『朱の狩人』

segakiyui

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10.成就(3)

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「痛い……身体中が……痛い……息が苦しい……・苦しいよ……仁」
 はっはっ、と短い呼吸になりながら、朱乃は自分の身体を抱えた。真っ青になっていく朱乃を仁が抱えるとまた鋭い悲鳴を上げてのけぞる。
「だめ……触らっ……ないで……・痛い……仁が……痛い……っ!」
「朱乃……!」
 戸惑いながら呼びかけ、仁は気がついた。今、仁と朱乃は深い部分でほとんど同一化している。2つの魂が混ざりあいながらお互いの身体にいるようなものだ。だからこそ、仁は朱乃の傷を、痛みを自分のものとして受け止めて傷ついたのだ。
 だが、朱乃はそうではなかったとしたら?
 今の今まで朱乃の意識は仁に開かれていなかったとしたら。
 仁が朱乃の側にいると確信した瞬間に、初めて仁の意識への回路が開いたとしたら。
「痛い……いたい、いたい、いたい……仁、これ、何……何なの?」
 泣きじゃくりながら朱乃は悲鳴を上げた。
(今、朱乃が感じているのは……僕の傷み……なのか……?)
「仁の……痛み……?」
 考えもそのまま朱乃に受け取られて、一瞬仁はことばを失った。
「これ……仁の痛みなの……?」
 朱乃は大きな瞳を涙で溢れさせながら、眉をしかめて泣きながら笑った。
「じょうだんっ……・痛いよ……とんでもなく……痛いってば……何で……何で……・こんなに……痛いのに……痛かったのに……」
「あけ……の……」
 朱乃の感覚が衝撃に震えているのを仁は感じ取った。
「あたしが…………やったんだよね……? あたしが……」
 体を震わせながら朱乃が呻いた。引き攣るような笑いを浮かべながら、腹を、胸を抱え込むように抱きしめしゃくりあげる。
「……いたっ……どうして……どうして……あたしの側に……居るなんて……こんなに……痛いのに……!」
「朱乃!」
 仁は相手を引き寄せた。なおもことばを紡ごうとした唇を奪い、深く口づける。同時に頭の水門を全開に、朱乃の苦痛を、怒りを、悲しみを、1つ残らずそちらへ流し込んでいく。
 ぎりぎりと体の奥がきしんでいくような気がする。限界を越えずに、けれど何一つ零さないように朱乃の傷みを吸収していくことに集中する。
ーーダメダ……ダメダヨ……コンナニ……イタイ……ヒドイメニ……アワセタ……アタシハ
 それでも続いた朱乃のテレパシーが隠しようもなく呟く。
ーーバケモノ、ダ……。
 朱乃の中で別の記憶が弾け飛ぶ。
 側にずっと居てほしくて、抱いてくれた女の人の腕を奪った。
 犬が嫌いで寄せ集めて壁に張りつけた、ほんの小さな子犬まで。
 面白がって高尾を切り裂いた。
 力を使った自分を怒鳴った父親を事故に合わせた。
 逃げかけた母親を廊下に溶けつかせた。
 そして、誰よりも。
 ああ、きしん。
ーーアンタヲ、バラバラニ、シテ……キット……ウント……イタカッタヨネ……?
 ばけものだ。
ーーゴメンネ。
 ばけものだ。
ーーダカラ、ヒトリダッタノカ。
 ばけものだ。
ーーダカラ、コロシテ、キズツケラレタノカ。
 ばけものだ。
ーーコンナニ…………イタイッテ……ワカラナカッタカラ。
 ばけものだ。
ーーダカラ……キシンニ……キラワレタ……。
(朱乃?)
 唐突に、ことばが甘やかな陰影を伴って、仁ははっとした。唇を離す。虚ろな瞳でこちらを見上げていた朱乃がうっすらと微笑む。
「なあんだ……」
 柔らかく温かな吐息とともに朱乃は呟いた。
「あたし……あれ……きしんに……編んでたのかぁ……」
 朱乃の想いに連動している仁の心にふわりと舞ったのは青いサマーセーターだ。
 それは同時に仁の心にももう1人のきしんを思い起こさせる。
 小学校の卒業式、駆け寄ってきた内田が仁の腕をつかまえて、母親から離れていくときに、校門の向こう、桜の花びらの向こうに鮮やかな青いセーターを着たきしんが居たような気がしたことを。
「ほら……やっぱり……」
 朱乃は唇を上げた。その頬に新しい涙が次々と溢れ落ちる。
「きしんの……好きな……色だ……」
 ふいに、豊かな満足しきった鮮やかな微笑が広がった。見事さに息を呑むほどの艶やかさ、全裸で迫る朱乃より、桜を背景に闇に踊る姿より鮮烈に仁の胸を貫いていく。
「よか……た……」
 次の瞬間、腕の中で光が弾けて、仁は一瞬目を閉じた。すぐに目を開いたが、もう腕に朱乃の姿はない。
「朱乃……?」
 ぽかりと空いた腕の丸みに、仁は呆然として呼び掛けた。と、呼応するように、仁の意識の片隅で、今まさに水門の彼方にかき消えようとする朱乃の意識が微かに輝いた。
 まるで、朱乃が最後に流した涙のように。
 その姿の側には別のもう1つの光がある。
 青白く清冽で深い悲しみと憂いに満ちたその光。
(きしん……)
 朱乃は俺が連れてくよ。
 静かな気配がそう告げた。
 もうお前を苦しめることはない。
(苦しめる……? ……いや、だって……僕は……)
 続けかけたことばに仁は愕然とした。
 ボクダッテ、カノジョニヒカレテル。
 ナゼナラ。
 アケノハ、モウヒトリノボクダカラ。
 違う。
 きしんの気配は静かに首を振った。その気配が見る見る別の、もう1人の、仁の良く知った人の姿に変わっていく。
(とう……さん……?……)
 お前が生きていく世界はここではない。
 水門の彼方に眩い光が溢れた。
 それはいつか、家を出ていく父の向こうに溢れていた光と同じもの、その光に呑み込まれるように消えて行く、その光景も胸痛むほどそっくりで。
 オトウサン? オトウサンナノ?
 きしんの気配の、豊の姿の、けれどもっと巨大な光になった存在を、朱乃が嬉しそうに見上げた感覚があった。それはまるでほんの小さな娘が父親の腕にしがみつくよう、その大きくて力強い腕に無限の信頼を寄せるようで。
 オトウサン、ダイスキ。
 瞬くように微かな呟きを残して朱乃の気配が水門の彼方に消える。そして、仁一人が。
 虚空に、取り残された。

 激しい音をたててふいに強くなった雨に、内田は眉をしかめて焼け焦げた桜の枝を見上げた。花火のように燃え上がった火は一瞬だった。その光が仁と朱乃の球体へ伸び上がって包み、球体は青白い炎に弾けるようにまばゆく光って、唐突に消えた。
「何だ?」
 訝しげに濡れた髪をかきあげる榊、隣で真っ暗になってしまった空を睨みつけていると、
「うち……だ」
 ダリューが呻きながら体を起こした。
「仁が落ちてくる」
「何?」
「ここを離れた、少し先の空き地だって……」
 さきほどの爆発で周囲は見る間に騒がしくなりつつあった。それもまた朱乃の力だったのだろうか、走り回るパトカーや消防車のサイレンが一向にこちらに近づかないと思っていたが、桜が燃えた今、まるで封印を解かれたようにみるみる音が迫ってきつつある。
「テレパシーか?」
「うん、受け止めてほしいって、はっきり聞こえた」
「俺にはわからなかったぞ」
「……絞ったみたい、だよ」
 苛立った内田の声にダリューは複雑な表情で肩を竦めた。それを聞いてますます内田は顔をしかめた。
 自分の体を安全に下ろせないほどへたっているのに、それだけの指向性、しかもテレパスでないダリューに明確なメッセージを送ってくる制御力は前の仁にはなかった力だ。
「とにかく移動しよう、幸い」
 榊がまだふらふらしているダリューを抱えてバイクの方へ動く。
「バイクは無事だ」
 榊がダリューをタンデムに乗せ、内田もZIIに跨がって朱乃家の残骸の前を離れるや否や、背後からサイレンの音が近づいてきた。ダリューの指示に従って路地を抜けていくと、確かに住宅街の中央にぽつんと開けた場所がある。入り込んだとたん、弾かれたようにダリューが顔を上げた。
「あそこだ」
 闇の中、ぽつんと白い点がみるみる大きさを増しながら落ちてくる。
 榊のバイクからよろめくように降りたダリューが内田の側に寄り、腕を掴む。と、同時に内田の胸にはっきりと、やや疲労を帯びた声が響いた。
-ー内田。
「仁?」
ーーダリュ-に力を貸して……たぶん、受け止めるのきついと思う。僕は今身動きできないから。
「どうするんだ?」
「そのままで居てくれればいいよ」
 ダリュ-がちらっと弱い笑みを浮かべた。
「君はエネルギー源なんだって。だから、なまじな力じゃ跳ね返されるらしい」
「ふうん」
 それだけ話したダリュ-が眉を寄せ、目を凝らすと、落ちてきた点はやがて1人の少年の姿に変わった。
 ぼろ屑のようになった衣服は血まみれ、左脇腹には新しい傷が口を開けているのか、そこから滴る血が風に煽られて、落下してくる仁の周囲に紅の霧を漂わせている。
 それが血に染まった桜を巻いて飛翔した朱乃を思わせたのか、ダリュ-が一瞬怯んだように体を竦めるのを感じて、内田は低く脅した。
「落とすなよ」
「わかってる」
 固い声で応じたダリュ-は仁に視線を固定させたが、次の瞬間、顔を青ざめさせてすとん、と腰が抜けたようにへたり込んだ。
「ダリュ-?」
「お、もいよ……鉄の……塊みたい……だ……」
 呻くように呟き顔をしかめながら、それでもひたすら加速していた仁の体をじりじりと減速させて地上へ降ろしていく。どうにかこうにか空き地に仁を横たえたときには、ダリュ-は肩で息をしながら再び身動きできなくなっていた。
「よくやるよ。一度自分を痛めつけた相手に体をゆだねるなんて、たいした胆力だ」
「仁!」
 榊の呆れ声を背中に、内田は仁に駆け寄った。
「仁、大丈夫か?」
 内田は険しく顔をしかめながら、自分の体を抱え込んで丸くなっている仁を覗き込んだ。相手がまるで小さな子どものように泣いているのに一瞬ことばを失う。
「仁……」
「……大丈夫……」
 仁は閉じていた目をそっと開けた。瞳の深さにくらっとめまいを感じて、内田は本能的にとっさに近づこうとするダリュ-に叫んだ。
「来るな、ダリュ-。もってかれるぞ!」
「!」
 ダリュ-が息を呑み立ち止まった気配がした。
「……ありがと……」
 仁は弱々しく笑った。
「ごめん……今……制御……できない……」
「ああ、無茶をしたからな」
 ばさっと背後からカッターシャツが投げつけられて、内田は振り返った。榊がタンクトップ一枚の肩を竦めながら、
「お前はそれ以上脱げないだろ?」
「おじんは重ね着してるもんな」
「ほっとけ」
「すまん、借りるが返さねえ」
「こういうやつだ」
 憎まれ口を叩きながら、とりあえずシャツを仁の腹に巻きつける。
「血は止まってるのか?」
「……うん……」
「気分は?」
「もつ……」
 囁き返す声がひどく懐かしい気がした。
(ずいぶん長い間、お前の声を聴かなかった気がするぜ)
 内田の胸の呟きが聞こえたのだろうか、仁が微かに眉を寄せて目を閉じ、くす、と小さく笑った。それを見定めて、仁の傷を確かめながら、
(朱乃は?)
 胸の中で問いかける。
「朱乃は死んだよ」
ーー僕が殺した。
 掠れた柔らかな声がためらいもなく応えてよこした。
「……そうか……」
「内田……」
 仁がふいにこちらを見上げた。
「僕はもう……戻れない」
 その瞳の中に、内田は金色の光を見た気がした。少し前まで不安定に見え隠れしていた猛々しい炎が、それと意識すればすぐに燃え上がる発火装置のように、仁の中におさめられているのを感じ取る。
 おそらくは、朱乃を屠る代償に、仁は自分の中の『人としての何か』を越えてしまったのだろう。
「だから、ここからは1人で行くよ」
ーー今までありがとう、内田。
 のろのろと体を起こしながら、仁がテレパシーを重ねてくる。十分に回復しきってはいないのだろう、苦しそうな表情に汗が伝ったのを、隠すように顔を背ける。
ーーもう、大丈夫だから。
 内田は溜息をついた。
「わかった、じゃあ、取り説でももらうか」
「内田……」
「なんて顔しやがる」
 驚いたように瞳を見開いて振り向いた相手に笑いかける。
「そこまで悟ったんなら、もう一歩だ、俺でも扱えるぐらいに調整しといてくれ。何せこっちは一般人だからな、無謀な使い方をするかもしれねえし、緊急対処もまとめといてくれると助かる」
「違う……」
 仁は首を振った。体のどこより脆い部分に鋭い刃物があたっている、そんなふうにつらそうに。
「迷惑だって、言ってる」
「ほう?」
「僕は朱乃と接触して、十分なコントロールを得た」
 眉の間に険しい筋を無理矢理彫り込むように、仁は顔をしかめた。
「もう、君の力は要らないんだ」
 言い放ったことばに自分が一番先に傷ついたような顔で、仁は繰り返した。
「もう、君は、要らないんだ」
「なるほど」
「だから」
「だから? お前もバカの口か。そうか、そうだったな、お前は誰よりも馬鹿野郎だったな」
 内田は立ち上がった。
「なら、俺もぼちぼち馬鹿の扱いを覚えなきゃならねえってわけだ」
 自分から突き放すようなことを言った癖に、まるで断崖絶壁から突き落とされた人間のように痛そうな顔で見上げる仁を見下ろしながら、内田は吐いた。
(で、てめえは、へたな嘘をつくときに、自分がどんな顔して人を見るんだか、一度自覚した方がいいぜ)
 ぎく、と仁が体を震わせ、見る見る赤くなった顔を手の甲で押さえた。と、それと前後して、こんな夜中に空き地に滑り込んでくる車が1台、しかもそれは間近に止まるや否や白衣姿の城崎と紺野を吐き出した。
「仁! 大丈夫か!」
「ははあん、手回しのいいこったな、連絡をつけてたのか、え? ま、いいけどな」
 内田は駆け寄ってくる城崎と紺野にすれ違った。2人があれ、と言った表情で立ち止まるのに、
「早く行ってくれ、あいつはずたずただ」
「お前は?」
「さあな、俺はお払い箱なんだとよ」
 聞こえよがしに大声で応じた内田は、きつく眉を寄せながら、濡れそぼって火もつかないラッキーストライクを銜えた。
(ったく、まだわからねえのか、あいつは)
 顔を歪めて、つい噛み締めた煙草を吐き捨てる。その後は、もう振り返らずにそのままZIIに跨がって爆音を轟かせながら、内田は空き地から離れて行った。
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