『朱の狩人』

segakiyui

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 夜の闇はねっとりと濃い。
 夏休みも残り少なくなって、『デッド・ウィング』を走る獣達もどこかに焦りをにじませているような気がする。
「また来てるのか」
 すぐ側に派手な赤のCB750が寄ってきて、乗り手が内田に声をかけてきた。
「まあな」
「あれだけあっさり言われたのに、こりないな」
 榊の呆れ声に肩を竦めてみせる。
「あいつはときどきへたな嘘をつくんだよ」
「今度はほんとかもしれないぞ」
 榊が面白がるようにこちらを覗き込んでくるのを、内田は煙草に火をつけるふりをして無視した。

 朱乃が仁に屠られてから10日間が過ぎていた。
 あの後、仁は宮岸病院に5日間入院し、パニックになって宮岸病院に乗り込んできていた母親付き添いのもとで家に戻ったはずだった。
 だが、その後、内田にも宮岸病院にも連絡がない。
 回復は早かったぞ、と城崎は言っていた。長引いたのは各種の検査のせいだ。それまでずっと下降線を辿っていた成長に関する指数がなぜか上昇に戻って、城崎はほっとしていた。
 仁は朱乃に出逢ったことで、能力の制御方法を手に入れたらしい、それはいい。だが、それで内田が不要になったという論理は頂けない。はっきり言って不愉快だ。
 あの場は仁もずたずただったし、日を改めて問いつめてやろうと思っていたが、案の定仁が掴まらない。それも今回は徹底していて、微かな痕跡さえ残さず、内田が立ち回りそうな気配を察するとすぐに姿を消してしまう。例の夏期講習の大学でさえ、ほとんど皆の記憶に残らないほど自然に溶け込んでいるようで、どうにもならなかった。
(けど、それじゃあ、何にも変わってねえじゃないか)
 ただごまかしがうまくなっただけ、より制御された能力で姿を完璧に消したところで、仁の孤独が楽になったわけではないのだ。むしろ、そこまで完全に姿を消してしまうこと、それは仁がこの世界に一切関わりをもたないと決めたという意味ではないのか。この先の命を、ずっと1人で生きて行くと覚悟したということになるのではないか。
「ち」
 短い舌打ちをして内田は煙草を捨てた。ヘルメットを被り直す。
「帰るのか?」
「もう一度走ってくる」
「もうじき夜が明けるぞ」
 榊の声には哀れみと優しさが滲んでいる。あの夜からときどきこうして、『デッド・ウィング』に顔を出すのも、まんざら支配を広げたいだけでもないみたいで、他愛ない話を内田とするのを楽しんでいるようなところがある。
「あんたこそ、高尾とやらが心配して眠れてねえんじゃねえのか」
「高尾は…」
 榊は少しためらって苦笑いした。
「英語が好きだそうだ」
「は?」
「お前が聞けと言っただろう。だから、聞いてみた、何がしたいんだと」
「ほう」
 榊は深く溜息をついた。
「ほんとはずっと英語の学校に行きたかったらしい。バイクが好きだったから、ツーリングでアメリカを回りたかったんだと。だが、店の客からバイクに乗れなくてもアメリカには行けると言われたそうだ。自分がしたかったのは、アメリカに行くことだったんだ、と急に気がついたって笑ってた。あれだけ私が悩んだのにな」
「いいじゃねえか」
 内田は笑い返した。
「乳離れしてねえのはあんただったな。ブラコンてやつか?」
「そうなる」
 榊が生真面目に返して吹き出した。だが、すぐに笑いを止めて、
「だが、あいつには、なまじなことでは無理だぞ」
「わかってるさ」
「あいつが危ない奴だということは変わらない」
「あんたにはわかんないかもしれねえけどさ」
 内田は低い声で応じた。
「俺が潰れなかったのはあいつがいたからだ。だから、諦めるわけにはいかねえんだよ」
「意外と」
 榊がこれみよがしに眉をあげる。
「古風な男だな」
「おまけにしつこいんで、けっこう嫌われてるかもな?」
 内田は苦笑してエンジンをかけた。その内田に榊が何かを言った。
「何?」
「それでも」
 榊が大声で繰り返した。
「あいつにはお前が必要だ」
 聞き取った声に内田はにやりと笑った。
「わかってる」

 もう明け方が近かった。ゆっくりと明るみだした空から、天上の音楽が聴こえるような爽やかな風が吹き下ろしてくる。深い紺の空がじりじりと空の一端へ巻き上げられていき、灰色に滲む空気が上ってくる太陽の光に次第次第に薔薇色に染まっていく。
 その空の下を、黒のZIIが疾走していた。幾つものカーブを丁寧にクリアしていくその走り方にどこか切なげなところがあるのは気のせいだろうか。
 しばらく無言で見つめていた仁は、唇を噛みしめるとその後ろへ吸いつくようにRDを滑り込ませた。わかってはいるだろうが、それでも3回のパッシングライトで合図し、絡むように速度を上げていく。ZIIはすぐに反応した。直線でおいてけぼりにすることはなく、カーブではぎりぎりまで寄せてくるその走り方、もう少し、もう少しと追い詰めてくる感覚に自分の中の能力が引きずり出されていくのがわかる。
(もっと早く……もっと鋭く)
 悩む間もなく、怯む間もなく、この時間の中を、空間の果てに向かって永遠に走り続けていたいと願う。
 仁の気持ちを読み取ったかのように、内田のZIIが煽り誘い先へ先へと導いていく。
(ずっと、このままで。ずっと先の、未来まで)
 行き場のない夜の疾走を支えてくれた走りを思い出す。どんなに離れていても、必ず自分を見つめていた視線を思い出す。
 戻ってくると言ったことばだけで、こうして仁が姿を現すまで待っていてくれた。存在感の大きさに自分がどれほど安心しているかがよくわかる。
 内田がどれほど大切なのか、朱乃とやりあった今ではなおわかる。
 内田は結果を求めない。自分が居ることへの感謝を、意味を仁に求めない。
 仁が仁のままに居ることだけを望んでくれる。

『もう……いいわ』
 実家に戻ったときに、母親が疲れた顔でそう告げた。
『もう、あの子のことは構わないわ』
 それが内田のことだとわかるのに、ずいぶん時間がかかった。
『何を言っても、どうしても、あの子はあんたの側にいるのね』
 声にどこか淋しげな口調があるのを仁はあえて知らぬふりをした。
 宮岸病院のベッドで体中に包帯を巻きつけられて、ひたすらに眠りを貪っていた夢は、いつも1人で歩く夢だった。
 真っ暗な道、細く切り立った山の尾根をよろめきながら歩いている。周囲に光はなく、ひたすら寒い風が吹いている。少しでも気持ちを揺らせて不安になり、左右の谷を覗き込めば、すぐさま転げ落ちるに違いないその道を、とぼとぼと肩を落として歩いて行く。
 どこかで疑問を感じていた。
 どうして自分は1人でこんなところを歩いているんだろうと。
 始めから1人だったのだろうか。
 いや、そんなはずはない、始めはみんなが居たはずだ。きしん、さとる、ダリュ-、マイヤ、城崎、紺野、それに内田。
 内田? そうだ、内田だ、どうして彼はいないのか?
 そう思って立ち止まったとたん、打ちのめされるような気持ちで思い出していた。
(当たり前じゃないか)
 仁が拒んだのだ。今度こそ完璧に拒んだのだ。もう二度と関わるなと。もう側にいなくていいと。内田は仁に不必要だと。
(だから、いない、それだけじゃないか)
 そうなのだ、内田はもう必要がない。仁は望んでいた十分な制御力を得た。自分の新しい力をどのように組み合わせ、共振させ、強化するのかも学んだ。
 だから、内田が側にいなくてはならない理由などない。あえて危険な所に引き連れていく理由もない。
 この道は。
 夢の中で仁は唇を噛んで先を見据える。
 この道は、自分1人が歩む道。
 誰もいらない、もう、誰も傷つけたくはないから。
 目が覚めるたび、体は回復しているのに、心は深くより重くなって、仁は次第に眠れなくなりつつあった。
 それでもいい、内田を巻き込むよりはよほどいい、そう思ってしのいでいるにはいるのだが。
 しのいでいたのはいたのだが。

 繰り返し『デッド・ウィング』を流してさすがに相手が疲れた気配がしてきたので、仁はゆっくり速度を落とした。そこはいつか『印怒羅』に追い迫られて逃げていた場所、少し離れた道の先の膨らみでZIIが止まるのに、そろそろと近寄ってエンジンを切り、ヘルメットを脱ぐ。
 瞬間、顔を出した太陽が視界に弾けるような金の光を満たして、仁は眉をひそめた。
「よう、早いな」
 内田は背後に仁がいたことに驚いたふうさえなかった。当たり前のように声をかけると、にやっと例のメフィストフェレスの笑みを投げてよこしながら、ラッキーストライクをくわえた。黒のTシャツに履き古したジーンズ、輪郭の向こうから朝日が眩い光を放つ、まるでその背に黄金の羽根を描くように。
 さりげない顔で火をつける、見慣れた仕草に、仁の中に微かな期待が動く。
(いつも通りだ)
 まるで、何もなかったように。仁が拒んだことさえ夢だったように。
 ひょっとしたら、何も言わなくても、このままするすると元のように戻れるんじゃないか。
 そんな仁の気持ちを見透かしたように、内田はくす、とどこか魔的な笑みを浮かべた。
「ばればれだぜ」
「……え?」
「お前は甘いって言ってる」
 一瞬、朱乃に囁かれたことばがオ-バーラップして、仁は固まった。動揺した気持ちをなお揺さぶるように、内田は冷ややかな声で尋ねてきた。
「で、何の用だ?」
 ふ、と挑発的に煙を吹き上げる。
「制御装置はいらないんじゃなかったのか?」
 胸の中の脆いところを鷲掴みにされた、そんな気がした。
 内田は表情の読めない目で仁を見つめている。バイクにもたれた姿は悠然としていて、そこから仁に近づいてくる気配はない。離れたのは仁なのだから、仁がその始末をつけるだろう、そういう顔だ。
「うん……かなりのコントロールは手に入れた」
 まっすぐな目が眩しくて、仁は目を細め、無意識に目を伏せてしまった。
「けど……」
 言い淀んでことばを失う。
 自分がどれほど勝手なことを言い出そうとしているのかはよくわかっていたつもりだった。

 朱乃が腕の中で消えたとき、仁に残ったのは厳しい喪失感だ。
 きしんがいくら仁を思うゆえだとしても、豊がいくら仁を守るつもりであったとしても、朱乃はやはり仁にとっては一番近しいもの、だった。
 同じ力を、同じ孤独を、同じ喜びを分け合って、魂を重ねて溶け合った。
 それが一夜の幻にせよ、朱乃の見せた夢にせよ、仁の胸の一部は朱乃の中に持ち去られていて、その欠けた部分がたとえようもなく寂しかった。
 高空から落ちていきながらダリュ-や城崎、紺野に助けを求めたのは、実はなかば自棄だった。届かなくてもいい、受け止めてもらえなくてもかまわない、そう思っていた。そのまま彼らの力不足ゆえに地面に叩きつけられて死ぬのも構わなかった。
 それが相手にとってどれほど酷いことなのかがわかったのは、入院している仁を見守るダリュ-の傷みに満ちた視線に出逢ってから、城崎の震える手に抱えられ紺野の涙に濡らされてから、のことだったのだ。
 だが、それほどもう、仁の心が虚ろになってしまっていることを、結局は誰も気づいてくれなかった。
 確かに朱乃は満たされて、喜びながら消えていき、それは予想していたことよりずっと楽な出来事だった。だが、それは同時に仁がやはり1人なのだと思わせた。
 なぜなら、朱乃が本当に望み欲していたのは、仁ではなくて、きしん、だったのだから。 
(じゃあ、僕は? 僕はどうすればいい?)
 仁の危険性は変わらない。確かに制御力は手に入れた。前のように不用意に力を暴走させることはないだろう。けれど、それは力の消失を意味しない。逆に、能力を十分に使いこなせるということ、それは『人』の範疇からはっきりと離れてしまったという感覚の方が強い。
 孤独感が日を追うごとに、前より強く激しくなっていくのがわかる。
 退院し実家のベッドで休んでいて気がついた。仁の母親ももはや仁を息子という目では見ていない。何か妙な力を持った見知らぬ男が家にいる、そんな気配がそこここに感じ取れる。ベッドの下に隠していた空き缶が、いつのまにか小奇麗な灰皿に変えられていて、それについて一言も言われなかった不安定さが仁をより孤独に追い詰めていく。
 眠れぬ時間が長くなり、気がつけば、RDを引き出して夜の街へ走り出していた。
(誰か……誰か)
 呻くように迷いながら走らせていて気づいたのは、他でもない、自分が求めているのはZIIの走りだということで。
 1人だった。つらかった。どこにも行き場がなくなって、ただ受け止めてほしかった。
 道を示してくれなくていい。自分を守ってくれなくていい。
 なじられても責められてもいい。
 ただ、どうか、側に居てくれればいい。
 それでも一昨日は1人で走った。榊の姿も見たし、内田が走ってるのも感じていたが、それでも不必要だといったのは自分自身、今さらどうやって近づけばいいのかわからなくて。
 それが、朱乃にそっくりだと気づいたのはいつのことだったのだろう。
 朱乃を追い詰め、破壊に向かわせたのが、その孤独、誰にも寄り添う術がないという気持ちだったと思い出したのは。
(このままなら、きっと僕は)
 いつか崩れていく、と感じた。
 自ら世界を壊すことで、ようやく生きることしかできなくなる、と。
 矛盾した、けれど切ないその願望。
 朱乃の中に隠されていた、ささやかな祈り。
 誰かと一緒に生きていきたい、たったそれだけのことなのに。
 それだけのことが満たされなくて、だから世界を壊すしかない、自分が生きていけない世界、自分以外の存在が互いに寄り添う世界を横目に、1人朽ち果てる傷みに向き合わないためだけに。
 だから、昨日はじっと内田の走りを見ていた。誰かを待っているような気がした。仁を待ってくれているような気がした。その走りの豊かさと大胆さに再び気持ちが強く惹かれるのを感じた。
 それから1日、考えに考えての結論、気持ちを決めて今日は来たはずだった。

「けど……僕は……」
 仁は言いかけて、また口ごもった。
(まだ迷っている)
 内田は仁を許すだろうか?
 許して、それでも居てくれるだろうか?
 それとも、仲間を捨て去り、1人で突っ走る、危ないやつは、『内田にとっても』不必要だろうか?
「お前、朱乃に惚れてたか?」
「!」
 ふいに内田が問いかけて、仁はどきりとした。
 金色に満たされてくる街を照らす光に、内側を余すことなく照らされたような気がした。
 内田はまっすぐ仁を見つめている。
 揺らがない目だった。
 周囲の煌めく光同様、仁の内側を照らす目だった。
「僕……」
 答えかけてことばを失い、けれど相手の視線から今度は目を逸らせずに、仁は黙り込んだ。内田がその様子を見て、ふわりと瞳を緩めた。微かな苦笑が広がった、ような気がした。からかうような口調で、
「上でいったい何やってたんだ?」
「何って……」
 いきなり顔に血が上ってきた。あの夜の巻き込まれ埋め込まれ吸い尽くされる感覚が蘇り、意識したせいで余計に顔が熱くなる。
「ふう……ん……」
 ちろり、と何か言いたげに内田が仁を見やって、短くなった煙草を遠くへ弾き飛ばしながら、
「こっちはかなり心配したんだが、どうやら違う意味でも『死にそう』になってたみたいだな」
 かあっと体中が熱くなった。
「う、内田っ!」
「ほおおお……へええ……」
 相手は笑みを含ませながら、澄まして目を細め感心してみせた。
「あーんなとこで、そーんなことやってたのか。目立ったろうな、全世界一斉公開ってやつだ。これだから、普段大人しいやつは怖いな」
 仁が慌てるのがよほどおかしかったのだろう、内田はくすくす笑い続けた。
「だ、だから!」
 仁はうろたえて、必死に反論を探した。が、同時に、かなりの高空とはいえ、そして他の誰もあんなところにはいなかったとはいえ、遮るものない広がりの中で全裸の朱乃を抱きしめていた自分をまともに思い出して、より一層狼狽した。
 その仁を笑いながら見ていた内田が、ふいに笑みを引っ込めて静かな声で呟いた。
「じゃあ、殺しちまうのは、つらかったろう」
 びく、と仁は凍りついた。
 沈黙が満ちた。
 これから言うべきことばを探して緊張していくものではなくて、腹の底にあった気持ちをぽうんと放り出してくれたのを、無言で見送ればいいだけの、柔らかくて思いやりに満ちた沈黙。
(知っている)
 胸の中に理解が湧き起こって、自分の決意が見る見る萎むのを感じた。
(内田は、僕が朱乃に魅かれてたことを知っている)
 仲間を守るためだけではなく、朱乃と2人になりたいために、自分の気持ちを確かめたいために、あの夜上空へ飛んだことに気づいている。
 それは、朱乃に傷つけられ危険に陥れられた仲間への裏切りを意味するということも。
「うち……だ……」
(そう、だ、よね)
 仁は唇を噛んだ。俯くつもりはなかったが、どんどん顔が下がっていく。
(わかるよね……内田、だものな)
 鋭くてしたたかで強くて揺らがないその存在の前で、きっとごまかしなどきかないから。
(そうだ、だから)
 朱乃に魅かれていることを心の深いところで気づいていたから、仁はもう内田の側にはいられなかった。だから今、自分が内田の側には戻れないと怯えている。
(そうか……そういうこと、だったんだ)
 すがろうとした最後の岩が崩れてしまった、そんな気がした。
(どうしよう……? これから、僕は……どうすればいい……?)
 本当は。
 微かに響いた自分の声に気がつく。
 本当は、もう自分の能力を制御できるから、もう内田が側に居ても傷つけたりはしないから、戻れるんじゃないかって、どこかでそっと思っていた。
 あの始まりの悪夢を、もう仁は再現しないだろう。十分にコントロールし、調整できる能力は、仁を孤独にするかもしれないが、周囲を破壊することはないだろう。
 けれど、そうなればそうなったで、今度はどうやって内田の側に居ればいいのか、わからなくなって。
 どうして内田の側に居てもいいのかわからなくなって。
 だから1人で行こうとした。1人で歩ける道ならば、1人で歩けばいいのだ、と。
 なのに、気がつけば、内田を探していて。
(なんだ……ほんとうに……)
 仁は眉を寄せ、唇を噛んだ。
(ほんとうに、僕は朱乃そっくりじゃないか)
 ただ、側に内田が居てくれたから破壊に走らなかっただけで。
 もし、内田が居なければ、朱乃よりひどい災厄をもたらしていたことは明らかで。
(守られて、たんだ……)
 ずっと、ずっと、その揺らぎない姿に支えられてきたのを、今の今まで気づかなかった。なのに、自分1人が内田を守っているつもりでいて、1人で背負って1人で苦しんでいただけ、ではないのか。
 黙って俯いてしまうと、内田が深く溜息をついた。
「RD返しちまえ。乗れよ」
 顔を上げる仁に、内田は淡々とした表情で、バイクに跨がり後ろを指差す。
「……うん……」
 内田の言う通り、RDをテレポーテーションさせてしまい、仁はそろそろとZIIのタンデムシートに腰を落ち着けた。久しぶりのシートは初めて乗ったときより固くて冷たい気がする。不安定に体を動かす仁に、
「バカが」
 内田がぽつりと吐いた。
「敵側の女に惚れるなんて1000年早えよ」
 滲むような温かな心配がこもっている。それが仁の胸に沁みた。
「違うんだ」
 エンジンをかける内田のことばに思わず首を振る。
「朱乃は……きしんを追っかけてきたんだ」
「ふうん?」
 ゆるやかに走り出すバイクに話し出す。爆音で聞こえない部分はテレパシーを平行させて、1つずつ、1つずつ、確かめるように朱乃のことを話していく。
 朱乃の生い立ち、朱乃の記憶、朱乃の思い……朱乃の孤独。
ーきっと誰も、気づかなかったんだ、朱乃がどれほど寂しかったか。
 呟きに内田は答えない。
ーずっと1人で。どこまでいっても1人で。だから。
 やっと見つけた好きな相手にも、同じ能力を持つ仲間にも、どうやって寄り添えばいいのかわからなかった。
ーどうやって寄り添えばいいのかさえ……わからないほど1人だったんだ。
 1人に怯え、力に怯え、運命に怯え。
 1人であればあるほど人への焦がれは強くなる、人への焦がれが強ければ強いほど、どうしようもなく魅かれていく自分が哀しくて寂しくて。
 それは仁とそっくりで。
 夜毎に駆るバイク、ほんの一瞬でもいい、自分の切なさを忘れたくて。
「ごめん……」
 仁は吐いた。
「ん?」
ー僕は皆を捨てようとした。
 内田は黙っている。
「僕は……待てなかった……もう……1人で……いたくなかった」
ー出口が欲しかった。どこかに流れだしたかった……走って……駆け抜けて……何もかも捨てたかったのかもしれない。
 話したところで許されないことはわかっている。けれど、少しだけでも気持ちを伝えたかった。内田がまた、深い息をついた。重い静かな声が相手の体温をまといながら響いてくる。
「自分もか」
(俺もか)
 声に重なった内田の気持ちが仁の胸を鋭く貫いた。
(そうだ、内田も)
 いずれは1人になると思っていた。自分の能力が伸び続けたその先に、内田がそれでも居てくれるとは思えなかった。居てくれると思い込む自分の気持ちが怖かった。
 反転し、反転し、反転する気持ち。
 クルクルと回るガラスの回転扉のように、朱乃と仁は互いの気持ちを映しあい閃かせ、入れ代わりながら各々の未来をずっと探し求めていた。
「うん……たぶん……」
(捨てることなんて……できないのに)
 胸を激しい痛みが走り抜けた。
 熱くて鋭い、溶けた金属を流し込まれたように胸を切り裂くその痛み。
 それはきしんが仁を失ったときの痛みだっただろうか。
 それとも、朱乃がきしんを失ったときの痛みだろうか。
 あるいはまた、仁が内田を失った痛みだったのだろうか。
 いや、おそらくは何よりも。
ーーそうか……僕は……朱乃が好きだったんだね……?
「いまさら気づいてんのか、鈍いやつ」
 内田が苦笑した。
「そんなこったから、ふられてもわかんねえんだよ」
「うん……そうだ……」
 突然視界を満たして吹き零れた涙に仁はことばを途切らせた。
(わかってくれてる)
 内田はわかってくれている。
 仁のつらさも、朱乃の傷みも、きしんの嘆きも、全部わかってくれている。
(わかってくれたうえで、ここに居てくれている)
 いつか遠い未来、避けようのない事態で、万が一仁が内田を傷つけることがあったとしても、内田は仁のつらさを知っているだろう。自分が死んだ方がいいと思いながら手を下す、その傷みをわかってくれるだろう。
 そう信じられる。
 そう、確信できる。
 だからきっと、仁はもう、どれほどの事態にも決して内田を傷つけることはないだろう、命にかえても。
「おまけに死んじまってる奴に獲られてやがる」
「は……はは……」
 呆れ声に涙まじりの笑いを返す。
 バイクは唸りを上げて速度を増していく。夜の間は生温く粘りつくようだった空気が、疾走に切り分けられて冷えた粒子を生み出し、無数の光の渦に変わっていく。
「仁」
ー何?
「1人もいいが、たまにはタンデムも悪くないだろ?」
 内田の声が背中を通して響いた。その響きに身を浸すように、仁は静かに目を閉じた。
 ことばを支える深く柔らかな内田の思いが、包むように癒すように、仁の胸に届いてくる。
(しばらく後ろにいろ。今だけでもいい)
 温かさは変わらない、今もまだ変わらない。確かで豊かな絆が人の形をとってここにある。
 体が微かに震えているのは、怖さからか、嬉しさからか。
 内田が低く呟いた。
「お前がそれで生きられんなら」
 続く仁の嗚咽を呑み込むように、ZIIはなお速度を上げ、光増す空間を駆け抜けていった。
                              
                              
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