『ラズーン』第二部

segakiyui

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9.生贄(4)

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「…アシャ…?」
(これは…幻…?)
 戸惑ったのはユーノの方だ。
(これは何?)
 混乱したまま、月光を浴び、上半身裸の背中に黄金の髪を輝かせている、眩いアシャを見つめる。
(何が、起こってる…?)
 遠巻きにしている月獣(ハーン)達、怪しげな幻のような声の誘いをようやく耐え抜いて我に返れば、満身創痍で泥だらけ、お世辞にもきれいとは言い難い自分の前に、ただ一人の想い人が跪いている。
(姫に仕える騎士のように)
 故郷セレドで、幾度その光景を見ただろう。レアナに求愛する数々の王子達。皇妃を取り巻く諸国の王。セアラに笑いかける諸候。ユーノなど存在しないように、たとえ一瞬振り向いても目を止める必要のない置物のように、目の前を通り過ぎていく人々を、何度繰り返し見送ったことだろう。
 次こそは自分を見てくれるんじゃないか。次の人こそは、死にもの狂いで凌いで生きている自分の傷みに気づき、孤独に近寄り、慰めといたわりを向けてくれるのではないか。
(次こそは、と)
 始めはまっすぐに見つめ、いつ微笑み返すといいのか緊張し、こぶしを握り締めて待ち、やがて肩を落とし、唇を噛み、俯き、顔を背け、背中を向けて納得した、そんな日は永久に来ないのだ、と。
(そんなことが、あるわけはない)
 甘い幻想に落ち込みそうになった自分に首を振る。
 人は傷みを見たがらない。苦しみも孤独も気づきたがらない。ましてや、男性達が女性に求めるのは安らぎと幸福であって、嘆きと強さではないのだ。
(しっかりしろ、ユーノ)
 月獣(ハーン)達の攻撃が思った以上に堪えているに違いない。
(アシャは、きっとそんなつもりじゃない)
 ユーノは何か誤解をしかけているのだ、疲れ切った心に快い自分勝手な解釈をしようとしている。
「礼を受けるって……アシャ…」
 掠れた声で必死に応じる。
「恭順は、受け取ってるよ」
 今まで何度も守ってくれて、救ってくれた。
「側に居ることも、許している」
 たぶん、自分の側に居ることを許すのは、もうアシャが最初で最後だ。
「ずっと共に…」
 アシャがゆっくりと顔を上げた。月光を受ける白皙、紫の瞳がまるで甘えるように潤んで見える。薄く開いた唇が睦言を囁きそうな柔らかさで微笑み、
「お前と、共に」
 蕩けそうな声音で繰り返した。
「ずっと、共に」
 行かせてくれ。
 懇願を込めて呟かれ、瞬間、堪え切れずに目を閉じた。
(助けて)
 残酷だ。
(助けて)
 こんな誘惑に誰が耐えられる。
(助けて、誰か)
 忘れてしまいそうになる、この微笑みも、この声も、この瞳も、全ては幻、ユーノに与えられたものではなく、ユーノの体を透かして、遥かセレドに居るレアナに届くのだということを。
 凌ごうとする、けれど心は揺れて押さえ切れない。
(幻でもいいから、今一瞬でいいから)
 受け止めたい、その一片でも。
「……アシャ」
 囁いて見開いた視界は、ふいに立ち上がったアシャに遮られた。ふわりと浮いた腕が月獣(ハーン)達を払うようにユーノを囲う。そのままそっと顎を支えられて上向かせられ、顔を汚していた血や泥を静かに温かな指先で拭われる。
 宝石から聞こえていた声は沈黙している。月獣(ハーン)達が視界の端で少しずつ夜闇に姿を溶け込ませ消えていく。
「ふ…」
(レアナ姉さまの、身代わりでいい)
 甘い気持ちが心の岸に打ち寄せる。
(永久に幻でいい)
 近づくアシャの顔に目を閉じる。吐息が頬にかかり、体を竦める。鼓動が激しい。速度を上げる。呼吸が止まりそうだ。熱を感じる、頬に……額に触れる。
「…っ」
 だが、次の瞬間、一気に軽く抱き上げられて驚いた。
「体が冷えている」
 アシャの肌に直接抱き寄せられて息を呑む。
「かすり傷に見えても、かなりやられてる」
「う…ん」
 穏やかに笑って見下ろされて、ぎくりとした。
(ちがう)
「大丈夫、だよ」
 泣きそうになった顔を必死に笑顔に変えた。
「歩けるよ」
(そうじゃない)
 この近さは、恋情のそれ、ではない。
「平気」
(勘違い、した)
 情けなさと恥ずかしさで気持ちが竦む。
(また、馬鹿な勘違いをした)
 幻でもなかった。ユーノはどこまでいってもユーノでしかなく、レアナの身代わりなどとはとんでもない願いだった。
(アシャは心配してくれたんだ)
 自分が仕える主の怪我を。自分が愛おしく思う女性の妹の安否を。跪いたのではなく、きっとユーノの傷を確認していてくれたのだ、なのに。
 見上げたアシャの髪が泥に汚れている。
 そこまでして、誠意を差し出してくれたのに。
(私はどこまで愚かなんだ)
 何度思い知らされれば覚えるのだろう、アシャの想いは代用などするようなものではないだろうに。
(アシャまで辱めた)
 今すぐに腕から逃げたくて、けれどそれはなおもアシャを困らせるだけだろうと身動き取れなくなる。
「用心に越したことはない、『運命(リマイン)』の攻撃が終わったわけじゃない」
 ユーノを抱えたまま、アシャがゆっくり歩き始める。
「ああ…なるほど」
(だから迎えに来てくれたのか)
 ユーノが妙な術に操られてしまったから。
(情けない)
 また泣きそうになったのを振り切って、『運命(リマイン)』の王と名乗ったギヌアのことを思い出す。
 嘲笑的な真紅の瞳、闇に燃え上がるような白髪、神経質そうなぴりぴりした気配の中に外見に似合わぬ不敵さ。
(…アシャに似ている?)
 ふいに、気づいてどきりとした。
 視察官(オペ)に共通した、ある種の整った容貌、繊細な外見に似合わない猛々しい実力。
(ひょっとして)
「アシャ」
「ん?」
「ギヌアも視察官(オペ)なの?」
 ぴたりとアシャの歩みが止まった。
 静かに、感情の読めなくなった目で見下ろしてくる。整った顔立ちだけに、動きがなくなると、まるで絵画か彫刻に向き合っているような無機質さがあった。
「どうして俺に聞く?」
「だって…」
 奇妙な緊張感に言いよどみ、それから思い切ってユーノは続けた。
「ラズーンの正統世継ぎの一人なんだろ? 少なくとも、他の人間よりはギヌアのことを知っているよね?」
「……」
「アシャ?」
「……ギヌアはラズーンの正統世継ぎの一人だった」
 淡々とした声音が応じた。
「だが、ラズーンの治め方にはもう意味がないとして、俺を殺し、ラズーンの世を継ぐ資格を手に入れようとした」
「あなたを殺し……?」
 ユーノは渇いた喉に唾を呑み込んだ。
「アシャは……第一正統世継ぎだったのか」
 全身の血がいきなり全て抜かれたような衝撃だった。
「昔のことだ。性分に合わないから降りたんだが、ギヌアには気に入らなかったようだな。俺を襲い、不意打ちを食らった俺は何とかセレドへ逃げ込んだ、そういうことだ」
 嘲笑を含ませて話すアシャの横顔を見上げる。
「そして、ギヌアはより完全にラズーンを手に入れようとして『運命(リマイン)』に与したというわけだ。視察官(オペ)の力を存分に利用して、な」
 再びアシャは歩き出した。
「もう一度あいつと渡り合うには俺も力が残っていなかった。それほどのことはできるまいと思っていた俺が甘かった」
「だから……姿を隠していたんだね、ボク、の付き人として」
 へたに大きな国に入るわけにはいかなかった、顔を知っている者に出くわすかも知れなかったから。その意味では世界の変動にも気づくことない辺境の小国、セレドは格好の居場所だった。
「俺は、今でも、これからも、ずっとお前の付き人だ」
「うん…」
 ずっと、共に。
(それはきっと)
 ラズーン、いや世界の王となることを望まなかった男は、小国セレドで守るべきもの愛すべきものを見つけた、そういうことなのだろう。
(世界さえ捨てて)
 レアナと共に生きる、そういうことなのだろう。
(叶うわけ、ない)
 それほどの想い、それほどの絆に何が届くのだろう。
(届かない)
 どんな奇跡もあり得ない。
(なら、私のできることは、ただ一つ)
 アシャを無事に守ること、レアナの元に戻すまで。
(それだけがきっと)
 ユーノの気持ちの証だ。
 唇を噛んでアシャの厳しい横顔から視線を逸らせる、と、遠くの闇から何か金色のものが走ってくるのに気づいた。
「アシャ」
「月獣(ハーン)だな」
 ユーノの声にアシャも気づいた。ユーノを降ろし、短剣に触れて戦闘に備える。
「あ、あの後ろ!」
「イルファ達じゃないか!」

 まるでイルファ達を導くように駆けてきた月獣(ハーン)は、アシャとユーノの前まで来ると急に立ち止まった。
「アシャっ!」
「ユーノっ!」
 すぐ後ろを追って来た馬が泥を跳ね散らかして立ち止まり、馬上の二人がもどかしげに飛び降りてくる。レスファートなどはべとつく泥をものともせずに一直線にユーノに飛びついてきた。
「ユーノ!」
「あつっ」
 ぎゅっ、と力の限り抱き締められてユーノが呻く。いつもならユーノの様子を気遣うはずのレスファートが、今回ばかりはおかまいなし、なおも強く激しくしがみつき続ける。
「レス?」
 小さな体が押さえ難い恐怖に怯えるようにぶるぶる震えているのに気づいて、ユーノは傷の傷みも忘れて相手を覗き込んだ。
「ユーノ、生きてるよね、生きてるんだよね…っ」
 しゃくりあげながら、レスファートは切れ切れに何が起こったのかを訴えてくる。
「アシャー!」
「わ! ばかっ、よせっ!」
 隣で同じくイルファに飛びつかれたアシャがじたばたともがく。
「どうしたんだ、そんな悩ましい姿で!」
「イルファ、お前、怪我してるじゃないか! その手当が先だろう!」
「俺はお前のことが心配で心配で」
「わかった、わかったから! 手を出せ、見せてみろ、というか、まず離れろっっ!」
 切れかけたアシャが怒鳴りつけ、ようやくイルファが抱擁を解く。
「どうしたんだ、この傷は。あの後どうなったんだ」
 確かにイルファの肩はべっとりと血に濡れているし、それほど浅い傷でもなさそうだ。だが、イルファはアシャが彼の状態を気にしてくれたと上機嫌だ。
「よくぞ聞いてくれた!」
 とにかくこっちへ来い、と少し泥の少ない地面に移動して、戻ってきた馬から布や治療具を取り出したアシャが、泥まみれのユーノの傷を確認して手当し、続いてイルファに向かった。その間もイルファはしゃべり続けている。
「……というわけで、後ろから肩をやられた時には正直これまでかと思ったぞ。だが、手近にちょうどいい獲物があってな、それをぶん回した」
「獲物?」
「側に居たカザド兵だ」
 イルファはにんまり笑った。
「そいつを後ろの『運命(リマイン)』に放り投げたら、うまく当たってくれてな、下敷きになって『運命(リマイン)』がもがいている隙に剣で脾腹を刺し貫けた。だが、敵もさるもの、それぐらいでは参らずに、なおも打ちかかってきやがって、結局何度か胸と腹を切りつけて、ようやく仕留められた、が…」
 イルファは突然、珍しく気持ち悪そうな顔になった。
「『運命(リマイン)』を殺すと、残りのカザド兵の半分近くがいきなりドロドロと溶けちまいやがった。それを見て、小便漏らす奴がいるは、泣き叫ぶ奴が出てくるは、うるせえから放ってレスの方へ向かったんだが、あれは一体どういうことなんだ?」
 アシャはちらりとユーノを見やり、微かに溜め息をついた。苦しそうに目を閉じ、やがて暗く陰った紫の瞳を見開く。
「『運命(リマイン)』の支配というのはそういうことだ。主のいなくなった肉体を操っている。だから、源が死ねば、それらの体は維持力をなくす」
 苦い口調で吐き捨てる。
「ただの腐った肉に戻る……悲惨な末路だ」
「ちげえねえな」
 イルファが肩をすくめ、いたた、と僅かに顔をしかめた。
 話しているうちに夜の帳は上がっていき、天空の片端から白い朝が滲み出していた。
 巨大な月はまだ光を失ってはいなかったが、物の色形がはっきりしてくるにつれ、その輝きを褪せさせていく。
「レス…ところで、あの月獣(ハーン)は?」
 彼ら四人の側で、先ほどの月獣(ハーン)は、距離を保ったまま、まだユーノ達を見守っている。
「一番始めに会った月獣(ハーン)だよ」
 レスファートはしばらくユーノにしがみついて、ようやく落ち着いてきたらしい。それでもまだユーノに寄り添いながら、そっと背後を振り返った。
「仲間がおかしくなっていって、人への怒りとか憎しみばかり広げていくのにたえられなくて、何かおかしいってぼくらに伝えようとしてくれていたんだって」
 仲間うちからは『はぐれもの』と呼ばれていたと言う。
「でも、彼は、はぐれることをこわがっていないの」
 レスファートはユーノの片手をしっかり握った。そこから流れ込む力を受け取るように、一瞬目を閉じ、
「それどころか、今はほこらしいって」
「誇らしい?」
「うん。じぶんはじぶんの生きる方法をきちんとえらぶことができるんだって」
 答えたレスファートが何かを確かめるように、うん、と小さく頷く。
「えらびとれるんだって」
「……新しい月獣(ハーン)、か」
 ぽつりとアシャが吐いた。
「人に頼らず、人に怯えず、人の側でどうやって生きていくかを選ぶ、か」
 瞳の奥で何を考えているのか、淡く煙った視線が虚ろだ。
「そんなことは、ありえないのだがな」
 低い声で呟く。それからもっと微かな声で、
「そんなふうには作られていないのだがな」
(そんなふうには作られていない?)
 ユーノは眉を寄せた。
(そんな言い方って)
 まるで月獣(ハーン)が誰かによって産み出されたもののようだね、そう言いたくなって唇を開く。だが、
「今度の二百年祭は、大きな転換点になるということか」
 ぼそりと続けたアシャの顔から再び表情がごそりと消えて、思わず口を閉じた。
「ありがとう」
 レスファートがそっとユーノから離れて月獣(ハーン)の側へ歩み寄る。
 月獣(ハーン)も甘えるようにレスファートに体を寄せ、頭を一瞬下げてレスファートの頭に触れ、それからすっと身を引いた。
「ぼくらを助けてくれて、ありがとう」
「……」
 緩やかに頭を上げ、消えていく夜空を見上げ、ユーノ達を眺める。その後ろで、明け始めた夜にしがみつくように消えていく仲間達が次第次第に遠ざかっていく。
 一瞬、彼はその仲間を振り返った。呼びかけるように、体を伸ばす。
 だが。
 走り出したのは仲間と正反対の方向だった。朝日が昇る白い世界へまっすぐに輝く体を溶け込ませて、ただ一頭で『はぐれもの』は去って行った。
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