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2.闇の巫女達(2)
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小さな悲鳴が漏れたが慌てたように呑み込まれたのも道理、立ち上がった水を破って現れたのは異形の怪物だった。
「ひ…」
誰かが鋭く息を引く。
「や…」
半泣きになった掠れ声、聞き咎めたように怪物はゆっくりと体を捻り、こちらを振り向いた。ざぶっ、と怪物の腹の辺りで水が砕け、娘達が真っ青になって腰を浮かせる。
(ガジェス!)
アシャは強く眉根を寄せた。
(まさかこんなものまで復活しているとは)
アシャの背丈の三倍はある。魚のえらから下の部分を長く長く引き延ばしたような体躯、その末端には折れ曲がった枯れ木と見える足がある。
えらの下に小さな、やはり干涸びて曲がった木の枝に似た尖った爪のある手が二対、顔は魚に似て、平べったい顎の上に鈍く光る金の目が一対。頭頂部から背中へ、逆立ってとげとげした背びれが続き、短い尾までびっしり黒い鱗に覆われている。
(まずい)
十分に育って、しかも餓えているガジェスは生きた人間の温かな血を好む。太古生物の中でも凶暴な種類だ。
「ちっ」
急いで周囲を見回して、恐怖に動けなくなっている娘達に舌打ちしたアシャの耳に、
「湖の神よ!」
玉座の女が上ずった喜びの声を響かせるのが届いた。
「我らはあなたに仕えております、我らの全てはあなたのものです、今その証拠をお目にかけます!」
壇上に居た娘達四人がいきなり駆け下りてきて、手近の娘達の腕を掴んだ。
「…ひっ」
何をされるのか察したらしい娘二人が自分達を捕まえた相手に両手を振り回し足を踏ん張り、力の限り抵抗した。
「い、やあっっ」
(く、そ)
勝算はともかく出るしかない。アシャが身構えた矢先、ふいにばらばらと黒づくめの男達が現れぎょっとした。
(カザド?)
「な、なにっ」
「誰、何なの…っ」
戸口からなだれ込んできて、壁に沿って娘達を囲い込むように展開したのは確かにカザド兵、一斉に剣を抜き放って威嚇する。そのうち二人が、抵抗する娘達の側に駆け寄り、迷うことなく剣先を向け、娘達が凍った。
(カザドが『運命(リマイン)』と結んだだと?)
『運命(リマイン)』と組む末路がわかっているとは思えない暴挙、だがあの欲望に満ちた王ならありえると言えばありえるが。
(愚かなことを)
だが、この先、目先の利益に気を取られて『運命(リマイン)』に組する輩はもっと現れるだろう。
「いや…いや………いや…っ」
「誰か……お願い……お…お願い……っっ!」
引き立てられていく娘が残った娘達に懇願を向けるが、誰がどうできるわけもない。むしろ、いずれは自分もああなるのだ、そう証されるような恐怖にある者は顔を背け踞り、ある者は既に泣き崩れつつある。
「ええい、うるさい! 静かにさせなさい!」
「はい!」
四人の娘達が顔を引き攣らせながら二人の娘の両頬を代わる代わる打った。乾いた容赦ない音が響き、ぐったりとした娘達が引きずられるように水盤へ押し出される。
見下ろしたガジェスががばり、と口を開いた。気配に顔を上げた娘達が見入られたように身動きしないのに、ゆっくりと身を屈めて覗き込む。開いた口からぼたぼたと腐臭漂う液体が滴り落ち、娘の頬を濡らした次の瞬間、
「ぎゃっ!」
思わぬ素早さで伸びたガジェスの手が娘達を掴み上げた。そのまま一気に握り込む。
「ぎゃあああっ」
激痛に痙攣する娘の体から紅の飛沫が散る。なおも食い込むガジェスの爪がぎちぎちと娘を握り締める。
「ぐふ……ぅ…」
静まり返った広間に呻き声が弱々しく響いた。
「あ、ぁ」
アシャの隣の娘が揺らめき、縋りつくように身を寄せてくる。淡々と支え返しながら、アシャは静かに事態を見守る。
ガジェスは手に掴んだ二人を、じっくりと顔を近づけ眺めた。金色の目に捕らえられ、それでも痛みに気を失うことも叶わない娘達が歯を鳴らしながらガジェスを見返す。
居並ぶ娘達の喉も渇き切っているのだろう、声を上げる者もない。
しばらく気に入りのおもちゃを見定めるように、ガジェスは鈍く光る目で二人の娘を見比べていたが、やがて飽きてしまったように片方をぐしゃり、と握り潰した。
「いやああああっっっ!!」
真横で原型をとどめぬまでに弾けた姿に、残った娘が引き裂かれたような悲鳴を上げた。頓着した様子もなく、二人の娘をしっかり両手で握りしめつつ、ガジェスは再び水中に戻り始める。
「ひどい…」
「なんてこと…」
溜め息のような声を漏らした娘達はお互いにすがりつくように抱き合っている。半狂乱で叫び続ける娘は天を仰ぎ、身もがきし、そのたびに真紅の粒を滴らせながら、水盤の奥、ガジェスの闇の住処へ引きずり込まれていく。
「もう…いや……ぁ…っ」
娘達がすすり泣きながら耳を押さえる。誰もがみな、自分の向かう未来に怯え切っている。泣き声をかき消すような悲痛な娘の悲鳴が、がぼがぼと響く恐ろしい水音とともに広間を満たしていく。
「消えて消えて消えて…」
隣の娘が全身震えて踞りながら恐ろしい祈りを捧げている、その意味を考えることもなく。
「、あ!」
やがて、響き続けていた悲鳴は唐突に消えた。
沈黙。
娘達は誰も顔を上げない。
静まり返った広間に、響くのはただ、眠たげな水音だけ。
たぽ。たぽ。と、ぷん。
「は…っ…ぁ」
零れた吐息を漏らして、どさり、と崩れた娘が居る。だが、誰も面倒を見ようとしない。娘達はただ座り惚けている。
「お前達は湖の神に受け入れられた」
玉座の前で髪の毛を振り乱し興奮に酔い痴れた顔で立っていた大巫女が、感情のこもらない声で申し渡した。
居並ぶ娘達が虚ろな顔で見上げる。魂の抜けたような表情で、頬に涙の跡を伝わらせながら、今見た光景を忘れようとでもするように、きつく目を閉じて項垂れる。
「後ほど、また、神のお召しがあるだろう」
びくりと娘達が震えたのを、女は嬉しそうに見やった。
「部屋にて修行に精進し、休むがよい」
白い上衣を翻し、大巫女は玉座の前から歩み去っていく。
座り込んで動けなくなった娘達を壁際に控えていたカザド兵が下卑た表情で追い立てながら立ち上がらせた。廊下へ連れ出していく者も居るが、一物ありげな顔で娘に囁きつつ、どこかへ連れていこうとする者も居る。さしづめ、恐怖で我を失った相手をいいようにしようという目論みなのだろう。崩れた娘は早々に二人のカザド兵に連れ去られていく。
「下衆には下衆が寄り集まる、か」
アシャは衣の裾でさりげなく口元を隠して俯きつつ、周囲の娘に紛れ込むように身を縮めて立ち上がった。
(ガジェスの贄として娘達を集めていたのか)
よろめく隣の娘を支えるふりで、覗き込もうとするカザド兵をやり過ごす。
(おまけにカザドまで噛んでいる)
どうする。
足下の確かなアシャに寄りかかるような娘を隠れ蓑に、廊下に出て引き立てられつつ頭を働かせる。
(さすがに俺一人じゃ厳しい)
これだけの兵士に『運命(リマイン)』、それにガジェス相手にやり合うなら、アシャも手加減などしていられない。ラズーンのアシャここにあり、と大声で怒鳴るような闘い方になってしまう。へたをすれば、『野戦部隊(シーガリオン)』や『泉の狩人(オーミノ)』の出動を要請する慌て者も出てくるかもしれない。
(どうも俺はユーノがらみは緩くなる)
今回は特に事前情報収集が甘かった。自分一人で入れば何とでもなる、手早く動けばユーノが入る前に始末がつけられると過信したのがこの有様だ。
(どうする?)
既にユーノ達は動いている。このままではユーノをみすみすカザドにくれてやるようなことになりかねない。
(それともいっそ)
一気にカタをつけてしまうか?
(最悪ユーノやナスト達あたりが無事ならいいわけだ)
怪しげな神殿の一つや二つ消えたところで、噂が『野戦部隊(シーガリオン)』や『泉の狩人(オーミノ)』に届く前に終わってしまっていれば、巷に漂う与太話としてそのうち消えてしまうだろう、と物騒なことを考えたとたん、
「おい! お前はここだ!」
ふいに怒鳴られ押されて、アシャは我に返った。あ、と慌ててよろめいた振りで小部屋の扉の中へ入り込む。
なるほど、牢屋に見えたのも静まり返っていたのも無理もない。ガジェスの贄にするべく、逃げる覇気さえ奪われた娘達が小部屋に押し込まれているのだろう。
背後でばたりと扉が閉まり、部屋の中ではっとしたように先客が立ち上がるのが見えた。華奢な骨格、白い粗末な服、不安そうにそそけだった顔をこちらに向ける。
(レアナ? いや……違う)
「あの…」
瞬きする瞳を見返して気づいた。
(そうか、この娘がマノーダか)
なるほど、レアナに似ている。顔かたちというより発する気配の柔らかさが余計にそう思わせるのかもしれない。
「あなた、マノーダ?」
「え?」
名乗っていないのに名前を呼ばれて、相手は警戒した顔になった。
「あなたは…?」
「私はアーシャ……ごめんなさい、驚かせて。実はナストに頼まれてきたの」
「ナストから?」
「しっ……。そう、あなたを助けてくれるように、と」
「ナストが」
マノーダが花開くように笑って、レアナの笑みを思い起こさせた、そして。
『なってほしいよ、誰かのためにも』
なぜか切なげに響くユーノの声。
『姉さまを大事に想う人のためにも、さ』
(レアナを大事に想う人のため)
あの声は、まるで愛しい相手を語るようだった、と思い出した。
(一体誰だ?)
胸の奥が甘く疼く。
(ユーノがあそこまで幸福を願う相手とは)
『……アシャには、わからないよ』
挑むような鋭い怒り。
『アシャには絶対わからないっ』
アシャにはわからない、レアナを大事に想う誰かが居て。
(ひょっとして)
ユーノもまた、その誰か、を大事に想っているのだろうか。
脳裏を掠めたセレド皇宮での日々、そういう男は居ただろうかと思い返すが、レアナは皆に公平に優しく、誰かを特別扱いしている様子はなかった。
(それとも)
裏では公認されているような相手が密かに居て。
(そいつをユーノも好きだったとか)
だからセレドを離れることにしたのだろうか?
自分が全てを引き受けてセレドを旅立ったのも、レアナはもとより、その男を守るためでもあった、とか?
(誰だ?)
「ナストは無事だったんですね?」
「え、ええ」
思わず険しく眉を寄せたとたん、マノーダに問われて我に返った。
「あなたのことを大変心配していますわ」
「そうですか……でも」
マノーダは顔を曇らせた。
「あなたも儀式を見たでしょう? あんな怪物が居て……たくさんの兵士が居て……とても逃げ出すなんて無理です」
さすがに姉のために神殿に乗り込むような娘、儀式を見ても気力が尽きることはなかったらしいが、脱出策は思い浮かばなかったようだ。
「大丈夫」
アシャはにっこり笑った
「私には仲間がいますし、誰も彼も腕が立ちますよ」
「でも…私一人じゃいけないわ。アレノ姉さまを放っていくなんて」
「ああ……ではアレノはどこに?」
「どこかの部屋に閉じ込められているはずなんです。金色の髪をしていて……あなたに少し似ているわ」
「じゃあアレノも助けなくてはね」
そうのんびりもしてられないわね、何とか隙を見つけましょう。
呟いたとたん、がたり、と背後の扉が開いた。
「おい!」
殺気立った声が響き渡る。
「そこの女! こっちを向け!」
これはこれは。
にんまりとアシャは目を細めた。
あっちから隙が来てくれたようだ。
「…何か御用でしょうか?」
「こっちを向けと言ってるんだ!」
カザド兵らしい怒鳴り声が不安を含んで響き渡る。
「どうもお前を見たことがあるぞ!」
「あら」
アレノが驚いた顔でアシャを見上げるのに、安心させるように小さく笑ってみせる。
(レス、届くか?)
儀式の最中は周囲にも目を配れなかっただろうから、もう既にレスファートはアシャの気配を追って潜入を開始しているだろう。
(始めるぞ)
幾つもの壁と通路を越えて、闇から忍び入ってくる相手に意識を送る。
「私と会ったことがある?」
微笑みながら振り向いた。間抜けな男の背後の扉は、女二人と高をくくっているのか開いたままだ。
「どちらでかしら」
「おい、寄るな」
「キャサラン? モス?」
「寄るなと言ってるだろう、お前、お前のその、紫の目はどうも」
「私の目が」
どうかしまして?
「ぎゃっ!」
首を傾げて目を細め、唇に当てた指を誘うように男に伸ばしたその矢先、翻ったドレスの裾から爪先の一撃で男の脇腹を強襲する。
「おぐ…ううっ…」
「せっかちな方だこと……おやすみなさいませ、っと」
「ぐぶ!」
倒れ込んでアシャの腰にしがみついてくる男の後頭部に肘を落とし、伸びた男から素早く剣を奪って、脱がせた上着で拘束する。
「あ…あなた…あなた」
引き攣った声に振り返ると、マノーダが茫然としていた。
「ひょっとして、おと…」
「あら」
見えた?
にっこり笑って裾を直すとマノーダがますます顔を引き攣らせる。せっかくの助けなのに、ひょっとすると関わらない方がよかったかもしれない、そういう表情で軽く後ずさりした。
「大丈夫よ、ちょっとずれてるかもしれないけれど」
危害は加えないから安心して?
「いえあのそういう意味では…っ」
「曲者だーっ!」
うろたえて弁解しようとするマノーダの声を遮るように怒号が響いた。喧噪が見る見る神殿に広がっていく。
「どうやら仲間が来たようね」
にやりと笑って、剣を片手に開いたドアを指し示す。
「脱出するわよ」
「は、はいっ」
慌てた顔でマノーダが走り寄ってきた。
「ひ…」
誰かが鋭く息を引く。
「や…」
半泣きになった掠れ声、聞き咎めたように怪物はゆっくりと体を捻り、こちらを振り向いた。ざぶっ、と怪物の腹の辺りで水が砕け、娘達が真っ青になって腰を浮かせる。
(ガジェス!)
アシャは強く眉根を寄せた。
(まさかこんなものまで復活しているとは)
アシャの背丈の三倍はある。魚のえらから下の部分を長く長く引き延ばしたような体躯、その末端には折れ曲がった枯れ木と見える足がある。
えらの下に小さな、やはり干涸びて曲がった木の枝に似た尖った爪のある手が二対、顔は魚に似て、平べったい顎の上に鈍く光る金の目が一対。頭頂部から背中へ、逆立ってとげとげした背びれが続き、短い尾までびっしり黒い鱗に覆われている。
(まずい)
十分に育って、しかも餓えているガジェスは生きた人間の温かな血を好む。太古生物の中でも凶暴な種類だ。
「ちっ」
急いで周囲を見回して、恐怖に動けなくなっている娘達に舌打ちしたアシャの耳に、
「湖の神よ!」
玉座の女が上ずった喜びの声を響かせるのが届いた。
「我らはあなたに仕えております、我らの全てはあなたのものです、今その証拠をお目にかけます!」
壇上に居た娘達四人がいきなり駆け下りてきて、手近の娘達の腕を掴んだ。
「…ひっ」
何をされるのか察したらしい娘二人が自分達を捕まえた相手に両手を振り回し足を踏ん張り、力の限り抵抗した。
「い、やあっっ」
(く、そ)
勝算はともかく出るしかない。アシャが身構えた矢先、ふいにばらばらと黒づくめの男達が現れぎょっとした。
(カザド?)
「な、なにっ」
「誰、何なの…っ」
戸口からなだれ込んできて、壁に沿って娘達を囲い込むように展開したのは確かにカザド兵、一斉に剣を抜き放って威嚇する。そのうち二人が、抵抗する娘達の側に駆け寄り、迷うことなく剣先を向け、娘達が凍った。
(カザドが『運命(リマイン)』と結んだだと?)
『運命(リマイン)』と組む末路がわかっているとは思えない暴挙、だがあの欲望に満ちた王ならありえると言えばありえるが。
(愚かなことを)
だが、この先、目先の利益に気を取られて『運命(リマイン)』に組する輩はもっと現れるだろう。
「いや…いや………いや…っ」
「誰か……お願い……お…お願い……っっ!」
引き立てられていく娘が残った娘達に懇願を向けるが、誰がどうできるわけもない。むしろ、いずれは自分もああなるのだ、そう証されるような恐怖にある者は顔を背け踞り、ある者は既に泣き崩れつつある。
「ええい、うるさい! 静かにさせなさい!」
「はい!」
四人の娘達が顔を引き攣らせながら二人の娘の両頬を代わる代わる打った。乾いた容赦ない音が響き、ぐったりとした娘達が引きずられるように水盤へ押し出される。
見下ろしたガジェスががばり、と口を開いた。気配に顔を上げた娘達が見入られたように身動きしないのに、ゆっくりと身を屈めて覗き込む。開いた口からぼたぼたと腐臭漂う液体が滴り落ち、娘の頬を濡らした次の瞬間、
「ぎゃっ!」
思わぬ素早さで伸びたガジェスの手が娘達を掴み上げた。そのまま一気に握り込む。
「ぎゃあああっ」
激痛に痙攣する娘の体から紅の飛沫が散る。なおも食い込むガジェスの爪がぎちぎちと娘を握り締める。
「ぐふ……ぅ…」
静まり返った広間に呻き声が弱々しく響いた。
「あ、ぁ」
アシャの隣の娘が揺らめき、縋りつくように身を寄せてくる。淡々と支え返しながら、アシャは静かに事態を見守る。
ガジェスは手に掴んだ二人を、じっくりと顔を近づけ眺めた。金色の目に捕らえられ、それでも痛みに気を失うことも叶わない娘達が歯を鳴らしながらガジェスを見返す。
居並ぶ娘達の喉も渇き切っているのだろう、声を上げる者もない。
しばらく気に入りのおもちゃを見定めるように、ガジェスは鈍く光る目で二人の娘を見比べていたが、やがて飽きてしまったように片方をぐしゃり、と握り潰した。
「いやああああっっっ!!」
真横で原型をとどめぬまでに弾けた姿に、残った娘が引き裂かれたような悲鳴を上げた。頓着した様子もなく、二人の娘をしっかり両手で握りしめつつ、ガジェスは再び水中に戻り始める。
「ひどい…」
「なんてこと…」
溜め息のような声を漏らした娘達はお互いにすがりつくように抱き合っている。半狂乱で叫び続ける娘は天を仰ぎ、身もがきし、そのたびに真紅の粒を滴らせながら、水盤の奥、ガジェスの闇の住処へ引きずり込まれていく。
「もう…いや……ぁ…っ」
娘達がすすり泣きながら耳を押さえる。誰もがみな、自分の向かう未来に怯え切っている。泣き声をかき消すような悲痛な娘の悲鳴が、がぼがぼと響く恐ろしい水音とともに広間を満たしていく。
「消えて消えて消えて…」
隣の娘が全身震えて踞りながら恐ろしい祈りを捧げている、その意味を考えることもなく。
「、あ!」
やがて、響き続けていた悲鳴は唐突に消えた。
沈黙。
娘達は誰も顔を上げない。
静まり返った広間に、響くのはただ、眠たげな水音だけ。
たぽ。たぽ。と、ぷん。
「は…っ…ぁ」
零れた吐息を漏らして、どさり、と崩れた娘が居る。だが、誰も面倒を見ようとしない。娘達はただ座り惚けている。
「お前達は湖の神に受け入れられた」
玉座の前で髪の毛を振り乱し興奮に酔い痴れた顔で立っていた大巫女が、感情のこもらない声で申し渡した。
居並ぶ娘達が虚ろな顔で見上げる。魂の抜けたような表情で、頬に涙の跡を伝わらせながら、今見た光景を忘れようとでもするように、きつく目を閉じて項垂れる。
「後ほど、また、神のお召しがあるだろう」
びくりと娘達が震えたのを、女は嬉しそうに見やった。
「部屋にて修行に精進し、休むがよい」
白い上衣を翻し、大巫女は玉座の前から歩み去っていく。
座り込んで動けなくなった娘達を壁際に控えていたカザド兵が下卑た表情で追い立てながら立ち上がらせた。廊下へ連れ出していく者も居るが、一物ありげな顔で娘に囁きつつ、どこかへ連れていこうとする者も居る。さしづめ、恐怖で我を失った相手をいいようにしようという目論みなのだろう。崩れた娘は早々に二人のカザド兵に連れ去られていく。
「下衆には下衆が寄り集まる、か」
アシャは衣の裾でさりげなく口元を隠して俯きつつ、周囲の娘に紛れ込むように身を縮めて立ち上がった。
(ガジェスの贄として娘達を集めていたのか)
よろめく隣の娘を支えるふりで、覗き込もうとするカザド兵をやり過ごす。
(おまけにカザドまで噛んでいる)
どうする。
足下の確かなアシャに寄りかかるような娘を隠れ蓑に、廊下に出て引き立てられつつ頭を働かせる。
(さすがに俺一人じゃ厳しい)
これだけの兵士に『運命(リマイン)』、それにガジェス相手にやり合うなら、アシャも手加減などしていられない。ラズーンのアシャここにあり、と大声で怒鳴るような闘い方になってしまう。へたをすれば、『野戦部隊(シーガリオン)』や『泉の狩人(オーミノ)』の出動を要請する慌て者も出てくるかもしれない。
(どうも俺はユーノがらみは緩くなる)
今回は特に事前情報収集が甘かった。自分一人で入れば何とでもなる、手早く動けばユーノが入る前に始末がつけられると過信したのがこの有様だ。
(どうする?)
既にユーノ達は動いている。このままではユーノをみすみすカザドにくれてやるようなことになりかねない。
(それともいっそ)
一気にカタをつけてしまうか?
(最悪ユーノやナスト達あたりが無事ならいいわけだ)
怪しげな神殿の一つや二つ消えたところで、噂が『野戦部隊(シーガリオン)』や『泉の狩人(オーミノ)』に届く前に終わってしまっていれば、巷に漂う与太話としてそのうち消えてしまうだろう、と物騒なことを考えたとたん、
「おい! お前はここだ!」
ふいに怒鳴られ押されて、アシャは我に返った。あ、と慌ててよろめいた振りで小部屋の扉の中へ入り込む。
なるほど、牢屋に見えたのも静まり返っていたのも無理もない。ガジェスの贄にするべく、逃げる覇気さえ奪われた娘達が小部屋に押し込まれているのだろう。
背後でばたりと扉が閉まり、部屋の中ではっとしたように先客が立ち上がるのが見えた。華奢な骨格、白い粗末な服、不安そうにそそけだった顔をこちらに向ける。
(レアナ? いや……違う)
「あの…」
瞬きする瞳を見返して気づいた。
(そうか、この娘がマノーダか)
なるほど、レアナに似ている。顔かたちというより発する気配の柔らかさが余計にそう思わせるのかもしれない。
「あなた、マノーダ?」
「え?」
名乗っていないのに名前を呼ばれて、相手は警戒した顔になった。
「あなたは…?」
「私はアーシャ……ごめんなさい、驚かせて。実はナストに頼まれてきたの」
「ナストから?」
「しっ……。そう、あなたを助けてくれるように、と」
「ナストが」
マノーダが花開くように笑って、レアナの笑みを思い起こさせた、そして。
『なってほしいよ、誰かのためにも』
なぜか切なげに響くユーノの声。
『姉さまを大事に想う人のためにも、さ』
(レアナを大事に想う人のため)
あの声は、まるで愛しい相手を語るようだった、と思い出した。
(一体誰だ?)
胸の奥が甘く疼く。
(ユーノがあそこまで幸福を願う相手とは)
『……アシャには、わからないよ』
挑むような鋭い怒り。
『アシャには絶対わからないっ』
アシャにはわからない、レアナを大事に想う誰かが居て。
(ひょっとして)
ユーノもまた、その誰か、を大事に想っているのだろうか。
脳裏を掠めたセレド皇宮での日々、そういう男は居ただろうかと思い返すが、レアナは皆に公平に優しく、誰かを特別扱いしている様子はなかった。
(それとも)
裏では公認されているような相手が密かに居て。
(そいつをユーノも好きだったとか)
だからセレドを離れることにしたのだろうか?
自分が全てを引き受けてセレドを旅立ったのも、レアナはもとより、その男を守るためでもあった、とか?
(誰だ?)
「ナストは無事だったんですね?」
「え、ええ」
思わず険しく眉を寄せたとたん、マノーダに問われて我に返った。
「あなたのことを大変心配していますわ」
「そうですか……でも」
マノーダは顔を曇らせた。
「あなたも儀式を見たでしょう? あんな怪物が居て……たくさんの兵士が居て……とても逃げ出すなんて無理です」
さすがに姉のために神殿に乗り込むような娘、儀式を見ても気力が尽きることはなかったらしいが、脱出策は思い浮かばなかったようだ。
「大丈夫」
アシャはにっこり笑った
「私には仲間がいますし、誰も彼も腕が立ちますよ」
「でも…私一人じゃいけないわ。アレノ姉さまを放っていくなんて」
「ああ……ではアレノはどこに?」
「どこかの部屋に閉じ込められているはずなんです。金色の髪をしていて……あなたに少し似ているわ」
「じゃあアレノも助けなくてはね」
そうのんびりもしてられないわね、何とか隙を見つけましょう。
呟いたとたん、がたり、と背後の扉が開いた。
「おい!」
殺気立った声が響き渡る。
「そこの女! こっちを向け!」
これはこれは。
にんまりとアシャは目を細めた。
あっちから隙が来てくれたようだ。
「…何か御用でしょうか?」
「こっちを向けと言ってるんだ!」
カザド兵らしい怒鳴り声が不安を含んで響き渡る。
「どうもお前を見たことがあるぞ!」
「あら」
アレノが驚いた顔でアシャを見上げるのに、安心させるように小さく笑ってみせる。
(レス、届くか?)
儀式の最中は周囲にも目を配れなかっただろうから、もう既にレスファートはアシャの気配を追って潜入を開始しているだろう。
(始めるぞ)
幾つもの壁と通路を越えて、闇から忍び入ってくる相手に意識を送る。
「私と会ったことがある?」
微笑みながら振り向いた。間抜けな男の背後の扉は、女二人と高をくくっているのか開いたままだ。
「どちらでかしら」
「おい、寄るな」
「キャサラン? モス?」
「寄るなと言ってるだろう、お前、お前のその、紫の目はどうも」
「私の目が」
どうかしまして?
「ぎゃっ!」
首を傾げて目を細め、唇に当てた指を誘うように男に伸ばしたその矢先、翻ったドレスの裾から爪先の一撃で男の脇腹を強襲する。
「おぐ…ううっ…」
「せっかちな方だこと……おやすみなさいませ、っと」
「ぐぶ!」
倒れ込んでアシャの腰にしがみついてくる男の後頭部に肘を落とし、伸びた男から素早く剣を奪って、脱がせた上着で拘束する。
「あ…あなた…あなた」
引き攣った声に振り返ると、マノーダが茫然としていた。
「ひょっとして、おと…」
「あら」
見えた?
にっこり笑って裾を直すとマノーダがますます顔を引き攣らせる。せっかくの助けなのに、ひょっとすると関わらない方がよかったかもしれない、そういう表情で軽く後ずさりした。
「大丈夫よ、ちょっとずれてるかもしれないけれど」
危害は加えないから安心して?
「いえあのそういう意味では…っ」
「曲者だーっ!」
うろたえて弁解しようとするマノーダの声を遮るように怒号が響いた。喧噪が見る見る神殿に広がっていく。
「どうやら仲間が来たようね」
にやりと笑って、剣を片手に開いたドアを指し示す。
「脱出するわよ」
「は、はいっ」
慌てた顔でマノーダが走り寄ってきた。
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この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
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