『ラズーン』第二部

segakiyui

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3.死闘(4)

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「よし」
 アシャはようやく溜め息まじりに体を起こした。
 さっきまでひそひそと聴こえていたレスファートとイルファの話し声も聞こえなくなった。暖を取りながら火の番をしてくれるというイルファに甘えたのは、容態が急変した時に清潔な水がいると考えたからだ。
 ユーノは今、全身布と包帯に包まれるような状態で、呼吸を荒げながらぐったりと横になっている。深い傷は薬剤つきのフィルムを使った。熱はあったが、傷からすれば不思議なほどの安定した回復力、いや、それだけではなく。
 ふ、と天幕(カサン)の外に気配が動いた。瞬きし、目を伏せて問う。
「やはり、あなたか」
『そなたの想い人と思うて助けたのではないがな』
 イルファ達と反対の方向から、暗い響きのミネルバの声が戻ってきた。
『まこと、たいした娘よのう。ガジェスの爪に挟まれて息絶えたかと思うておったが、いつの間にやら水面まで浮き上がっておったわ。私がしたのは、そこから岸へ運んだまで、礼には及ぶまいよ』
「いや」
 アシャは静かに首を振った。
「私にとっては百万の礼に値する」
『ほ…ほほ』
 天幕(カサン)の外の気配は、陰鬱な笑い声で応じた。
『まさかのう、「アシャ」から、そのようなことばを聞けるとは思わなんだ。それほど娘が愛しいか』
「……愛しい」
 ふいに、思いが胸に強く激しく広がって、アシャは痛みに眉を潜めた。
『これは又、素直な』
 ミネルバがからかう。苦笑して応じる。
「我ながら不思議に思っている」
『違いない』
 ミネルバはしばらくくつくつと嗤っていたが、唐突に口調を改めた。
『ラズーンの二百年祭は近い。「運命(リマイン)」も本格的に繰り出してこよう。狩りにはよいが、そなた達には辛いな』
「視察官(オペ)の名にかけて、ユーノは無事ラズーンへ送り届けてみせるさ」
『ほう』
 間髪を入れずに答えたアシャにミネルバが冷たく嗤う。
『アシャの名にかければ、その後のことも誓えるだろう。さすればその娘の体も心も思うがままだぞ』
「ミネルバ」
 それをあなたが言うのか、と苦ると、用心深い男だなと返された。
 そのまま気配が消え、辺りは再び静かな夜に戻る。
(体も心も思うがままま)
 ミネルバのことばを頭の中で繰り返しながら、床のユーノを見やる。
「体は、まあ」
 呟いた自分の声の妖しさに居心地悪くなったが、心はどうだろう、とごちてみる。
「無理…かもしれない、だろ」
 我ながら気弱な台詞だ、と溜め息をついたとたん、ユーノが身動きした。
「み…ず…」
「ちょっと待て」
 アシャは壷から水を掬い出し、口に含んだ。熱で意識が朦朧としているユーノの唇に、そっと口づけて水を送る。
 ユーノは何をされているのかわからないらしく、薄く開いた黒い瞳をぼんやり開いて、アシャを見つめ返す。瞳の潤んだ優しさに胸が高く打つ。
「ん…」
 強く口を押し付けて相手の唇を開く。僅かに抵抗しようとしたユーノは、口の中に流れ込んできた水にようやく気づいたのだろう、目を閉じてこくん、と飲み下した。そのまま喉へ流れた潤いを求めて、貪るようにアシャの唇に吸い付いてくる。
(ユーノ)
 これは手当て、気持ちも感情も伴わない緊急措置のようなもの、そう言い聞かせつつ、重ねた柔らかさにアシャもまた目を閉じて夢中になっていく。
(ユーノ)
 いつか互いを求めあい、こんな風に唇を重ねることなどあるのだろうか。その時、ユーノは確かにアシャだと、感じつつ唇を与えてくれるのだろうか、今の自分が口づけているように。
 薄く目を開け、ユーノを眺める。一番近しいものだけが見つめられる距離。動悸が高まる。
 アシャの口から受け取れるだけの水を受け取って、ユーノは静かに口を離した。熱っぽい体をアシャの腕の中に委ねてくる。
「もういいか?」
 問いに微かに首を縦に振る。そのまま、重く息を吐きながら、甦った痛みを堪えるように体を竦めるユーノを、そっと抱えて包み込む。熱を立ち上らせるユーノの体の香りが、腕の中で豊かに熟していくような気がして、とても手放せない。
(もっと欲しがってくれ)
 俺を。俺の全てを。
 口に出せない、状況に不似合いな渇望を胸に押し込めようと目を閉じると、脳裏に蒼白な顔で笑ったユーノの顔が過った。
(すがるような目)
 今にも崩れ落ちそうな、セレド皇宮でほんの一瞬わずか数回、感情を自制し損ねた時のみ揺れた、深くて脆い眼差し。手を差し伸べずにはいられない、その目をユーノはめったに見せようとしない。
(だがもし)
 それを見た者なら、その目に見つめられたなら、魅かれるに違いない、この相手を支えられるのは自分しかいない、そういう自負に煽られて。
(それでも)
 ユーノを支えるのは並大抵の覚悟でも努力でも無理だ、アシャにもわかりつつあった。この気丈な魂は、容易には人の手を受け入れない、想いを、願いを受け止めようとしない。
「あんまり、無茶をしないでくれ」
 無駄だとわかっているが口にした。
「俺の方がどうにかなりそうだ」
 危うい境界を、自覚のないまま越えそうになる。
 胸に頬を預けて、静かな寝息を紡ぎ出した相手を、力の限り抱き締めたくて、必死にこらえながら床に降ろした。

「あ、つ…っ」
 はっ、と呼吸を乱して、ユーノがアシャを見上げてくる。
「痛むか?」
「大丈夫」
 苦しそうに笑う顔に、またこいつは、と苦笑しながら、馬の上から静かにユーノを抱え込んだ。下でユーノの体を差し上げているイルファがぎゅっと力を込めて、びくりとユーノが体を震わせる。
「ねえ、もっとそっとして、おねがいだから」
 レスファートが不安そうに見守る前、イルファは鷹揚に頷きながら、アシャの腕にユーノを任せる。
 ユーノの傷はガジェスにやられた腹部のものがひどかった。天幕(カサン)では十分に回復しきれないだろうと、ナストが自分の家を宿にと勧め、それを有難く受け入れて、ユーノ達は今ナストの家へ移動しようとしている。
「もたれろ。…苦しいのか?」
「ちょ……と……ま……て」
 ユーノはきつく眉をしかめて、一気に膨れ上がった痛みに耐える。体を抱えてくれているアシャの腕の温かさがなければ、激痛に血の気が引きそうだ。
「……ん……いいよ」
「よし」
 苦しかったらすぐに言えよ、そう言って、アシャが馬を進め始めた。振動が一つ一つ堪えるが、ナストの家までは結構な距離があり、車なども碌にないとのことなので仕方がない。
「レス」
「はい!」
 イルファの差し出した手に掴まって、ひらりとレスファートがイルファの馬に乗る。
 乗り手がいないヒストが不満そうに進み出した一行の後から付き従ってくる。
「イルファ……何か……不機嫌…だね」
 痛みから気を逸らせようと、ユーノはアシャを見上げて笑った。
「ああ」
 にやりとしたアシャが、
「実はアレノに恋人がいたことがわかったんだ。お前が寝てる間に天幕(カサン)へ訪ねてきてな。イルファの落胆ぶりときたら、そりゃ大変なものだったぞ」
「あは…そりゃ……かわいそ………つ、っ」
 思わず笑いかけて、ユーノは腹を押さえた。
「……それより、ユーノ」
 馬を進めながら、アシャはふいと前方に逸らせた。
「お前、湖から上がってきた後を覚えていないって?」
「うん…」
 ユーノは目を閉じた。
 体が熱っぽくて、頭の芯が重くてだるい。
 身も凍る湖の中の戦いでユーノが覚えている最後の出来事は、ガジェスに危うく握り潰されかけたことだった。食い込む爪と激痛、流れていく血と…。
 ひやりとした黒い影が体の内側を抜け、まだ湖の中にいるような気がして、慌てて目を開く。自分を見下ろしているアシャの顔が淡く陰になっている。
「まったく?」
「うん」
 どこか納得できない響きでアシャが続ける。
「ほんとうに?」
「この間…目を覚ますまで……ね。……迷惑、かけたんだろう……?」
 あ、と思いついてユーノは謝った。
「手を……わずらわせて……ごめん」
「……いや」
 そうか、とアシャが何とも言えない奇妙な表情になって、溜め息をつく。
「何?」
「いや、何でもない」
 もう一度小さく息をついて、その後はむっつりと黙り込んだまま、馬を進める。
(本当は)
 ユーノは薄ぼんやりとした夢を覚えている。
 内容は詳しく覚えていないが、思い出そうとすると、ふんわりとした安堵が心を温める。
(きっといい夢だったんだ)
 いい夢なのに覚えてないのは惜しいな。
(何かとても、いい夢………アシャが出てきたような、気がするんだけど)
 アシャのすぐ近くに居て、その顔を見て笑っていたような気がする。安心して、気持ちが楽になって、ああ、このままここでずっと居られるといいのに、そう思ったような。
(ふっきろうって考えたのに……情けない)
 唇をそっと噛む。視界の端に抱えてくれているアシャの腕を、頬にしっかりと支えてくれている胸を感じる。
(レアナ姉さまの場所、なのに)
 今はユーノが一人占めにしている。怪我をしているから。身動きできないから。誰に言い訳せずとも、誰に申し開きをしなくても、ただアシャが優しい医術師であるという理由だけで。
(ただ、それだけ)
「っ」
「ん?」
 ふいにこぼれた涙を、とっさにアシャの胸に顔を埋めるようにして隠す。
「どうした?」
「ちょっと」
 光が、まぶしい。
 何もかもあからさまにしてしまう叡智の姿が、太陽の光となって降り注ぐようで。
 これは一瞬の夢だ。
 これは一瞬の幻だ。
 温かな安堵も、優しいいたわりも、本来受け取るべきはレアナ・セレディス、それを忘れないようにしなくては。
「大丈夫か?」
「大丈夫」
 唇を笑ませ、声が震えないように声を張る。
「ボクは、いつも、大丈夫、だ」
「こらこら」
 そういってまた無茶をするんじゃないぞ。
 微かな笑い声に、ほんとそうだね、と呟き返す。
 そのユーノの髪を撫で、風が柔らかく吹き過ぎていった。
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