1 / 12
1.異界ぽんち
しおりを挟む
「えろう遅なってしもたなあ」
俺はとろりと夜闇に融けたように光る月を見上げた。
夏の気配は茂った草木に濃く漂っている。そこへ珍しく霧が広がっているのは、昼間の温度よりはるかに気温が下がったからだ。
「はよ帰らな、またおかんにどやされる」
ぶつぶつつぶやいて足を速めたとたん、がつ、と右足の小指を思いっきりぶつけた。
「うあっちっちち」
引きずっていた草履がはね飛ぶ。ちょうどアスファルトの四辻、その真ん中へ飛び出した草履を慌てて拾いに行きながら、微妙に不吉な気分に襲われた。
「まずいなあ、頃合いもよし、こういう時に妙な拾いもんを一緒にしてしまうもんやから」
霧に湿った体を震わせて草履をつっかけると、痛みとともにぬるりとした感触があった。
「おいおいおいおい、冗談やないで」
母親ならば、何てんごしてんの、と言うところだが、俺の世代にはもう通じない。けれど、四辻で逢魔ガ時に怪我をして流血するなぞという無謀さはよく知っていることだったのに。
右足を引きずりながらつまづいた角に戻ってみると、ほんとにどうしてこんなところでつまづけたのか、そこには明々と街灯まで灯っていた。おまけにそこの街灯の下には、白く四角い『辻封じ』の石がある。
だが、その『辻封じ』を見たとたん、ぞお、と俺の背筋を冷たいものが走り上がった。
「うわ、まず」
『辻封じ』が割れている。
いくら何でも俺が蹴り割ったとは思えないから、おそらくは別の原因で割れていたのだろうけど、問題はこの辻が『開いて』しまっていたということだ。
「ち、ち、ち、やばいで、これ」
ジーパンのポケットから出際に姉きに突っ込まれたハンカチを取り出しながら、俺はうろたえて『辻封じ』の側にしゃがみこんだ。片手に巻き付け、ぐいぐいと石を擦る。
そこには今度は明らかに俺がつけたと思える紅が広がっていた。割れ砕けた『辻封じ』がいつもと違う位置にあったので、ついつい片足をひっかけて、しかも夏場の草履、裸足だったというわけだ。
「やばい、やばいなあ」
『辻封じ』はあちらこちらに通じやすいこの街の結界を造る仕掛けの一つだ。道が四つも重なっているところは特に厳重に角角に四つの『辻封じ』が仕掛けられ、それぞれ白と黒と赤と青に塗られている。その、よりにもよって真っ白な西角の石、俗に死者の世界を封じると言われる石を血のりで汚してしまったのだ。
「くそお、消えへん、困ったなあ」
このまま帰れば、遅くなってどやされるどころではない、母親はもとより、祭事方に努める姉きの怒りも買って、この先の高校生活にこづかい一切なしという悲惨な目にあうことははっきりしている。
「ええい、くそ、消えて、消えてくれよお」
着ていたシャツが冷や汗でべっとりしてくる。それでなくても霧が包み込み、通じやすくなっている四辻に、わざわざ血を注いだ自分の愚かさが恨めしい。
だが、必死に焦る俺をあざ笑うように、前方の道、つまりは西に通じる道にふいに人の気配がした。
「あの…」
遠慮がちに柔らかな甘い声が響いて、俺はぎょっとした。
「どうしたの? 何か手伝おうか」
がばっと相手を振り仰ぐ。相手は俺の勢いに驚いたように、一歩引いた。
背はあまり高くない、俺ととんとんぐらい。年齢もそこそこか。ベージュのジーパンに白のポロシャツ、その上に乗っているのは茶色のふわふわした毛と茶色の薄い目、まつげがけっこう長い。全体に気配が弱々しくて、頼りない。そのまま霧に呑まれそうだ。事実、たぶん、霧に巻かれて迷い込んでしまったんだろう。
「異界ぽんちや」
つぶやいて確認してしまい、ため息が出た。のろのろと石を擦るのをやめて立ち上がる。
「は?」
「ああ、しもたなあ」
相手はわけがわからない顔でぱちぱちと瞬いて俺を見た。
「よく聞こえなかったんだけど…」
首を傾げながら、一歩近寄ってくる。
この不用心さも異界ぽんちの特徴だ。自分がいる場所が別の所にすり替わっているとは思いつきもしていないのだろう。
「そーやーかーら」
俺はうんざりした。
「あー、もうあかん、こいつを引きずり出したんが俺やとわかったら、絶対おかんにどつかれる。姉きにどやされてこづかいは半減や。どうしよ、せっかくの夏休みやのに、アルバイト探しから始めなあかんかもしれん」
ついぶちぶちと愚痴が出た。
「あの」
「あのな、はっきり言うといてやる」
俺は腹立たしさを、こののんびり立っているあほうにぶつけることにした。正面から指を突き付け、一言一言区切って言う。
「ここは、おまえの、いた、とことは、違ってる。おまえは、異界ぽんち、や」
「は?」
すうう、と相手の顔が見る見る真っ赤になった。瞬きを繰り返す。何か怒ってるような、困ってるような。やがて、何かを思い詰めた顔で、まっすぐに俺の顔を見て言った。
「いかれち〇ぽ?」
気がつけば、思いっきり放った右ストレートに、相手の細い体が吹っ飛んでいた。
俺はとろりと夜闇に融けたように光る月を見上げた。
夏の気配は茂った草木に濃く漂っている。そこへ珍しく霧が広がっているのは、昼間の温度よりはるかに気温が下がったからだ。
「はよ帰らな、またおかんにどやされる」
ぶつぶつつぶやいて足を速めたとたん、がつ、と右足の小指を思いっきりぶつけた。
「うあっちっちち」
引きずっていた草履がはね飛ぶ。ちょうどアスファルトの四辻、その真ん中へ飛び出した草履を慌てて拾いに行きながら、微妙に不吉な気分に襲われた。
「まずいなあ、頃合いもよし、こういう時に妙な拾いもんを一緒にしてしまうもんやから」
霧に湿った体を震わせて草履をつっかけると、痛みとともにぬるりとした感触があった。
「おいおいおいおい、冗談やないで」
母親ならば、何てんごしてんの、と言うところだが、俺の世代にはもう通じない。けれど、四辻で逢魔ガ時に怪我をして流血するなぞという無謀さはよく知っていることだったのに。
右足を引きずりながらつまづいた角に戻ってみると、ほんとにどうしてこんなところでつまづけたのか、そこには明々と街灯まで灯っていた。おまけにそこの街灯の下には、白く四角い『辻封じ』の石がある。
だが、その『辻封じ』を見たとたん、ぞお、と俺の背筋を冷たいものが走り上がった。
「うわ、まず」
『辻封じ』が割れている。
いくら何でも俺が蹴り割ったとは思えないから、おそらくは別の原因で割れていたのだろうけど、問題はこの辻が『開いて』しまっていたということだ。
「ち、ち、ち、やばいで、これ」
ジーパンのポケットから出際に姉きに突っ込まれたハンカチを取り出しながら、俺はうろたえて『辻封じ』の側にしゃがみこんだ。片手に巻き付け、ぐいぐいと石を擦る。
そこには今度は明らかに俺がつけたと思える紅が広がっていた。割れ砕けた『辻封じ』がいつもと違う位置にあったので、ついつい片足をひっかけて、しかも夏場の草履、裸足だったというわけだ。
「やばい、やばいなあ」
『辻封じ』はあちらこちらに通じやすいこの街の結界を造る仕掛けの一つだ。道が四つも重なっているところは特に厳重に角角に四つの『辻封じ』が仕掛けられ、それぞれ白と黒と赤と青に塗られている。その、よりにもよって真っ白な西角の石、俗に死者の世界を封じると言われる石を血のりで汚してしまったのだ。
「くそお、消えへん、困ったなあ」
このまま帰れば、遅くなってどやされるどころではない、母親はもとより、祭事方に努める姉きの怒りも買って、この先の高校生活にこづかい一切なしという悲惨な目にあうことははっきりしている。
「ええい、くそ、消えて、消えてくれよお」
着ていたシャツが冷や汗でべっとりしてくる。それでなくても霧が包み込み、通じやすくなっている四辻に、わざわざ血を注いだ自分の愚かさが恨めしい。
だが、必死に焦る俺をあざ笑うように、前方の道、つまりは西に通じる道にふいに人の気配がした。
「あの…」
遠慮がちに柔らかな甘い声が響いて、俺はぎょっとした。
「どうしたの? 何か手伝おうか」
がばっと相手を振り仰ぐ。相手は俺の勢いに驚いたように、一歩引いた。
背はあまり高くない、俺ととんとんぐらい。年齢もそこそこか。ベージュのジーパンに白のポロシャツ、その上に乗っているのは茶色のふわふわした毛と茶色の薄い目、まつげがけっこう長い。全体に気配が弱々しくて、頼りない。そのまま霧に呑まれそうだ。事実、たぶん、霧に巻かれて迷い込んでしまったんだろう。
「異界ぽんちや」
つぶやいて確認してしまい、ため息が出た。のろのろと石を擦るのをやめて立ち上がる。
「は?」
「ああ、しもたなあ」
相手はわけがわからない顔でぱちぱちと瞬いて俺を見た。
「よく聞こえなかったんだけど…」
首を傾げながら、一歩近寄ってくる。
この不用心さも異界ぽんちの特徴だ。自分がいる場所が別の所にすり替わっているとは思いつきもしていないのだろう。
「そーやーかーら」
俺はうんざりした。
「あー、もうあかん、こいつを引きずり出したんが俺やとわかったら、絶対おかんにどつかれる。姉きにどやされてこづかいは半減や。どうしよ、せっかくの夏休みやのに、アルバイト探しから始めなあかんかもしれん」
ついぶちぶちと愚痴が出た。
「あの」
「あのな、はっきり言うといてやる」
俺は腹立たしさを、こののんびり立っているあほうにぶつけることにした。正面から指を突き付け、一言一言区切って言う。
「ここは、おまえの、いた、とことは、違ってる。おまえは、異界ぽんち、や」
「は?」
すうう、と相手の顔が見る見る真っ赤になった。瞬きを繰り返す。何か怒ってるような、困ってるような。やがて、何かを思い詰めた顔で、まっすぐに俺の顔を見て言った。
「いかれち〇ぽ?」
気がつけば、思いっきり放った右ストレートに、相手の細い体が吹っ飛んでいた。
10
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる