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10.二つの塔(1)
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「あつ…」
小さく呻いて、ユーノは目を覚ました。
右脇腹に鈍い痛みが澱んでいる。手を伸ばして触れてみると妙な熱っぽさが伝わってきた。
(月獣(ハーン)の傷か)
溜め息をついて目を閉じる。
深夜、人家のほとんどないキャサラン辺境の地。
(まずい……化膿してきたかな)
じんじんと広がってくる痛みと熱にぼんやりしながら考える。
瞼の裏に、ねじり角を額に頂いた輝く月獣(ハーン)の姿が浮かび上がる。闇夜に華やかな金の馬。
(優しい月獣(ハーン))
緑の瞳に限りない優しさと哀しみをたたえた獣。
だからユーノは抵抗できなかった。相手が本当は脆いと知っていた。激しい攻撃はしてこないとわかっていた。けれど、ユーノの一撃で傷ついてしまうほど弱いのだと知らされた。
その月獣(ハーン)を相手にして、ひどく傷めつけてしまいそうで怖かった。
(私なら……慣れている、と)
心の中で誰かがそう呟いて、体から力が抜けて、突っ込んで来る角を避けられなかった。囁く声に心の奥が引き裂かれ、ずたずたにされ、どうして生まれてきてしまったのだろう、そう自らに問わせた。
(どうして…私なんか…生まれてきたんだろう?)
心の声はそう尋ね、答える術を知らずにユーノは逃げ惑った。逃げ込める場所はどこにもなかった。探して探して探し抜いて、ほんの一瞬、月獣(ハーン)の澄んだ冷たい金の光とは違う、日だまりの黄金が閃くのを見つけた。
(アシャ…)
アシャが振り返る。ユーノ、と豊かな響きの声が耳に届く。滲む視界、頬に流れる涙の熱さに身も心も焦がされそうだ。
手を差し伸べて駆け寄ろうとしたユーノは、寸前で立ち竦んだ。そっと両腕を引く。その腕でゆっくり自分の体を抱き締めながら、眉をひそめた。
たぶん、アシャは彼女を受け止めてくれるだろう。抱き締めて慰めてキスしてくれるだろう。
(だから…行けない…動けない…)
唇を噛む。体をなお強く抱き締める。目を閉じる。
(それは、私のものじゃ、ない)
背後に居た月獣(ハーン)の気配が変わった。
振り返るユーノの目に薄紅の絹と淡いピンクの薄物をまといつかせたレアナの姿が映る。
(ああ…姉さま)
レアナは美しく微笑した。優しいレアナ。どこか儚げで、女らしくて、でも芯は強くて……傷つけたくない女性。
声が囁く、お前はレアナの犠牲になっているんだ、と。
馬鹿なことをしているぞ。アシャを好きなんだろう。なのに、みすみすレアナに渡してしまうのかい。それはただの言い訳だろう。アシャもレアナもお前の犠牲に気づきはしない。お前の傷には気づかない。
心の暗闇で、じっとその声に耐えていたユーノの視界に、心配そうなアシャの顔が飛び込んできた。
眉を寄せ、深い紫の目を曇らせ、唇を少し開いて今にも何かを話しかけてきそう姿。
(ア…シャ…)
ユーノは眉根を緩めた。唇の両端を上げ、おどけて笑ってみせる。
(そんな顔、するなよ、アシャ。あなたを悲しませたく…ないんだ)
体をきつく包んでいた腕を解く。開いた空間には寒さだけが入り込んでくる。
(私は誰の犠牲にもなっていない)
誇りが湧き上がる。『はぐれもの』の姿を思い出した。
(お前もそうだろう? 自分で道を選んできたんだ。後悔もしないし、犠牲になったとも思わない)
時がもう一度巡ってくるとしても、やっぱりユーノは同じことをするだろう。
頬に零れ落ちてくる涙が熱い。
(あなたが、大事)
レアナが、セレドが、そして、アシャが。
(あなたを守れさえすればいい)
それがユーノにできる真実の心の証。
「くっ」
ぐうっといきなり押さえつけられたような痛みを感じて目を開けた。甘酸っぱいものが胸に一杯になっていて、目を擦った手が濡れている。
哀しいのではない。寂しいのではない。
ただ切なくて。
どこまでいっても、こういう形でしか生きられない自分が、切なくて。
「は…」
少し苦笑を漏らして息を吐いた。
見上げる空にはまだ満天に星が散っている。
(まだ明けそうにないな…夜中に騒ぎたくない、けど)
それでなくても皆疲れている、『運命(リマイン)』支配下(ロダ)を守り一つなく進まなくてはならない旅路に。イルファでさえ、疲れが見え出しているほどなのに。
(もう少し、我慢すれば)
夜が明けるまで耐えたい、皆の眠りを妨げたくない。
(く、そ)
無意識に右手で草を掴んでいた。傷を押さえた左手の下で、痛みが容赦なく強くなってくる。小刻みな呼吸で激痛を逃がし、強張ってくる体に空気を取り込み、力を抜く。草を離し、のろのろと額を擦った。
汗びっしょりだ。目を覚ますまでに結構痛んでいたのだろう。
「っ」
くらっ、と視界が揺れた。
(ろくなもの、食べてなかったからかな)
ユーノが身に着けていた金細工はあったが、金は人間の居る所で初めて役に立つもの、金だけあっても腹の足しにはならない。レスファートの分を優先させていた付けがとんでもないところで回ってきたようだ。
めまいに呑み込まれそうになって、ユーノは歯を食いしばった。体が硬直する。硬直したまま、闇夜の中へ転げ落ちていく。一瞬閃光のように激痛が走って、思わず口を開いた。
「…っう」
「ユーノ?」
間髪入れずにはっとしたようなアシャの声が響いた。駆け寄ってくる気配に薄目を開ける。
(そうか…今夜はアシャが火の番だった)
「どうした? 苦しいのか?」
覗き込んで来る顔が、胸の中のアシャと同じように心配そうだった。その肩に、いつの間にか白いものが乗っている。
「サマル…カンド…」
「クェア?」
「お前…どこに…っ!」
びくん、とユーノは体を跳ねさせた。貫いていった熱い稲妻に切り裂かれた気がする。
「この…っ、苦しかったら呼べと言っただろうが!」
きつく舌打ちをしたアシャが額に触れ、厳しい顔になった。
「かなり我慢してたな! 俺の名前を忘れたとは言わさん…」
「アシャ…ラズーン…?」
思わず返した答えに、ぴくりとアシャの指先が震えた。
「ラズーン支配下(ロダ)では、アシャ、だ」
吐き捨てる。
「は…」
掠れた笑いを漏らしてユーノは目を閉じた。
(わかって、ないな)
熱っぽさが全身を駆け巡って、意識が霞む。
(その名前は…私には封じられている……呼べないんだ……知らない…だろ)
「おい、ユーノ!」
アシャのうろたえた声が耳元で響いた。体を抱えて起こされ、何とか目を開ける。
「大丈夫か」
「うん……月獣(ハーン)の傷……化膿したのかな……っ」
突然痛みの範囲が広がり、息を呑んでアシャの腕を掴んだ。もたせかけた頭がアシャの胸に当たっていて、早くなっている鼓動を伝えてくる。
「きつそうだな」
心配そうな声、速まる鼓動に少しほっとすると、暗闇が視界を覆う。
「ごめ……気を失い…そう」
耳鳴りがして沈み込みそうになる。
「待ってろ」
アシャが片手でごそごそと荷物を開く気配がした。
「あまり飲まない方がいいんだが」
取り出したのは例の痛み止めだろう、赤ん坊のように唇を開かれ含まされた。必死に呑み込もうとしつつ、目を開くと、アシャが当然のように水を含み、唇を寄せてきてぎょっとする。
「だい、じょぶ、自分で、飲める」
もぐもぐ口を動かして何とか呑み込む。アシャがむくれたような残念そうな顔でユーノを見返し、ごくりと口中の水を呑み込む。
「水は?」
「くれる…?」
水入れを受けとり、何とか口に流し込む。上目遣いにアシャを見ると、濡れた口を無造作に擦る手の甲、捻られてふわりと戻る柔らかな唇の動きに視線が吸いつけられてどきりとした。
(温かな、くだもの、みたい)
ついばみたい、と意識を掠めた欲望に、何を考えてるんだ私は、と慌てて目を逸らせて大きく息を吐く。
「息苦しいのか?」
「ううん、だいじょう…」
言いかけて、ユーノはアシャの胸を押さえた。同時に顔は動かさず視線だけ背後へ送ったアシャが、片方の手を剣に伸ばしてユーノから離れる。同じく、ユーノものろのろと剣に手を滑らせた。
「誰か来る」
「ああ」
草の上を走る人間の気配。一人二人…四人……六人。
ただし、始めの一人は離れているようだ。
(追われている)
目を細めて緊張を高めながら目の前の木立を見つめる。
突っ込んでくる、ほら、そこに。
「はっ!」
木立の間を擦り抜けるようにして飛び込んできた相手は、突然目の前に現れたユーノ達に大きく目を見張って立ち竦んだ。
波打って流れる見事なプラチナブロンド、色があるのかないのか分からぬほど淡いグレイの瞳。整った顔立ちに逆らうようにきつく結ばれていた唇がぽかんと開く。歳の頃、十六、七の子ども子どもした感じが抜けない男だ。
「待てえっ!」
「そこだ!」
背後から浴びせられた声に相手ははっと振り返った。木立の中から飛び出してくる男達の剣を、危うく飛び退いて避ける。持っていた細身の剣で、かろうじて一人の攻撃を食い止める、だがそれほど長くはもたないだろう。
「ユーノ、待て!」
アシャの制止は遅かった。
薬はよく効いた。痛みがずいぶん楽になった。だが、同時にアシャの肌の温度を間近に感じる距離にいるのが限界だった。まだ息が弾むが、それを押して剣を掴み、一気に男と追手の間に飛び込む。
「この、ばかっ!」
背後から叫んだアシャが剣戟に加わる。
「ひけっ、ひけえっ!」
手練二人の加勢に気づいたのだろう、追手の一人が情勢不利と見てとって剣をおさめながら叫んだ。
「覚えてろよ!」
捨て台詞を残して走り去っていく男達のマント姿を見送って、肩で息をしながらユーノも剣をおさめた。せっかく押さえた痛みが倍加して戻り、喘ぎながら片目をつぶる。
「つ、つっ」
「どうかなさったんですか、もしかして今ので何か!」
飛び込んできた男はうろたえたように駆け寄ってきた。
「あ、は、大丈夫、今のじゃなくて、ちょっと古傷が」
「ぼくの城へ来て下さい!」
言い放った相手にユーノは瞬きした。
「今はたいしたもてなしはできませんが、お怪我が治るぐらいまでは」
(どこかの…王子?)
「いや、悪いけど、ボクは急ぐ旅の途中で」
「大変嬉しいね」
いきなりアシャが遮った。
「せっかくのお誘いだ、断るわけにも行くまい。『古傷』が治るまで、喜んで滞在させて頂こう」
「アシャ!」
反論しかけたユーノをひんやりとした瞳が迎え撃つ。
「お前は剣士としてもっと自覚を持つ、と約束したな、ガズラで」
「う」
「一戦やるたびにへたってては、この先の旅なぞできん」
怒りと苛立ちが満ち満ちた険しい声に、さすがに黙る。
「俺も賛成」
ふいに別の声が同意した。振り向く三人の目に、むっくりと体を起こすイルファが映る。
「あの……」
飛び込んで来た男は困惑した顔でユーノを振り向いた。
「お仲間…です、よね?」
「ああ」
ユーノはじろりとイルファを見やった。
「人が闘っているのに、のんびり寝てられる『仲間』だよ」
「だってなあ」
ふああ、と眠そうにイルファはあくびを漏らしながら、
「ユーノとアシャが出てて、相手が六人」
肩を竦めて見せる。
「俺に獲物があたりっこない」
小さく呻いて、ユーノは目を覚ました。
右脇腹に鈍い痛みが澱んでいる。手を伸ばして触れてみると妙な熱っぽさが伝わってきた。
(月獣(ハーン)の傷か)
溜め息をついて目を閉じる。
深夜、人家のほとんどないキャサラン辺境の地。
(まずい……化膿してきたかな)
じんじんと広がってくる痛みと熱にぼんやりしながら考える。
瞼の裏に、ねじり角を額に頂いた輝く月獣(ハーン)の姿が浮かび上がる。闇夜に華やかな金の馬。
(優しい月獣(ハーン))
緑の瞳に限りない優しさと哀しみをたたえた獣。
だからユーノは抵抗できなかった。相手が本当は脆いと知っていた。激しい攻撃はしてこないとわかっていた。けれど、ユーノの一撃で傷ついてしまうほど弱いのだと知らされた。
その月獣(ハーン)を相手にして、ひどく傷めつけてしまいそうで怖かった。
(私なら……慣れている、と)
心の中で誰かがそう呟いて、体から力が抜けて、突っ込んで来る角を避けられなかった。囁く声に心の奥が引き裂かれ、ずたずたにされ、どうして生まれてきてしまったのだろう、そう自らに問わせた。
(どうして…私なんか…生まれてきたんだろう?)
心の声はそう尋ね、答える術を知らずにユーノは逃げ惑った。逃げ込める場所はどこにもなかった。探して探して探し抜いて、ほんの一瞬、月獣(ハーン)の澄んだ冷たい金の光とは違う、日だまりの黄金が閃くのを見つけた。
(アシャ…)
アシャが振り返る。ユーノ、と豊かな響きの声が耳に届く。滲む視界、頬に流れる涙の熱さに身も心も焦がされそうだ。
手を差し伸べて駆け寄ろうとしたユーノは、寸前で立ち竦んだ。そっと両腕を引く。その腕でゆっくり自分の体を抱き締めながら、眉をひそめた。
たぶん、アシャは彼女を受け止めてくれるだろう。抱き締めて慰めてキスしてくれるだろう。
(だから…行けない…動けない…)
唇を噛む。体をなお強く抱き締める。目を閉じる。
(それは、私のものじゃ、ない)
背後に居た月獣(ハーン)の気配が変わった。
振り返るユーノの目に薄紅の絹と淡いピンクの薄物をまといつかせたレアナの姿が映る。
(ああ…姉さま)
レアナは美しく微笑した。優しいレアナ。どこか儚げで、女らしくて、でも芯は強くて……傷つけたくない女性。
声が囁く、お前はレアナの犠牲になっているんだ、と。
馬鹿なことをしているぞ。アシャを好きなんだろう。なのに、みすみすレアナに渡してしまうのかい。それはただの言い訳だろう。アシャもレアナもお前の犠牲に気づきはしない。お前の傷には気づかない。
心の暗闇で、じっとその声に耐えていたユーノの視界に、心配そうなアシャの顔が飛び込んできた。
眉を寄せ、深い紫の目を曇らせ、唇を少し開いて今にも何かを話しかけてきそう姿。
(ア…シャ…)
ユーノは眉根を緩めた。唇の両端を上げ、おどけて笑ってみせる。
(そんな顔、するなよ、アシャ。あなたを悲しませたく…ないんだ)
体をきつく包んでいた腕を解く。開いた空間には寒さだけが入り込んでくる。
(私は誰の犠牲にもなっていない)
誇りが湧き上がる。『はぐれもの』の姿を思い出した。
(お前もそうだろう? 自分で道を選んできたんだ。後悔もしないし、犠牲になったとも思わない)
時がもう一度巡ってくるとしても、やっぱりユーノは同じことをするだろう。
頬に零れ落ちてくる涙が熱い。
(あなたが、大事)
レアナが、セレドが、そして、アシャが。
(あなたを守れさえすればいい)
それがユーノにできる真実の心の証。
「くっ」
ぐうっといきなり押さえつけられたような痛みを感じて目を開けた。甘酸っぱいものが胸に一杯になっていて、目を擦った手が濡れている。
哀しいのではない。寂しいのではない。
ただ切なくて。
どこまでいっても、こういう形でしか生きられない自分が、切なくて。
「は…」
少し苦笑を漏らして息を吐いた。
見上げる空にはまだ満天に星が散っている。
(まだ明けそうにないな…夜中に騒ぎたくない、けど)
それでなくても皆疲れている、『運命(リマイン)』支配下(ロダ)を守り一つなく進まなくてはならない旅路に。イルファでさえ、疲れが見え出しているほどなのに。
(もう少し、我慢すれば)
夜が明けるまで耐えたい、皆の眠りを妨げたくない。
(く、そ)
無意識に右手で草を掴んでいた。傷を押さえた左手の下で、痛みが容赦なく強くなってくる。小刻みな呼吸で激痛を逃がし、強張ってくる体に空気を取り込み、力を抜く。草を離し、のろのろと額を擦った。
汗びっしょりだ。目を覚ますまでに結構痛んでいたのだろう。
「っ」
くらっ、と視界が揺れた。
(ろくなもの、食べてなかったからかな)
ユーノが身に着けていた金細工はあったが、金は人間の居る所で初めて役に立つもの、金だけあっても腹の足しにはならない。レスファートの分を優先させていた付けがとんでもないところで回ってきたようだ。
めまいに呑み込まれそうになって、ユーノは歯を食いしばった。体が硬直する。硬直したまま、闇夜の中へ転げ落ちていく。一瞬閃光のように激痛が走って、思わず口を開いた。
「…っう」
「ユーノ?」
間髪入れずにはっとしたようなアシャの声が響いた。駆け寄ってくる気配に薄目を開ける。
(そうか…今夜はアシャが火の番だった)
「どうした? 苦しいのか?」
覗き込んで来る顔が、胸の中のアシャと同じように心配そうだった。その肩に、いつの間にか白いものが乗っている。
「サマル…カンド…」
「クェア?」
「お前…どこに…っ!」
びくん、とユーノは体を跳ねさせた。貫いていった熱い稲妻に切り裂かれた気がする。
「この…っ、苦しかったら呼べと言っただろうが!」
きつく舌打ちをしたアシャが額に触れ、厳しい顔になった。
「かなり我慢してたな! 俺の名前を忘れたとは言わさん…」
「アシャ…ラズーン…?」
思わず返した答えに、ぴくりとアシャの指先が震えた。
「ラズーン支配下(ロダ)では、アシャ、だ」
吐き捨てる。
「は…」
掠れた笑いを漏らしてユーノは目を閉じた。
(わかって、ないな)
熱っぽさが全身を駆け巡って、意識が霞む。
(その名前は…私には封じられている……呼べないんだ……知らない…だろ)
「おい、ユーノ!」
アシャのうろたえた声が耳元で響いた。体を抱えて起こされ、何とか目を開ける。
「大丈夫か」
「うん……月獣(ハーン)の傷……化膿したのかな……っ」
突然痛みの範囲が広がり、息を呑んでアシャの腕を掴んだ。もたせかけた頭がアシャの胸に当たっていて、早くなっている鼓動を伝えてくる。
「きつそうだな」
心配そうな声、速まる鼓動に少しほっとすると、暗闇が視界を覆う。
「ごめ……気を失い…そう」
耳鳴りがして沈み込みそうになる。
「待ってろ」
アシャが片手でごそごそと荷物を開く気配がした。
「あまり飲まない方がいいんだが」
取り出したのは例の痛み止めだろう、赤ん坊のように唇を開かれ含まされた。必死に呑み込もうとしつつ、目を開くと、アシャが当然のように水を含み、唇を寄せてきてぎょっとする。
「だい、じょぶ、自分で、飲める」
もぐもぐ口を動かして何とか呑み込む。アシャがむくれたような残念そうな顔でユーノを見返し、ごくりと口中の水を呑み込む。
「水は?」
「くれる…?」
水入れを受けとり、何とか口に流し込む。上目遣いにアシャを見ると、濡れた口を無造作に擦る手の甲、捻られてふわりと戻る柔らかな唇の動きに視線が吸いつけられてどきりとした。
(温かな、くだもの、みたい)
ついばみたい、と意識を掠めた欲望に、何を考えてるんだ私は、と慌てて目を逸らせて大きく息を吐く。
「息苦しいのか?」
「ううん、だいじょう…」
言いかけて、ユーノはアシャの胸を押さえた。同時に顔は動かさず視線だけ背後へ送ったアシャが、片方の手を剣に伸ばしてユーノから離れる。同じく、ユーノものろのろと剣に手を滑らせた。
「誰か来る」
「ああ」
草の上を走る人間の気配。一人二人…四人……六人。
ただし、始めの一人は離れているようだ。
(追われている)
目を細めて緊張を高めながら目の前の木立を見つめる。
突っ込んでくる、ほら、そこに。
「はっ!」
木立の間を擦り抜けるようにして飛び込んできた相手は、突然目の前に現れたユーノ達に大きく目を見張って立ち竦んだ。
波打って流れる見事なプラチナブロンド、色があるのかないのか分からぬほど淡いグレイの瞳。整った顔立ちに逆らうようにきつく結ばれていた唇がぽかんと開く。歳の頃、十六、七の子ども子どもした感じが抜けない男だ。
「待てえっ!」
「そこだ!」
背後から浴びせられた声に相手ははっと振り返った。木立の中から飛び出してくる男達の剣を、危うく飛び退いて避ける。持っていた細身の剣で、かろうじて一人の攻撃を食い止める、だがそれほど長くはもたないだろう。
「ユーノ、待て!」
アシャの制止は遅かった。
薬はよく効いた。痛みがずいぶん楽になった。だが、同時にアシャの肌の温度を間近に感じる距離にいるのが限界だった。まだ息が弾むが、それを押して剣を掴み、一気に男と追手の間に飛び込む。
「この、ばかっ!」
背後から叫んだアシャが剣戟に加わる。
「ひけっ、ひけえっ!」
手練二人の加勢に気づいたのだろう、追手の一人が情勢不利と見てとって剣をおさめながら叫んだ。
「覚えてろよ!」
捨て台詞を残して走り去っていく男達のマント姿を見送って、肩で息をしながらユーノも剣をおさめた。せっかく押さえた痛みが倍加して戻り、喘ぎながら片目をつぶる。
「つ、つっ」
「どうかなさったんですか、もしかして今ので何か!」
飛び込んできた男はうろたえたように駆け寄ってきた。
「あ、は、大丈夫、今のじゃなくて、ちょっと古傷が」
「ぼくの城へ来て下さい!」
言い放った相手にユーノは瞬きした。
「今はたいしたもてなしはできませんが、お怪我が治るぐらいまでは」
(どこかの…王子?)
「いや、悪いけど、ボクは急ぐ旅の途中で」
「大変嬉しいね」
いきなりアシャが遮った。
「せっかくのお誘いだ、断るわけにも行くまい。『古傷』が治るまで、喜んで滞在させて頂こう」
「アシャ!」
反論しかけたユーノをひんやりとした瞳が迎え撃つ。
「お前は剣士としてもっと自覚を持つ、と約束したな、ガズラで」
「う」
「一戦やるたびにへたってては、この先の旅なぞできん」
怒りと苛立ちが満ち満ちた険しい声に、さすがに黙る。
「俺も賛成」
ふいに別の声が同意した。振り向く三人の目に、むっくりと体を起こすイルファが映る。
「あの……」
飛び込んで来た男は困惑した顔でユーノを振り向いた。
「お仲間…です、よね?」
「ああ」
ユーノはじろりとイルファを見やった。
「人が闘っているのに、のんびり寝てられる『仲間』だよ」
「だってなあ」
ふああ、と眠そうにイルファはあくびを漏らしながら、
「ユーノとアシャが出てて、相手が六人」
肩を竦めて見せる。
「俺に獲物があたりっこない」
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