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9.生贄(3)
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(どこだ?)
アシャは乱れる息を整えながら、漆黒の夜を透かし見た。
もはや明日は来ないのかと思われるほどの重い闇、今まで体験したことがたった一晩のうちに起こっているとは信じ難いほどだ。
月獣(ハーン)は沼沢地に群れで棲んでいる。この辺りで未だに群れを残している月獣(ハーン)がいるとしたら、街の南の最も広い沼地だと思われた。が、既にその間近を駆けているはずのアシャの目には、以前として粘り着くような闇の他には何も映らない。
(ユーノ…)
アシャは眉を寄せた。額から頬へ流れる汗をうっとうしく首を振って振り払う。
まるで、母親に置き去られた子どものような気分になっている、母親など、居るはずもないのだが。
(おまえはいつも俺を置いていく)
激しい蹄の音は沼地に吸い込まれて、のめり込みそうな重い音となっている。乱れる黄金の髪が金の幻影を夜に残す。
(俺の助けなど必要じゃないみたいに、いつも笑って背中を向ける)
挙げ句の果てには、アシャを呼ぶこともなく、常闇の彼の地へ消えていきたがるのだ、あの娘は。
「ユーノ!」
アシャは馬の速度を落とし呼ばわった。遠くの方で声が聞こえたような気がする。
「どこだ! ユーノ!」
彼方の闇から何かが漂ってきた。
「そっちか?」
アシャは厳しい表情で馬の向きを変えた。ピシャリと水が撥ねる音、泥がずぼずぼと馬の脚を吸い込む。
やがて、前方に金色の塊が淡く浮かび上がった。月は生憎隠れてしまったが、月獣(ハーン)だとすぐにわかるぐらいの鮮やかさだ。
「ユーノ!」
アシャの声は月獣(ハーン)達には届かなかったらしい。彼らは何かに強く集中しているようだ。
「くそっ」
粘度の高い足元、なかなか先へ進めないアシャの耳に、月獣(ハーン)達が注意を向けている声が響いてきた。
『なあ、かわいそうに。お前は傷ついてばかりだ』
(ギヌアの声?)
ぎょっとしたアシャは続くことばに顔を強張らせた。
『家族を守ろうとして、全ての保護を諦めなくてはならなかったのだからな。まあ、それも仕方がないかもしれない。お前は強い娘だ。一人で生きてゆける。保護がなくてもやってゆける』
(一体何を)
「、ユーノっ」
前方を見据えたアシャは、月獣(ハーン)の輪の中で、無惨に角で吊るし上げられているユーノに気がついた。
数十頭の月獣(ハーン)の角に、金の装飾品で飾られた華奢なユーノの肢体が支えられている。ぐったりした体には裂けた薄物が巻きつき、ところどころに仄赤い染みが広がっていた。瞳は虚ろで闇と同じように生気がない。幾筋か流れ落ちている真紅は唇の端からも伝っている。全てに無関心になったような表情がギヌアの声だけに時々震えている。
『お前は犠牲だ。お前は誰にも保護を求めてはならないんだ』
「あの野郎…」
ぎりっ。
アシャは奥歯を鳴らした。ユーノの額に飾られた赤い宝石に気づいて、馬から飛び降り走り出す。
『お前は一人だ。一人で死んでいくんだ』
ぴくっとユーノの体が震える。
(よせ)
『哀れだな、ユーノ。哀れな人間だな』
虚ろだった瞳に表情が甦った。眉がひそめられ、切なそうに顔が歪む。
(よせ!)
必死に駆け寄りながら、アシャは心の中で叫んだ。
ユーノの心が血を流し続けている。その傷を声は何度もこじあけ引きむしっていく。
一つの世界の運命を背負う、誰にも救いを求められないその孤独、背負うしかないその重さをアシャはよく知っている。自覚しなければ耐えられるかも知れないそれを、自覚しながら背負うのは巨大な器が必要なことも。
その責務に自分は遥かに及ばない、そう気づきながらその場所に立ち続けるのがどれほど至難であるかも。
(やめろ!)
心の中で叫ぶのは、目の前で責任を果たせないと思い知らされて吊るし上げられるユーノを庇うためか、それとも、同じ状況で背中を向けて逃げ去った自分の過去に対してか。
ソンナコトハムリダ、ジブンニ、ソノシカクハナイ。
「くっ」
歯を食いしばって目を凝らし、駆け寄る速度を上げる、追いすがる過去を振り切ろうとするように。
輪を作ってユーノを取り囲んでいた月獣(ハーン)達の一番外側が、アシャの接近に気がついた。怒りを吐き散らしながら近づくアシャの勢いに崩れ始める。怯えたように振り向き、緑の瞳を恐怖に染めて後じさりし、進路から抜け出そうとする。
(あの宝石に発信器を仕込んだんだな、ギヌア!)
『お前は捨て石だ。ただのお人好しで犠牲になっているのさ』
人の心を傷つけ苦痛に弱った心を弄ぶ、『運命(リマイン)』得意の遣り口に吐き気がする。
「聞くな!」
思わず叫んだ。
「聞くな、ユーノ!」
それは幻、それは自己憐憫を煽り、世界への屈折した怒りを煽る代物、その怒りが満たす未来はただただ憎しみに我と我が身を食ませるだけの空虚な時間だ。
だが、その誘惑がどれほど堪え難く魅惑的に聞こえるか、アシャもまたよく知っている。
ましてや家族のために一人闘い、辛い旅を耐え、孤独な夜を凌いできたユーノには、どれほど慰めと憩いに満ちた誘いに聞こえるか。
「ユーノ!」
その誘いに堕ちない魂など、誰が持っているのか。ギヌアがまさにその象徴、堕ちないためにアシャは漂泊を選んだ。それほどの誘惑。その自己憐憫を堪えて立ち続けることが、一体誰にできる。
だが。
「ち…がう…」
ふいに、ぼんやりしていたユーノが呟いて、どきりとした。
(ちがう?)
月獣(ハーン)達が同じように、ユーノの瞳に蘇り始めた光に気づいて、輪を広げる。
『おまえは、家族の犠牲になったのだ』
「ちがう」
一層はっきりとユーノは答えた。
光を失っていた目が次第に輝きを取り戻し始める。数頭の月獣(ハーン)が、光の強さにうろたえたように角を引いて体を竦めた。
『国のために、家族のために、誰かのために、お前は犠牲に…』
「違う!」
声はついにギヌアのことばを打ち消した。
思わずアシャは立ち止まった。
(違う、と言った?)
何が違う。
ユーノの人生は、まさにギヌアが告げた通りのものだったのに。
突き上げた体から激しい熱が降り注いだように、さらに数頭の月獣(ハーン)が細かく震えながら角を引く。残っている月獣(ハーン)達も怒りに燃えていた緑の目を瞬き、不審そうに、やがて次第に不安げにユーノを見つめる。端の数頭が体を固くし、竦ませていく。
「違うよ」
再び、今度は弱々しくユーノが呟いた。それでも、ことばの奥には強く激しい熱がある。揺らめく炎、今にも轟音を上げて爆発しそうな、荒々しい輝き。
その激しさにさらに十数頭の月獣(ハーン)が後じさりした。
危うく角に引っ掛かっていたユーノの体が支えを失い、泥の中へ落ちる。
「ユーノ!」
「違うんだ」
アシャがはっとして踏み出し声をかけたが、ユーノには聞こえていない。落ちた拍子にずれて額から外れた赤い宝石が、泥に浸されている。そこからこもった声が抵抗するように響いた。
『お前は哀れな娘だ。なあ、たった一人で闘い続けている娘だ。言わば、他人はお前を犠牲にしてのうのうと幸せを貪っているのさ』
「違う」
泥の中に倒れていたユーノが、首を振ってゆらりと立ち上がった。
「私は…犠牲にはなっていない」
小さな震える声が同意を拒む。
『生贄だよ。自分の幸せのために人はお前を踏み台にしているのさ』
月獣(ハーン)達が声に同意するように、またもユーノにじんわりと迫っていく。己を憐れめ、自己憐憫の甘い切なさに浸ってしまえと言わんばかりにユーノに角を近づける。
『哀れなユーノ。誰がお前の哀しみを知る。誰が想いをわかってくれる』
さすがに胸を突かれたように、一瞬ユーノがことばを失った。瞳が暗く陰り、想いが内へ沈んでいく。だが、唇は引き締め、弱音を吐くまいとする。
(俺が、居る)
そのユーノの姿に、アシャの胸の奥に幼い頃の自分が重なる。
(あそこに、俺が)
誰もアシャの気持ちなどわからない。アシャと同じ立場の、同じ成り立ちのものなど、この世界には存在しない。
心を閉ざした、自分の姿。
氷のアシャ、そう呼ばれた、自分の姿。
黙ったユーノの本音を無理に引き出そうとするように、甘く優しい声音がなおも誘った。
『一人で歩こうと決心したお前を誰がわかってくれるのか? 誰がお前に報いてくれる?』
俯くユーノを月獣(ハーン)達が取り囲み、じわじわと輪を狭めていく。
輪の外で、アシャもまた動けなくなっていた。
(そうだ、ユーノ、お前はいつもいつも一人で耐えてしまう)
そうだ、俺はいつも一人で耐えてしまう。
(だからそこまで傷ついて)
だから生きる場所が見つからなくて。
(だからいつかどこかで惨めに死んでしまうかもしれない)
俺が見捨てた世界と同様に俺もまた世界に見捨てられるのだろう、ぼろ屑のように。
(だからこんなところで一人で)
たった、一人で、ただ生きるだけしかない、虚しい命を。
息が苦しくなる。
『夜の暗さに涙することも許されぬユーノよ、その孤独は辛かろう? その犠牲は苦しかろう?』
世界の重さに嘆くことも許されない自分、その孤独、その犠牲、それを誰が今までわかってくれただろう、いたわってくれただろう、どれほどの美姫も、そこには誰も近づかない、近づけない、背負う重さが違いすぎる、想像さえできない、だから。
(俺は永久に一人だ)
ああ、これほどに。
(俺は、一人が、辛かった)
だから、ラズーンを捨てた、世界を捨てた、自分を抱きとめてくれない世界を全て拒んだ。
(けれど、ユーノは)
世界を拒まなかった。世界を受け止め続けた。自分そっくりなのに、自分と違う強さを持っていた。
(だから、見ていられなくて)
だから、魅かれて。
(そうか、俺は)
見捨ててしまった自分の声に呼び寄せられていたのか。
「……ってない」
ふいにユーノが小さく呟いた。唇を噛み、それからゆっくりと目を上げ、声のする方へ向き直る。
月獣(ハーン)の角に包囲されたまま、眩く光る刃の中心で、傷だらけでまともに衣服も身につけていないずたずたの姿のままで、それでもはっきりと言い放った。
「私は犠牲になんかなっていない」
声が震えている。心の中の激しい嵐を押さえ込んだように、もう一度はっきりと。
「私は、誰の犠牲にも、なっていない」
『ユーノよ…』
「全て私が選んだ。他の誰でもない私が、そうしようと、選んできたんだ」
「っ…」
アシャの背筋を悪寒が駆け上がる。
それは違うはずだ。ユーノが望んでセレドに産まれたわけではない。守られること、愛されることを当然としていた周囲の中で守ること、愛することしか求められなかったのが、望んだ状況のはずはない。
けれど、今、アシャの目の前で立つユーノの泥と血で汚れた顔には、まるで一条の光が当たったような誇りが浮かんでいた。
泣き出しそうにひそめられた眉やきつく噛んだ唇はまぎれもなく少女のもので、ほんの少し自制が弱まれば、ギヌアや月獣(ハーン)の誘う自己憐憫の夢に引きずり込まれそうなのがありありとわかる。だが、その瞳が、握りしめたこぶしが、崩れそうなのを耐えて立ち上がった体が、屈服するのを断固として拒む。
「私が、自分でそう決めた」
ついに、頬に煌めく涙が零れ落ちる。
「私は、他の、誰の犠牲にもなっていない。レアナ姉さまの犠牲にも、母さまや父さまやセアラや…セレドの犠牲にもなってない!」
黒い瞳がまっすぐに月獣(ハーン)達を射抜く。
月が再び雲間に現れ、辺り一面に白銀の光を降り注ぐ。ユーノの体にまとわりついている金細工が、泥に汚れながらもきらきらと光を撥ね、淡く黄金に輝いている月獣(ハーン)達よりも鮮やかに、アシャの目を焼く。
一頭の月獣(ハーン)が頭を垂れた。そのまま後じさりする。別の一頭が続いて引き、もう一頭が続く。
黄金の群れを率いる唯一の光が出現したように、月獣(ハーン)が次々と頭を低くして、ユーノの側から離れていく。
そして、まっすぐに、アシャからユーノへ道が開いた。
(光が、重い)
降り注ぐ月光も、周囲を照らす月獣(ハーン)も、その中央に傷だらけの半裸で輝くユーノも眩くて。
(立っていられない)
月獣(ハーン)の気持ちがよくわかる。
これほどの誇りを見せつけられて、自分の卑小さに気づかずにはいられない。逃げ去りたい、なのに惹き付けられていく、容赦なく、とてつもない力で間近へ来いと呼ばれている、抵抗できない、渇望に、その光を浴びたいと願う欲望に。
一歩、また一歩とよろめくように近づいていくアシャに、ユーノが初めて気づいたように瞬きした。まさか、と言いたげな表情、驚いたように見開かれる瞳に自分が映っている、そう感じた瞬間に鳥肌が立つような興奮と歓喜が競り上がって、アシャは歯を食いしばる。
(これは、何だ)
狂いたい。
(この感覚は)
打ちのめされる。
(俺が、消える)
跪いて、その足元に項垂れ、全ての許しを乞い、全ての願いを伝え、全ての祈りを満たしてほしい。
「アシャ?」
不審そうに声をかけられて、それが限界だった。かろうじて辿り着いたユーノの前で、天が落ちてきたように、跪き、頭を垂れ、深く深く礼をとる。
「アシャ!」
「礼を、受けてくれ」
囁くのが精一杯だった。
「俺の、恭順を、受け取ってくれ」
(俺はお前に属するもの)
「俺が側に居ることを、許してくれ」
(俺の運命を全て捧げる)
「お前と、共に行かせてくれ」
頭を地につけて、祈りが届くことを、ただ、願った。
アシャは乱れる息を整えながら、漆黒の夜を透かし見た。
もはや明日は来ないのかと思われるほどの重い闇、今まで体験したことがたった一晩のうちに起こっているとは信じ難いほどだ。
月獣(ハーン)は沼沢地に群れで棲んでいる。この辺りで未だに群れを残している月獣(ハーン)がいるとしたら、街の南の最も広い沼地だと思われた。が、既にその間近を駆けているはずのアシャの目には、以前として粘り着くような闇の他には何も映らない。
(ユーノ…)
アシャは眉を寄せた。額から頬へ流れる汗をうっとうしく首を振って振り払う。
まるで、母親に置き去られた子どものような気分になっている、母親など、居るはずもないのだが。
(おまえはいつも俺を置いていく)
激しい蹄の音は沼地に吸い込まれて、のめり込みそうな重い音となっている。乱れる黄金の髪が金の幻影を夜に残す。
(俺の助けなど必要じゃないみたいに、いつも笑って背中を向ける)
挙げ句の果てには、アシャを呼ぶこともなく、常闇の彼の地へ消えていきたがるのだ、あの娘は。
「ユーノ!」
アシャは馬の速度を落とし呼ばわった。遠くの方で声が聞こえたような気がする。
「どこだ! ユーノ!」
彼方の闇から何かが漂ってきた。
「そっちか?」
アシャは厳しい表情で馬の向きを変えた。ピシャリと水が撥ねる音、泥がずぼずぼと馬の脚を吸い込む。
やがて、前方に金色の塊が淡く浮かび上がった。月は生憎隠れてしまったが、月獣(ハーン)だとすぐにわかるぐらいの鮮やかさだ。
「ユーノ!」
アシャの声は月獣(ハーン)達には届かなかったらしい。彼らは何かに強く集中しているようだ。
「くそっ」
粘度の高い足元、なかなか先へ進めないアシャの耳に、月獣(ハーン)達が注意を向けている声が響いてきた。
『なあ、かわいそうに。お前は傷ついてばかりだ』
(ギヌアの声?)
ぎょっとしたアシャは続くことばに顔を強張らせた。
『家族を守ろうとして、全ての保護を諦めなくてはならなかったのだからな。まあ、それも仕方がないかもしれない。お前は強い娘だ。一人で生きてゆける。保護がなくてもやってゆける』
(一体何を)
「、ユーノっ」
前方を見据えたアシャは、月獣(ハーン)の輪の中で、無惨に角で吊るし上げられているユーノに気がついた。
数十頭の月獣(ハーン)の角に、金の装飾品で飾られた華奢なユーノの肢体が支えられている。ぐったりした体には裂けた薄物が巻きつき、ところどころに仄赤い染みが広がっていた。瞳は虚ろで闇と同じように生気がない。幾筋か流れ落ちている真紅は唇の端からも伝っている。全てに無関心になったような表情がギヌアの声だけに時々震えている。
『お前は犠牲だ。お前は誰にも保護を求めてはならないんだ』
「あの野郎…」
ぎりっ。
アシャは奥歯を鳴らした。ユーノの額に飾られた赤い宝石に気づいて、馬から飛び降り走り出す。
『お前は一人だ。一人で死んでいくんだ』
ぴくっとユーノの体が震える。
(よせ)
『哀れだな、ユーノ。哀れな人間だな』
虚ろだった瞳に表情が甦った。眉がひそめられ、切なそうに顔が歪む。
(よせ!)
必死に駆け寄りながら、アシャは心の中で叫んだ。
ユーノの心が血を流し続けている。その傷を声は何度もこじあけ引きむしっていく。
一つの世界の運命を背負う、誰にも救いを求められないその孤独、背負うしかないその重さをアシャはよく知っている。自覚しなければ耐えられるかも知れないそれを、自覚しながら背負うのは巨大な器が必要なことも。
その責務に自分は遥かに及ばない、そう気づきながらその場所に立ち続けるのがどれほど至難であるかも。
(やめろ!)
心の中で叫ぶのは、目の前で責任を果たせないと思い知らされて吊るし上げられるユーノを庇うためか、それとも、同じ状況で背中を向けて逃げ去った自分の過去に対してか。
ソンナコトハムリダ、ジブンニ、ソノシカクハナイ。
「くっ」
歯を食いしばって目を凝らし、駆け寄る速度を上げる、追いすがる過去を振り切ろうとするように。
輪を作ってユーノを取り囲んでいた月獣(ハーン)達の一番外側が、アシャの接近に気がついた。怒りを吐き散らしながら近づくアシャの勢いに崩れ始める。怯えたように振り向き、緑の瞳を恐怖に染めて後じさりし、進路から抜け出そうとする。
(あの宝石に発信器を仕込んだんだな、ギヌア!)
『お前は捨て石だ。ただのお人好しで犠牲になっているのさ』
人の心を傷つけ苦痛に弱った心を弄ぶ、『運命(リマイン)』得意の遣り口に吐き気がする。
「聞くな!」
思わず叫んだ。
「聞くな、ユーノ!」
それは幻、それは自己憐憫を煽り、世界への屈折した怒りを煽る代物、その怒りが満たす未来はただただ憎しみに我と我が身を食ませるだけの空虚な時間だ。
だが、その誘惑がどれほど堪え難く魅惑的に聞こえるか、アシャもまたよく知っている。
ましてや家族のために一人闘い、辛い旅を耐え、孤独な夜を凌いできたユーノには、どれほど慰めと憩いに満ちた誘いに聞こえるか。
「ユーノ!」
その誘いに堕ちない魂など、誰が持っているのか。ギヌアがまさにその象徴、堕ちないためにアシャは漂泊を選んだ。それほどの誘惑。その自己憐憫を堪えて立ち続けることが、一体誰にできる。
だが。
「ち…がう…」
ふいに、ぼんやりしていたユーノが呟いて、どきりとした。
(ちがう?)
月獣(ハーン)達が同じように、ユーノの瞳に蘇り始めた光に気づいて、輪を広げる。
『おまえは、家族の犠牲になったのだ』
「ちがう」
一層はっきりとユーノは答えた。
光を失っていた目が次第に輝きを取り戻し始める。数頭の月獣(ハーン)が、光の強さにうろたえたように角を引いて体を竦めた。
『国のために、家族のために、誰かのために、お前は犠牲に…』
「違う!」
声はついにギヌアのことばを打ち消した。
思わずアシャは立ち止まった。
(違う、と言った?)
何が違う。
ユーノの人生は、まさにギヌアが告げた通りのものだったのに。
突き上げた体から激しい熱が降り注いだように、さらに数頭の月獣(ハーン)が細かく震えながら角を引く。残っている月獣(ハーン)達も怒りに燃えていた緑の目を瞬き、不審そうに、やがて次第に不安げにユーノを見つめる。端の数頭が体を固くし、竦ませていく。
「違うよ」
再び、今度は弱々しくユーノが呟いた。それでも、ことばの奥には強く激しい熱がある。揺らめく炎、今にも轟音を上げて爆発しそうな、荒々しい輝き。
その激しさにさらに十数頭の月獣(ハーン)が後じさりした。
危うく角に引っ掛かっていたユーノの体が支えを失い、泥の中へ落ちる。
「ユーノ!」
「違うんだ」
アシャがはっとして踏み出し声をかけたが、ユーノには聞こえていない。落ちた拍子にずれて額から外れた赤い宝石が、泥に浸されている。そこからこもった声が抵抗するように響いた。
『お前は哀れな娘だ。なあ、たった一人で闘い続けている娘だ。言わば、他人はお前を犠牲にしてのうのうと幸せを貪っているのさ』
「違う」
泥の中に倒れていたユーノが、首を振ってゆらりと立ち上がった。
「私は…犠牲にはなっていない」
小さな震える声が同意を拒む。
『生贄だよ。自分の幸せのために人はお前を踏み台にしているのさ』
月獣(ハーン)達が声に同意するように、またもユーノにじんわりと迫っていく。己を憐れめ、自己憐憫の甘い切なさに浸ってしまえと言わんばかりにユーノに角を近づける。
『哀れなユーノ。誰がお前の哀しみを知る。誰が想いをわかってくれる』
さすがに胸を突かれたように、一瞬ユーノがことばを失った。瞳が暗く陰り、想いが内へ沈んでいく。だが、唇は引き締め、弱音を吐くまいとする。
(俺が、居る)
そのユーノの姿に、アシャの胸の奥に幼い頃の自分が重なる。
(あそこに、俺が)
誰もアシャの気持ちなどわからない。アシャと同じ立場の、同じ成り立ちのものなど、この世界には存在しない。
心を閉ざした、自分の姿。
氷のアシャ、そう呼ばれた、自分の姿。
黙ったユーノの本音を無理に引き出そうとするように、甘く優しい声音がなおも誘った。
『一人で歩こうと決心したお前を誰がわかってくれるのか? 誰がお前に報いてくれる?』
俯くユーノを月獣(ハーン)達が取り囲み、じわじわと輪を狭めていく。
輪の外で、アシャもまた動けなくなっていた。
(そうだ、ユーノ、お前はいつもいつも一人で耐えてしまう)
そうだ、俺はいつも一人で耐えてしまう。
(だからそこまで傷ついて)
だから生きる場所が見つからなくて。
(だからいつかどこかで惨めに死んでしまうかもしれない)
俺が見捨てた世界と同様に俺もまた世界に見捨てられるのだろう、ぼろ屑のように。
(だからこんなところで一人で)
たった、一人で、ただ生きるだけしかない、虚しい命を。
息が苦しくなる。
『夜の暗さに涙することも許されぬユーノよ、その孤独は辛かろう? その犠牲は苦しかろう?』
世界の重さに嘆くことも許されない自分、その孤独、その犠牲、それを誰が今までわかってくれただろう、いたわってくれただろう、どれほどの美姫も、そこには誰も近づかない、近づけない、背負う重さが違いすぎる、想像さえできない、だから。
(俺は永久に一人だ)
ああ、これほどに。
(俺は、一人が、辛かった)
だから、ラズーンを捨てた、世界を捨てた、自分を抱きとめてくれない世界を全て拒んだ。
(けれど、ユーノは)
世界を拒まなかった。世界を受け止め続けた。自分そっくりなのに、自分と違う強さを持っていた。
(だから、見ていられなくて)
だから、魅かれて。
(そうか、俺は)
見捨ててしまった自分の声に呼び寄せられていたのか。
「……ってない」
ふいにユーノが小さく呟いた。唇を噛み、それからゆっくりと目を上げ、声のする方へ向き直る。
月獣(ハーン)の角に包囲されたまま、眩く光る刃の中心で、傷だらけでまともに衣服も身につけていないずたずたの姿のままで、それでもはっきりと言い放った。
「私は犠牲になんかなっていない」
声が震えている。心の中の激しい嵐を押さえ込んだように、もう一度はっきりと。
「私は、誰の犠牲にも、なっていない」
『ユーノよ…』
「全て私が選んだ。他の誰でもない私が、そうしようと、選んできたんだ」
「っ…」
アシャの背筋を悪寒が駆け上がる。
それは違うはずだ。ユーノが望んでセレドに産まれたわけではない。守られること、愛されることを当然としていた周囲の中で守ること、愛することしか求められなかったのが、望んだ状況のはずはない。
けれど、今、アシャの目の前で立つユーノの泥と血で汚れた顔には、まるで一条の光が当たったような誇りが浮かんでいた。
泣き出しそうにひそめられた眉やきつく噛んだ唇はまぎれもなく少女のもので、ほんの少し自制が弱まれば、ギヌアや月獣(ハーン)の誘う自己憐憫の夢に引きずり込まれそうなのがありありとわかる。だが、その瞳が、握りしめたこぶしが、崩れそうなのを耐えて立ち上がった体が、屈服するのを断固として拒む。
「私が、自分でそう決めた」
ついに、頬に煌めく涙が零れ落ちる。
「私は、他の、誰の犠牲にもなっていない。レアナ姉さまの犠牲にも、母さまや父さまやセアラや…セレドの犠牲にもなってない!」
黒い瞳がまっすぐに月獣(ハーン)達を射抜く。
月が再び雲間に現れ、辺り一面に白銀の光を降り注ぐ。ユーノの体にまとわりついている金細工が、泥に汚れながらもきらきらと光を撥ね、淡く黄金に輝いている月獣(ハーン)達よりも鮮やかに、アシャの目を焼く。
一頭の月獣(ハーン)が頭を垂れた。そのまま後じさりする。別の一頭が続いて引き、もう一頭が続く。
黄金の群れを率いる唯一の光が出現したように、月獣(ハーン)が次々と頭を低くして、ユーノの側から離れていく。
そして、まっすぐに、アシャからユーノへ道が開いた。
(光が、重い)
降り注ぐ月光も、周囲を照らす月獣(ハーン)も、その中央に傷だらけの半裸で輝くユーノも眩くて。
(立っていられない)
月獣(ハーン)の気持ちがよくわかる。
これほどの誇りを見せつけられて、自分の卑小さに気づかずにはいられない。逃げ去りたい、なのに惹き付けられていく、容赦なく、とてつもない力で間近へ来いと呼ばれている、抵抗できない、渇望に、その光を浴びたいと願う欲望に。
一歩、また一歩とよろめくように近づいていくアシャに、ユーノが初めて気づいたように瞬きした。まさか、と言いたげな表情、驚いたように見開かれる瞳に自分が映っている、そう感じた瞬間に鳥肌が立つような興奮と歓喜が競り上がって、アシャは歯を食いしばる。
(これは、何だ)
狂いたい。
(この感覚は)
打ちのめされる。
(俺が、消える)
跪いて、その足元に項垂れ、全ての許しを乞い、全ての願いを伝え、全ての祈りを満たしてほしい。
「アシャ?」
不審そうに声をかけられて、それが限界だった。かろうじて辿り着いたユーノの前で、天が落ちてきたように、跪き、頭を垂れ、深く深く礼をとる。
「アシャ!」
「礼を、受けてくれ」
囁くのが精一杯だった。
「俺の、恭順を、受け取ってくれ」
(俺はお前に属するもの)
「俺が側に居ることを、許してくれ」
(俺の運命を全て捧げる)
「お前と、共に行かせてくれ」
頭を地につけて、祈りが届くことを、ただ、願った。
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