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「何だったんです?」
詰め所に戻ると、後輩の大原が看護記録から顔を上げた。
もう昼休みで、勤務者は交替で食事を取っているのだろう。詰め所内は静かだった。
「深夜明けで、お小言ですか?」
やんわりと尋ねる大原に、北野は固まった心を解きほぐされていくような気がした。
「ううん……そうじゃなくて……」
隣に腰を下ろし、話すともなく話し始めていたのは、大原の年齢によるものかも知れない。
大原さつきは、看護師になったのこそ北野より後だが、北野より三歳ほど上になる。それまで法律系の大学に通っていたのだが、『何か手応えが欲しくなって』中退、改めて看護学校を受験した。通っていた大学はかなりレベルの高いところだったとかで、『泣いて止める父母を振り切り』看護師になった、と苦笑まじりに話したことがあった。
北野はそれこそ何となく、に近い看護師志願。食べていくのに不自由がない、程度の発想で看護師になった。大原の決断力にはあきれるしかないというのが正直なところだ。
「岩見さんがねえ……でも、それは少し、へまをしましたね」
あっさりと大原が言っても、北野は腹が立たなかった。
「うん、そうだよねえ……へまをした。もっと考えればよかったかもしれない。師長さんとか主任さんと部屋を片付ければ……」
「階級に弱いですからね、あの人は」
くすりと大原は醒めた笑い方をした。
「それに……北野さんは少々危なっかしいでしょう、看護師をやるには」
北野はどきりとした。
全く同じことばを聞いたのを思い出したのだ。
なぜだ、と聞こうとしたが、大原はナースコールに呼ばれて立ち上がっており、北野は彼女に軽く手を振って寮に帰るしかなかった。
看護師をやるには危なっかしい。
大原が言ったことばを噛みしめながら、北野は寮の部屋で電話のプッシュボタンを押していた。
そのことばは昭吾に言われたものだ。
昭吾と知り合ったのは大学時代だった。
付き合いで行ったコンパの空気になじめず、早々に帰りかけた店の出口で声をかけられた。知り合いと間違えたんだよ、ごめんね。そう、昭吾は言った。しばらく話していると、興味のある本や映画が似ていて、映画を一緒に見に行く約束をした。それからずっと付き合っている。
受話器の向こうで呼び出し音が鳴っていた。だが、いつまでたっても昭吾の声には変わらない。
北野はあきらめて受話器を置き、ふと思いついて昭吾の実家へかけてみた。二、三度尋ねていることだし、昼間だから問題はないだろう。
実家の電話にはすぐに応答があった。
『え? 昭吾ですか? あの……今日はお友達と…何でも海に行くと言って……あの…由紀子さんには言ってなかったんですか?』
北野は聞いていなかった。だが、いぶかしそうな昭吾の母親の声に慌てて答えた。
「え……あ、そうか、そうですね、何だ、私、今日行けなかったんですよ、勤務で。そうだ、忘れていたわ。あの、ごめんなさい、すっかり忘れてて……はい、あの……はい……さようなら」
話もそこそこに受話器を置く。
北野の耳の奥で、最後のことばがこだましている。
『ああ、それより、先日、何ですか、ステキなシャツをありがとうございました。あなたのお見立てですってね』
北野は買っていない。それどころか、ここ数カ月、昭吾と会ってもいないのだ。
「仕方ないっか……ここんとこ、ずうっと勤務勤務だもんね…」
北野はごろりと寝転がった。
壁にかかった真っ白なカレンダーを見て、窓の外の空を見る。きいんと堅そうな光とそれが跳ねているまばゆいほど白い雲。
「海……かあ……夏だもんねえ」
北野はもう一度カレンダーを見て、零れた涙を片手でこすった。
詰め所に戻ると、後輩の大原が看護記録から顔を上げた。
もう昼休みで、勤務者は交替で食事を取っているのだろう。詰め所内は静かだった。
「深夜明けで、お小言ですか?」
やんわりと尋ねる大原に、北野は固まった心を解きほぐされていくような気がした。
「ううん……そうじゃなくて……」
隣に腰を下ろし、話すともなく話し始めていたのは、大原の年齢によるものかも知れない。
大原さつきは、看護師になったのこそ北野より後だが、北野より三歳ほど上になる。それまで法律系の大学に通っていたのだが、『何か手応えが欲しくなって』中退、改めて看護学校を受験した。通っていた大学はかなりレベルの高いところだったとかで、『泣いて止める父母を振り切り』看護師になった、と苦笑まじりに話したことがあった。
北野はそれこそ何となく、に近い看護師志願。食べていくのに不自由がない、程度の発想で看護師になった。大原の決断力にはあきれるしかないというのが正直なところだ。
「岩見さんがねえ……でも、それは少し、へまをしましたね」
あっさりと大原が言っても、北野は腹が立たなかった。
「うん、そうだよねえ……へまをした。もっと考えればよかったかもしれない。師長さんとか主任さんと部屋を片付ければ……」
「階級に弱いですからね、あの人は」
くすりと大原は醒めた笑い方をした。
「それに……北野さんは少々危なっかしいでしょう、看護師をやるには」
北野はどきりとした。
全く同じことばを聞いたのを思い出したのだ。
なぜだ、と聞こうとしたが、大原はナースコールに呼ばれて立ち上がっており、北野は彼女に軽く手を振って寮に帰るしかなかった。
看護師をやるには危なっかしい。
大原が言ったことばを噛みしめながら、北野は寮の部屋で電話のプッシュボタンを押していた。
そのことばは昭吾に言われたものだ。
昭吾と知り合ったのは大学時代だった。
付き合いで行ったコンパの空気になじめず、早々に帰りかけた店の出口で声をかけられた。知り合いと間違えたんだよ、ごめんね。そう、昭吾は言った。しばらく話していると、興味のある本や映画が似ていて、映画を一緒に見に行く約束をした。それからずっと付き合っている。
受話器の向こうで呼び出し音が鳴っていた。だが、いつまでたっても昭吾の声には変わらない。
北野はあきらめて受話器を置き、ふと思いついて昭吾の実家へかけてみた。二、三度尋ねていることだし、昼間だから問題はないだろう。
実家の電話にはすぐに応答があった。
『え? 昭吾ですか? あの……今日はお友達と…何でも海に行くと言って……あの…由紀子さんには言ってなかったんですか?』
北野は聞いていなかった。だが、いぶかしそうな昭吾の母親の声に慌てて答えた。
「え……あ、そうか、そうですね、何だ、私、今日行けなかったんですよ、勤務で。そうだ、忘れていたわ。あの、ごめんなさい、すっかり忘れてて……はい、あの……はい……さようなら」
話もそこそこに受話器を置く。
北野の耳の奥で、最後のことばがこだましている。
『ああ、それより、先日、何ですか、ステキなシャツをありがとうございました。あなたのお見立てですってね』
北野は買っていない。それどころか、ここ数カ月、昭吾と会ってもいないのだ。
「仕方ないっか……ここんとこ、ずうっと勤務勤務だもんね…」
北野はごろりと寝転がった。
壁にかかった真っ白なカレンダーを見て、窓の外の空を見る。きいんと堅そうな光とそれが跳ねているまばゆいほど白い雲。
「海……かあ……夏だもんねえ」
北野はもう一度カレンダーを見て、零れた涙を片手でこすった。
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