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2.闇の巫女達(3)
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「レスッ!」
鈍い打撃音を響かせ、襲い掛かってきた兵士を倒し、ユーノは必死に周囲を見回す。
(カザドの奴らが居るなんて!)
込み上げる怒りは『運命(リマイン)』に組みした相手の非道さと、自分に追っ手を引きつけることでセレドを守れると考えた自分の浅はかさの両方にだ。
(またここで、大事な仲間を巻き込んでいる……!)
「レスッ! どこにいるっ!」
見る間に押し寄せてきたカザド兵の中を、一筋の閃光のように切り抜けながら、レスファートの姿を探し求める。
「ナスト! レスファート…ッ!」
ユーノ達が神殿に忍び込んだのは、つい先ほどだ。ずっとアシャの位置を感覚で追いかけていたレスファートが、アシャが動かなくなった、と告げて、おそらくはどこかの部屋に落ち着いたのだろうと判断した。
忍び込んだのはナストが示した、建物の横手にある小さな扉。
表で迎えるほどではない、あるいは表で迎えたくない客人用にと作られたそれは、今ではほとんど利用されていなかったらしく、イルファが隙間から剣を差し入れ数回激しく揺さぶると、がたりと掛けがねが外れた。
そのまま闇にまぎれて入り込み、レスファートが時々目を閉じてアシャの位置を確かめるのに従って奥へ進んだ。
迷路のような回廊の、重要な分岐には見張りの女が立っていたが、いずれも命じられて立っていただけらしく、ユーノがアシャ直伝の当て身で眠らせるだけで済んだ。
カザド兵に気づいたのは神殿の中央ほどまで来た時だ。
神殿の暗い廊下を我がもの顔に三々五々、時に巫女志願と思われる娘を乱暴に抱え込み引きずりながらのし歩く黒づくめの兵士達。よもやこんな処にいるはずもない姿、しかもその背後に、禍々しくも妖しい闇の影。
(カザドが『運命(リマイン)』と組んだのか!)
カザドの方は『運命(リマイン)』を利用するつもりだったのかもしれないが、たびたび『運命(リマイン)』に向き合ってきたユーノにはその思い込みの愚かさに背骨の付け根が縮こまっていくような想いになる。いずれは乗っ取られ、人としての意識を食い尽くされていく、そういう相手を御せると考えるとは。
一瞬立ち竦んだユーノの気配が届いたのか、今しも手近の部屋に娘を押し込み消えようとしたカザド兵の一人が、何かに呼ばれたように振り向いた。闇に見を潜めているユーノの視線に射抜かれ、息を呑みたじろぐ。
その瞬間、ユーノは床を蹴った。抜き放った剣を懐から一閃、右肩から首へ向けて体重を乗せ、一気に切り降ろす。声を千切らせた相手が扉に倒れ込み、中から響く悲鳴と一緒に床に沈む。
直前、男の背後から暗い影が走り去った。同時に遠くで「曲者だーっ!」と呼ばわる叫び、『運命(リマイン)』を通じて侵入は既に気づかれたのだろう、気づけばイルファは既にその場におらず、前方遥かにアレノの名前を連呼しながら突進していく。
「イルファ! おい、待て!」
「アーレノーッ!」
「ちぃっ」
恋する男は岩をもくり貫く、そう言った昔の賢人はたいしたものですね。
あっけにとられて呟いたナストが小さな悲鳴を上げたのに振り向けば、レスファートと共に押し寄せてきたカザド兵に呑み込まれていく。はっとして駆けつけようとしたユーノと二人の間に、あちらこちらの部屋から溢れた兵が入り込み、見る見る人波の向こうに消えていく姿に焦りが募った。
「く、そっ!」
過信していた、油断していた、そんなことは重々わかった、だから今は一刻も早く二人の元へ辿りつかせてほしい。
苛立ちながら次々兵士を倒して進むと、
「きゃああーっ」
か細い悲鳴が喧噪をくぐり抜けてきた。
「そっちか!」
目の前の一人を倒した向こう、回廊が数本集まった小さな広間の壁際に、追い詰められたナストとその背中に庇われながらアクアマリンの瞳を大きく見開いているレスファートの姿を見て取る。
「レスッ! ナストッ!」
右から切り掛かるカザド兵の腹を蹴り付けながら剣を翻し、左のカザド兵の手首を掻き切る。
「ぎゃ!」「ぐぁっ!」
倒れる二人の間を走り抜け、
「邪魔するなっ!」
前方を塞ごうとした兵士を一喝、怯んだ瞬間体を縮めて懐へ飛び込み、剣の柄で鳩尾を殴りつけ、勢いに戻る剣で背後から迫っていた男を貫く。思わぬ急襲に後から崩れてきた相手の顎を左のこぶしで叩き上げつつ剣を抜き、鳩尾を突かれてよろめいた男が気を取り直して前からかかってきたのを薙ぎ払った。
(ゆっくり右へ、円を描いて脚を上げ、爪先は次の敵へ叩き込む)
アシャのことばが過熱した頭に清涼な水のように広がる。ことばに導かれるまま、覚えた動きを速度を上げてなぞれば、あっという間に周囲に空間ができた。
「は、ぁっ!」
体を回す、切っ先を左に持ち替えた剣で受け、右手の甲で相手の肘を跳ね上げる。腕を引き寄せ、慌てたように腕を戻す相手の懐に入り込んで身を縮め、相手の右脇へすり抜けると同時に左から来た敵の踏み込んだ膝を蹴る。驚いた顔で体勢を崩した相手の手首には右手に移した剣を見舞う。
「がっ」「ぎゃっ」
「く、そっ!」
「手強いぞ!」
弾かれたように跳ね飛ぶ兵士、周囲が悔しげに距離を取る。
「あっちの男はどうした!」
「止めろ、奥へ向かってる!」
ユーノに向かうよりはイルファの方が倒しやすいと思い直したのか、うろたえたように数人が向きを変え、見る間に包囲が緩んでいく。
「ユーノ!」
ようやくできた隙を狙って、レスファートがナストの後から走り出してしがみついてきた。
「お…まえ…」
吹っ飛んだ男が低く呻いて半身を起こした。レスファートを押しのけ右手に無造作に剣を下げて近づくユーノを見上げ、それでも反撃はできないと見てとったのだろう、再びぐずぐずと体を沈めながら、濁った眼で問いかけてくる。
「その…戦い方は……なんだ…?」
「戦い方?」
ユーノは眉を寄せた。見かけの華奢さを裏切るユーノの剣に屠られたくはないと思ったのだろう、奥へ向かうイルファを制する方がいいと格好の理由をつけて、あっという間に周囲から姿を消した兵達を、用心深く見送りながら、転がったカザド兵を見下ろす。
「その……戦い方は……っ」
ごぶり、と突然相手が真っ黒な液体を吐いてぎょっとした。
元は血、だったのではないだろうか。
ところどころに紅の色は残っているが、焦げ腐ったような臭いをたてながらカザド兵の口から溢れ落ちる液体は、見るとぐしゃぐしゃになった髪を濡らして耳からも滴っているばかりか、瞳の中にもひたひたと薄赤く続いて見る見る黒く滲み出していく。
「ひ…」
レスファートが小さく息を引いたのも道理、ユーノの剣が裂いていないはずの男の体の下からもどろどろとした液体が広がり始めている。
「お…ぺの……もの…」
「オペ?」
ユーノははっとした。
「オペの戦い方だというのか!」
思わず覗き込み、腐臭に一瞬吐きそうになりながら、ことばを押し出した。
「オペとは、視察官、のことだな? お前は何か知ってるのか!」
視察官がラズーンへの忠誠を見定めるものとは想像がつく、だがその視察官たる存在は国々で王族を集めて回っている。
「なぜ……お前が……金のオーラも持っていない………『銀の王族』の……お前がなぜ…」
「金のオーラ?」
「『銀の王族』…?」
ユーノのことばを追うように、レスファートが繰り返す。
「『視察官(オペ)』は金のオーラ、を持っているのか?」
ユーノは重ねて尋ねた。
確かに、アシャは黄金の髪を持っている、黄金の気配を持っている、黄金の容姿を持っている。
だがしかし、金色のオーラなどは見たことがない。
賢者が深遠なる知恵をこらすとき、その姿の周囲を淡く輝く銀色の靄のようなものが取り囲む、手には触れないが精神が生み出す力の場、それがオーラだと聞いたことはあるが。
「賢者を包むようなものか?」
賢者が真理を見えない世界から持ち帰るために、あのオーラを出す、ならば金のオーラとは一体何を起こすのか?
「教えろ、視察官(オペ)とは、本当は何をしているんだ?」
尋ねて気づく、自分がそれにずっと引っ掛かっていたことを。
「視察官(オペ)は何をしてるんだ? いや」
ラズーンは今、何をしようとしている?
(ああ、そうだ)
セレドを出たときは単なる忠誠の遣いだと思っていた。世界の動乱も感じていなかったわけではない、使者の言い分はもっともだと思っていた。
だが、旅を続けるに従って、次々現れる太古生物、急に寂れた街や魔物(パルーク)が跳梁する場所など、異変の徴候がそこかしこに見受けられ、ユーノが考えていたよりもずっと危うく世界は変化しているのがわかってきた。
その最中に、招集と呼ぶに近い、あちらこちらから集められていく人々がいる。これは一体何なのだ? どういう意味があるのだ? 一体ユーノは、ラズーンで何をすることになるのだ?
(きっとアシャは知ってる)
『何か』を詳しく知っている。
だからこそ、時折深く考え込み、旅を早くに急がせようともするのだ、人々をラズーンへ導く視察官(オペ)として。
「ラズーン……ラズーンか…」
だが、男の耳にはもうユーノのことばは届いていないようだった。薄赤く染まった眼球を虚ろに空中に彷徨わせ、悪夢にうなされているように、切れ切れの呟きを漏らし続ける。
「ラズーン……ラズーンよ……二百年の平和は終わるぞ……これを逃し……我らに勝機はない……みていろ……見ているがいい………我らは……我らは………必ずやこの世界を………愚かな平和に……眠る世界を………握り潰し……」
にやりと男の顔が大きく歪んだ。剥き出された歯がずるりと歯茎から抜け落ちるのに、レスファートが悲鳴を上げる。
「我ら……『運命(リマイン)』…が……全てを………掌中に………ぃ…お…さ…げぇ………」
男がのろのろ動かした手首から肉が融け落ちた。ぼたぼたと黒く粘りつく液体になって、脚に滴り、その脚も衣服の内側で形を無くしていくのだろう、どろどろと足首あたりから融解していく。
「い、やぁああっ!」
「見るな、レスっ!」
飛びついてきたレスファートを庇うユーノも震えていた。目の前で溶け落ちていく男はまるで一気に風化していく死体のようだ。皮が崩れ肉が流れ、白く残るはずの骨も黒くて鈍く光る棒杭が組み合わさったような姿を一瞬見せただけで、ぐしゃりぐしゃりと壊れ流れ落ちていく。
「う…ぁあ…」
ナストが口を押さえて壁際に走り、しかしそこでもまた、転がった死体が同様に得体の知れない腐臭漂う液体になっていく様にぶつかって、真っ青になって飛び退いて戻ってくる。
「く…」
思わず口元を袖口で覆い、周囲を見渡せば、倒した敵、先ほどまで傷みに呻いていたはずの命ある肉体が、まるで最後の繋ぎを引き抜かれたように次々崩れ落ちている。
「ひどい……ひどい、よぉっ!」
レスファートがもがきながら喚いた。
「ひどいひどいひどいっ!」
こんなのあんまりだ、てきだけど、あんまりだ! みんなみんなこわがってる、こころのそこでこわがってる!!
「とけるって! とけたくないって! たすけてって…っっ!」
レスファートの悲鳴に、心を切り離せ、と少年を抱え込みつつ、ふと、それらの液化していく死体の上にもやもやと固まっていく黒い煙のようなものをユーノは見咎めた。
「あれは…」
ユーノの呟きに、それ、がゆらりと向きを変えた。
「……お前……」
相手もユーノを認めたのだろう、じりじりと次第に人の形を取っていく。
「ナスト…」
「は…はぃ」
頼りなく応じ、ぐぅ、と喉を鳴らしつつ近寄ってきたナストに、ユーノはそっとレスファートを押しやった。少年を追うように、黒い塊が揺れるのに両者の間に立ちはだかる。
レスファートは格好の獲物になってしまうかもしれない。心を開き、共感しやすい、『運命(リマイン)』の好む依代の器として。
「ユーノ…」
「レスを連れて……神殿の奥へ……アシャに合流して…」
囁くように命じる。
「で…でも」
「いいね」
ぴしりと決めつけた。
イルファは当てにならない。こいつをここで足止めしなくては、次はレスファートがあの融け崩れた死体になるかもしれない。
「し…しかし、あなたは…」
「ボクはこいつを引き止める」
面白い。
黒い塊は薄く嗤ったようにユーノに向き直った。密度を高めつつ、じりじりと距離を詰めてくる。
「ユーノ! だめ! こいつ、強いよ!」
「だろう、な」
冷えた声で応えて、ユーノは剣を抜いた。不意打ちは効かない。こけおどしは意味がない。
「行くんだ、ナスト」
「は、はい」
「ユーノ!」
「レス、アシャを見つけるんだよ!」
そうしなければ、ここから出られないかもしれない。
胸の内で吐いた声をレスファートが聴き取ってくれているといいが。
動き出したナストとレスファートに、そうはさせまいとするように人の影のような形になった黒い塊が動いた。真っ黒な剣が影の内側からいきなり抜き放たれてナストに打ちかかる。寸前、間に体を滑り込ませたユーノが、ナストの肩を削りかけた切っ先をかろうじて受け止める。
ガキッ、と鈍く重い音が響き渡り、衝撃を堪えるように影が止まる。
「へえ、実体なんだ?」
ユーノは相手を睨みつけて嗤った。それから振り返らないまま、
「走れっ、ナストっ!」
「や、ゆ、ゆーの!」
「ごめんよっ!」
ナストが真っ青な顔をして、レスファートを抱え込みながら視界の端を駆ける。
「ユーノ、ユーノ、ユーノぉ!!!」
身もがきしながら叫ぶレスファートに応える余裕はユーノにはなかった。じわじわと剣を押し返されていく。
「姿を……見せろよ…」
そいつは実体じゃないんだろ…?
堪えながら呻くユーノに、黒い影は嘲笑するように再び揺らめいた。剣を構えた手から波に似た揺らめきが伝わっていき、黒い鉄粉が剥がれ落ちていくように、いつか見たことのある姿が現れる。
漆黒の髪が肩から背中に流れている。真紅の瞳はこちらの心を侵すような禍々しさに満ちている。瞳に劣らず赤い唇が、にんまりと笑む。黒づくめの服をぎっちり身にまとっている、のに、その内側には虚ろな空間が感じられ、開いてみても肉体はないかもしれない。
ぎち、と合わせた剣が音をたてた。噛み合った部分から黒い剣がユーノの剣に齧りついてくるようだ。ほてる頬を、弾む息に熱気を吹き上げる体を、粘りつく汗が滑り落ちていく。
「く、ぅ」
剣を両手で支え直してなお、ユーノは押される。
『運命(リマイン)』は眼を細め、満足そうに剣もろともユーノの上にのしかかってくる。
「ばか! ばかばか! ナストのばかぁっ!」
ついにナストの肩に担がれたレスファートが手足をばたばたさせて喚く。
「どうしてっ! どうしてユーノ、放ってきちゃうんだよ!」
身をもがき、ナストの肩からずり落ちそうになりながら、レスファートはなお一層暴れた。
「ユーノ一人じゃ無理だよ!」
しゃくりあげたとたんに、大粒の涙が零れ落ちた。
「あんなばけものに、一人で…っ」
『レス、アシャを見つけるんだよ!』
ユーノの声を思い出して、また涙が溢れる。
「ユーノ、一人で…っ」
そうしなければ、ここから出られないかもしれない。
耳の奥で響いた甘い声は緊迫していた。
アシャを見つけなくては逃げられない、そうユーノは覚悟している。そんな相手をユーノに任せて無力に運ばれているしかない自分が、悲しくてたまらない。
「ユーノが死んじゃったら…っ」
どうするんだよ!
悲痛な声でレスファートは叫ぶ。
力になれない、そんなことはわかっている、けれど力になれなくても一緒にいたい、そうずっと思い続けてきて、今まで側に付き添っていたのに。
「どうするんだよっ、ぼく…っ!!」
剣を与えた、身を捧げると言った、『忠誠』の意味はわからなくても、その行為の意味と重さは知っている。
「ぼくはユーノを、ユーノを…っ」
守るために。
「おかしな、話だが!」
暴れるレスファートによろめきながら、ナストが声を上げた。
「あそこに、いない、方が、いいんだ、きっと!」
「なんでっ!」
「足手まとい、に、なる!」
「っ」
「だま、って!」
角からカザド兵が駆け出してくるのに、ナストが慌ててレスファートを庇って身を潜める。
「あしで……まとい……?」
レスファートは目の前をカザド兵が駆け抜けていくのに、小さく呟いた。
「……ぼくたち……あしで…まといなの…?」
「し…っ」
「ぼく…なにも……できない…の……?」
しばらく周囲を伺っていたナストの服を握り締めると、相手が緊張した顔でそっと振り返った。
「……できるよ」
「え…?」
「君はアシャを見つけられるんだろ?」
「あ…」
「見つけるんだ、できるだけ早く」
そうすれば、彼の元に早く戻れる。
「うん!」
レスファートは大きく頷いた。そのまま、遠い所で鳴っている雷を追うように首を傾げ、アシャの気配を追う。
白い泉、入り交じる光景。
こんとん、って何だっけ…?
アシャの心象はとても難しい。同じようなものを、昔父親はこんとん、そう言わなかったか。
見失わないように必死に絞り込んで、建物の中を追いかける。
「…こっち!」
やがて、レスファートは広い廊下を指差した。
「こっちへ向かって走ってきてる!」
「よし、…っ!」
レスファートが示した方向へ走り出そうとしたナストは、飛び出してきた女にぎょっとした。剣で打ちかかられてかろうじて避け、レスファートを押しのけて女を背後から抱え込み、必死に応戦する。
「く、そ…っ」
女は無表情に跳ね返してくる。ナストの拘束はじりじり抜かれていく。
「先に、行って!」
焦った声でナストが唸った。
「で、でも!」
「っそう、押さえておけない、よ……すごい力だ……っ!」
ナストの腕は今にも振りほどかれそうだ。
「う、うん……、あ!」
泣きそうになりながら、背中を向けて走ろうとしたレスファートははっとした。
近づいてくる強い力の印象、猛々しくて謎めいた、その気配は。
「アシャ!」
「レスかっ!」
振り向いた先、廊下の向こうから二人の女性が近づいてくる。片方の女性がもう一人を引きずるように走り寄る、その姿は光を放つほど眩い美しい女性だが、
「ち、いっ!」
相手は荒々しい舌打ちを花のような唇から一つ漏らした。もう一人の女性を振り回してこちらへ突き放し、立ち止まるや否や、すぐ背後まで迫ってきていた数人の男達に飛び込む。
「アシャ!」
ほっとして叫んだレスファートの前で、薄青の衣が噴水のように吹き上がり翻る中で剣が跳ね回り、たちまち二人、カザド兵が血しぶきを上げて倒れた。無言の攻撃、しかも気合い一つ漏らさないまま、円を描く動きを女性が繰り返していくたびに、床に転がる死体がみるみる増える。
「す、ご…」
ナストもナストが抱えた女性も動きを止めて茫然としている。アシャの凄さはレスファートもよく知っている、だがその圧倒的な力の差は、女性一人を庇いながら、まるで宮中での舞踏会を思わせる鮮やかさ、くるくると身を翻すアシャの腕に時に抱かれ時に導かれ、蒼白な顔さえなければマノーダもまた、自分が修羅場にいると思っていないかもしれない。
「っく!」
ナストがいきなり振り解かれそうになっていた女性を手放した。一瞬止まった相手の動きに、容赦のない一撃を首筋へ、そのままレスファートも放り捨てて、アシャの元にいるマノーダに向かって走り出す。
「マノーダ!」
「、ナストっ!」
名前を呼ばれたマノーダもアシャの側から走り出した。そのまま二人、互いに駆け寄って抱きあう、それを横目に追っ手を倒したアシャがまっすぐレスファートに向かって走ってくる。
「ユーノは?!」
「っ」
その名前はレスファートの胸を貫いた。一気に視界を満たし溢れ落ちた涙のままに、アシャに飛びついていく。
「アシャ……っ!」
「どうしたっ?」
「ユーノが……ユーノが……」
レスファートが必死に事の顛末を語るにつれ、みるみるアシャの顔色が変わった。吊り上がっていく眉も見開かれていく瞳も、ぎらぎらとした殺気に塗り潰されていく。
「イルファはどうしてたんだ!」
「わかんない、アレノを探しに…」
「あの、くそ野郎!!」
アシャの語気の激しさに、再会できたことをひたすら喜んでいたナストとマノーダがうろたえたように振り返った。
「どうしよう、どうしたらいいの、ぼく…っ!」
「……今、イルファはどこにいる?」
猛々しく眉をしかめてアシャが尋ねた。
「イルファ? ユーノは?」
「ユーノは大丈夫だ」
一瞬眼を細めたアシャがひんやりと言い放った。
「あいつは天才だ。それに俺がすぐに追いつく」
だが、万が一、イルファやアレノを庇っていたら、しのぎにくくなる。
「う……ん」
あしでまとい、そのことばが再びレスファートの胸を掠めた。
ぼくも、イルファも、ユーノを助けられないんだ、やっぱり。
レスファートは唇を噛み、泣きそうになりながら眼を閉じ、眉を寄せた。直前にイルファの心象を確かめていない分、位置が捉えにくい。これまでの時間が積み重ねた心象を頼りに神殿の中を探し求める。こぶしを握りしめて集中し、ようやく慣れ親しんだ気配を捕まえた。
「わかったよ、どっか、すごく広い所。広間みたい」
「あんのや…」
その場所がどこかすぐに思いついたらしいアシャが、再びの罵倒をぎりぎり呑み込んだ。
「よりにもよって………こっちに来そうにはないか?」
「だめ、みたい」
レスファートはイルファの側で消えたり現れたりする、もう一つの気配を確かめる。
「だれか、いっしょ……女の人、マノーダににてる」
「アレノか!」
ぎりっとアシャの歯が鳴った。
「ナスト!」
「はいっ!」
慌てて駆け寄ってきた二人に、アシャはてきぱきと指示を下す。
「マノーダを連れて逃げろ! ここをまっすぐ、角を右へ曲がって、その次の角を左に行けば、神殿の入り口に出るはずだ」
「あ……でも、アレノ……」
「イルファが助け出してる。すぐに後を追わせるから、心配するな」
アシャにしてはひどくぶっきらぼうに言い捨て、二人に背を向けてレスファートに向き直る。
「レス、ナストと一緒に…」
「いや!」
聞かずともわかった。あしでまといになるかもしれないということも、十分わかった。それでも、レスファートは大きく首を振った。ナストのことばが頭をよぎる。
「ぼくだけだよ、ユーノのいばしょ、知ってるの」
「…」
アシャが目を細める。紫の瞳が揺らめく炎をたたえていて、まるで平原竜(タロ)と呼ばれる竜族の眼のようだ。冷酷なほど見定める眼差し、それに負けまいと唇を引く。
「ぼくだけだ」
アシャにもユーノの位置は掴めない。辿り着くまでに時間がかかれば、ユーノの危険は倍加する。意地だけでなく、気持ちだけでなく、今ここでレスファートはアシャに従う気にはなれない。
「わかった」
アシャが頷く。
「じゃあ僕達は、逃げ、ます!」
ナストが一瞬苦しそうにことばをとぎらせつつ、それでも一気に言い切って、なお振り返ろうとするマノーダをひきずるように、教えられた出口へ走り出す。
「来い、レス!」
「うんっ!」
まってて、ユーノ、今ぼくが行くから!
身を翻すアシャの足下で、レスファートは全力で走り始める。
鈍い打撃音を響かせ、襲い掛かってきた兵士を倒し、ユーノは必死に周囲を見回す。
(カザドの奴らが居るなんて!)
込み上げる怒りは『運命(リマイン)』に組みした相手の非道さと、自分に追っ手を引きつけることでセレドを守れると考えた自分の浅はかさの両方にだ。
(またここで、大事な仲間を巻き込んでいる……!)
「レスッ! どこにいるっ!」
見る間に押し寄せてきたカザド兵の中を、一筋の閃光のように切り抜けながら、レスファートの姿を探し求める。
「ナスト! レスファート…ッ!」
ユーノ達が神殿に忍び込んだのは、つい先ほどだ。ずっとアシャの位置を感覚で追いかけていたレスファートが、アシャが動かなくなった、と告げて、おそらくはどこかの部屋に落ち着いたのだろうと判断した。
忍び込んだのはナストが示した、建物の横手にある小さな扉。
表で迎えるほどではない、あるいは表で迎えたくない客人用にと作られたそれは、今ではほとんど利用されていなかったらしく、イルファが隙間から剣を差し入れ数回激しく揺さぶると、がたりと掛けがねが外れた。
そのまま闇にまぎれて入り込み、レスファートが時々目を閉じてアシャの位置を確かめるのに従って奥へ進んだ。
迷路のような回廊の、重要な分岐には見張りの女が立っていたが、いずれも命じられて立っていただけらしく、ユーノがアシャ直伝の当て身で眠らせるだけで済んだ。
カザド兵に気づいたのは神殿の中央ほどまで来た時だ。
神殿の暗い廊下を我がもの顔に三々五々、時に巫女志願と思われる娘を乱暴に抱え込み引きずりながらのし歩く黒づくめの兵士達。よもやこんな処にいるはずもない姿、しかもその背後に、禍々しくも妖しい闇の影。
(カザドが『運命(リマイン)』と組んだのか!)
カザドの方は『運命(リマイン)』を利用するつもりだったのかもしれないが、たびたび『運命(リマイン)』に向き合ってきたユーノにはその思い込みの愚かさに背骨の付け根が縮こまっていくような想いになる。いずれは乗っ取られ、人としての意識を食い尽くされていく、そういう相手を御せると考えるとは。
一瞬立ち竦んだユーノの気配が届いたのか、今しも手近の部屋に娘を押し込み消えようとしたカザド兵の一人が、何かに呼ばれたように振り向いた。闇に見を潜めているユーノの視線に射抜かれ、息を呑みたじろぐ。
その瞬間、ユーノは床を蹴った。抜き放った剣を懐から一閃、右肩から首へ向けて体重を乗せ、一気に切り降ろす。声を千切らせた相手が扉に倒れ込み、中から響く悲鳴と一緒に床に沈む。
直前、男の背後から暗い影が走り去った。同時に遠くで「曲者だーっ!」と呼ばわる叫び、『運命(リマイン)』を通じて侵入は既に気づかれたのだろう、気づけばイルファは既にその場におらず、前方遥かにアレノの名前を連呼しながら突進していく。
「イルファ! おい、待て!」
「アーレノーッ!」
「ちぃっ」
恋する男は岩をもくり貫く、そう言った昔の賢人はたいしたものですね。
あっけにとられて呟いたナストが小さな悲鳴を上げたのに振り向けば、レスファートと共に押し寄せてきたカザド兵に呑み込まれていく。はっとして駆けつけようとしたユーノと二人の間に、あちらこちらの部屋から溢れた兵が入り込み、見る見る人波の向こうに消えていく姿に焦りが募った。
「く、そっ!」
過信していた、油断していた、そんなことは重々わかった、だから今は一刻も早く二人の元へ辿りつかせてほしい。
苛立ちながら次々兵士を倒して進むと、
「きゃああーっ」
か細い悲鳴が喧噪をくぐり抜けてきた。
「そっちか!」
目の前の一人を倒した向こう、回廊が数本集まった小さな広間の壁際に、追い詰められたナストとその背中に庇われながらアクアマリンの瞳を大きく見開いているレスファートの姿を見て取る。
「レスッ! ナストッ!」
右から切り掛かるカザド兵の腹を蹴り付けながら剣を翻し、左のカザド兵の手首を掻き切る。
「ぎゃ!」「ぐぁっ!」
倒れる二人の間を走り抜け、
「邪魔するなっ!」
前方を塞ごうとした兵士を一喝、怯んだ瞬間体を縮めて懐へ飛び込み、剣の柄で鳩尾を殴りつけ、勢いに戻る剣で背後から迫っていた男を貫く。思わぬ急襲に後から崩れてきた相手の顎を左のこぶしで叩き上げつつ剣を抜き、鳩尾を突かれてよろめいた男が気を取り直して前からかかってきたのを薙ぎ払った。
(ゆっくり右へ、円を描いて脚を上げ、爪先は次の敵へ叩き込む)
アシャのことばが過熱した頭に清涼な水のように広がる。ことばに導かれるまま、覚えた動きを速度を上げてなぞれば、あっという間に周囲に空間ができた。
「は、ぁっ!」
体を回す、切っ先を左に持ち替えた剣で受け、右手の甲で相手の肘を跳ね上げる。腕を引き寄せ、慌てたように腕を戻す相手の懐に入り込んで身を縮め、相手の右脇へすり抜けると同時に左から来た敵の踏み込んだ膝を蹴る。驚いた顔で体勢を崩した相手の手首には右手に移した剣を見舞う。
「がっ」「ぎゃっ」
「く、そっ!」
「手強いぞ!」
弾かれたように跳ね飛ぶ兵士、周囲が悔しげに距離を取る。
「あっちの男はどうした!」
「止めろ、奥へ向かってる!」
ユーノに向かうよりはイルファの方が倒しやすいと思い直したのか、うろたえたように数人が向きを変え、見る間に包囲が緩んでいく。
「ユーノ!」
ようやくできた隙を狙って、レスファートがナストの後から走り出してしがみついてきた。
「お…まえ…」
吹っ飛んだ男が低く呻いて半身を起こした。レスファートを押しのけ右手に無造作に剣を下げて近づくユーノを見上げ、それでも反撃はできないと見てとったのだろう、再びぐずぐずと体を沈めながら、濁った眼で問いかけてくる。
「その…戦い方は……なんだ…?」
「戦い方?」
ユーノは眉を寄せた。見かけの華奢さを裏切るユーノの剣に屠られたくはないと思ったのだろう、奥へ向かうイルファを制する方がいいと格好の理由をつけて、あっという間に周囲から姿を消した兵達を、用心深く見送りながら、転がったカザド兵を見下ろす。
「その……戦い方は……っ」
ごぶり、と突然相手が真っ黒な液体を吐いてぎょっとした。
元は血、だったのではないだろうか。
ところどころに紅の色は残っているが、焦げ腐ったような臭いをたてながらカザド兵の口から溢れ落ちる液体は、見るとぐしゃぐしゃになった髪を濡らして耳からも滴っているばかりか、瞳の中にもひたひたと薄赤く続いて見る見る黒く滲み出していく。
「ひ…」
レスファートが小さく息を引いたのも道理、ユーノの剣が裂いていないはずの男の体の下からもどろどろとした液体が広がり始めている。
「お…ぺの……もの…」
「オペ?」
ユーノははっとした。
「オペの戦い方だというのか!」
思わず覗き込み、腐臭に一瞬吐きそうになりながら、ことばを押し出した。
「オペとは、視察官、のことだな? お前は何か知ってるのか!」
視察官がラズーンへの忠誠を見定めるものとは想像がつく、だがその視察官たる存在は国々で王族を集めて回っている。
「なぜ……お前が……金のオーラも持っていない………『銀の王族』の……お前がなぜ…」
「金のオーラ?」
「『銀の王族』…?」
ユーノのことばを追うように、レスファートが繰り返す。
「『視察官(オペ)』は金のオーラ、を持っているのか?」
ユーノは重ねて尋ねた。
確かに、アシャは黄金の髪を持っている、黄金の気配を持っている、黄金の容姿を持っている。
だがしかし、金色のオーラなどは見たことがない。
賢者が深遠なる知恵をこらすとき、その姿の周囲を淡く輝く銀色の靄のようなものが取り囲む、手には触れないが精神が生み出す力の場、それがオーラだと聞いたことはあるが。
「賢者を包むようなものか?」
賢者が真理を見えない世界から持ち帰るために、あのオーラを出す、ならば金のオーラとは一体何を起こすのか?
「教えろ、視察官(オペ)とは、本当は何をしているんだ?」
尋ねて気づく、自分がそれにずっと引っ掛かっていたことを。
「視察官(オペ)は何をしてるんだ? いや」
ラズーンは今、何をしようとしている?
(ああ、そうだ)
セレドを出たときは単なる忠誠の遣いだと思っていた。世界の動乱も感じていなかったわけではない、使者の言い分はもっともだと思っていた。
だが、旅を続けるに従って、次々現れる太古生物、急に寂れた街や魔物(パルーク)が跳梁する場所など、異変の徴候がそこかしこに見受けられ、ユーノが考えていたよりもずっと危うく世界は変化しているのがわかってきた。
その最中に、招集と呼ぶに近い、あちらこちらから集められていく人々がいる。これは一体何なのだ? どういう意味があるのだ? 一体ユーノは、ラズーンで何をすることになるのだ?
(きっとアシャは知ってる)
『何か』を詳しく知っている。
だからこそ、時折深く考え込み、旅を早くに急がせようともするのだ、人々をラズーンへ導く視察官(オペ)として。
「ラズーン……ラズーンか…」
だが、男の耳にはもうユーノのことばは届いていないようだった。薄赤く染まった眼球を虚ろに空中に彷徨わせ、悪夢にうなされているように、切れ切れの呟きを漏らし続ける。
「ラズーン……ラズーンよ……二百年の平和は終わるぞ……これを逃し……我らに勝機はない……みていろ……見ているがいい………我らは……我らは………必ずやこの世界を………愚かな平和に……眠る世界を………握り潰し……」
にやりと男の顔が大きく歪んだ。剥き出された歯がずるりと歯茎から抜け落ちるのに、レスファートが悲鳴を上げる。
「我ら……『運命(リマイン)』…が……全てを………掌中に………ぃ…お…さ…げぇ………」
男がのろのろ動かした手首から肉が融け落ちた。ぼたぼたと黒く粘りつく液体になって、脚に滴り、その脚も衣服の内側で形を無くしていくのだろう、どろどろと足首あたりから融解していく。
「い、やぁああっ!」
「見るな、レスっ!」
飛びついてきたレスファートを庇うユーノも震えていた。目の前で溶け落ちていく男はまるで一気に風化していく死体のようだ。皮が崩れ肉が流れ、白く残るはずの骨も黒くて鈍く光る棒杭が組み合わさったような姿を一瞬見せただけで、ぐしゃりぐしゃりと壊れ流れ落ちていく。
「う…ぁあ…」
ナストが口を押さえて壁際に走り、しかしそこでもまた、転がった死体が同様に得体の知れない腐臭漂う液体になっていく様にぶつかって、真っ青になって飛び退いて戻ってくる。
「く…」
思わず口元を袖口で覆い、周囲を見渡せば、倒した敵、先ほどまで傷みに呻いていたはずの命ある肉体が、まるで最後の繋ぎを引き抜かれたように次々崩れ落ちている。
「ひどい……ひどい、よぉっ!」
レスファートがもがきながら喚いた。
「ひどいひどいひどいっ!」
こんなのあんまりだ、てきだけど、あんまりだ! みんなみんなこわがってる、こころのそこでこわがってる!!
「とけるって! とけたくないって! たすけてって…っっ!」
レスファートの悲鳴に、心を切り離せ、と少年を抱え込みつつ、ふと、それらの液化していく死体の上にもやもやと固まっていく黒い煙のようなものをユーノは見咎めた。
「あれは…」
ユーノの呟きに、それ、がゆらりと向きを変えた。
「……お前……」
相手もユーノを認めたのだろう、じりじりと次第に人の形を取っていく。
「ナスト…」
「は…はぃ」
頼りなく応じ、ぐぅ、と喉を鳴らしつつ近寄ってきたナストに、ユーノはそっとレスファートを押しやった。少年を追うように、黒い塊が揺れるのに両者の間に立ちはだかる。
レスファートは格好の獲物になってしまうかもしれない。心を開き、共感しやすい、『運命(リマイン)』の好む依代の器として。
「ユーノ…」
「レスを連れて……神殿の奥へ……アシャに合流して…」
囁くように命じる。
「で…でも」
「いいね」
ぴしりと決めつけた。
イルファは当てにならない。こいつをここで足止めしなくては、次はレスファートがあの融け崩れた死体になるかもしれない。
「し…しかし、あなたは…」
「ボクはこいつを引き止める」
面白い。
黒い塊は薄く嗤ったようにユーノに向き直った。密度を高めつつ、じりじりと距離を詰めてくる。
「ユーノ! だめ! こいつ、強いよ!」
「だろう、な」
冷えた声で応えて、ユーノは剣を抜いた。不意打ちは効かない。こけおどしは意味がない。
「行くんだ、ナスト」
「は、はい」
「ユーノ!」
「レス、アシャを見つけるんだよ!」
そうしなければ、ここから出られないかもしれない。
胸の内で吐いた声をレスファートが聴き取ってくれているといいが。
動き出したナストとレスファートに、そうはさせまいとするように人の影のような形になった黒い塊が動いた。真っ黒な剣が影の内側からいきなり抜き放たれてナストに打ちかかる。寸前、間に体を滑り込ませたユーノが、ナストの肩を削りかけた切っ先をかろうじて受け止める。
ガキッ、と鈍く重い音が響き渡り、衝撃を堪えるように影が止まる。
「へえ、実体なんだ?」
ユーノは相手を睨みつけて嗤った。それから振り返らないまま、
「走れっ、ナストっ!」
「や、ゆ、ゆーの!」
「ごめんよっ!」
ナストが真っ青な顔をして、レスファートを抱え込みながら視界の端を駆ける。
「ユーノ、ユーノ、ユーノぉ!!!」
身もがきしながら叫ぶレスファートに応える余裕はユーノにはなかった。じわじわと剣を押し返されていく。
「姿を……見せろよ…」
そいつは実体じゃないんだろ…?
堪えながら呻くユーノに、黒い影は嘲笑するように再び揺らめいた。剣を構えた手から波に似た揺らめきが伝わっていき、黒い鉄粉が剥がれ落ちていくように、いつか見たことのある姿が現れる。
漆黒の髪が肩から背中に流れている。真紅の瞳はこちらの心を侵すような禍々しさに満ちている。瞳に劣らず赤い唇が、にんまりと笑む。黒づくめの服をぎっちり身にまとっている、のに、その内側には虚ろな空間が感じられ、開いてみても肉体はないかもしれない。
ぎち、と合わせた剣が音をたてた。噛み合った部分から黒い剣がユーノの剣に齧りついてくるようだ。ほてる頬を、弾む息に熱気を吹き上げる体を、粘りつく汗が滑り落ちていく。
「く、ぅ」
剣を両手で支え直してなお、ユーノは押される。
『運命(リマイン)』は眼を細め、満足そうに剣もろともユーノの上にのしかかってくる。
「ばか! ばかばか! ナストのばかぁっ!」
ついにナストの肩に担がれたレスファートが手足をばたばたさせて喚く。
「どうしてっ! どうしてユーノ、放ってきちゃうんだよ!」
身をもがき、ナストの肩からずり落ちそうになりながら、レスファートはなお一層暴れた。
「ユーノ一人じゃ無理だよ!」
しゃくりあげたとたんに、大粒の涙が零れ落ちた。
「あんなばけものに、一人で…っ」
『レス、アシャを見つけるんだよ!』
ユーノの声を思い出して、また涙が溢れる。
「ユーノ、一人で…っ」
そうしなければ、ここから出られないかもしれない。
耳の奥で響いた甘い声は緊迫していた。
アシャを見つけなくては逃げられない、そうユーノは覚悟している。そんな相手をユーノに任せて無力に運ばれているしかない自分が、悲しくてたまらない。
「ユーノが死んじゃったら…っ」
どうするんだよ!
悲痛な声でレスファートは叫ぶ。
力になれない、そんなことはわかっている、けれど力になれなくても一緒にいたい、そうずっと思い続けてきて、今まで側に付き添っていたのに。
「どうするんだよっ、ぼく…っ!!」
剣を与えた、身を捧げると言った、『忠誠』の意味はわからなくても、その行為の意味と重さは知っている。
「ぼくはユーノを、ユーノを…っ」
守るために。
「おかしな、話だが!」
暴れるレスファートによろめきながら、ナストが声を上げた。
「あそこに、いない、方が、いいんだ、きっと!」
「なんでっ!」
「足手まとい、に、なる!」
「っ」
「だま、って!」
角からカザド兵が駆け出してくるのに、ナストが慌ててレスファートを庇って身を潜める。
「あしで……まとい……?」
レスファートは目の前をカザド兵が駆け抜けていくのに、小さく呟いた。
「……ぼくたち……あしで…まといなの…?」
「し…っ」
「ぼく…なにも……できない…の……?」
しばらく周囲を伺っていたナストの服を握り締めると、相手が緊張した顔でそっと振り返った。
「……できるよ」
「え…?」
「君はアシャを見つけられるんだろ?」
「あ…」
「見つけるんだ、できるだけ早く」
そうすれば、彼の元に早く戻れる。
「うん!」
レスファートは大きく頷いた。そのまま、遠い所で鳴っている雷を追うように首を傾げ、アシャの気配を追う。
白い泉、入り交じる光景。
こんとん、って何だっけ…?
アシャの心象はとても難しい。同じようなものを、昔父親はこんとん、そう言わなかったか。
見失わないように必死に絞り込んで、建物の中を追いかける。
「…こっち!」
やがて、レスファートは広い廊下を指差した。
「こっちへ向かって走ってきてる!」
「よし、…っ!」
レスファートが示した方向へ走り出そうとしたナストは、飛び出してきた女にぎょっとした。剣で打ちかかられてかろうじて避け、レスファートを押しのけて女を背後から抱え込み、必死に応戦する。
「く、そ…っ」
女は無表情に跳ね返してくる。ナストの拘束はじりじり抜かれていく。
「先に、行って!」
焦った声でナストが唸った。
「で、でも!」
「っそう、押さえておけない、よ……すごい力だ……っ!」
ナストの腕は今にも振りほどかれそうだ。
「う、うん……、あ!」
泣きそうになりながら、背中を向けて走ろうとしたレスファートははっとした。
近づいてくる強い力の印象、猛々しくて謎めいた、その気配は。
「アシャ!」
「レスかっ!」
振り向いた先、廊下の向こうから二人の女性が近づいてくる。片方の女性がもう一人を引きずるように走り寄る、その姿は光を放つほど眩い美しい女性だが、
「ち、いっ!」
相手は荒々しい舌打ちを花のような唇から一つ漏らした。もう一人の女性を振り回してこちらへ突き放し、立ち止まるや否や、すぐ背後まで迫ってきていた数人の男達に飛び込む。
「アシャ!」
ほっとして叫んだレスファートの前で、薄青の衣が噴水のように吹き上がり翻る中で剣が跳ね回り、たちまち二人、カザド兵が血しぶきを上げて倒れた。無言の攻撃、しかも気合い一つ漏らさないまま、円を描く動きを女性が繰り返していくたびに、床に転がる死体がみるみる増える。
「す、ご…」
ナストもナストが抱えた女性も動きを止めて茫然としている。アシャの凄さはレスファートもよく知っている、だがその圧倒的な力の差は、女性一人を庇いながら、まるで宮中での舞踏会を思わせる鮮やかさ、くるくると身を翻すアシャの腕に時に抱かれ時に導かれ、蒼白な顔さえなければマノーダもまた、自分が修羅場にいると思っていないかもしれない。
「っく!」
ナストがいきなり振り解かれそうになっていた女性を手放した。一瞬止まった相手の動きに、容赦のない一撃を首筋へ、そのままレスファートも放り捨てて、アシャの元にいるマノーダに向かって走り出す。
「マノーダ!」
「、ナストっ!」
名前を呼ばれたマノーダもアシャの側から走り出した。そのまま二人、互いに駆け寄って抱きあう、それを横目に追っ手を倒したアシャがまっすぐレスファートに向かって走ってくる。
「ユーノは?!」
「っ」
その名前はレスファートの胸を貫いた。一気に視界を満たし溢れ落ちた涙のままに、アシャに飛びついていく。
「アシャ……っ!」
「どうしたっ?」
「ユーノが……ユーノが……」
レスファートが必死に事の顛末を語るにつれ、みるみるアシャの顔色が変わった。吊り上がっていく眉も見開かれていく瞳も、ぎらぎらとした殺気に塗り潰されていく。
「イルファはどうしてたんだ!」
「わかんない、アレノを探しに…」
「あの、くそ野郎!!」
アシャの語気の激しさに、再会できたことをひたすら喜んでいたナストとマノーダがうろたえたように振り返った。
「どうしよう、どうしたらいいの、ぼく…っ!」
「……今、イルファはどこにいる?」
猛々しく眉をしかめてアシャが尋ねた。
「イルファ? ユーノは?」
「ユーノは大丈夫だ」
一瞬眼を細めたアシャがひんやりと言い放った。
「あいつは天才だ。それに俺がすぐに追いつく」
だが、万が一、イルファやアレノを庇っていたら、しのぎにくくなる。
「う……ん」
あしでまとい、そのことばが再びレスファートの胸を掠めた。
ぼくも、イルファも、ユーノを助けられないんだ、やっぱり。
レスファートは唇を噛み、泣きそうになりながら眼を閉じ、眉を寄せた。直前にイルファの心象を確かめていない分、位置が捉えにくい。これまでの時間が積み重ねた心象を頼りに神殿の中を探し求める。こぶしを握りしめて集中し、ようやく慣れ親しんだ気配を捕まえた。
「わかったよ、どっか、すごく広い所。広間みたい」
「あんのや…」
その場所がどこかすぐに思いついたらしいアシャが、再びの罵倒をぎりぎり呑み込んだ。
「よりにもよって………こっちに来そうにはないか?」
「だめ、みたい」
レスファートはイルファの側で消えたり現れたりする、もう一つの気配を確かめる。
「だれか、いっしょ……女の人、マノーダににてる」
「アレノか!」
ぎりっとアシャの歯が鳴った。
「ナスト!」
「はいっ!」
慌てて駆け寄ってきた二人に、アシャはてきぱきと指示を下す。
「マノーダを連れて逃げろ! ここをまっすぐ、角を右へ曲がって、その次の角を左に行けば、神殿の入り口に出るはずだ」
「あ……でも、アレノ……」
「イルファが助け出してる。すぐに後を追わせるから、心配するな」
アシャにしてはひどくぶっきらぼうに言い捨て、二人に背を向けてレスファートに向き直る。
「レス、ナストと一緒に…」
「いや!」
聞かずともわかった。あしでまといになるかもしれないということも、十分わかった。それでも、レスファートは大きく首を振った。ナストのことばが頭をよぎる。
「ぼくだけだよ、ユーノのいばしょ、知ってるの」
「…」
アシャが目を細める。紫の瞳が揺らめく炎をたたえていて、まるで平原竜(タロ)と呼ばれる竜族の眼のようだ。冷酷なほど見定める眼差し、それに負けまいと唇を引く。
「ぼくだけだ」
アシャにもユーノの位置は掴めない。辿り着くまでに時間がかかれば、ユーノの危険は倍加する。意地だけでなく、気持ちだけでなく、今ここでレスファートはアシャに従う気にはなれない。
「わかった」
アシャが頷く。
「じゃあ僕達は、逃げ、ます!」
ナストが一瞬苦しそうにことばをとぎらせつつ、それでも一気に言い切って、なお振り返ろうとするマノーダをひきずるように、教えられた出口へ走り出す。
「来い、レス!」
「うんっ!」
まってて、ユーノ、今ぼくが行くから!
身を翻すアシャの足下で、レスファートは全力で走り始める。
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