『ラズーン』第二部

segakiyui

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1.忘却の湖の伝説(4)

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 翌日。
「反対だ」
「アシャ」
「俺は絶対反対だ」
 ナストからあれこれ話を聞き出しつつ、マノーダ奪回作戦をたてていたユーノに、アシャはきっぱり拒否を示した。
「だって」
 神殿には女性しか入れないんだよ?
 説得しようとするユーノにますますアシャの顔が険しくなる。
「だからといって」
 ユーノが女装して潜り込む、というのは。
「……そりゃ、アシャほど美人にはならないけどさ」
 他に潜り込めそうな人間がいないんだから仕方ないだろ。
 むくれてみせても、ユーノは切なくなる。
(そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか)
 レアナや他の女性のように綺麗にならないのは重々知っている。それでも、神殿内部は巫女達の居る小部屋も多く複雑で、そのどこにマノーダやアレノが居るのかはっきりしない。誰かが入り込んで探るしかない。
「それでどうするんだ?」
 イルファがナストが持ってきた絵図面を覗き込む。神殿の元々の建物はナストの父親が設計したものだそうで、古い図面ではあるけれど、それほど改築はされていないだろうとのことだった。
「すみません」
 アシャの不快そうな顔にナストはしょんぼりする。
「僕が不甲斐ないから、あなた達に迷惑をかけてしまって……」
「いいって。どうしたんだよ、昨日の元気は」
「あの時はもう夢中で」
 ナストはいよいよ身を縮めた。
「とにかく今わかっているのは、この部屋から奥へ数部屋入った所……この辺りに新しい巫女達が居る部屋があるらしくて、マノーダはたぶんそこに居るんだろうということだけ。守りがどうなっているのか全くわからない。外での見張りはないけど、入り口に近づくとすぐに中から人が出てくるというから、見張られているのは確かだと思う」
 ユーノは絵図を指で辿っていく。
「ただこの辺りにも小部屋が十二、三ある。この中からマノーダを探し出さなくちゃならない」
「アレノもだ!」
 イルファが唸った。
「アレノも助け出さなくてはならん! あんな美しい人が冷たい石の神殿に住むなど、俺には耐えられん!」
「……恋は偉大だねえ…」
 ユーノは苦笑した。
「イルファが詩人になっちゃった」
「詩人…」
 ナストが承服しかねる顔でイルファを眺めた。
「とにかくボクが女装して潜り込み、隙ができたら手引きして皆を呼ぶ、それから」
「ぼくだよね」
 にこにことレスファートが笑った。
「ぼくがマノーダをさがすんだよね!」
「危険なことはさせたくないけど」
 くしゃりと銀髪を撫でた。
「レスファートの感覚に頼るのが一番だし」
「うん!」
 レスファートは嬉しくてたまらないように笑みを深める。
「日が落ちたら作戦開始、それまでは体力温存だ」
「で、これを」
 ナストが差し出したのは薄緑のドレス、銀色の枝と白い羽根で作られた繊細な髪飾りもある。
「僕の姉のものですが」
「ありがとう、じゃあお借り……おい」
 受け取ろうとしたユーノの手からアシャが二つとも攫っていくのに呆気にとられた。
「女に見えればいいんだな」
 掴んだままアシャが立ち上がり、冷ややかな目でナストを見下ろす。
「え、ええ、あの…?」
「俺がやる」
「え」
 ナストが笑顔のまま固まった。
 なんだなんだ、ついに女装に目覚めたのか、といつもなら突っ込むはずのイルファはぼうっとあらぬ方を眺めているので、仕方なしにユーノが応対する。
「何だよ、ドレス着てみたくなったの?」
「……」
 無言でじろりと睨まれて、あれ、とユーノも引き攣った。
「そう思うなら勝手に思え」
「え、でも、いや、あのですね、ユーノさんならまだしも、あなたはちょっと華奢さとか脆さとかがいささか足りないかもしれなくて」
「ユーノだと華奢で脆そうで可愛いって言うのか」
 アシャがゆっくり目を細めてナストをねめつけた。紫の瞳がどうにも不穏な光を漂わせているが、ユーノにも当のナストにも意味がわからない。
「あの?」
「あーえーと、うん、アシャは女装すると、確かに女に見えるんだよ、ナスト」
 引きそうにないと見て、ユーノは苦笑した。
「ってか、たぶんナストが知ってるどんな女の人より綺麗だとは思う」
「アレノを外せ!」
「マノーダ以外ですね」
 イルファとナストが同時に受けて、はいはい、とユーノは手を振った。
「ごめん、失言、はいその通り。とにかく、アシャが女装すると、少なくともボクよりうんと美人にはなる」
「……それじゃあ、お願いしても…?」
「そんな気持ちを抱いてるやつに見せてたまるか」
「は?」
 ぼそりとアシャが唸って、ナストが再び固まり、ユーノは戸惑った。
「アシャ、なんか話が食い違ってるような気がする」
(なんでこんなに女装したがってるんだろう?)
 ユーノは眉を寄せる。
(『山賊(コール)』のやつで嵌まったのかな、それとも)
 ユーノの女装なんて見たくないほどみっともない、ということだろうか。
 そうかもしれない、とちょっと落ち込みかけたユーノに、アシャはとにかく水浴びして整えてくる、と身を翻した。

「ユーノの女装だと?」
 アシャはぼやきつつ、湖の側で衣服を脱ぎ捨てる。
 そんなもの、どうして他の男に見せてやらなくちゃならない。
 少し離れたところから、今もまた湖に何かを投げ捨てようとした娘が、アシャに気づいてはっとした顔でそれを胸元に抱え込んだ。そのまま棒を飲み込んだように立ち竦んだ相手を振り向き、にっこり笑ってやると見る見る真っ赤になるのも道理、アシャは既に下着一つの半裸だ。そちらを眺めたまま下着に手をかけ、なおも笑みを深めながら首を傾げてみせると、娘はきゃ、と小さな声を上げて慌てて走り去っていく。
 ドレスを派手に蹴散らしていく後ろ姿を微笑のまま見送って、相手が木立の向こうへ消えるとアシャは一気に下着も脱ぎ落とした。がしがしと乱暴に頭をかきむしりながら、一転して笑みを消し、そのまま湖の中へ入っていく。
 足先を浸した水は痺れるほど冷たい。構わずに踏み込み、少し先の岩棚からざぶりと前方に倒れ込むように水に体を沈める。急速に体温が奪われる、目を閉じたまま息を止めて沈み込む、まるで石像になったように。まもなく、とん、と軽く当たった水底は、手を伸ばしたあたりでもう一段深くなる。
 薄く目を開けて固まった腕を伸ばし、岩棚を掴んで下を覗き込むと、水は色を深めながら底へ底へと緩やかに流れ落ちていく。じっとしているつもりなのに、じわじわと底の砂とともに引き攫われていきそうな感覚、冷えて透明な水が重さを増して水底で流れを作っているのが水面からは見えないから、知らずに水遊びをしようとした者が時に引き込まれて還れなくなる。
 ゆらめく金髪、見かけよりは筋肉のついた腕に煌めく陽光、ゆっくり瞬きしていると物憂い疲れが体を覆う。
 少し迷ったが、そのままぐいと身を翻して戻り、凍えた手足を無理矢理引き起こして立ち上がった。
「……」
 ざぶざぶっと体を滑って零れ落ちる水、光を跳ねる肩に濡れた髪が張り付いている。数々の闘いを繰り返してきた割りにはあまり傷が残っていない滑らかな胸から腹を、数々の美女が愛しんでくれたものだが。
「あいつは……無理だな」
 ユーノが触れてくれるまでにはどれぐらいの時間が必要なのだろう。
 それとも、そんな機会など永遠に来ないのだろうか。
 自分の体をじっくり見下ろしながら、そこに寄り添うユーノを思い浮かべてみる。見上げてくる顔は上気しているだろう、呼吸を喘がせて甘い瞳になっているだろう、だが、そこから先の想像がどうにも繋がらない。
 所詮この体も、所謂『ラズーン』においては。
「……ちっ」
 アシャは小さく舌打ちして向きを変えた。太陽を浴びて体を乾かしながら、岸辺へと歩く。
 ユーノとの先を思いつけない理由はわかっている。今まで出会ったどんな女性とも違う振る舞いをするだろう、そう思うからだ。
 ユーノはアシャの美貌に揺らがない。アシャの視線に蕩けない。アシャの囁きに身を委ねてこない。
 普通なら甘やかに優しく誘えば堕ちるところを、逆に詰られ攻撃されかねない。距離をとって別れをほのめかせば切り捨てられかねない。友人のままで付き合おうとすれば、本当にそれだけで終わってしまいかねない。
 風に吹かれて熱を奪われていくのに、それに歯向かうように体が熱を帯びていく。
 欲しい。
 もっと近い場所で強い絆で深い関係を結びたい。
 だが、しかし。
 アシャはゆっくり俯いた。
 それは、為していいことだろうか。
「為していいこと、か」
 女性との関係をこんな風に考えたのは初めてかもしれない、とアシャは思った。
 自分の容姿に魅かれてくる女は後を断たない。それを時には利用もしたし、支えられてきたこともある。けれど、そこに一生をかけて繋がっていたいという願いを重ねなかったのは、それらがアシャの外見によるものだとわかっているからだ。そして、アシャの外見は普通の人間と同じではない、成り立つところからが既に違う。ある意味では魅かれても当然、計算ずくの幻に憧れているだけだとわかっているからだ。
 今まで納得はしなくても諦観はしていたつもりだったが、ユーノと向き合ってその存在を欲しいと思う今、急に自分の拠って立つ意味が気になる。
「そうか…」
 ユーノはおそらく特殊な『銀の王族』で、それはこの二百年祭のために準備された存在なのだ。ユーノがその苦痛を受け取るのは『ラズーン』の切なる祈りを満たすためで、その祈りとアシャは直結している。言わば、ユーノの苦難はアシャの存在を支えるものでもある。
 だからこそ、ユーノを苦しませたくないと思う気持ちはアシャに自分の存在の意味を疑わせ問いかけさせる。捨て去ったはずの場所や忘れたはずの地位を甦らせる。世界を担う男が、世界を支える小さな一片である少女に、確かにその価値があるものなのかと問われている。
「だから俺はこれほど…」
 ユーノの苦痛が苦しく、それに価しないかもしれないと自分で自分を追い詰めてしまうのか。
「なるほどな」
 では、このユーノへの思いは本当に彼女を望んでのものだろうか、それとも自分の価値を脅かされないために負い目を軽くしようとしている、それだけのものだろうか。
「……」
 ゆっくり濡れた髪をかきあげた瞬間、ふ、と側の茂みでうろたえて引く気配がした。
「誰だ!」
 誰何と同時に岸辺に放置した衣服と短剣を掴み、羽織りながら飛びかかる。
 さっきの少女かそれとも好き者のうっとうしい野郎どもか。
 苛立った気持ちそのままに、茂みの中へ消え去ろうとする相手の手首を握って、一気に引き倒してのしかかり。
「っ、あ!」
「…え…?」
 体の下に倒れていたのは大きく目を見開いたユーノだった。
 
「遅いですね」
 ナストの不安そうな声に、そうだね、と応じてユーノは湖の方向を眺めた。
「やっぱり無理なんじゃ…」
「大丈夫だって……でも、ちょっと見てくるね」
「はい…」
 ナストに笑ってユーノは湖に向かう。
「アシャーっ?」
 呼んでみたが返事はない。
「どこへ行ったんだろ」
 きょろきょろ周囲を見回していると、ふいに慌てた様子でばたばたと走ってくる娘に出くわした。顔は真っ赤、それでも気になる様子で何度も湖の方を振り返っている。
「っ!」
 振り向いた矢先、ユーノと視線があって、娘はなおも赤くなった。
「?」
「あ、あの、私、あの、『ラズーン』の神が降りられたのかと」
 慌ただしく呟いて急ぎ足に立ち去っていく。
「『ラズーン』の神……?……ああ」
 ひょっとしてそれは、とユーノは思い当たった。
 初めてアシャを見たとき、あの煌めく瞳を見たとき、ユーノも思った、『ラズーン』の性別のない神とはこういう存在なのではないかと。
 娘の駆けてきた方向に向かっていくと、岸辺に向かって胸近くまで細長い草が茂っている。微かに道がついているのは何度もここを通う者がいるということ、ひょっとすると湖に何かを捨て去る決まった場所になっているのかもしれない。
 ゆっくり草をかき分け、どうにかこうにか湖の端に顔を出せる、そうほっとして踏み出そうとしたとたん、ざぶりと水を跳ねて起き上がった姿があった。
 金色の髪に水滴が光を放って砕け散る。きららかな日差しを集めて眩い飛沫を艶やかな肩から零れ落とす。整った体つきはまるで特別に作られた彫像のようだ。水に体温を奪われたのか、微かに緊張していた肌が陽光を浴びてみるみるふわりと緩む気配は甘やかで美しい。一瞬何かを考えるように俯いていたが、
「ちっ」
 鋭い舌打ちをしてどんどん岸辺へ歩いてくる、その姿は一糸まとわぬ全裸で。
「わ…」
 まずい、と思ったのに、体がじんと痺れて動けなくなった。
 濡れた髪が雫を滴らせて揺れる。瞬きしている睫毛からも水滴は落ちる。微かに開いた口は何かを呟いているが、次第に赤みを取り戻していく唇は蕾から花開く鮮やかな花弁を思わせる。無駄がないのにしっかりと存在感のある胸板、そのまま引き絞られるような曲線を辿れば張りつめた腹と大胆に動く脚があって。
「……っっ」
 体が熱くなってユーノは唇を噛んで必死に顔を背けた。ここにいちゃいけない、そう意識ではわかっているのに、体が震えて言うことを聞かない。
(バカっ、動けっ)
 泣きそうになって何とか力が抜けた体を引き起こして逃げようとした矢先、
「誰だ!」「っ!」
 舌打ちよりもきつい声が飛んできたと思う間もなく、立ち上がりかけた右手を掴まれ、振りほどく間もなく一気に引き出され押し倒された。
「っ、あ!」
 どすっ、と体の上に重くて熱い衝撃、目を見開いて見上げればそこに呆気にとられたアシャの顔がある。
 右手を掴まれているだけではない、いつの間にか喉もとに突きつけられた短剣、しかも左手と体はアシャの膝と脚で目一杯地面に張りつけられていて。
(動けない)
 アシャがこちらの気配に始めから気づいていたとは思えない。少なくとも湖の中では裸で、最も無防備だったはずなのに、今自由を奪われ命の瀬戸際に断たされているのは、明らかにユーノだ。
(普通の反応速度じゃない)
 だが、ぞくりと震えてしまったのはそれだけではない、まだ半分濡れたままのアシャが体に巻き付けているのは上着一枚、前も碌にあわせていないと気づいたからだ。
「ユーノ…」
「ユーノ、じゃないだろっ!」
 自分の格好のきわどさに自覚がないらしく、きょとんとした顔のアシャに怒鳴った。
「どけっっ!」
「え?」
「どけったらどけっっ! あんまり遅いんで見に来てやったら、なんだよいきなりこれはっっ!」
 こうなったら強気に出たものが勝ちだ。とにかくこの居たたまれない状況を何とかしなくてはならない。
「あ、ああ、悪い、てっきり俺は」
 アシャが苦笑しながら剣を外して体を起こしかけ。
「……」
 そのままユーノを地面に張りつけたまま見下ろしてきた。
「……何やってんだ、さっさとどけよ、重いだろ、アシャ…っ!」
「水浴びしてたんだよな…だから」
「だからっ」
「すまん、お前まで濡れたみたいだ」
 呟きつつ、剣だけを片付け、再びゆっくり体を降ろしてくる。
「アシャ…」
「ほら…」
 ぽた、とアシャの髪から滴った雫が、ユーノの唇に落ちたのは、故意かそれとも偶然か。
「唇も」
 濡れたから。
「拭わないと、な」
「あ…」
 囁く声は低くて優しい。睫毛を伏せて近づいてくる顔、柔らかな熱がじんわりと体を包んでくるのに飲み込まれそうになる。アシャが軽く口を開く。強張った唇に落ちた水滴を吸い取ろうとするように顔を寄せる、次の瞬間、ばさりと合わせていただけの上着がはだけた。
「わあっ」「っ」
 悲鳴を上げたのはユーノ、一瞬怯んだアシャの下で体を捻り顔を腕で覆って叫ぶ。
「バカっ,変態っ、露出狂っ!」
「悪いっ」
 力の限り詰られて、思わずアシャがユーノの上から飛び退いた。
「さっさと服着ろよっ、品性とか恥じらいっていうのはないのかよっっ!」
 引っ掴んだドレスを手に、アシャが近くの木立へ飛び込むまで、ユーノは轟く胸を抱えて必死に踞る。
(熱い、苦しい、息が、詰まりそう)
「ばかっ!」
 ばかばかばかばかばか!!
 叫び続けて熱を逃がさないと、体が揺れた一瞬にめまいがしそうになる。
「……おい……」
 やがて溜め息まじりの声が背後で響いた。
「悪かったって……。そのあたりで許してくれ」
「…ったく、いいかげんにしろよな、大体自覚ってもの…が……」
 振り向いて、ユーノはまたことばを失った。
『ラズーン』におわす神は性別を持たないという。
 あの娘がそれと見まがったのも不思議はない、薄緑の薄物仕立ての衣をまとい、金髪を羽飾りでまとめ、今の騒ぎのせいだろうか、戸惑ったような表情で苦笑しているアシャの姿は、どこから見ても艶やかな女性だ。表情の中に閃く鋭さが微笑をあやうげに見せる。細めた紫の瞳は揺らめいてユーノの視線を捕らえてしまう。
「どうだ、これで?」
 低く掠れた声も女性が誘惑して耳をくすぐる響きに聞こえる、まこと、神々はこの男に性別を越えることを願ったとしか思えない。
「あいかわらず」
 綺麗な男だ。
 綺麗で艶やかで華やかで。
 その相手の側に自分を並べて切なくなった。
 似合うわけがない、今も、そしてこれからも。
 アシャに似合うのはきっと。
 きっと、この姿の側でもやはり同じぐらい光を放つだろう女性で。
 セレドに居ても世界にその噂が響く、皇女レアナ、その人ぐらいで。
「……女っぽいよな!」
 服の汚れを払い、くすくす笑って保証した。
「大丈夫、どこからどう見ても女に見える! ナストがきっと驚くよ」
 アシャなら脱がされかけても女で通るかも。
「………ふぅん」
 てっきり噛みついてくるかと思った相手が目を細めて腕を組んだ。
「なるほど」
「なるほど?」
「じゃあ、今なら不自然じゃないな?」
「は?」
「俺は女だし、お前は男だろ?」
「え?」
「ちょうどいい」
 薄笑いを浮かべてずいずいとアシャが近寄ってきた。
「しゃべり鳥(ライノ)の時のキスを返してもらうか」
「え…っ」
 思わぬ突っ込みにユーノは凍った。
「ん? 何だ? お前は剣士だよな? ちゃんとした剣士が約束を違えるのか?」
「う」
「ひどいわ」
 ふいにアシャは悲しげな表情で両頬に指を伸ばした掌をあてて見せた。肩を寄せ、身を竦め、そうすると男として華奢ではあるがそれなりに筋肉質の体が、一回り小さく見える。
「ユーノったら、そんなに私が嫌いなの?」
「く…」
 気持ち悪い、とはねつけてしまえれば、どれほど楽か。
 大嫌いだと叫べるなら、どんなにすっきりするか。
(ああ、くそ)
 いっそイルファに女装させておけば、好き放題にけなせたものを。回し蹴り一つぐらいお見舞いできたものを。
「名だたるセレドのユーナ・セレディス皇女ともあろう方が、しがない旅人との口約束だからって…」
「アシャ!」
 いい加減にしろ。
 唸ると相手はそのままの格好でくすり、と目を微笑ませた。
「で?」
「してやる。座れ」
「座れ?」
「……このままじゃ無理だろ」
 じろりと相手をねめつける。どれほど女装が似合ったところで、どれほど絶世の美女に見えたって、アシャの方が歴然と背が高い。
「ああ、なるほど」
 アシャはにこやかに微笑んでいそいそと近づいてきた。こぶしを握ってわなわな震えているユーノの前に、片膝をついて腰を落とし、
「はい、どうぞ」
 嫣然とユーノを見上げれば、遠く離れた場所でこそこそとうらやましげに見ていく男も居て。
「……はあ……」
 溜め息をついてがちっとアシャの両肩を掴んだ。
「おい…」
「何だ」
「いや、もうちょっと優しくしてくれても」
「不満だって?」
 相手の両肩を押さえつけるように睨みつければ、アシャはふいと瞳を和らげる。
「……いや……ま…いいか」
「十分だろ」
 で。
「目ぐらい閉じろ」
「閉じるなと言わなかったか?」
「は?…あ」
 それが出会った時のことを揶揄したのだと気づいて、ユーノはこのまま相手の肩を掴んでがくがく揺さぶりたくなった。
「あ……しゃ……」
「すまんすまん、悪かった悪かった」
 ぎりっ、と歯を鳴らす音を響かせれば、ちっとも悪かったと思っていない口調で謝って、アシャはますます楽しげだ。
「じゃあ、どうぞ」
 ゆっくり目を閉じて軽く上向くアシャを見下ろし、ユーノは改めてしみじみと見惚れる。
 長い睫毛、滑らかそうな肌、唇は紅もさしていないのに仄かに明るくて柔らかそうだ。両肩を掴んだ手が緊張に震えるのを堪えながら、そっと目を伏せ口を寄せていく。
(いいんだろうか、いいんだよね)
 これは約束だ、求められた支払いだ、ユーノが向けた渇望ではない、ユーノが奪っていくのではない、差し出されてただ受け取ればいいだけの。
(きっとレアナ姉さまは)
 こうして幾度もアシャから、愛しい相手への恭順として差し出される唇を受け取るのだろう。当然のように、自然なふうに、ユーノみたいにぎごちなくなく、消えてしまいたいほどの困惑ではなく、ただただ当たり前のこととして。
(二度とはない)
 ここでキスを返してしまえば、きっと二度とこんな機会はない。
(逃げ、たら)
 今は無理だと逃げればどうだろう、いつかまた、違う場所で違う形で、誰も傷つけないままに近しい場所に立つことができるのではないか、今のままのユーノでも。
 今にも唇が触れあいそうな位置でユーノはごくりと唾を飲み込んだ。
(でも)
 ふいに脳裏を掠めたのは、闇に蠢く敵の気配。
(違う意味で二度とはないかも)
 たとえば今夜の作戦で、万が一生き延びられなくなったとき、後悔しないか、最後の機会を自分で手放したことを。
(ならば、このままで)
 触れ合うことなく、けれど離れることなく、この距離で、誰より近しい場所で居たい、せめてレアナとの婚姻を見届けるまで。
「……ユーノ……?」
 動かないユーノに業を煮やしたのか、アシャは囁いて目を開いた。太陽の光に眩げに揺れる、鮮やかな紫色の乱舞、金色の睫毛に光が躍る、瞬きしながらきらきらと弾く瞳が、子どものように頼りなく見上げてくる。
「キスを…」
 低い声が響いた。
「俺に……キスを」
「……」
 ねだられて、引き寄せられて、堕ちるように落ち込むように、全ての理性を手放してユーノは相手の頬を包む。満足そうに綻ぶ相手の唇に応じて、吐息から先に届かせた、その瞬間。
「アシャーっ! ユーノーっ! どこにいるーっ!」
 響き渡る蛮声。
「こうしてる間にもアレノがどんなひどい目にあっているかわからんのだぞーっ、おい-っ!」
 瞬時に目が覚めた。慌てて両手を放して飛び退く。唇に感じていた温もりが一気に冷めて、ユーノは全身熱くなった。
「わ…っ、わたし…っ」
「……おい」
「い、イルファ、が!」
 イルファが呼んでるよ、うんっ!
「おい、待て、その前に……!」
 ひきつった顔のアシャがうろたえた顔で立ち上がろうとして、はっとしたように湖を見る。
「何?」
 ただならぬ様子にユーノも急いで視線を転じた。
 水面が視界に入った時、ふいに尖った波が盛り上がったように見えて、数歩湖へ歩み寄る。覗き込もうとした先の水中を、黒く濁った大きな影がゆらりと身を翻したようにも見えた。
「アシャ、あれは…」
「……」
 振り向くと相手は険しい顔で湖を凝視している。ユーノも再び水面へ目をやったが、もうその影の気配はない。
「アシャーっ! ユーノーーっ!」
 一体着替えにどれだけ時間をかけてるんだ、お前達は!
 まもなくどたどたとイルファが足音荒く駆け寄ってきた。
「準備はもう………おお! なかなかだな、アシャ!」
 さっそくアシャを見つけたイルファが嬉しそうに大手を広げて近寄ってくる。
「今までで一番美人だぞ!」
「アレノはいいのか」
 極寒の囚人牢を思わせる冷たさでアシャが言い放ってくるりと身を翻した。ユーノを振り向きもしないで、さっさと離れていく。
「いやもちろん、アレノは別だ! なんだお前、嫉妬してるのか、大丈夫だぞ、お前はいい友人だぞ!」
 イルファが慌てて後を追っていくのを、ちらりと振り返ったアシャが、一瞬イルファを見るのと同じぐらい冷ややかな視線でこちらを見やった気がして、ユーノはどきりとした。
(嫌われた?)
 自分の行動を思い返してひやりとしたものが広がってくる。
「ああ……」
 約束をしただけなのに。ユーノを望んでのキスじゃなかったのに。お礼だけのはずなのに、つい、アシャに魅せられてふらふらと。
「どう、しよ…」
 ひょっとして、自分の目の中にアシャへの欲望が透けていたのではないか。
「しまった…」
 口を押さえてももう遅い。大事な相手の妹だから、付き人だからという範疇を、ユーノが越えそうになっているのに、アシャが気づいたのかもしれない。
「しまった、なぁ…」
 急いで二人の後を追いながら、くしゃくしゃと顔を歪める。
「近づいちゃ……だめなんだ…」
 心が零れ落ちてしまうから。 
「近づくだけでも……だめなんだ……」
 滲みそうになる涙を必死に振り払って、ユーノはきつく唇を噛んで駆け出した。

 
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