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13.麦の女王(4)
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数日間は瞬く間に過ぎた。
今日は祭りの最終日、いよいよ作戦決行の日だ。
アシャは与えられた一室で手入れをすませた剣を鞘におさめながら、ゆっくり周囲を見回した。
イルファは、またどこかの家の馳走にあずかっているのか、姿がない。ベッドではレスファートが、丸くなって眠っている。
馬や荷物は神殿近くの林に隠してある。
後は宙道(シノイ)の出入り口を見つけて開放すればいいだけだ。
(四人…か)
アシャは眉を寄せた。
それほど多くの人間を一度に宙道(シノイ)に連れ込むのは初めてだ。
(もってくれればいいが)
確かに宙道(シノイ)には『運命(リマイン)』も『運命(リマイン)』支配下(ロダ)の人間も、おいそれとは踏み込めない。だが、別の厄介な人間を引き込む可能性は十分にあった。ラズーンへの反逆者、視察官(オペ)の裏切り者、ギヌア・ラズーンだ。彼なら、アシャの開放した宙道(シノイ)を辿れないことはないだろう。
もし万が一、宙道(シノイ)を進む最中にギヌアの攻撃を受けでもしたら、さすがのアシャでも生き抜くのが難しくなる。
だからといって、宙道(シノイ)を使うのを止めようとは全く思わない。
(ユーノに、これ以上傷を負わせたくない)
ただでさえ無鉄砲で、引き止めても引き止めても、危険の中へ自分から飛び込んでいってしまう娘なのだ。なまじ強くて優しいから、仲間を守るためならと繰り返し死地へ向かってしまう。傷を受けても悲鳴も上げない助けも求めない。一人で耐えるか、そのまま逝ってしまいたがる。
(今まで生きてこれた方が不思議だな、いくらレアナ達を守るためとは言え)
溜め息をつく。
出会うまで、ユーノがどれほど危うい夜を過ごしただろうと思うだけで、今のアシャは背筋が凍りつく。
(たった十七の娘が、こんなものに縛られて)
胸のセレドの紋章ペンダントに触れた。
美しく穏やかなレアナ、しとやかで従順なミアナ皇妃、温和で陽気なセレディス皇、おしゃまで愛らしいセアラ。
確かに誰も愛すべき人々、だが、その家族を守ろうとするために、ユーノは一人で死線を彷徨い続けてきた。本来なら、幸せな恋と優しい家族、華やかな夜会と貴族達の賞讃という、少女の望みうるもっとも美しいものを手に入れられる立場にあったはずなのに。
ユーノは自分の『銀の王族』という運命に背を向けてまで、戦いの暗闇へと踏み出していく。
(……ある意味では)
誰よりも『銀の王族』にふさわしいのかもしれない。
(人の哀しみを見過ごせず、自分の傷みを振り切って人を守ろうとする)
『銀の王族』の命は、まさにそのためにこそ準備されているのだから。
セレドのような平和な国、幻の人の世界を保つ願いのためだけに。
「……」
思わず零した吐息の幼さに気づき、アシャは苦笑いした。
(まだ、惹かれていく)
ユーノの激しい優しさに。
(とめようもなく、限りなく)
目を伏せる。絞られていく胸が切なくて痛い。
(それに、ときどき、あんな瞳をする)
ラオカーンの詩を聞きながら、ユーノはどこか寂しげな頼りない色を瞳に滲ませていた。
決して手に入らぬものを強く想うような、なのに、そういう自分を嘲るような感情の波。
(何を望んで……何を諦めようとしている?)
アシャを見返した黒い瞳が、ほんの一瞬泣きそうな、すがるような色をたたえて潤んでいたように見えた。こちらの胸を締めつけて、ついつい理由を尋ねさせるような顔、なのに、やはり一瞬後には、目の錯覚だったかのように消えてしまった表情だった。
(何が足りない)
剣の腕や豊かな知識や美貌や才能ではないのは確かだ、それらをどれほど見せてもユーノは揺らぎもしない。
(俺の何が、ユーノの望みを満たさない?)
「……だから…求めてくれないのか……?……」
溜め息を重ねて首を振り、ベッドでくうくうと気持ちよさそうに眠っているレスファートをそっと揺り起こす。
ユーノをうまく連れ出せるかどうかは、レスファートの腕にかかっている。
「レス」
「う…ん」
「レス、起きろ」
「んー」
「アグナイを出るぞ」
「ん!」
がばりとレスファートは跳ね起きた。アクアマリンの目を見張ってアシャを見つめる。乱れてくしゃくしゃになったプラチナブロンドは、レスファートが数回頭を振ると、すぐにさらさらと乱れを解いて肩に滑り落ちる。
「手順はわかってるな?」
「うん! わかってる。『へま』はしないよ」
イルファあたりから聞き覚えたのか、生意気な口調で言いながら、レスファートは目をこすってベッドから降りた。
「荷物はもう向こうに用意してあるから」
「うん。きっとユーノをつれてくよ」
「頼んだぞ」
頷いて部屋から外へ走り出していくレスファートを見送り、アシャは部屋の中を改めて見直した。忘れ物はなさそうだ。
袋から伝言を書いた布を取り出し、テーブル中央の灯皿の下に挟む。
『急ぐ旅、追手を引き連れている旅です。失礼とは思いましたが、麦祭を使わせて頂きました、申し訳ありません。このお礼はいつか必ずいたします。ラズーンのもとに。 アシャ』
見る者が見れば、最後の名前の価値を見抜くだろう。そして、それは、この村にとってよい見返りをもたらすはずだ。
灯はそのままに、そっと家を出る。
「さて、イルファの奴を探してくるか」
呟いて、アシャは闇の中へ姿を消した。
闇が深くなるにつれ、求婚者達の姿はまばらになっていた。
それぞれの手には、青い染料で染めた小さな油の壺がある。その油を、神殿の一番奥まったところにある、神像の祭壇上に置かれた自分の灯皿に注ぎ、火を灯してくるのが今回の取り決めだ。
求婚者達は、時間を前後してユーノのいる村の酒場を出発し、星だけは呆れるほど出ている月のない夜の中を、神殿目指して黙々と歩いている。
唐突に間近に動いた気配に、アシャはちら、と目を向けた。
「よう」
イルファがぬっと姿を現す。
「手順は忘れなかったみたいだな?」
「あたぼうよ。俺がお前と組む作戦の手順を忘れたことが、今まで一度でもあったか?」
「なかったな」
にやりと笑うと、同じように不敵な笑みを返して、イルファは油の壺をアシャから受け取り、再びするすると闇の中に消えていく。イルファの役目は、いち早く神殿に辿りついて、神殿の灯皿にアシャと自分の灯をともし、他の者が妙な興味をアシャに向けないように見張ることだ。
イルファを見送ったアシャは唇を結び、小さな村にしては凝った造りの神殿を見上げた。
星空を背景に、建物の輪郭が黒々と夜闇に溶け入っている。
そっと手を伸ばして入り口を探る。昼間見たときの印象、地上から続く数段の階段、細かな彫りの柱、恐らくはレストニア式の神殿だろう。
(とすると)
アシャはゆっくりと神殿の中へ足を踏み入れた。
闇の中には既に幾つかの足音がひたひたと響いている。村人とはいえ、神殿内部を熟知している者は少ないだろうから、アシャの方が早く正確に目的の場所へ行けるはずだ。
(やっぱり、この奥が神像の安置場所だな)
夜の空気を透かして方向を見定める。
柱の向こうでチラチラと灯が動いている。
もう、気の早い、度胸のいいのが、灯皿に火を入れたらしい。
(…よし)
その光も目安に、別の方向に足を速める。柱と柱の間を静かな足取りで通り抜けていく。空気は重く沈んでいる。その湿った空気の粒子一つさえ乱すことを恐れるような密やかさ、他から見れば、その動きは、夜の河の中を泳ぎ渡っていく巨大な魚のように見えたもしれない。
(このあたりか)
見極めて、やがてアシャは立ち止まった。目を閉じ、位置を確かめるように前後に一歩ずつ動いてみて、もう一度確認し、元の位置に戻る。
「…」
微かな緊張が満ちた。外から見れば、自分の目が淡いきらめきに覆われていくように見えるだろう。だが、視界は澄んで透明だ。空気の流れさえ見えそうな気がする。
抜き放った短剣が黄金のオーラを放ち始める。金粉をまぶしたような輝きが、次第次第に剣全体にまとわりつき、密度を上げて濃くなっていく。僅かに震えているのは、あまりの高エネルギーを物体一つに凝縮させているため、暴走させずに力を縛り上げる、そのコントロールが全てだ。
十分に光が満ち渡った剣を、ゆっくりと掲げた。目の前の空間を切り取るように、中空に円弧を描く。
金の軌跡がきらきらと光り輝きながら空に漂って残る。視界を焼かれたせいではない、ただの光ではない、何かの力の実体が、その空間を円として切り取ったのだ。
その証拠に、辺りの神殿の柱や壁に反射して、すぐに闇に呑まれていくかに見えた軌跡は、消えることなく一時ごとに輝きを増し始める。同時に、その軌跡に囲まれた内側の空間から光が奪われたように、円の中央部からどす黒く、何かが濁り始める。
に、と唇を綻ばせたアシャの額から、汗が一筋、頬から首筋へと流れ落ちる。
「、っ」
体から一気に放出されるような無音の圧力が空間に加わった。
押し、歪める。
抵抗する、円弧の空間。
だがしかし。
「!」
突然、限界が来たように、ぼこりと円の内側の空間が『凹んだ』。見る間にその闇の奥へと崩れ去るように落ち込んでいき、暗い彼方へ続く道の入り口に変わる。
(レス!)
緊張を保ったまま、アシャは呼びかけた。久々に開いたせいか、それとも二百年祭の不安定さか、宙道(シノイ)の安定が悪い。
(来てくれ!)
レスファートがいなければ、この試みも成功しなかったかもしれない。
「!」
「レス?」
今夜はユーノの側に居るね、とにこにこしてやってきたレスファートが、ふいに顔を戸口の方へ振り向けて、ユーノははっとした。
「アシャだね?」
「ん」
小さな声で囁き返すレスファートは隣室へと視線を走らせる。
「来いって言ってる」
「わかった、行こう」
「うん」
ユーノは椅子から立ち上がり、レスファートを従えて、仕切りの扉を開いた。
「ん、なんじゃね?」
たった一人、テーブルについていた村長が、突然出て来たユーノとレスファートを不審そうに見やる。
「あ、あの、ちょっと、小用を」
ぼそぼそと応じると、村長は鷹揚に頷いてみせた。
「おお、いってきなされ」
「いや、ボクじゃないんです、レスが」
「おしっこ!」
レスファートが軽く地団駄を踏んでみせた。
「ほう? 一人では怖いのかね?」
からかうような疑うような声に、レスファートが泣き出しそうに顔を歪める。
「だって、今日はみんな、きもだめしとかしてるんでしょ? こわいものがいるんだよね? ぼく、一人でいけないよぉ」
「それはそれは」
村長は慌てたように席を立って、扉を開いてくれた。レスが小走りに飛び出して、外からユーノを呼ぶ。
「早く、ユーノ!」
「わかったよ! すみません!」
「はいはい」
(ごめんなさい、村長)
ユーノ達が戻ってくることを疑いもせずに送り出してくれる村長に、心の中で頭を下げて、ユーノはレスファートに追いついた。
「こっちだよ、ユーノ、あ、まって」
レスファートが引き止めた。
向こうから一人の青年が駆けてくる。早々に神殿の肝試しを終わらせたのか、どうやらカズンのようだ。
急いで物陰に身を潜めてやり過ごそうとしたユーノは、一瞬ためらった。
たとえ、通りすがりの旅人とはいえ、ユーノには女王たる役目がある。誰か一人を求婚者達の仲から選ばなくては、祭りは終わらないだろう。
親切だった村長や村人の顔がユーノの脳裏に浮かんだ。
(ええい、ままよ!)
震えかけた唇を引き締めて、カズンの前に飛び出した。
「カズン!」
「は? あ、これは、ユーノ? こんなところにどうして…」
「あなたを選びます、カズン、後、よろしく!」
言うや否や、体を寄せて伸び上がり、カズンの頬に素早いキスを与える。
「え、あ…」
ぎょっとした顔でカズンが体を引く。同時に身につけていた上着の薄物を脱いで手渡し、ユーノは口早に続けた。
「ラズーンのもとに。最後までいられなくて、ごめんね!」
「あっ、あなた、ひょっとして、ユーノ!」
カズンのことばの残りは聞こえなかった。レスファートと共に走り出したユーノ、あまりのことに呆気にとられてしまったのか、カズンは追ってこない。
神殿に着くまでに二人ほどやり過ごし、ユーノとレスファートは何とか、神殿入り口近くに巨体を器用に縮こまらせていたイルファと落ち合った。
「はい、ユーノ」
「ん」
アシャの配慮か、イルファに渡された旅の服に、闇に紛れて手早く着替える。脱いだドレスをどうしようかとためらったが、唇を押し当てて感謝し、近くの柱のもとにまとめておいた。
「こっち、こっちだよ」
レスファートは明かりのほとんどない神殿の中を飛ぶように走っていった。引き連れていく馬達の蹄が、石の床に固い音をたて続ける。イルファはそれより重く響く派手な足音でレスファートを追っていく。
「まって!」
レスファートが再び警告を発した。
急いで柱の影に身を潜めたユーノ達の前を、かなり出遅れた求婚者の一人が、首を傾げ傾げ歩いて行く。
「おかしいな、確かに物音がしたんだが」
その声に聞き覚えがあった。ユーノの唇がどうのこうのと言った男だ。
(もうきっと、あんな求婚を受けることはないんだろうな)
苦笑したユーノは胸の痛みを押し殺した。
(きっと、どんな形でも、この先、私を望むものなんてない)
走り出したレスファートの後を追い始める。
神像の前の灯がちらつき、無数の影を踊らせている。柱の間を縫って進むイルファやユーノの体にも、影はゆらゆらと揺らめいている。
「もう少しだよ……あ、あそこ」
レスファートが前方の暗闇を指差した。
神像の灯から離れているがゆえの闇、なのにそこには今、きらきらとした金の輪が光りながら空中に浮かび上がっている。そして、その側に、怪しく揺れる灯と黄金の輪の不思議な光に照らされて、彫像のようにすらりと立つアシャの姿があった。
「おう、よくやったぜ、レス」
イルファがいそいそとアシャの側に駆け寄る。振り返ったアシャは珍しく、緊張したような幼い笑みを返してきた。
「ご苦労だったな、レス」
「うん!」
少年が褒められて誇らしそうに笑う。と、イルファが駆け寄った後ろから、何か白いものがひらりと落ちた。
「これ、何、イルファ?」
ユーノは拾い上げて眉をしかめた。
「俺は知らんぞ」
「文字が書いてある……えーと」
ユーノは神像の近くまで戻って布を広げ、揺らめく灯で表面に書かれたことばを読んだ。
『お急ぎの旅に麦祭を良きものとしてくださいました。何か、この村に必要とされるものがあるのではと見ておりました。ささやかながら、女王のお礼に旅のものを揃えておきました。ラズーンのもとに、よい旅を。 村長』
「知ってたの?」
レスファートが声を上げる。
「みたいだね。しっかりばれてるよ、アシャ」
「そりゃ、まあ」
アシャが苦笑いしてイルファを見る。
「こいつなんか、露骨に今夜だけを待ってたからな」
それから、ふと何かを思い出したように妙な表情になった。
「そう言えば、女王の役目はどうした?」
「選んだよ、ちゃんと」
「え」
相手がぎょっとした顔になるのに、思わず口ごもった。
「カズンだよ。来る途中に出くわしたから。みんな、良くしてくれたし、役目も果たさないで消えるのはあんまりだと思ったし」
もごもごと弁解じみた口調になるユーノと対照的に、明るく楽しく、レスファートがぶちまける。
「ユーノ、ちゃんとキスもしたんだよ! でも、ぼくにはいつでもくれるって言ったから、いいの!」
「レスっ!」
慌てて制するユーノに、アシャはますます何か言いたげな奇妙な顔になった。
「そ、うか」
口を開く寸前に話の中身を変えたような、心の何かが抜け出してしまったようなあやふやな口調で呟いたアシャだったが、ユーノの不審そうな顔に気づいたのか、どこかひきつったように笑った。
「あ、それなら、いいんだ」
「?」
「いや…ああ、これが宙道(シノイ)だ」
唐突に話題を変えて、金の輪の中を顎で指し示す。
「へええ、これがなあ」
イルファがおそるおそる近づいて、ぱっくりと口を開けている怪物に触れるように、おっかなびっくり、爪先で宙道(シノイ)の中をとんとん、と踏んでみる。
「どうやら底は抜けないみたいだな」
「大丈夫だ」
くすりといたずらっぽく笑って、アシャはことばを継いだ。
「これを抜ければ、ラズーンだ」
(ラズーン)
そのことばが胸を吹き抜け、ユーノは思わず体を揺らせた。
ラズーン。
全ての謎を含んだ国、ラズーン。
アシャが生まれ、性を持たぬ神々が住むという都、ラズーン。
統合府、ラズーン。
(ついに、来たんだ)
「そうかあ……長かったよなあ」
イルファが満足そうに深々と溜め息をついた。
「じゃあ、行こうか」
一歩、まずアシャが宙道(シノイ)の中に入る。
その姿は、まるで何もない真っ黒な空間に不安定に浮いているようにさえ見える。
人の不安が伝わったのか、馬が尻込みして進まなくなった。
「おら、来いよ」
イルファが力づくで引っ張ったが、言うことを聞かない。
「ヒスト、おいで」
ユーノの促しに、ようやくヒストが一歩踏み出した。先に立って宙道(シノイ)に入り込むユーノに全幅の信頼を置いているのか、一歩、また一歩と暗闇の中を歩き始める。
「来いってば」
「まって」
イルファが苛立つのに、レスファートが声をかけた。残された二頭の間に立ち、その両方の首にそっと掌を当てる。
「だいじょうぶだよ」
レスファートは低く優しく、穏やかな声で、馬に語りかける。
どこか遠い目をしているのは、語りかけつつ、安心出来る心象を馬達に伝えようとしているからなのだろう。
「ユーノがいるんだもの、だいじょうぶ」
「何で、俺じゃないんだ?」
「黙ってろ、イルファ」
混ぜっ返したイルファを、アシャが制した。
渋々と、やがて素直に、レスファートに導かれて、馬達が宙道(シノイ)の中へ歩き出す。それを確認したアシャが、鋭い目配せをユーノに送ってきた。
「…? あ」
そうか。
その意味を悟ってはっとした。すぐに頷き、レスファートを覗き込み、話しかける。
「ほら、レス」
「え?」
「誰がボクの役に立ててないって?」
「え…?」
きょとんとした顔で瞬きして自分を見上げるレスファートに笑いかける。
「レスがいなきゃ、ボクらはここから進めなかったよ?」
「う…ん。……そうか……そうなんだね」
頬を染め、眩そうな目をしてユーノを見返したレスファートは嬉しそうに頷いた。両手を差し伸べ、ユーノにしがみつく。ねだれられるままに、レスファートを抱き締め、その頬に唇を当てて頬ずりした。
「…ユーノ…だいすき」
うっとりと呟くレスファートにくすぐったくなる。
「ボクも、レスが大好きだよ」
「いっぱい?」
「いっぱい」
楽しそうな笑い声を上げたレスファートが、眠そうなあくびをする。
「眠いの?」
「うん」
「イルファ」
「ああ、わかったわかった」
イルファがひょいとレスファートをおぶった。
「結局俺は子守り籠ってわけだ」
「ぼやかない、ぼやかない」
くすくす笑って、ぱん、とその太い腕を叩く。
「行くぞ」
微笑んだアシャが先に立って歩き出す。
しばらくして、イルファの背中から安らかな寝息が聞こえてくると、ユーノは歩みを速めて、アシャの隣にゆっくり並んだ。
「アシャ?」
「ん?」
「わざと馬が怯えるのを放っておいたろ」
希代の軍師は答えない。
「あなたなら、馬を怯えさせずに宙道(シノイ)へ連れ出す方法ぐらい、知っているよね?」
「レスの不安を取り除くにはちょうどよかったな」
アシャは穏やかに笑ってみせた。
「実際、この先は…レスの力も必要になってくるだろう」
「そうだね」
ユーノも微笑み返す。そんなことになってほしくはないけど、レスファートが自信を持ってくれるなら、それもいいのかもしれない、と思う。
宙道(シノイ)はどこへとも知れぬ闇の中を伸びている。足元は固かったが、光のない夜の湖を渡っていくようで、進むためには、体にも心にも強さがいるような気がする。
(私達の旅みたいだ)
どこへ続くとも知れない運命に従って、あるいは迫り来る運命に追われて、人は皆、夜の道を歩いている。
「ユーノ、もし」
黙って歩き続けていたアシャが、ふいに呟いた。
「え?」
アシャを振り仰ぐと、相手はまっすぐ遠くを見つめて、ことばをためらっている。
「もし、俺が、お前を求め…」
「うおっ!」
背後のイルファが突然大声を出した。慌てて振り向く。
「どうした?」
「いや、足元がちょっと崩れた気が」
「…大丈夫だ」
ひんやりとアシャが唸った。
「物理的に崩れるもんじゃない」
「ぶつり…?」
「……お前が五百人居ても崩れん」
「なら、安心だな!」
わはは、と笑うイルファの顔が少しひきつっているのを見ると、さすがの猛者もいささか不安と見える。
「意外に神経質だよね、イルファ」
「意外とはなんだ。俺はキャサランの金細工のように繊細な男なんだぞ」
「………」
「黙るな」
「いや、だって、ねえ、アシャ?」
くすくす笑って見上げたアシャは、奇妙な顔でユーノを見下ろしている。
そう言えば、話の途中だった、と思い出して、
「ごめん。それで? もし、アシャが私を?」
「……これからも大事にしていこうと思う」
だから、あまり無茶をしないでくれよ、主殿。
いきなり訥々と続けたアシャがすぐに前を見て、ずきりとした。
(何か、大事な話をしようとしたのかな)
もうすぐラズーンだから、それまでにわかっておかなくてはならない事とか、準備していなくてはならない事とか。
(整えなくてはならない身なり…とか?)
思わず自分を見回す。
「…」
ただでさえ見栄えがしない体が、旅でもっと汚れ傷ついている。そういう主の風体では困る、そういう話だったのかもしれない。
胸が詰まった。
アシャの付き人としての仕事はラズーンまでだ。ラズーンに着けば、アシャと離れる。ユーノはセレド皇代行として、ラズーンへの恭順を示した後、再びアシャを伴ってセレドに戻りたいと願うつもりではあるけれど、アシャはそんなつもりはさらさらないのかもしれない。
後少しのことだから、付き人の自分にこれ以上の負担や迷惑をかけないように大人しくしておいてくれ。
そういう意味のことを伝えようとして、けれど、イルファがいるから慮ってくれたのかもしれない。
(そう、だよね。アシャがラズーンへレアナ姉さまを呼び寄せることもできるかもしれないし)
この宙道(シノイ)がどこまでどれだけ通じてるかは知らないが、ラズーンの神々は、その気になれば、セレド近くまで通じさせることもできるのかもしれない。
ならば、この旅は本当に、諸国の『銀の王族』の資質を試し、篩にかけるものだった、ということなのかも知れない。
本当のところは何もわからない。
アシャも何も語らない。
だが、ラズーンへ行けば。
(全ての謎が解けるんだろうか)
そして、旅は終わり、ユーノとアシャは全く違う人生に踏み出して行くことになる。
(もう、触れ合うことさえ、なく)
数々の甘い思い出が胸を掠め、切なくなる。
(そうしたら、この気持ちに、少しは整理がつくんだろうか)
吐息をついたユーノは、隣のアシャがそっと彼女を見下ろしたことに気づかない。
苦しそうに唇を噛む、その仕草が、間近に居ても触れることができない愛しい者への想いをこらえるものだとも。
宙道(シノイ)は、二人のそれぞれの想いを呑み込んで、返そうとはしない。
ただそれは、深く遠く、遥かなラズーンへと続くのみだった。
第二部 終了
今日は祭りの最終日、いよいよ作戦決行の日だ。
アシャは与えられた一室で手入れをすませた剣を鞘におさめながら、ゆっくり周囲を見回した。
イルファは、またどこかの家の馳走にあずかっているのか、姿がない。ベッドではレスファートが、丸くなって眠っている。
馬や荷物は神殿近くの林に隠してある。
後は宙道(シノイ)の出入り口を見つけて開放すればいいだけだ。
(四人…か)
アシャは眉を寄せた。
それほど多くの人間を一度に宙道(シノイ)に連れ込むのは初めてだ。
(もってくれればいいが)
確かに宙道(シノイ)には『運命(リマイン)』も『運命(リマイン)』支配下(ロダ)の人間も、おいそれとは踏み込めない。だが、別の厄介な人間を引き込む可能性は十分にあった。ラズーンへの反逆者、視察官(オペ)の裏切り者、ギヌア・ラズーンだ。彼なら、アシャの開放した宙道(シノイ)を辿れないことはないだろう。
もし万が一、宙道(シノイ)を進む最中にギヌアの攻撃を受けでもしたら、さすがのアシャでも生き抜くのが難しくなる。
だからといって、宙道(シノイ)を使うのを止めようとは全く思わない。
(ユーノに、これ以上傷を負わせたくない)
ただでさえ無鉄砲で、引き止めても引き止めても、危険の中へ自分から飛び込んでいってしまう娘なのだ。なまじ強くて優しいから、仲間を守るためならと繰り返し死地へ向かってしまう。傷を受けても悲鳴も上げない助けも求めない。一人で耐えるか、そのまま逝ってしまいたがる。
(今まで生きてこれた方が不思議だな、いくらレアナ達を守るためとは言え)
溜め息をつく。
出会うまで、ユーノがどれほど危うい夜を過ごしただろうと思うだけで、今のアシャは背筋が凍りつく。
(たった十七の娘が、こんなものに縛られて)
胸のセレドの紋章ペンダントに触れた。
美しく穏やかなレアナ、しとやかで従順なミアナ皇妃、温和で陽気なセレディス皇、おしゃまで愛らしいセアラ。
確かに誰も愛すべき人々、だが、その家族を守ろうとするために、ユーノは一人で死線を彷徨い続けてきた。本来なら、幸せな恋と優しい家族、華やかな夜会と貴族達の賞讃という、少女の望みうるもっとも美しいものを手に入れられる立場にあったはずなのに。
ユーノは自分の『銀の王族』という運命に背を向けてまで、戦いの暗闇へと踏み出していく。
(……ある意味では)
誰よりも『銀の王族』にふさわしいのかもしれない。
(人の哀しみを見過ごせず、自分の傷みを振り切って人を守ろうとする)
『銀の王族』の命は、まさにそのためにこそ準備されているのだから。
セレドのような平和な国、幻の人の世界を保つ願いのためだけに。
「……」
思わず零した吐息の幼さに気づき、アシャは苦笑いした。
(まだ、惹かれていく)
ユーノの激しい優しさに。
(とめようもなく、限りなく)
目を伏せる。絞られていく胸が切なくて痛い。
(それに、ときどき、あんな瞳をする)
ラオカーンの詩を聞きながら、ユーノはどこか寂しげな頼りない色を瞳に滲ませていた。
決して手に入らぬものを強く想うような、なのに、そういう自分を嘲るような感情の波。
(何を望んで……何を諦めようとしている?)
アシャを見返した黒い瞳が、ほんの一瞬泣きそうな、すがるような色をたたえて潤んでいたように見えた。こちらの胸を締めつけて、ついつい理由を尋ねさせるような顔、なのに、やはり一瞬後には、目の錯覚だったかのように消えてしまった表情だった。
(何が足りない)
剣の腕や豊かな知識や美貌や才能ではないのは確かだ、それらをどれほど見せてもユーノは揺らぎもしない。
(俺の何が、ユーノの望みを満たさない?)
「……だから…求めてくれないのか……?……」
溜め息を重ねて首を振り、ベッドでくうくうと気持ちよさそうに眠っているレスファートをそっと揺り起こす。
ユーノをうまく連れ出せるかどうかは、レスファートの腕にかかっている。
「レス」
「う…ん」
「レス、起きろ」
「んー」
「アグナイを出るぞ」
「ん!」
がばりとレスファートは跳ね起きた。アクアマリンの目を見張ってアシャを見つめる。乱れてくしゃくしゃになったプラチナブロンドは、レスファートが数回頭を振ると、すぐにさらさらと乱れを解いて肩に滑り落ちる。
「手順はわかってるな?」
「うん! わかってる。『へま』はしないよ」
イルファあたりから聞き覚えたのか、生意気な口調で言いながら、レスファートは目をこすってベッドから降りた。
「荷物はもう向こうに用意してあるから」
「うん。きっとユーノをつれてくよ」
「頼んだぞ」
頷いて部屋から外へ走り出していくレスファートを見送り、アシャは部屋の中を改めて見直した。忘れ物はなさそうだ。
袋から伝言を書いた布を取り出し、テーブル中央の灯皿の下に挟む。
『急ぐ旅、追手を引き連れている旅です。失礼とは思いましたが、麦祭を使わせて頂きました、申し訳ありません。このお礼はいつか必ずいたします。ラズーンのもとに。 アシャ』
見る者が見れば、最後の名前の価値を見抜くだろう。そして、それは、この村にとってよい見返りをもたらすはずだ。
灯はそのままに、そっと家を出る。
「さて、イルファの奴を探してくるか」
呟いて、アシャは闇の中へ姿を消した。
闇が深くなるにつれ、求婚者達の姿はまばらになっていた。
それぞれの手には、青い染料で染めた小さな油の壺がある。その油を、神殿の一番奥まったところにある、神像の祭壇上に置かれた自分の灯皿に注ぎ、火を灯してくるのが今回の取り決めだ。
求婚者達は、時間を前後してユーノのいる村の酒場を出発し、星だけは呆れるほど出ている月のない夜の中を、神殿目指して黙々と歩いている。
唐突に間近に動いた気配に、アシャはちら、と目を向けた。
「よう」
イルファがぬっと姿を現す。
「手順は忘れなかったみたいだな?」
「あたぼうよ。俺がお前と組む作戦の手順を忘れたことが、今まで一度でもあったか?」
「なかったな」
にやりと笑うと、同じように不敵な笑みを返して、イルファは油の壺をアシャから受け取り、再びするすると闇の中に消えていく。イルファの役目は、いち早く神殿に辿りついて、神殿の灯皿にアシャと自分の灯をともし、他の者が妙な興味をアシャに向けないように見張ることだ。
イルファを見送ったアシャは唇を結び、小さな村にしては凝った造りの神殿を見上げた。
星空を背景に、建物の輪郭が黒々と夜闇に溶け入っている。
そっと手を伸ばして入り口を探る。昼間見たときの印象、地上から続く数段の階段、細かな彫りの柱、恐らくはレストニア式の神殿だろう。
(とすると)
アシャはゆっくりと神殿の中へ足を踏み入れた。
闇の中には既に幾つかの足音がひたひたと響いている。村人とはいえ、神殿内部を熟知している者は少ないだろうから、アシャの方が早く正確に目的の場所へ行けるはずだ。
(やっぱり、この奥が神像の安置場所だな)
夜の空気を透かして方向を見定める。
柱の向こうでチラチラと灯が動いている。
もう、気の早い、度胸のいいのが、灯皿に火を入れたらしい。
(…よし)
その光も目安に、別の方向に足を速める。柱と柱の間を静かな足取りで通り抜けていく。空気は重く沈んでいる。その湿った空気の粒子一つさえ乱すことを恐れるような密やかさ、他から見れば、その動きは、夜の河の中を泳ぎ渡っていく巨大な魚のように見えたもしれない。
(このあたりか)
見極めて、やがてアシャは立ち止まった。目を閉じ、位置を確かめるように前後に一歩ずつ動いてみて、もう一度確認し、元の位置に戻る。
「…」
微かな緊張が満ちた。外から見れば、自分の目が淡いきらめきに覆われていくように見えるだろう。だが、視界は澄んで透明だ。空気の流れさえ見えそうな気がする。
抜き放った短剣が黄金のオーラを放ち始める。金粉をまぶしたような輝きが、次第次第に剣全体にまとわりつき、密度を上げて濃くなっていく。僅かに震えているのは、あまりの高エネルギーを物体一つに凝縮させているため、暴走させずに力を縛り上げる、そのコントロールが全てだ。
十分に光が満ち渡った剣を、ゆっくりと掲げた。目の前の空間を切り取るように、中空に円弧を描く。
金の軌跡がきらきらと光り輝きながら空に漂って残る。視界を焼かれたせいではない、ただの光ではない、何かの力の実体が、その空間を円として切り取ったのだ。
その証拠に、辺りの神殿の柱や壁に反射して、すぐに闇に呑まれていくかに見えた軌跡は、消えることなく一時ごとに輝きを増し始める。同時に、その軌跡に囲まれた内側の空間から光が奪われたように、円の中央部からどす黒く、何かが濁り始める。
に、と唇を綻ばせたアシャの額から、汗が一筋、頬から首筋へと流れ落ちる。
「、っ」
体から一気に放出されるような無音の圧力が空間に加わった。
押し、歪める。
抵抗する、円弧の空間。
だがしかし。
「!」
突然、限界が来たように、ぼこりと円の内側の空間が『凹んだ』。見る間にその闇の奥へと崩れ去るように落ち込んでいき、暗い彼方へ続く道の入り口に変わる。
(レス!)
緊張を保ったまま、アシャは呼びかけた。久々に開いたせいか、それとも二百年祭の不安定さか、宙道(シノイ)の安定が悪い。
(来てくれ!)
レスファートがいなければ、この試みも成功しなかったかもしれない。
「!」
「レス?」
今夜はユーノの側に居るね、とにこにこしてやってきたレスファートが、ふいに顔を戸口の方へ振り向けて、ユーノははっとした。
「アシャだね?」
「ん」
小さな声で囁き返すレスファートは隣室へと視線を走らせる。
「来いって言ってる」
「わかった、行こう」
「うん」
ユーノは椅子から立ち上がり、レスファートを従えて、仕切りの扉を開いた。
「ん、なんじゃね?」
たった一人、テーブルについていた村長が、突然出て来たユーノとレスファートを不審そうに見やる。
「あ、あの、ちょっと、小用を」
ぼそぼそと応じると、村長は鷹揚に頷いてみせた。
「おお、いってきなされ」
「いや、ボクじゃないんです、レスが」
「おしっこ!」
レスファートが軽く地団駄を踏んでみせた。
「ほう? 一人では怖いのかね?」
からかうような疑うような声に、レスファートが泣き出しそうに顔を歪める。
「だって、今日はみんな、きもだめしとかしてるんでしょ? こわいものがいるんだよね? ぼく、一人でいけないよぉ」
「それはそれは」
村長は慌てたように席を立って、扉を開いてくれた。レスが小走りに飛び出して、外からユーノを呼ぶ。
「早く、ユーノ!」
「わかったよ! すみません!」
「はいはい」
(ごめんなさい、村長)
ユーノ達が戻ってくることを疑いもせずに送り出してくれる村長に、心の中で頭を下げて、ユーノはレスファートに追いついた。
「こっちだよ、ユーノ、あ、まって」
レスファートが引き止めた。
向こうから一人の青年が駆けてくる。早々に神殿の肝試しを終わらせたのか、どうやらカズンのようだ。
急いで物陰に身を潜めてやり過ごそうとしたユーノは、一瞬ためらった。
たとえ、通りすがりの旅人とはいえ、ユーノには女王たる役目がある。誰か一人を求婚者達の仲から選ばなくては、祭りは終わらないだろう。
親切だった村長や村人の顔がユーノの脳裏に浮かんだ。
(ええい、ままよ!)
震えかけた唇を引き締めて、カズンの前に飛び出した。
「カズン!」
「は? あ、これは、ユーノ? こんなところにどうして…」
「あなたを選びます、カズン、後、よろしく!」
言うや否や、体を寄せて伸び上がり、カズンの頬に素早いキスを与える。
「え、あ…」
ぎょっとした顔でカズンが体を引く。同時に身につけていた上着の薄物を脱いで手渡し、ユーノは口早に続けた。
「ラズーンのもとに。最後までいられなくて、ごめんね!」
「あっ、あなた、ひょっとして、ユーノ!」
カズンのことばの残りは聞こえなかった。レスファートと共に走り出したユーノ、あまりのことに呆気にとられてしまったのか、カズンは追ってこない。
神殿に着くまでに二人ほどやり過ごし、ユーノとレスファートは何とか、神殿入り口近くに巨体を器用に縮こまらせていたイルファと落ち合った。
「はい、ユーノ」
「ん」
アシャの配慮か、イルファに渡された旅の服に、闇に紛れて手早く着替える。脱いだドレスをどうしようかとためらったが、唇を押し当てて感謝し、近くの柱のもとにまとめておいた。
「こっち、こっちだよ」
レスファートは明かりのほとんどない神殿の中を飛ぶように走っていった。引き連れていく馬達の蹄が、石の床に固い音をたて続ける。イルファはそれより重く響く派手な足音でレスファートを追っていく。
「まって!」
レスファートが再び警告を発した。
急いで柱の影に身を潜めたユーノ達の前を、かなり出遅れた求婚者の一人が、首を傾げ傾げ歩いて行く。
「おかしいな、確かに物音がしたんだが」
その声に聞き覚えがあった。ユーノの唇がどうのこうのと言った男だ。
(もうきっと、あんな求婚を受けることはないんだろうな)
苦笑したユーノは胸の痛みを押し殺した。
(きっと、どんな形でも、この先、私を望むものなんてない)
走り出したレスファートの後を追い始める。
神像の前の灯がちらつき、無数の影を踊らせている。柱の間を縫って進むイルファやユーノの体にも、影はゆらゆらと揺らめいている。
「もう少しだよ……あ、あそこ」
レスファートが前方の暗闇を指差した。
神像の灯から離れているがゆえの闇、なのにそこには今、きらきらとした金の輪が光りながら空中に浮かび上がっている。そして、その側に、怪しく揺れる灯と黄金の輪の不思議な光に照らされて、彫像のようにすらりと立つアシャの姿があった。
「おう、よくやったぜ、レス」
イルファがいそいそとアシャの側に駆け寄る。振り返ったアシャは珍しく、緊張したような幼い笑みを返してきた。
「ご苦労だったな、レス」
「うん!」
少年が褒められて誇らしそうに笑う。と、イルファが駆け寄った後ろから、何か白いものがひらりと落ちた。
「これ、何、イルファ?」
ユーノは拾い上げて眉をしかめた。
「俺は知らんぞ」
「文字が書いてある……えーと」
ユーノは神像の近くまで戻って布を広げ、揺らめく灯で表面に書かれたことばを読んだ。
『お急ぎの旅に麦祭を良きものとしてくださいました。何か、この村に必要とされるものがあるのではと見ておりました。ささやかながら、女王のお礼に旅のものを揃えておきました。ラズーンのもとに、よい旅を。 村長』
「知ってたの?」
レスファートが声を上げる。
「みたいだね。しっかりばれてるよ、アシャ」
「そりゃ、まあ」
アシャが苦笑いしてイルファを見る。
「こいつなんか、露骨に今夜だけを待ってたからな」
それから、ふと何かを思い出したように妙な表情になった。
「そう言えば、女王の役目はどうした?」
「選んだよ、ちゃんと」
「え」
相手がぎょっとした顔になるのに、思わず口ごもった。
「カズンだよ。来る途中に出くわしたから。みんな、良くしてくれたし、役目も果たさないで消えるのはあんまりだと思ったし」
もごもごと弁解じみた口調になるユーノと対照的に、明るく楽しく、レスファートがぶちまける。
「ユーノ、ちゃんとキスもしたんだよ! でも、ぼくにはいつでもくれるって言ったから、いいの!」
「レスっ!」
慌てて制するユーノに、アシャはますます何か言いたげな奇妙な顔になった。
「そ、うか」
口を開く寸前に話の中身を変えたような、心の何かが抜け出してしまったようなあやふやな口調で呟いたアシャだったが、ユーノの不審そうな顔に気づいたのか、どこかひきつったように笑った。
「あ、それなら、いいんだ」
「?」
「いや…ああ、これが宙道(シノイ)だ」
唐突に話題を変えて、金の輪の中を顎で指し示す。
「へええ、これがなあ」
イルファがおそるおそる近づいて、ぱっくりと口を開けている怪物に触れるように、おっかなびっくり、爪先で宙道(シノイ)の中をとんとん、と踏んでみる。
「どうやら底は抜けないみたいだな」
「大丈夫だ」
くすりといたずらっぽく笑って、アシャはことばを継いだ。
「これを抜ければ、ラズーンだ」
(ラズーン)
そのことばが胸を吹き抜け、ユーノは思わず体を揺らせた。
ラズーン。
全ての謎を含んだ国、ラズーン。
アシャが生まれ、性を持たぬ神々が住むという都、ラズーン。
統合府、ラズーン。
(ついに、来たんだ)
「そうかあ……長かったよなあ」
イルファが満足そうに深々と溜め息をついた。
「じゃあ、行こうか」
一歩、まずアシャが宙道(シノイ)の中に入る。
その姿は、まるで何もない真っ黒な空間に不安定に浮いているようにさえ見える。
人の不安が伝わったのか、馬が尻込みして進まなくなった。
「おら、来いよ」
イルファが力づくで引っ張ったが、言うことを聞かない。
「ヒスト、おいで」
ユーノの促しに、ようやくヒストが一歩踏み出した。先に立って宙道(シノイ)に入り込むユーノに全幅の信頼を置いているのか、一歩、また一歩と暗闇の中を歩き始める。
「来いってば」
「まって」
イルファが苛立つのに、レスファートが声をかけた。残された二頭の間に立ち、その両方の首にそっと掌を当てる。
「だいじょうぶだよ」
レスファートは低く優しく、穏やかな声で、馬に語りかける。
どこか遠い目をしているのは、語りかけつつ、安心出来る心象を馬達に伝えようとしているからなのだろう。
「ユーノがいるんだもの、だいじょうぶ」
「何で、俺じゃないんだ?」
「黙ってろ、イルファ」
混ぜっ返したイルファを、アシャが制した。
渋々と、やがて素直に、レスファートに導かれて、馬達が宙道(シノイ)の中へ歩き出す。それを確認したアシャが、鋭い目配せをユーノに送ってきた。
「…? あ」
そうか。
その意味を悟ってはっとした。すぐに頷き、レスファートを覗き込み、話しかける。
「ほら、レス」
「え?」
「誰がボクの役に立ててないって?」
「え…?」
きょとんとした顔で瞬きして自分を見上げるレスファートに笑いかける。
「レスがいなきゃ、ボクらはここから進めなかったよ?」
「う…ん。……そうか……そうなんだね」
頬を染め、眩そうな目をしてユーノを見返したレスファートは嬉しそうに頷いた。両手を差し伸べ、ユーノにしがみつく。ねだれられるままに、レスファートを抱き締め、その頬に唇を当てて頬ずりした。
「…ユーノ…だいすき」
うっとりと呟くレスファートにくすぐったくなる。
「ボクも、レスが大好きだよ」
「いっぱい?」
「いっぱい」
楽しそうな笑い声を上げたレスファートが、眠そうなあくびをする。
「眠いの?」
「うん」
「イルファ」
「ああ、わかったわかった」
イルファがひょいとレスファートをおぶった。
「結局俺は子守り籠ってわけだ」
「ぼやかない、ぼやかない」
くすくす笑って、ぱん、とその太い腕を叩く。
「行くぞ」
微笑んだアシャが先に立って歩き出す。
しばらくして、イルファの背中から安らかな寝息が聞こえてくると、ユーノは歩みを速めて、アシャの隣にゆっくり並んだ。
「アシャ?」
「ん?」
「わざと馬が怯えるのを放っておいたろ」
希代の軍師は答えない。
「あなたなら、馬を怯えさせずに宙道(シノイ)へ連れ出す方法ぐらい、知っているよね?」
「レスの不安を取り除くにはちょうどよかったな」
アシャは穏やかに笑ってみせた。
「実際、この先は…レスの力も必要になってくるだろう」
「そうだね」
ユーノも微笑み返す。そんなことになってほしくはないけど、レスファートが自信を持ってくれるなら、それもいいのかもしれない、と思う。
宙道(シノイ)はどこへとも知れぬ闇の中を伸びている。足元は固かったが、光のない夜の湖を渡っていくようで、進むためには、体にも心にも強さがいるような気がする。
(私達の旅みたいだ)
どこへ続くとも知れない運命に従って、あるいは迫り来る運命に追われて、人は皆、夜の道を歩いている。
「ユーノ、もし」
黙って歩き続けていたアシャが、ふいに呟いた。
「え?」
アシャを振り仰ぐと、相手はまっすぐ遠くを見つめて、ことばをためらっている。
「もし、俺が、お前を求め…」
「うおっ!」
背後のイルファが突然大声を出した。慌てて振り向く。
「どうした?」
「いや、足元がちょっと崩れた気が」
「…大丈夫だ」
ひんやりとアシャが唸った。
「物理的に崩れるもんじゃない」
「ぶつり…?」
「……お前が五百人居ても崩れん」
「なら、安心だな!」
わはは、と笑うイルファの顔が少しひきつっているのを見ると、さすがの猛者もいささか不安と見える。
「意外に神経質だよね、イルファ」
「意外とはなんだ。俺はキャサランの金細工のように繊細な男なんだぞ」
「………」
「黙るな」
「いや、だって、ねえ、アシャ?」
くすくす笑って見上げたアシャは、奇妙な顔でユーノを見下ろしている。
そう言えば、話の途中だった、と思い出して、
「ごめん。それで? もし、アシャが私を?」
「……これからも大事にしていこうと思う」
だから、あまり無茶をしないでくれよ、主殿。
いきなり訥々と続けたアシャがすぐに前を見て、ずきりとした。
(何か、大事な話をしようとしたのかな)
もうすぐラズーンだから、それまでにわかっておかなくてはならない事とか、準備していなくてはならない事とか。
(整えなくてはならない身なり…とか?)
思わず自分を見回す。
「…」
ただでさえ見栄えがしない体が、旅でもっと汚れ傷ついている。そういう主の風体では困る、そういう話だったのかもしれない。
胸が詰まった。
アシャの付き人としての仕事はラズーンまでだ。ラズーンに着けば、アシャと離れる。ユーノはセレド皇代行として、ラズーンへの恭順を示した後、再びアシャを伴ってセレドに戻りたいと願うつもりではあるけれど、アシャはそんなつもりはさらさらないのかもしれない。
後少しのことだから、付き人の自分にこれ以上の負担や迷惑をかけないように大人しくしておいてくれ。
そういう意味のことを伝えようとして、けれど、イルファがいるから慮ってくれたのかもしれない。
(そう、だよね。アシャがラズーンへレアナ姉さまを呼び寄せることもできるかもしれないし)
この宙道(シノイ)がどこまでどれだけ通じてるかは知らないが、ラズーンの神々は、その気になれば、セレド近くまで通じさせることもできるのかもしれない。
ならば、この旅は本当に、諸国の『銀の王族』の資質を試し、篩にかけるものだった、ということなのかも知れない。
本当のところは何もわからない。
アシャも何も語らない。
だが、ラズーンへ行けば。
(全ての謎が解けるんだろうか)
そして、旅は終わり、ユーノとアシャは全く違う人生に踏み出して行くことになる。
(もう、触れ合うことさえ、なく)
数々の甘い思い出が胸を掠め、切なくなる。
(そうしたら、この気持ちに、少しは整理がつくんだろうか)
吐息をついたユーノは、隣のアシャがそっと彼女を見下ろしたことに気づかない。
苦しそうに唇を噛む、その仕草が、間近に居ても触れることができない愛しい者への想いをこらえるものだとも。
宙道(シノイ)は、二人のそれぞれの想いを呑み込んで、返そうとはしない。
ただそれは、深く遠く、遥かなラズーンへと続くのみだった。
第二部 終了
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