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3.死闘(1)
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時間は少し遡る。
アシャはナスト達と別れた後、レスファートの手引きで、ユーノと『運命(リマイン)』がぶつかっている場所へと急いでいた。
(頼むから)
俺が行くまで無事でいてくれ。
強く何度も心の中で祈りを繰り返す、ラズーンのアシャともあろうものが。
『運命(リマイン)』は生半可の腕でどうこうできる相手ではない。視察官(オペ)でも熟練した者ではないと逆に屠られることがある。
それもそのはず、『運命(リマイン)』は所謂『ラズーン』の暗部に属する者達だ。こちらの手の内など知り尽くしているし、何より積年耐えに耐えてきた恨みと傷みが拍車をかけている。この世界を破壊してしまいたいという強い願いの前に、命を奪うことや弱さ脆さへのためらいなどあろうはずがない。
(ユーノ)
その殺意の前に今ただ一人身を晒している相手を想い、斬られてもいないのに体が痛む。
「!」
ふいにレスファートが体を強張らせてはっとした。
「どうした!」
「イルファ、が、こっち、くる」
とぎれとぎれに訴えて視線を流した先で、数瞬後に華々しい派手などら声が響き渡った。
「おーらおら、どけどけ! どけよーっ! クソ野郎ども!!」
前方の角を曲がって突進してくるのは、まぎれもなくイルファの姿、しかも腕に荷物のように一人の女を小脇に抱え、さながら重量級の戦車の驀進だ。
「イルファ!」
「おお、アシャか!」
イルファはぱっと顔をほころばせた。
「こいつらをどうにかしてくれ、こうるさくてかなわん!」
「おまえっ…」
追手はカザド兵と巫女達の混合軍、それをぞろぞろ引き連れたままアシャとレスファートの元へ駆け寄ってきたものだから、たちまり辺りが乱戦状態になる。
「きゃ」
「レス!」
巻き込まれて切られかけたレスファートを咄嗟に引き寄せる。
「どうだ、アシャ、これがアレノだ!」
イルファは楽しげに手近の兵をぶち倒しながら、嬉しそうに声を上げる。
「美しいだろう!」
「女の自慢なぞ後にしろ!」
ユーノの安否が気にかかるアシャの気持ちを逆撫でし、全く気づかぬ相手に怒鳴る。
「自分で多少は始末してこようとは思わなかったのか!」
「アレノがいるだろう! 庇ってやらなくては!」
「なら、さっさとどっかへ逃げてしまえ、ユーノが危ないんだぞ!」
「本当か?」
この期に及んでなぜ嘘などつく必要があるのかと首を締め上げたいのを、切り掛かってきた二人を仕留めることで鬱憤をはらした。
「それはまずいな」
今さらのように、イルファもアレノを腕から降ろし、例の赤いリボン付きの大刀を振り回し始める。たちまち数人のカザド兵が吹き飛び、巫女達が座り込み、腰を落とした。
「くそ、手間取った!」
急所を一撃、操り人形の巫女達は当て身で落とし、アシャも次々と追手を倒し、最後の一人を倒すや否や身を翻す。
「あいつはどうしたんだ」
「一人で『運命(リマイン)』を追ったらしい」
「まずいな」
「ああ、まずい」
「あ!」
レスファートがびくりと目を見開いて遠くの彼方を見る。
「ユーノ動き出した!」
「どこへ!」
「こっち!」
「アレノ姉さま!!」
イルファも加え一団となって走り出そうとした矢先、再び近くの通路から飛び出してきた者に立ち止まった。
「マノーダ?!」
泣きながらしがみついてきたが、マノーダは一人だ。
「ナストは?」
「兵達に捕まりそうになって。彼、囮になるって……でも、捕まっちゃったんです!」
「間抜けだな」
それをお前が言うのか、と突っ込みかけたアシャに、再びレスファートが緊迫した声を上げる。
「ユーノ、さっきイルファがいた広間にいる! よくわかんないけど、こまって、る!」
「ナストも広間に連れていかれるな」
アシャは素早く考えをまとめた。
「よし。イルファはレスとアレノを連れてナストを助けてくれ。俺はユーノと『運命(リマイン)』を何とかする」
「わかった!」
広間と言えば、あの魔物(パルーク)と得体の知れない水盤がある。竦みかけた脚を放り出すように、残りを引き連れて広間に向かったのだが。
「ユーノ!」
ナスト奪回はうまくいった。広間の制圧もできる、後は退却だけ、そう踏んだアシャの目の前で、ユーノは振り返り、小さく笑った。
(え?)
ほんの一瞬の表情、甘い曲線を描いた唇が、不思議な穏やかさと切なさをたたえた黒い瞳が、何か言いたげにアシャを見つめ返したと思った次の瞬間には、身を翻して巫女達の中へ、水盤へ向かってまっすぐに走り出す。その先には、ごぼごぼと重苦しい水音をたてて沈んでいこうとする魔物(パルーク)と、掌に載る『運命(リマイン)』の姿。
「馬鹿! ユーノ!」
ぞっとした。
何をする気だ。だが聞かなくても、もう振り返らない背中が、ためらうことなくまっしぐらに進む細い体が、アシャを見る見る置き去っていく。
「ユーノ!!」
自分の声が悲鳴じみている、そう感じた時には、ユーノの体が草の種が弾かれるように見事な弧を描いて、怪物が沈んだどす黒い水の中に消えていた。
(馬鹿な!)
「ぎゃあああ!」
周囲で絶叫が上がった。それまで手傷でおさめていた巫女達を容赦なく切り捨てて走る自分が止められない。魔物(パルーク)が姿を消すと同時に腑抜け同然に座り込んだ者は幸い、たまたまにせよ進路を遮った相手を片端から床に伏す。
「!」
水盤に辿り着いてまた、アシャは自分の頭がぽかりと空白になるのを感じた。
床から水盤へと点々と散る紅の汚点。
(怪我を、している)
ユーノが、怪我をしている。
「どうした、アシャ……おっ」
「これ…血、血だよね、アシャ!」
駆け寄ってきたイルファが唸り、レスファートがうろたえたように見上げてくる。
「ユーノ、けがしてるっ?!」
「ああ、そうだな」
自分の声が異常に平板だった。考える間もなく邪魔な衣服を脱ぎ捨てる。
「何をする気だ」
「この水盤はたぶん湖に繋がってる」
アシャが男だとわかって茫然としているらしいアレノや不安そうに眉を寄せるマノーダを振り返り、
「ナストと一緒にマノーダとアレノを村へ送っていってくれ。湖の方で落ち合えるはずだ。ユーノを助けて、天幕(カサン)に戻る」
そうできればな。
冷徹で理性的な自分が付け加えるのに吐き気がした。
「お、おお、わかった」
どん、とイルファが胸を叩いた。
「アレノのことは任せておいてくれ」
恨めしげにナストがイルファを見やったが、それには構わず、背中を向ける。
「アシャ!」
レスファートがすがりつくように手を掴んできた。アクアマリンの瞳を潤ませながら、必死に訴える。
「ユーノ、どんどん湖の奥へ行ってるみたい、追いつける?」
「任せておけ」
薄く笑った自分がどんな顔をしていたのか、イルファがひくりと顔を凍らせる。
「イルファ、頼むぞ」
「わかった」
「アシャ…」
「大丈夫だ」
今にも泣きそうなレスファートの頭を一つ軽く叩いて、アシャは短めの剣を一振り手にし、底知れない黒い水に飛び込んだ。
一方、ユーノは。
(体が、凍りつきそうだ)
視界はほとんどきかなかった。どす黒く濁った水は、深く重く四肢を縛り体を押さえ込みにかかってくる。深く、なお深く潜っていく、その少し先にあの怪物が居ると気配が知らせる。体のあちこちの傷に水の冷たさがぎりぎりと食い込んで、疲れ切った感覚を呼ぶ甘い眠りに引き込まれずにすんだ。
潜り始めてすぐ、水の抵抗を考えて長剣をおさめ、アシャの短剣だけを手にしていた。手を先に伸ばすと、濁った泥のような水の中で短剣は淡い光を放っている。
(不思議な剣だ)
剣の輝きにアシャの黄金の髪を思い出して安堵し、続いて、水に飛び込む寸前に見たアシャとマノーダの姿を脳裏に甦らせて、胸が痛んだ。
旅を終わらせた暁には見るのだろう。アシャとレアナが寄り添う、同じような光景を。
(幸せに、なって)
苦しい息をなお封じ込めるように唇を噛む。
(他の、誰よりも)
レアナと結ばれれば幸福なのだ。セレドで何度もそう聞いた。レアナを妻にすることは、男にとって至福の喜び、永遠の幸福を意味するのだと。ましてや、アシャがレアナを望み、レアナもまたアシャを望むのなら、そこに傷みのあろうはずもない。
(アシャ)
初めて自分の姿を忘れるほど心を奪われた人。
その幸福以外に何も望まない。
(どうか、どうか)
自分ができることなら、命かけて貫くから。
(幸せに)
固く眼を閉じ祈りを込め、振り切るように、強く唇を噛みしめて、再び眼を開く。
水盤からは微かな流れがあるようで、四肢をゆったりと広げて両手を動かすと、薄闇のような水の中をそれほど苦労することもなく運ばれてきた。自力で泳ぐよりはうんと速く深く潜ることができた様子、それでもかなり息苦しさが増してきたころ、ふいに周囲の雰囲気が静まったのに体を立て直す。
(水が、動かなくなった)
同時にわずかながら周囲に空間が広がり、視界が戻ってくる。
(ひょっとして、ここは)
藍色に霞む水の色に覚えがある。
(忘却の湖?)
水盤の底が湖の中に続いているのだ、そう思った瞬間、前方に黒々とした塊が動いた。はっとする間もなく、『それ』が物凄い勢いで突進してくる。
(っ!)
思いきりぶつかられて、口から漏れた空気が銀の玉となって頭の上の方へ飛び散ったのが見えた。かろうじて腕を交差して受け止めたつもり、それでも水中であることを越えた衝撃に飛ばされ、くるくると体が舞う。乱れる視界の片隅で、突進してきた『もの』の背中にしがみつく、黒い人影を見た気がした。
(『運命(リマイン)』!)
目を見開いたユーノは、叩きつけられる寸前で岩を蹴りつけて向きを変えた。通り過ぎた怪物が滑らかに身を翻し、再び真正面から突っ込んでくる。濁った水の中でも光る眼が、自分をしっかり凝視しているのを感じて、ぞくりとしたのを叱咤する。
(しっかりしろ!)
狙われるのが初めてってわけじゃない、怯えてる間に屠られるぞ。
(く、そ!)
怪物の背に掴まった『運命(リマイン)』の髪が、水流にわらわらと巻き上がっている。怪物とともに押し寄せてくる水圧に肺が押しつぶされそうだ。背後へ押し流されて岩と岩の間に埋め込まれそうになるのを、岩を蹴り直して必死に逃げる。何とか進路から外れたものの、暴れ狂う水流に飛ばされ、どことも知れない場所へ放り出される。
(くう、き)
水面を求めて見回した目と、怪物の金色の目が合った。互いに相手の意志を読み取り、同時に動き出す、ユーノは上へ、怪物はなおその上から行く手を遮ろうとして。必死に岩場をすり抜けて逃げる、急速に明るくなってくる水は、水面が近いことを知らせている。焼け付く肺に僅かでもいい、新しい空気を取り込みたい。
(もう、すこし、もう)
手を伸ばす、指先が一瞬水の皮膜を突き破りそうになる、瞬間、足首を握られた。
(っっ!)
振り向いた視界、いつの間に怪物の背中から離れていたのか、『運命(リマイン)』の冷たい笑いが間近にある。
「っぐ!」
とっさに蹴ろうとしたもう片足を掴まれ、両足をしっかり握られて、突然巨大な岩塊になったように重さを増した相手に、一気に水底へ引きずりこまれる。
「っぁ」
ごぶっ。
ユーノの唇から残り少ない空気が溢れて、彼方の高みへ逃げ去る。
アシャはナスト達と別れた後、レスファートの手引きで、ユーノと『運命(リマイン)』がぶつかっている場所へと急いでいた。
(頼むから)
俺が行くまで無事でいてくれ。
強く何度も心の中で祈りを繰り返す、ラズーンのアシャともあろうものが。
『運命(リマイン)』は生半可の腕でどうこうできる相手ではない。視察官(オペ)でも熟練した者ではないと逆に屠られることがある。
それもそのはず、『運命(リマイン)』は所謂『ラズーン』の暗部に属する者達だ。こちらの手の内など知り尽くしているし、何より積年耐えに耐えてきた恨みと傷みが拍車をかけている。この世界を破壊してしまいたいという強い願いの前に、命を奪うことや弱さ脆さへのためらいなどあろうはずがない。
(ユーノ)
その殺意の前に今ただ一人身を晒している相手を想い、斬られてもいないのに体が痛む。
「!」
ふいにレスファートが体を強張らせてはっとした。
「どうした!」
「イルファ、が、こっち、くる」
とぎれとぎれに訴えて視線を流した先で、数瞬後に華々しい派手などら声が響き渡った。
「おーらおら、どけどけ! どけよーっ! クソ野郎ども!!」
前方の角を曲がって突進してくるのは、まぎれもなくイルファの姿、しかも腕に荷物のように一人の女を小脇に抱え、さながら重量級の戦車の驀進だ。
「イルファ!」
「おお、アシャか!」
イルファはぱっと顔をほころばせた。
「こいつらをどうにかしてくれ、こうるさくてかなわん!」
「おまえっ…」
追手はカザド兵と巫女達の混合軍、それをぞろぞろ引き連れたままアシャとレスファートの元へ駆け寄ってきたものだから、たちまり辺りが乱戦状態になる。
「きゃ」
「レス!」
巻き込まれて切られかけたレスファートを咄嗟に引き寄せる。
「どうだ、アシャ、これがアレノだ!」
イルファは楽しげに手近の兵をぶち倒しながら、嬉しそうに声を上げる。
「美しいだろう!」
「女の自慢なぞ後にしろ!」
ユーノの安否が気にかかるアシャの気持ちを逆撫でし、全く気づかぬ相手に怒鳴る。
「自分で多少は始末してこようとは思わなかったのか!」
「アレノがいるだろう! 庇ってやらなくては!」
「なら、さっさとどっかへ逃げてしまえ、ユーノが危ないんだぞ!」
「本当か?」
この期に及んでなぜ嘘などつく必要があるのかと首を締め上げたいのを、切り掛かってきた二人を仕留めることで鬱憤をはらした。
「それはまずいな」
今さらのように、イルファもアレノを腕から降ろし、例の赤いリボン付きの大刀を振り回し始める。たちまち数人のカザド兵が吹き飛び、巫女達が座り込み、腰を落とした。
「くそ、手間取った!」
急所を一撃、操り人形の巫女達は当て身で落とし、アシャも次々と追手を倒し、最後の一人を倒すや否や身を翻す。
「あいつはどうしたんだ」
「一人で『運命(リマイン)』を追ったらしい」
「まずいな」
「ああ、まずい」
「あ!」
レスファートがびくりと目を見開いて遠くの彼方を見る。
「ユーノ動き出した!」
「どこへ!」
「こっち!」
「アレノ姉さま!!」
イルファも加え一団となって走り出そうとした矢先、再び近くの通路から飛び出してきた者に立ち止まった。
「マノーダ?!」
泣きながらしがみついてきたが、マノーダは一人だ。
「ナストは?」
「兵達に捕まりそうになって。彼、囮になるって……でも、捕まっちゃったんです!」
「間抜けだな」
それをお前が言うのか、と突っ込みかけたアシャに、再びレスファートが緊迫した声を上げる。
「ユーノ、さっきイルファがいた広間にいる! よくわかんないけど、こまって、る!」
「ナストも広間に連れていかれるな」
アシャは素早く考えをまとめた。
「よし。イルファはレスとアレノを連れてナストを助けてくれ。俺はユーノと『運命(リマイン)』を何とかする」
「わかった!」
広間と言えば、あの魔物(パルーク)と得体の知れない水盤がある。竦みかけた脚を放り出すように、残りを引き連れて広間に向かったのだが。
「ユーノ!」
ナスト奪回はうまくいった。広間の制圧もできる、後は退却だけ、そう踏んだアシャの目の前で、ユーノは振り返り、小さく笑った。
(え?)
ほんの一瞬の表情、甘い曲線を描いた唇が、不思議な穏やかさと切なさをたたえた黒い瞳が、何か言いたげにアシャを見つめ返したと思った次の瞬間には、身を翻して巫女達の中へ、水盤へ向かってまっすぐに走り出す。その先には、ごぼごぼと重苦しい水音をたてて沈んでいこうとする魔物(パルーク)と、掌に載る『運命(リマイン)』の姿。
「馬鹿! ユーノ!」
ぞっとした。
何をする気だ。だが聞かなくても、もう振り返らない背中が、ためらうことなくまっしぐらに進む細い体が、アシャを見る見る置き去っていく。
「ユーノ!!」
自分の声が悲鳴じみている、そう感じた時には、ユーノの体が草の種が弾かれるように見事な弧を描いて、怪物が沈んだどす黒い水の中に消えていた。
(馬鹿な!)
「ぎゃあああ!」
周囲で絶叫が上がった。それまで手傷でおさめていた巫女達を容赦なく切り捨てて走る自分が止められない。魔物(パルーク)が姿を消すと同時に腑抜け同然に座り込んだ者は幸い、たまたまにせよ進路を遮った相手を片端から床に伏す。
「!」
水盤に辿り着いてまた、アシャは自分の頭がぽかりと空白になるのを感じた。
床から水盤へと点々と散る紅の汚点。
(怪我を、している)
ユーノが、怪我をしている。
「どうした、アシャ……おっ」
「これ…血、血だよね、アシャ!」
駆け寄ってきたイルファが唸り、レスファートがうろたえたように見上げてくる。
「ユーノ、けがしてるっ?!」
「ああ、そうだな」
自分の声が異常に平板だった。考える間もなく邪魔な衣服を脱ぎ捨てる。
「何をする気だ」
「この水盤はたぶん湖に繋がってる」
アシャが男だとわかって茫然としているらしいアレノや不安そうに眉を寄せるマノーダを振り返り、
「ナストと一緒にマノーダとアレノを村へ送っていってくれ。湖の方で落ち合えるはずだ。ユーノを助けて、天幕(カサン)に戻る」
そうできればな。
冷徹で理性的な自分が付け加えるのに吐き気がした。
「お、おお、わかった」
どん、とイルファが胸を叩いた。
「アレノのことは任せておいてくれ」
恨めしげにナストがイルファを見やったが、それには構わず、背中を向ける。
「アシャ!」
レスファートがすがりつくように手を掴んできた。アクアマリンの瞳を潤ませながら、必死に訴える。
「ユーノ、どんどん湖の奥へ行ってるみたい、追いつける?」
「任せておけ」
薄く笑った自分がどんな顔をしていたのか、イルファがひくりと顔を凍らせる。
「イルファ、頼むぞ」
「わかった」
「アシャ…」
「大丈夫だ」
今にも泣きそうなレスファートの頭を一つ軽く叩いて、アシャは短めの剣を一振り手にし、底知れない黒い水に飛び込んだ。
一方、ユーノは。
(体が、凍りつきそうだ)
視界はほとんどきかなかった。どす黒く濁った水は、深く重く四肢を縛り体を押さえ込みにかかってくる。深く、なお深く潜っていく、その少し先にあの怪物が居ると気配が知らせる。体のあちこちの傷に水の冷たさがぎりぎりと食い込んで、疲れ切った感覚を呼ぶ甘い眠りに引き込まれずにすんだ。
潜り始めてすぐ、水の抵抗を考えて長剣をおさめ、アシャの短剣だけを手にしていた。手を先に伸ばすと、濁った泥のような水の中で短剣は淡い光を放っている。
(不思議な剣だ)
剣の輝きにアシャの黄金の髪を思い出して安堵し、続いて、水に飛び込む寸前に見たアシャとマノーダの姿を脳裏に甦らせて、胸が痛んだ。
旅を終わらせた暁には見るのだろう。アシャとレアナが寄り添う、同じような光景を。
(幸せに、なって)
苦しい息をなお封じ込めるように唇を噛む。
(他の、誰よりも)
レアナと結ばれれば幸福なのだ。セレドで何度もそう聞いた。レアナを妻にすることは、男にとって至福の喜び、永遠の幸福を意味するのだと。ましてや、アシャがレアナを望み、レアナもまたアシャを望むのなら、そこに傷みのあろうはずもない。
(アシャ)
初めて自分の姿を忘れるほど心を奪われた人。
その幸福以外に何も望まない。
(どうか、どうか)
自分ができることなら、命かけて貫くから。
(幸せに)
固く眼を閉じ祈りを込め、振り切るように、強く唇を噛みしめて、再び眼を開く。
水盤からは微かな流れがあるようで、四肢をゆったりと広げて両手を動かすと、薄闇のような水の中をそれほど苦労することもなく運ばれてきた。自力で泳ぐよりはうんと速く深く潜ることができた様子、それでもかなり息苦しさが増してきたころ、ふいに周囲の雰囲気が静まったのに体を立て直す。
(水が、動かなくなった)
同時にわずかながら周囲に空間が広がり、視界が戻ってくる。
(ひょっとして、ここは)
藍色に霞む水の色に覚えがある。
(忘却の湖?)
水盤の底が湖の中に続いているのだ、そう思った瞬間、前方に黒々とした塊が動いた。はっとする間もなく、『それ』が物凄い勢いで突進してくる。
(っ!)
思いきりぶつかられて、口から漏れた空気が銀の玉となって頭の上の方へ飛び散ったのが見えた。かろうじて腕を交差して受け止めたつもり、それでも水中であることを越えた衝撃に飛ばされ、くるくると体が舞う。乱れる視界の片隅で、突進してきた『もの』の背中にしがみつく、黒い人影を見た気がした。
(『運命(リマイン)』!)
目を見開いたユーノは、叩きつけられる寸前で岩を蹴りつけて向きを変えた。通り過ぎた怪物が滑らかに身を翻し、再び真正面から突っ込んでくる。濁った水の中でも光る眼が、自分をしっかり凝視しているのを感じて、ぞくりとしたのを叱咤する。
(しっかりしろ!)
狙われるのが初めてってわけじゃない、怯えてる間に屠られるぞ。
(く、そ!)
怪物の背に掴まった『運命(リマイン)』の髪が、水流にわらわらと巻き上がっている。怪物とともに押し寄せてくる水圧に肺が押しつぶされそうだ。背後へ押し流されて岩と岩の間に埋め込まれそうになるのを、岩を蹴り直して必死に逃げる。何とか進路から外れたものの、暴れ狂う水流に飛ばされ、どことも知れない場所へ放り出される。
(くう、き)
水面を求めて見回した目と、怪物の金色の目が合った。互いに相手の意志を読み取り、同時に動き出す、ユーノは上へ、怪物はなおその上から行く手を遮ろうとして。必死に岩場をすり抜けて逃げる、急速に明るくなってくる水は、水面が近いことを知らせている。焼け付く肺に僅かでもいい、新しい空気を取り込みたい。
(もう、すこし、もう)
手を伸ばす、指先が一瞬水の皮膜を突き破りそうになる、瞬間、足首を握られた。
(っっ!)
振り向いた視界、いつの間に怪物の背中から離れていたのか、『運命(リマイン)』の冷たい笑いが間近にある。
「っぐ!」
とっさに蹴ろうとしたもう片足を掴まれ、両足をしっかり握られて、突然巨大な岩塊になったように重さを増した相手に、一気に水底へ引きずりこまれる。
「っぁ」
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ユーノの唇から残り少ない空気が溢れて、彼方の高みへ逃げ去る。
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