『辻封じ』

segakiyui

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11.木下闇

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 空気はねっとりと蒸し暑かった。少し歩むだけで、重ねた着物の内側には汗がにじむ。
 だが、その汗は今、ひやひやとした殺気に変わって冷えていった。
「克也」
「お出迎え、と来たね」
 路地を抜けて角を曲がって、例の先斗町に入るや否や、ふわふわと周囲を奇妙なもやが漂いだし、見る間に濃度を上げて迫ってくる。
 違和感を感じて歩を止めた数メートル先の軒先から「おかあはん、ほな行ってきますぅ」と華やかな声が響いたかと思うと、ゆらゆらと黒い蝶が群れるように黒紋付きの舞妓衆が姿を見せたのだ。
 舞妓も最近はなり手が限られ、これほど一時に店だしするはずのこともない。付き添うはずの男衆もなく、わらわらと塊になって路地を塞ぐその腰には、ぶんわりと妙に膨らむ桃色白色の玉が揺れながら細い銀の糸で結びつけられているようで。
「やあ、ほら見てみ」
「まあ、あれは達夜やないの」
「そやわ、『京』の達夜やわ」
 ざわめきながらこちらを振り返る顔は、ただ真っ白で目鼻もなく、下唇だけに塗りたてた紅が毒々しいほど鮮やかで。
「達夜」
「さがっとけ、克也」
 俺は胸の内で舌打ちした。
 おびき出すどころか、真っ向から相手の陣に飛び込んでしまったようなもの、周囲にちらちら闇夜をかすめる気配はおそらくは張り巡らされた『針』なのだろう。
 取られていた手を握り直して、克也の姿を背中にかばう。愚かな男なら訳も分からず、自分が前に出たがるものだが、克也はそのあたりはさすがにさとい。自分が足手まといになる可能性を考えてか、すうっと俺の背中に添うように後ろへ回り込んでくれた。
(あったかいな)
 すぐ真後ろに克也の体温を感じて、一瞬俺は戸惑った。
 狩りをするときは常に一人、ましてや夜闇に背中を守るものなどないはずが、今かばったはずの克也の存在に自分の守りが固まったのを感じ取る。
「達夜、達夜、どないしたん、そんなきれいなべべ着て」
「後ろにかぼたんは恋しい人か、まさかな、達夜、我ら狩る鬼がそんな殊勝な気持ちなんぞ、ないわいなあ」
 はやし立てるように口々に笑う『闇舞妓』にそろそろとおこぼを脱ぎ、足袋裸足になる。足の下で冷えた石畳がじんわりと、興奮に熱くなった体の熱を奪っていく。
「なあなあ達夜、こっちおいで、こっちおいでて、なあ達夜!」
 ふいに一人が黒紋付きをひらめかせて飛びかかってきた。足音一つたてずにさわさわと間近によると、かっと開いた口に銀に光る牙を見せ、がきっと危うく首の付け根で噛み合わせたのを、とっさに体をそらせて避ける。と、
「つ!」
 ずきんと激しい痛みがこめかみを貫いて、俺は一瞬視界を失った。
(『針』!)
「ほうら、あぶないえ」
「なあ、達夜!」
「く…っ…っ!」
 揺らめいた体を支え損ねて近くの壁に寄れば、そこをめがけて別の『闇舞妓』がぶつかってくる。必死に避けたそのすきに、もう一人が爪を光らせ襲いかかってくる。乱れる着物の裾を蹴立てて走れば、背けた顔の鼻先をきらめく『針』の気配がよぎる。
「達夜!」
 またもう一度、『針』にこめかみを貫かれて、俺は吐き気に前へのめった。
 食らえば食らうほど衝撃がひどくなるのは知っていたが、それでも最後の砦にしがみついていたのは、克也にきれいなままの自分を覚えていてほしかったからで。
「達…あ!」
 だが、物陰に走り込んで様子を見ていてくれた克也が悲鳴を上げて振り返れば、『闇舞妓』の一人が背後から克也を抱き締めていた。右手をはねあげられ、肩から腹へ背後から手を回され抱えられている克也、あれではすぐには抜けられない。しかも、もがこうとした克也が何に気づいたのか、ふいに呆然とした顔になって背中の『闇舞妓』を振り返り、こうつぶやいた。
「頼子……」
「克…え?」
「頼子だろ? どうしてこんなこと、するんだ?」
 克也は混乱した顔で背中の『闇舞妓』の白塗りの顔を振り向いている。
 どれも同じような白塗りなのに、そしてまた目鼻もとうになくなって、恐らくは気配も似たものになっているはずなのに、それでも頼子をそうと認識できること、それを一瞬うらやんだのも確かだが、何より俺を凍らせたのは頼子と呼ばれたその『闇舞妓』の、紛れもない克也への恋慕の情で。
(まさか)
 克也は頼子が体は女性だが心は男性で、だからこそ友人でしかないと言っていたはずだ、そう考えた俺のためらいがすきを作った。
「あ…ぅ」                
 首を無理にねじ曲げられるようにして、克也が『闇舞妓』に口を吸われる。小さな悲鳴がくぐもって、合わせた口元から真っ赤な鮮血がはい降りるのが目に飛び込んだ。
 何を見てもおびえることのなかった克也の瞳が恐怖に染まり、見る間に潤む。強ばらせた克也の体から見る間にくたりと力が抜けて、滑り落ちるように『闇舞妓』の腕から崩折れる。
「こ…のっ…!」
 視界が紅蓮に染まった。
 抑えて沈めてなだめていた、体の内側の炎が肌を突き破って吹き出すのを感じた。白銀の光がふつふつとたぎりながら体を駆け抜けあふれだし、髪が解け逆立っていくのがわかった。ばりばりと微かな稲妻のような響きが周囲を覆う。身につけていた克也が選んでくれた衣装が、体から放った光の矢に引き裂かれて飛び散っていく、その光景も胸を詰まらせた。
「ようもやってくれたなあ」
 『闇舞妓』が押し黙った。
 こうなってしまった俺を止められるものなど『京』にはいない。片手を握ると、そこに輝く両刃の剣が出現する。ぎらぎらと耐え難いほどに光りながら大きさを増す剣、それを構えるまでもなく、俺は一陣の風のように『闇舞妓』をなぎ払っていた。
「ひいいいいい」
「きやあああああ」
 切れ切れの悲鳴が夜闇に上がる。けれど、その声は、もうこの現実の世界を離れつつあるもの、俺の耳には猛々しく聞こえても、少し離れた路地をくぐる観光客にはやや強く吹く風の音にしか聞こえるまい。
 寄り集まっていた『闇舞妓』と中途半端に浮かんでいた『針』をひとまとめに片付けて、俺は倒れた克也を見下ろし立っている、かつて頼子だった『闇舞妓』に向き直った。
 克也は口から血をこぼしながら、どうやら気を失っているようだ。微かに、けれど忙しく動く胸が、口を犯され命を吸い取られかけた傷の重さを示していて、俺の怒りはとめどなく膨れ上がった。
「なんでやねん」
 俺は頼子をにらみつけた。
「こいつはお前のことを心配して、探しにきて、助けにきよったんやぞ? こいつはお前の友達と違たんか。こいつはお前を大事にしとったぞ?」
(姿が変わっても一目でお前がわかるぐらいに)
 じりと焼かれた胸のつぶやきは押し込めて言い募ると、頼子の白塗りの口元がわずかにぼんやりとほころんだ。
「大事にするのと欲するのとは違うんだよ……俺は克也に欲してほしかったんだ……その様子だと、いろんなことを知ってるな?」
「たぶんな。それに今度の『辻封じ』壊しの一件、実はお前の企みやろ」
 頼子は一瞬ことばを飲んだ。
「なんで…?」
 かすれた声で尋ねてくる。
「祭事方を見くびるなよ。同じような出来事は少し前にもあったんや。『京』の女でこちらに囚われ引きずられて、そのまま祭事方の目をくぐり、こちらに住み着いて子どもを産んで暮らしてくもんは多い。俺らかて、境を壊さへん限り、無闇に異界に狩りにもでえへん。大人しうしてたらよかったんや。お前の母親はそんなこともお前に教えへんかったんか」
「教えてなんか、もらえなかったよ」
 頼子はしわがれた声でつぶやいた。
「俺の母親は男狂いで、年中誰かを連れ込んでた。そういう母親が大嫌いで、そういう母親と同じ性質の体だと思うだけで嫌になって。気がついたら、自分を女だなんて考えられなかった。女の体を捨てることなど何とも思っていなかったさ」
 苦笑した気配で頼子は視線を克也に落とした。
「けど、心残りは唯一克也……きれいな克也、愛しい克也、女のままでいたなら俺は克也と結ばれるかもしれない、そう思っていた。けれど、日に日に俺の感覚は男になっていくし、それに」
 一瞬ためらったような間が空いた。
「それに……俺は……男としても、克也が好きなんだ」
「なに……」
 俺はぎょっとしながらも、いろんなことが次々に胸におさまるような気がした。
 なるほど、頼子は心の底から男だったから『闇舞妓』が女に見えた。男としても克也を好きになり始めたから、女のままでおさまってしまうわけにはいかなかった。
 自分のままの姿で、ありのままの姿で、好きな相手に好きになってほしい。
 それはほぐしてしまえば単純なほどわかりやすい図式で。
「……そやったら、なおさら」
 俺はうなった。
「なんで、克也をこんなことに巻き込んだ」
「わかるだろ、あんたなら」
 ふいと頼子は克也の側に屈み込んだ。浅い呼吸をしながら目を閉じてる相手の頬をそっと指先でさすりあげ、刺激にわずかに見開いた克也の目を深々とのぞき込む。
「わかるだろ、誰にも渡したくない。鈍感な男、人の気持ちなんか、これっぽっちも気づかない、俺が克也にどんなことしたいって考えてるのか、想像もしてみなくって、無邪気に俺のことを理解してるつもりで、友人の顔して……女の子となら二人で旅行はまずいけれど、頼子は男なんだもんね、と言われた日には」
 頼子は深い吐息をついた。
「殺してやろうと思ったさ」
「それで……『京』に連れ込む気やったんか」
 俺の声に頼子はまた何度も克也の頬をなでた。あげくのはてに、そろそろと克也を抱き上げて、これみよがしに抱きかかえる。
「母親から『京』のことは多少聞いてた。『京』の辻が封じてあることは知ってた。『京』はここと重なってるけど異界の地で、そこなら俺が克也をどうしようと誰も止めはしないだろう、そう思った。母親のところへときどき訪ねてくる、そちらから来て、我慢のできない女と示し合わせて、石を壊して」
「んぅ…」
 克也が小さくうめいて、また口から血をこぼし、俺はぞっとした。
 頼子の間近にあるうちは、俺も克也に手が出せない。俺の剣は『京』のものだけではなく、異界に同化したものも始末するようにしつらえられている。このまま剣を振り抜けば、克也もろとも魂を飛ばして砕いてしまうに違いなかった。
 俺は必死に頭を働かせた。
「お前、あほやろ」
「え?」
「『京』がなんで封じてあるのか、そういうとこは聞かへんかったんか」
 俺は溜め息をついて見せた。不審そうに顔を上げる頼子に、
「『京』は言うなれば、女の欲望のたまり場や。恋しい男と一夜をちぎり、こらえられぬのにこらえて戻り、残る一生を恋しい男の面影で生きる、そういう想いと念の渦巻く場所や。恋しい男が側におらへん、そやけど、遠く離れた異界で、幸せに生きていてくれる、それだけで気持ちを支えようという場所やで。そんなところへ、たとえ一人にせよ、気持ちの通じた恋しい男を連れ込んでしもたら、どうなると思う。飢えた女の餌食にされるのは決まってるやろ」
(ほんまにそうや)
 克也は異界ぽんちで早々に俺達が対処したから何とかなったのだ。もしこれが、別の場所別の相手だったとしたら、克也が無事にこちらへ戻れたかあやしいのは確かだった。
(きれいやしな、こいつ)
「そう…なのか?」
 頼子は初めて動揺した。
「そんなこと……俺は聞かされてない…」
「そやろ。お前にこうしろと吹き込んだやつがいるはずや」
 俺は手を開いて剣を消した。戸惑っている頼子の前でそっと膝を折ってしゃがみこむ。
(えげつない光景やで)
 克也を間に、片方は黒紋付きの『闇舞妓』、もう片方は襦袢やら何やらの切れ端をかろうじて体にひっかけてる光る鬼とくる。
 珍妙な問答をさっさと終わらせるべく、俺はことばを重ねた。
「ええんか…? そのままやったら、克也、死ぬで?」
「え」
「知らへんかったんやろうけどな、『闇舞妓』になってしもたら、恋しい男を手にいれることはもうかなわんのや。口をつけても、体を寄せても、それは相手の命を貪ることになってしまうのや」
「……そんな……」
 白塗りのぽっちりとした小さな口が、震えてことばを押し出した。
「じゃあ、俺は……俺のしたことは」
 微かな息を喘がせる克也に視線を落とし、やがてそっと吐いた。
「そうか…そうなんだな……俺は克也を……むさぼった……克也の命を食らったん、だな?」
「……ああ」
 克也の呼吸は次第次第に弱くなる。焦りいら立つ気持ちを抑えつけて、俺はそっと相手を促した。
「そやし、お前にこんなこと、そそのかしたやつが悪い。そいつの名前を教えてくれへんか?」
 頼子はそっと克也の体を降ろした。丁寧に地面に横たえて、うつむいたままつぶやいた。
「……克也を助けてくれるか?」
「ああ」
「……克也……ごめん」
 何とかなりそうだと俺が息をついたそのとき、頼子はいきなり俺に飛びかかってきた。爪を曲げ、牙を向き、『針』を飛び回らせて襲ってくる。その白塗りの顔、あるはずのない瞳にいっぱいの涙、を見たような気がした。
「頼子…っ!」
 そこから先は、とっさの動きだった。握りしめた手に剣を出現させ、最大出力に高め、次の一瞬『針』もろとも頼子の体をなぎ払う。
「がああああっ!」
 たまぎるような悲鳴を上げて、黒紋付きが丸く縮み、次の一瞬四散した。
「く、そおおっ!」
 まるで計算されたように、横たわっている克也に向かって流れていく切っ先、何とか剣の勢いを収めようともう片方の手で刃先を抑えたが、それで殺せる勢いではなく、逆に左手を派手に傷つけて血しぶきを散らしながら反り返る。
(克也っ)
 自分の剣で大事な相手の命を奪っていく、頼子の気持ちそのままを再現してしまう恐怖に、剣を受け止めた左手に力を込める。防御を張り、皮一枚で衝撃をこらえて、進もうとする刃を食い止める。
 だが、一度緩めた防御はすぐに戻ってくれなかった。これ以上は自分の身体で克也をかばうしかない。
「達夜…」
(かまへんわい!)
 かすれた克也の声が耳に届いて、俺は覚悟を決めた。身体を入れ替え、克也を背中に、剣の勢いを握りつぶそうとする。指を切り落とされる激痛に顔をゆがめて倒れかけた俺を、どん、と思わぬ力強い手が支えた。
「っ……姉貴!」
「何してんの、こんなところで」
 背後にいきなり出現したのは、まさかこちらへでばってくるとは思ってもいなかった、祭事方の長、光津子姉だった。
 限界状態でなおも力を噴出し続けている俺の額をとん、とつつく。細く白い指先が白銀の光を放って、俺は眉をしかめ目を閉じた。意識が一気に暗くなる。
「あんたに命じたんは、もうちょっと大人しい仕事やったはずやけど、まあええわ、今回は大目に見る。去ぬえ、達夜」
 柔らかな、けれど逆らいがたい光津子姉の声に、克也を何とかしたってくれ、そうつぶやいたのが俺の最後の記憶だった。
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