『ハートレイト』

segakiyui

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「ぐっ」
 背後で奇妙な声が響いて、北野由紀子は振り返った。
 日曜日の穏やかな昼の検温時間。
 三年目でまだまだ走り回ることが多い北野が、患者の一人一人と話ができるのは今しかない。そう考えて、ある患者の側に腰を落ち着けていたときのことだった。
 北野の目の前で、岩見という六十になる患者が、苦悶の表情で胸を押さえて前にのめり、ベッドから落ちかける。
「岩見さんっ」
 とっさに抱きとめたものの、やせた老人の体は想像以上に重かった。膝をつきそうになって必死に耐え、ベッドの上へ押し戻す北野に、隣の患者が慌てて駆け出しながら叫ぶ。
「お、おれ、先生呼んで来る!」
 あなたも心臓病患者なのよ、走らないで。
 北野の声は出なかった。震え出す手を一瞬こぶしに握ってすぐ開き、北野は岩見のベッドのナースコールを押した。
 急を知った同僚と医師が駆けつけて来る間に、岩見の呼吸を確かめ、血圧を測る。大声で二度三度呼ぶ。
「岩見さんっ。岩見さんっ!」
 微かなうめきをもらして、岩見が目を開けた。かきむしるように胸を抱えようとする。
「胸が痛いのねっ?」
 確かめて、北野は岩見の枕元に常備されている血管拡張剤を取った。ふたを開け、一粒、食いしばる岩見の口をこじ開けて舌下に入れる。前後して、心電図モニターと救急カートが部屋に運び込まれた。担当医師が北野から状況を確認しながらモニターを装着し、点滴ラインを確保してうなずく。
「梗塞だな。このままCCUに運ぼう」
 たちまち慌ただしく看護師達が動く。その渦の中を少し離れて、北野は部屋の残りの患者に笑って見せた。
「びっくりしたでしょう。大丈夫ですよ。岩見さんは違う部屋へ移します。後でこの辺りを片付けますね」
 患者たちがほっとした顔で北野を見た。軽くうなずき返して、北野はストレッチャーで運び出された岩見を追った。

 北野が勤めている内科は、別名心臓内科ともいわれている。外科的な処置を行う以外の患者、また手術待ちの患者も入ってくる。
 だから、いつ何時、何が起こるかわからない。仕事は常に緊張の連続だ。その緊張には命を預かっているということ以外のものも含まれている。
 患者も看護師も一人の人間だということだ。

 北野は数日後、師長に呼び出された。
「え?」
 師長の話をきょとんとして聞く。何を言われているのか、どうにもよくわからない。
「あの……岩見さんが、何とおっしゃったんですか?」
「……だからね、あの発作のときに高価な時計がなくなったんですって。薬を飲ませたり、部屋を片付けたりした時に触らなかっただろうかと聞いてほしいって」
 師長は苦々しい口調で繰り返した。
 数度、そのことばを噛みしめた北野は、全身から血の気が引いていくような気がした。怒りからか、不安からか、震え出す体から、むりやり声を絞り出す。
「……つまり、私が盗んだ、とおっしゃってるんですか」
 師長は唇を噛んだ。悔しそうに曇った相手の表情に少し救われた気がして、北野は次のことばを待った。
「……そうなるわね。そんなことはない、といくら説明しても駄目なの。あの看護師しか、わしの荷物を触っていない、他の患者が盗むわけがない、の一点張りで……」
「そんな…」
 北野の顔色がますます青ざめたのだろう、目を上げて彼女を見つめていた師長は、おもむろに首を振った。
「やめましょう。あなたがそんなことをするはずがない。第一、病院に、それも鍵のかからないところに高価なものを置いていた方にも責任はあるしね。入院時に再三再四話しているのに、どうして何万もするものを持って来るのかしらね。岩見さんとはもう一度話し合ってみます」
「すみません…」
 北野は何とも言いようがなくて、頭を下げて唇をきつく締めた。
 岩見という患者は、以前にもダイヤモンドの指輪を病院内に持ち込んで、それがなくなったと大騒ぎをしたことがある。何でも、無一文から一代で財を成し、今では外車を数台所持し、大きな家に夫婦二人だけで住んでいるという。病院の食事はまずいといって勝手に飲み食いし、食事制限できないと医師に止められてからは、その医師のことを言いたい放題触れ回ったあげく、担当医師を変えさせたこともある。
「いまさら言っても仕方がないし……緊急時にそこまで気が回らなかったのは無理もないけど、岩見さんだったから、もう少し考えるべきだったわね」
「はい…」
 北野はぐったりして師長室を後にした。
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