞窟があるという噂で、どれほどのものを沈めても埋まることも澱むこともなく、ただただ藍色に静まり返っているだけだと聞く。
 その底を確かめようという物好きはいない、自分のその身を捨てるのでなければ。ここは満たされない哀しみを捨てる場所、哀しみを捨てに来て、新たな哀しみを拾い上げるようなことは誰もしない。
 再びざぶん、と音が響く。煌めいたのは宝玉か。投げ捨てた男は忌まわしそうにそれを睨みつけ、激しい勢いで湖の畔の群れをなして張られた天幕(カサン)の方へ戻っていく。
 岸は湖と対照的に色鮮やかな木立で飾られている。日差しを浴びてすくすく育った若い木々、それを守るような濃い緑の樹木は伸びる方向を教えるように天を目指している。
 それらの木立に寄り添って、あちらこちらに白や灰色や淡く黄色がかった天幕(カサン)が張られていた。
 巡礼のようにこの湖を訪ねてきて、心決まるまで滞在し、捨て去るものを捨て去り、残すものをしっかり抱えて、人々は湖の畔でかりそめの集落でひとときの縁を紡いでいる。

(ずっと一人で生きていくつもりだった)
 ユーノは静かに湖の彼方を眺めながら思う。
(私の運命を、誰も分かち合えるはずがないと)
 沈黙を課せられ、夜を一人駆ける自分に、仲間などいるはずがないと。
(でも)
 目を閉じる。
 天幕(カサン)では昼餉の支度が始まったのだろう、煙の匂いと香ばしい肉の薫りが漂ってくる。ユーノ達の天幕(カサン)でも、イルファが大騒ぎをしながらさっきしとめた獲物を料理にかかっているだろう。
(それでも)
 微かに微笑む。
 きっと最後の時は一人なのだろう。
 きっとぎりぎりの時は一人で行くしかないのだろう。
 それでも、それまでの間はあの仲間と一緒に居られる。イルファの腹減ったの叫びに呆れ、レスファートがまとわりついてくる温かさにほっとし、アシャの笑顔に見惚れ、世界はまだ明るくて美しいと信じていられる。
(今は、皆と)
 そのためならば、アシャへの気持ちを封じることなど容易いことだ。
「うん、平気」
 仲間として一緒に笑えるのだから。
 同じ天幕(カサン)に寝起きし、悪夢にうなされて飛び起きても、そこに愛しい人の顔を見つけることができるのだから。
 たとえその手が絶対届かないとしても。
「何が届かないって?」
「うあ!」
 甘い吐息をついて目を開いた目の前に、アシャが正面から覗き込んでいて思わず仰け反った。
「何してるんだ!」
「何って」
 何度も呼んだぞ?
 きょとんと首を傾げられて、一瞬見惚れた。
(可愛い…)
 きらきら眩い黄金の髪が頬にかかって、見開いた紫水晶の瞳が無邪気に瞬いている。大人の男にしては間抜けた表情、それがみっともなく見えずに可愛いと見えてしまうあたり、天然の媚とでも言えばいいのか。
「よ、呼んだ?」
「イルファが肉を食い切るのを、レスファートが必死に止めてる」
「げ」
 くいくい、とたてた親指で示されて、確かにたき火の側でじたばたしている二人を見て取った。
「何を見てた?」
 アシャはひょいとユーノの視線の先を振り向いた。
「……ああ……巡礼者か」
「捨てちゃうんだね、ああやって」
「そうだな」
 捨てなくては動けなくなったんだろう。
 ぽつりとつぶやくアシャの声が微かに厳しい色を帯びた。
「動けなくなった?」
「それまでに繋がっていたものを切らなくては、次の世界に踏み込めない、とか」
 アシャが微かに目を細める。
「捨て切れるはずも、ないがな」
「うん…」
(あなたも何かを捨てようとしたんだろうか)
 表情をなくしたアシャの横顔にふと思った。
 たとえば過去。たとえば絆。
(それでも)
 そのアシャが今ここに、ユーノ達と一緒に居てくれる、それを幸運と喜ぶべきなのだろう。
「……ところで」
 ひょい、とアシャが唐突に振り返って、ユーノは見惚れていた視線をどきまぎと逸らせた。
「なに?」
「この間の約束だがな」
「約束?」
 薄く笑った相手がじっと見つめているのが自分の唇だと気づいて、一気に顔が熱くなった。
「忘れてないだろうな?」
「忘れてない」
「キスを返してくれるんだよな?」
「わかってる」

 しゃべり鳥(ライノ)の鳥籠から脱出する際、アシャはユーノにキスをしている。それはユーノを鳥籠から解放する条件だったのだが、おそらくは本意ではないその口づけに改めて後日礼を伝えたところ、アシャは一瞬ひどく妙な表情になって黙り込んだ。
 まるで力の限り罵倒したいのだが、罵倒する内容を不意に忘れてしまったと言いたげな顔。
 あるいはまた何か自分が獲得するべき権利を主張しようとしたのだが、それよりももっと大きく旨味のある条件を思いついたと言いたげな顔。
「なるほど」
 アシャは真面目な表情で頷いて続けたものだ。
「確かに、あれは俺にとって、厳しい状況だった」
 だよね、と頷き返しながら、ずきずき傷んだ胸の苦痛を知られまいと笑い返したユーノに、
「やはり特別報酬は必要だよな」
「報酬?」
 戸惑ってアシャの胸元を見れば、そこにはレアナの託したセレドの紋章ペンダントの膨らみがある。いずれレアナとアシャが結ばれれば、ペンダントは二人の子供に渡されるものでもあるし、今とりあえずの報酬ということでその紋章をアシャに託してもいい、いやそれでは逆にアシャの身に危険が及ぶか。
 そんなことをぐるぐる考えていたユーノは、続いたことばを聞き損ねた。
「え?」
「だから同じものでいいぞ、と」
「……はい?」
 同じもの?
 紋章のことはまだ口にしていない。同じものとは一体。
「だから」
 キスでいいぞ。
「へ…? えええっ」
 ちょっと待った。
 にこにこしながら、何なら今返してくれてもいい、と両腕を差し伸べようとする相手に頭が加熱して混乱する。
「待って、待ってよ、いや…待てってこら!」
「ん?」
「ん、じゃねえだろ!」
 それって何がどう報酬になるんだ? って、大体なんでキスのお返しがキスになる?
「知らないのか」
 他の国では罪を犯した場合、それと同じ刑罰が下るところがあるんだぞ。
 アシャが平然と語り始めてますます戸惑う。
「で?」
「足を傷つけたら足を傷つける。人を殴ったら、同じように殴られる」
「だから?」
「俺はお前を救うためにキスした」
 だから、お前が俺にキスしてくれればいいじゃないか。
「なるほど………って、違うーっ!」
 何か変だ、どうも違うぞ、と慌てて身体を引いた。
「おかしいだろ、それは!」
「どこがおかしい?」
 さっきと同じぐらい無邪気な顔できょとんと首を傾げるアシャの瞳は、それでも妙に嬉しそうに光っていて。
「だって、き、キスは!」
 こっちからしても、そっちからしても同じことじゃないか!
「違う」
 アシャは重々しく首を振って見せた。
「喧嘩でもどっちが先に殴ったというのがあるだろう?」
「う、うん」
「戦でもきっかけがどちらかというのは大きな問題だ」
「う……うん……?」
 キスというのは戦と同じ種類として論じていいのか?
「キスだって同じだ」
 いつの間にか壁際に追い詰められていて、ひたりと添ってきたアシャの顔を見上げる状態だと気づいた時には、視界いっぱいにアシャしかいなかった。
「どちらが仕掛けたかが大事だ」
「え……と…」
 必死に頭を働かせているうちに、緩やかに垂れてくる金色の髪に視野が狭められる。まばゆくて目を閉じそうになったその時に、はっと気づく。
「待ったああ!」
「何だ」
「今の状態じゃ、アシャが仕掛けてるじゃないか!」
「……それもそうだな」
「それもそうだな?」
 体を引いた相手が顎に手を当て少し首を捻って、にこりと笑う。
「じゃあ、お前から仕掛けてくれるんだな?」
「ああ……って? ええええーーーっ!」
「じゃあ俺はそれを楽しみにしていよう」
 くるりと身を翻した相手に嵌められたと気づいた時はもう遅かった。

「今でもいいぞ?」
 我に返るとアシャが間近に来ていた。
「人影もなくなったしな」
 確かに周囲の者は一通り昼食に入ったらしい。
「いや、でも、その、今は、あの」
「ん?」
 うろたえるユーノに、アシャがにこやかに距離を詰めようとした矢先、
「ユーノおぉぉおお!」
 レスファートの悲鳴が響いた。
「待てよ、レス!」
「やだあああ、これユーノのだもんんっ!」
 振り向くと、どうやら肉の塊らしいものを抱えて全力で走ってくるレスファートと、いいじゃないか、もう一口食わせろよ、と叫びながら追いかけてくるイルファの姿がある。
「イルファのばかああああ!!!」
「あのままじゃ、レスが泣いちゃう」
 ほっとしてユーノはアシャの側から離れた。
「そう、だな」
 ちっ、と短い舌打ちの後、同じように向きを変えたアシャが、小さくぼそりとくそ野郎、とつぶやいた気がしたが、それは聞かなかったことにした。
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