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1.異界ぽんち
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「えろう遅なってしもたなあ」
俺はとろりと夜闇に融けたように光る月を見上げた。
夏の気配は茂った草木に濃く漂っている。そこへ珍しく霧が広がっているのは、昼間の温度よりはるかに気温が下がったからだ。
「はよ帰らな、またおかんにどやされる」
ぶつぶつつぶやいて足を速めたとたん、がつ、と右足の小指を思いっきりぶつけた。
「うあっちっちち」
引きずっていた草履がはね飛ぶ。ちょうどアスファルトの四辻、その真ん中へ飛び出した草履を慌てて拾いに行きながら、微妙に不吉な気分に襲われた。
「まずいなあ、頃合いもよし、こういう時に妙な拾いもんを一緒にしてしまうもんやから」
霧に湿った体を震わせて草履をつっかけると、痛みとともにぬるりとした感触があった。
「おいおいおいおい、冗談やないで」
母親ならば、何てんごしてんの、と言うところだが、俺の世代にはもう通じない。けれど、四辻で逢魔ガ時に怪我をして流血するなぞという無謀さはよく知っていることだったのに。
右足を引きずりながらつまづいた角に戻ってみると、ほんとにどうしてこんなところでつまづけたのか、そこには明々と街灯まで灯っていた。おまけにそこの街灯の下には、白く四角い『辻封じ』の石がある。
だが、その『辻封じ』を見たとたん、ぞお、と俺の背筋を冷たいものが走り上がった。
「うわ、まず」
『辻封じ』が割れている。
いくら何でも俺が蹴り割ったとは思えないから、おそらくは別の原因で割れていたのだろうけど、問題はこの辻が『開いて』しまっていたということだ。
「ち、ち、ち、やばいで、これ」
ジーパンのポケットから出際に姉きに突っ込まれたハンカチを取り出しながら、俺はうろたえて『辻封じ』の側にしゃがみこんだ。片手に巻き付け、ぐいぐいと石を擦る。
そこには今度は明らかに俺がつけたと思える紅が広がっていた。割れ砕けた『辻封じ』がいつもと違う位置にあったので、ついつい片足をひっかけて、しかも夏場の草履、裸足だったというわけだ。
「やばい、やばいなあ」
『辻封じ』はあちらこちらに通じやすいこの街の結界を造る仕掛けの一つだ。道が四つも重なっているところは特に厳重に角角に四つの『辻封じ』が仕掛けられ、それぞれ白と黒と赤と青に塗られている。その、よりにもよって真っ白な西角の石、俗に死者の世界を封じると言われる石を血のりで汚してしまったのだ。
「くそお、消えへん、困ったなあ」
このまま帰れば、遅くなってどやされるどころではない、母親はもとより、祭事方に努める姉きの怒りも買って、この先の高校生活にこづかい一切なしという悲惨な目にあうことははっきりしている。
「ええい、くそ、消えて、消えてくれよお」
着ていたシャツが冷や汗でべっとりしてくる。それでなくても霧が包み込み、通じやすくなっている四辻に、わざわざ血を注いだ自分の愚かさが恨めしい。
だが、必死に焦る俺をあざ笑うように、前方の道、つまりは西に通じる道にふいに人の気配がした。
「あの…」
遠慮がちに柔らかな甘い声が響いて、俺はぎょっとした。
「どうしたの? 何か手伝おうか」
がばっと相手を振り仰ぐ。相手は俺の勢いに驚いたように、一歩引いた。
背はあまり高くない、俺ととんとんぐらい。年齢もそこそこか。ベージュのジーパンに白のポロシャツ、その上に乗っているのは茶色のふわふわした毛と茶色の薄い目、まつげがけっこう長い。全体に気配が弱々しくて、頼りない。そのまま霧に呑まれそうだ。事実、たぶん、霧に巻かれて迷い込んでしまったんだろう。
「異界ぽんちや」
つぶやいて確認してしまい、ため息が出た。のろのろと石を擦るのをやめて立ち上がる。
「は?」
「ああ、しもたなあ」
相手はわけがわからない顔でぱちぱちと瞬いて俺を見た。
「よく聞こえなかったんだけど…」
首を傾げながら、一歩近寄ってくる。
この不用心さも異界ぽんちの特徴だ。自分がいる場所が別の所にすり替わっているとは思いつきもしていないのだろう。
「そーやーかーら」
俺はうんざりした。
「あー、もうあかん、こいつを引きずり出したんが俺やとわかったら、絶対おかんにどつかれる。姉きにどやされてこづかいは半減や。どうしよ、せっかくの夏休みやのに、アルバイト探しから始めなあかんかもしれん」
ついぶちぶちと愚痴が出た。
「あの」
「あのな、はっきり言うといてやる」
俺は腹立たしさを、こののんびり立っているあほうにぶつけることにした。正面から指を突き付け、一言一言区切って言う。
「ここは、おまえの、いた、とことは、違ってる。おまえは、異界ぽんち、や」
「は?」
すうう、と相手の顔が見る見る真っ赤になった。瞬きを繰り返す。何か怒ってるような、困ってるような。やがて、何かを思い詰めた顔で、まっすぐに俺の顔を見て言った。
「いかれち〇ぽ?」
気がつけば、思いっきり放った右ストレートに、相手の細い体が吹っ飛んでいた。
俺はとろりと夜闇に融けたように光る月を見上げた。
夏の気配は茂った草木に濃く漂っている。そこへ珍しく霧が広がっているのは、昼間の温度よりはるかに気温が下がったからだ。
「はよ帰らな、またおかんにどやされる」
ぶつぶつつぶやいて足を速めたとたん、がつ、と右足の小指を思いっきりぶつけた。
「うあっちっちち」
引きずっていた草履がはね飛ぶ。ちょうどアスファルトの四辻、その真ん中へ飛び出した草履を慌てて拾いに行きながら、微妙に不吉な気分に襲われた。
「まずいなあ、頃合いもよし、こういう時に妙な拾いもんを一緒にしてしまうもんやから」
霧に湿った体を震わせて草履をつっかけると、痛みとともにぬるりとした感触があった。
「おいおいおいおい、冗談やないで」
母親ならば、何てんごしてんの、と言うところだが、俺の世代にはもう通じない。けれど、四辻で逢魔ガ時に怪我をして流血するなぞという無謀さはよく知っていることだったのに。
右足を引きずりながらつまづいた角に戻ってみると、ほんとにどうしてこんなところでつまづけたのか、そこには明々と街灯まで灯っていた。おまけにそこの街灯の下には、白く四角い『辻封じ』の石がある。
だが、その『辻封じ』を見たとたん、ぞお、と俺の背筋を冷たいものが走り上がった。
「うわ、まず」
『辻封じ』が割れている。
いくら何でも俺が蹴り割ったとは思えないから、おそらくは別の原因で割れていたのだろうけど、問題はこの辻が『開いて』しまっていたということだ。
「ち、ち、ち、やばいで、これ」
ジーパンのポケットから出際に姉きに突っ込まれたハンカチを取り出しながら、俺はうろたえて『辻封じ』の側にしゃがみこんだ。片手に巻き付け、ぐいぐいと石を擦る。
そこには今度は明らかに俺がつけたと思える紅が広がっていた。割れ砕けた『辻封じ』がいつもと違う位置にあったので、ついつい片足をひっかけて、しかも夏場の草履、裸足だったというわけだ。
「やばい、やばいなあ」
『辻封じ』はあちらこちらに通じやすいこの街の結界を造る仕掛けの一つだ。道が四つも重なっているところは特に厳重に角角に四つの『辻封じ』が仕掛けられ、それぞれ白と黒と赤と青に塗られている。その、よりにもよって真っ白な西角の石、俗に死者の世界を封じると言われる石を血のりで汚してしまったのだ。
「くそお、消えへん、困ったなあ」
このまま帰れば、遅くなってどやされるどころではない、母親はもとより、祭事方に努める姉きの怒りも買って、この先の高校生活にこづかい一切なしという悲惨な目にあうことははっきりしている。
「ええい、くそ、消えて、消えてくれよお」
着ていたシャツが冷や汗でべっとりしてくる。それでなくても霧が包み込み、通じやすくなっている四辻に、わざわざ血を注いだ自分の愚かさが恨めしい。
だが、必死に焦る俺をあざ笑うように、前方の道、つまりは西に通じる道にふいに人の気配がした。
「あの…」
遠慮がちに柔らかな甘い声が響いて、俺はぎょっとした。
「どうしたの? 何か手伝おうか」
がばっと相手を振り仰ぐ。相手は俺の勢いに驚いたように、一歩引いた。
背はあまり高くない、俺ととんとんぐらい。年齢もそこそこか。ベージュのジーパンに白のポロシャツ、その上に乗っているのは茶色のふわふわした毛と茶色の薄い目、まつげがけっこう長い。全体に気配が弱々しくて、頼りない。そのまま霧に呑まれそうだ。事実、たぶん、霧に巻かれて迷い込んでしまったんだろう。
「異界ぽんちや」
つぶやいて確認してしまい、ため息が出た。のろのろと石を擦るのをやめて立ち上がる。
「は?」
「ああ、しもたなあ」
相手はわけがわからない顔でぱちぱちと瞬いて俺を見た。
「よく聞こえなかったんだけど…」
首を傾げながら、一歩近寄ってくる。
この不用心さも異界ぽんちの特徴だ。自分がいる場所が別の所にすり替わっているとは思いつきもしていないのだろう。
「そーやーかーら」
俺はうんざりした。
「あー、もうあかん、こいつを引きずり出したんが俺やとわかったら、絶対おかんにどつかれる。姉きにどやされてこづかいは半減や。どうしよ、せっかくの夏休みやのに、アルバイト探しから始めなあかんかもしれん」
ついぶちぶちと愚痴が出た。
「あの」
「あのな、はっきり言うといてやる」
俺は腹立たしさを、こののんびり立っているあほうにぶつけることにした。正面から指を突き付け、一言一言区切って言う。
「ここは、おまえの、いた、とことは、違ってる。おまえは、異界ぽんち、や」
「は?」
すうう、と相手の顔が見る見る真っ赤になった。瞬きを繰り返す。何か怒ってるような、困ってるような。やがて、何かを思い詰めた顔で、まっすぐに俺の顔を見て言った。
「いかれち〇ぽ?」
気がつけば、思いっきり放った右ストレートに、相手の細い体が吹っ飛んでいた。
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