『朱の狩人』

segakiyui

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 「んっ?」
 ばさばさっと何かが風に煽られて上空から降ってきた。不吉な予感に引きずり上げられるように、内田は桜の根元を離れ、夜闇に高く手を伸ばして、それをつかみ取った。
 ぬちゃり、と握りしめた手に広がる生温いぬめった感触。力を込めた指先に絞り出されるように滴り落ちる真紅の血液。指を伝っていくのに、ぞくりとした衝撃が内田の背筋を走り上がる。
 それは仁の身体に固く巻き締めたはずの内田のシャツだった。べっとりとした血とぬらぬらする液体に濡れて降り落ちてきたシャツは、何か鋭いもので新たに引き裂かれている。
「!」
 本能的な直感に囁かれ、内田は弾かれたように空を振仰いだ。
 時折閃光が走り、激しい雨が乱れ降る上空で、真珠色に輝く球体が今まさにもう1つの球体を呑み込みつつあった。いつのまにかおぞましいほどの紅に染まった仁がいるはずの球体が、朱乃の操る球体に食い尽くされるように、じわじわと吸い込まれていく。
ーーウ・チ・ダ……。
 断末魔を思わせる微かなテレパシーが荒れた空気を必死に潜りぬけて落ちてきた。凍りつくような恐怖が痛みになって内田の胸を刺し貫く。
(仁!)
「じ……」「う、わ!」
 悲鳴じみた呼びかけを思わず漏らしかけた内田の背後で、突然気を失っていたはずのダリュ-が脅えた声を上げた。
「む!」
 急いで振り返る内田の視界に、桜の根元から動かない身体を引きずるように逃れるダリューと、逆にダリュ-と桜の間に割り込むように、スリングショットを構えて緊張を漲らせる榊の姿が飛び込んできた。が、それより目を引いたのは、その後ろにある桜の異変だ。
「何?」
 桜の樹は、今大きく揺れて枝を天空へ差し上げざわめかせていた。
 上空にあるエネルギーのぶつかり合いに枝の全てが引き寄せられている気配、満開だった花々のほとんどが花弁を巻き上げられ持ち去られている。それは魔王の森にある意志のある木が今眠りから覚めたようにも見えた。
 いや、まさにそうだったのかも知れない。
 根元がみしみしと揺らぎながら、埋もれていた脚を抜き出すように地面から浮き上がっている。雨と血で緩くなった地盤に縛りを解かれ、生き物のようにうねりくねる根が地面から引き抜かれていく、その中に。
「あ……あああ」
 内田の足下近くまでようやく逃げのびたダリュ-が、『それ』が何かを理解して掠れた声を上げた。
 次第に激しさを増していく雨に打たれている内田同様、今まで枝と土に守られていた根が雨に叩かれ洗われる。その中で蹲るように、虚ろで暗い眼窩が2つこちらを凝視している。
 人の骨だった。
 白く磨かれたような頭蓋骨に連なって、ずるずると根に深く絡まれながら脊椎が、鎖骨が、肋骨が、次々と引きずり出されてくる。
 だが、その両腕がない。
(いったい、誰……!)
 ぞわっと内田の総身が粟立った。
「きし……ん……?」
 ばしっ、どぅん!
 耳を一瞬にして塞ぐ大音量、桜に彼方の空から光が落ちた。幹から根までを裂き開いて走る巨大な光の柱が内田の網膜を焼き焦がす。
 瞬間、その閃光で記憶の片隅にあったネガフイルムを焼きつけられたように内田の脳裏に浮かんだ光景があった。
 小学校の卒業式だった。
 何だか冷えていた年で、桜はまだほとんど開いていなかった。
 けれどもなぜか、校門横の桜だけがはやくもほとんどの花を開いていて、卒業式を終えた親子がやたらめたらとそこに集まっていた。浅葱親子も例外ではなく、2人で桜の下で写真を撮ったり撮られたりしていた。
 内田はその場所には行かなかった。
 ただ、できれば仁と一緒には帰りたくて手持ち無沙汰に待っていたが、何だか無理そうな気がしてきたから、先に帰ろうかと腰を上げたときだった。
 きしんが別の片隅でぽつんと1人立っているのに、唐突に気づいた。
 父親はリストラされて家庭もうまくいかなくなり、どこかへ引っ越すという話だったが、内田にしてみればきしんは仁を傷つけた相手で気にしてやる道理もなかった。ふん、と鼻を鳴らして目を逸らそうとしたのだが、ぼんやりと立っているきしんがじっと見つめているのは、今まさに満開の桜の下で困った顔をしながら母親に腕を抱えられて立っている仁だと気づいて、内田は動けなくなった。
 きしんは唇を結んだまま仁を見つめている。
 懐かしそうに、じっと、身動きもせず。
 仁を待ってる。
 気づいたのは、その気配が自分そっくりだと気づいたからだ。
 仁を、待っている。
 仁が自分に気づいてくれるのを、ただ、待っている。
 声はかけられない。自分は仁を壊すから。けれど、仁が気づいてくれたなら。
 きしんの顔に淡い儚い笑みが広がった。ばか、と唇が動いた。
 オレハ、バカダ。
 声が聞こえたように思うほど、唇の動きははっきり内田に読み取れた。
 振り返れば、仁が母親に促されながら校門を出て行くところだった。誰かを探しているふうで、振り返り振り返りしながら、けれどきしんには気づかない、内田にも。
「っ!」
 舌打ちの声が聞こえたのかどうか、きしんははっとしたように振り向いた。走り出す内田に追いすがる視線を感じた。けれども足音は。
 内田が仁に駆け寄って、パニックになる母親から仁を奪取し連れ去っても、きしんの足音は、ついに追いついてはこなかった……・。
 桜の樹は一瞬にして燃え上がった。弾き飛ばされるようにたたらを踏む榊、這いつくばり顔を歪めるダリュ-、その背後でこれほどまでに生木が燃えるものなのか、樹は青白い火を吹き上げる。それはみるみる桜の樹全体へ、根に絡まった白骨まで覆い尽くして巨大な炎となって立ち上がった。
 ジン……。
 大気を震わせるような響きがあたりに満ちた。
 コンドハ、オイツク。

 意識が砕かれた。
 朱乃の中に呑み込まれ、手足の先まで粉々になった自分がなお粉砕されて散らばっていく。
(ああ……)
 吐息を漏らしたのは仁なのか、朱乃なのか。
 温かな海の中に深く沈んでいきながら、ときどき身体が痙攣するのを微かに感じた。脅えなのか、それとも鋭すぎる喜びなのか。もったりと重い身体を紅の閃光が腑分けするように走り回っている。
 コレハ、シンゾウ。コレハ、ジンゾウ。コレハ、イ。コレハ、ボウコウ。
 切り開かれて検分されそのまま朱乃に呑み込まれて、中身がどんどん抜け去っていく。
 ハイハ、ココ。ノウハ、ココ。カオノ、オクニハ、シショウカブ。
 痛みはない。それとも痛みが全てなのかもしれない。感覚の閾値がぎりぎりまで上げられているから、かろうじて漂っていられるような。自動防御が働いて心を感覚から切り離して、ようやく保っている正気。それともとっくに振り切れてしまっているから、これほどの喪失感も耐えられるのだろうか。
 モット、チョウダイ。モット、モット。
 再びうねりが襲って喪失感もろとも呑み込まれる。いや、もうどれぐらい呑み込まれつづけているのだろう。身体の熱さに唯一対抗するのは涙が伝った頬の冷たさ、けれどその部分もすぐに切り裂かれ、血に塗れて熱くなる。
 血も肉も骨も皮も、何もかも食い尽くされるその最中、ふいに大気を特別な光が走った気がした。次の一瞬にひやりとしたものが周囲を覆って、仁は微かに意識を取り戻した。
(何……?)
 千切れ飛びかけていた意識が、そろそろと優しくかき集められる。からっぽになっている仁を押し包む清冽な気配、泣き濡れながらわが子の身体を抱きかかえるような、深い傷みに耐えて豊かな、命の祈り。
 その清冽な輝きは覚えがあった。地上でやはり朱乃に追いつめられていたときに過ったもの……そう、この気配は……。
(きしん……)
 コンドハ、オイツタイヨ。
 幼く頼りない囁き声が耳もとに零れた。
 オマエヲ、シナセハ、シナイカラ。
(きし……ん……)
 深い響きに胸が詰まった。痛むほどに懐かしい声が虚ろになった身体の中にそっと小さな水滴を落とす。
 ぴ……しゃー…………ん……。
 その水滴はまっすぐ下に落ちていき、いつのまにそこにたたえられていたのだろう、広大で底しれない湖に波紋を一つ刻んでみせた。
(あ……ああ)
 波紋が揺らした水面の感覚が、身体の内をそっと撫で上げ摩っていく。さっきとは違う、けれどもやはりそれも意識の全てを呑み込むような震えが仁の身体を走る。
 だが、その波紋は仁の感覚だけを揺らしはしなかった。遠く遥かに、ごく細い細い通路を辿りながら伝わっていって、仁の感覚に繋がれ延長されている朱乃の中にも忍び入っていく。
(あ……ああ)
 同じように切ない吐息を上げた朱乃が、零れた声に驚いたように身体を震わせ、それが再び波紋になった。
(きし……ん……)
 その声を、最初、仁は自分の中の響きだと受け取った。
(でも……これは……)
 だが、すぐに『それ』が自分の記憶ではないことに気がついた。
(僕の……じゃない……? ……朱乃の記憶か……?)
 なぜなら、そのきしんは仁が知っているころよりずっと成長した姿、濃厚な『男』の匂いを漂わせていたからだ。
 それは仁の知らないきしん、けれど、その中に仁が知っているきしんが居る。
 朱乃と仁が、きしんという存在を通して、今また別の回路で結びつく。

 きしん。自分を押さえつけてくる強い腕。朱乃だと認識している視線。そう、災厄をもたらし、破滅へ導く女だと知っているのに、なおも朱乃を他のものから見分け区別し、求めてくる視線。
 ドウシテ?
 不安な声が仁の中で響いてくる。
 ドウシテ、コノ人ハ、アタシヲコワガラナイ?
 ふいに桜の花びらが仁の視界いっぱいに広がった。

 出逢ったのは、入学式だった。
 吐息のような囁きが呟いた。
 満開の桜の下で、あたしは不安と微かな期待に震える自分を笑っていた。
 何を期待している? 
 確かにセーラー服はよく似合ってると思う。ファッション雑誌に載っている女の子より、ずっとずっとあたしはきれいだ。
 けれど。
 胸が詰まる。
 誰もあたしには近づかない。
 誰もあたしには近づけない。
 だって傷つくもの。
 傷つけるもの。
 だからずっとこの先も1人で生きていく。
 淋しくなんかない。
 今こうして桜の下で涙が出るのは、きっと桜が綺麗すぎるからだ。
 見事な桜。
 満開に咲き切って、後は散るだけ、アスファルトに落ち、踏みにじられるだけ。
 汚れて誰も顧みなくなる、惨めに1人で死ぬんだ。
 そのあたしに、きしんが話し掛けてきた。
 おれ、大塚貴信。きしんって呼んでいいぜ、みんなそう呼ぶから。
 ばっかみたい。
 あたしのこと知らないのね?
 あたしは化け物なの。人の心を操って、犬や猫の死骸を弄ぶ。
 そう言わずに、どうしてあたしに声かけたのって聞いたのは、なぜだろう?
 人なつっこく見えた笑顔のせいだろうか。
 何だか、似てるんだよ、知ってるやつに。
 瞬間に感じ取った、あたしと同じ心。同じ魂。同じ存在。
 そして、気がついた、気がついてしまった。
 きしんが求めてるのはあたしじゃなくて、その人だ。
 失ってしまった大切な人。二度と取り戻せない鮮やかな絆。
 きしんの傷みは極上のワインみたいにあたしを酔わせて、狂わせてしまった。
 出逢った瞬間に失恋したあたしと、その傷さえわかんない鈍感な男。
 だれなの、それ? その人とあたし、もし2人並んでここにいたら、ねえ、きしん、あなたってば、どっちに声をかけたんだろう? 
 たぶん、あたしじゃない、そうはっきりと確信して。
 あなたなんて大嫌い。
 冷たくはっきり言い捨てた。
 知ってるわよって言ってやった。あなた、その人にひどいことしたんでしょ。きっとその人、あなたのこと恨んでるわ。あなたがやったことで傷ついて、人生踏み外してる。あたしにはわかる、って。
 実際わかったよ。
 あたしがこの人に、一瞬に心を奪われた人に、大切かもなんて思った人に、読み取ったようなことされたら、あたしきっとぶち切れる。きしんも何もかも、全部壊して回ってる。それは確実。
 そしたら、笑うじゃない? 何言ったと思う?
 あいつは、そんなことしないよ。
 きっぱり言うのよ、くそ真面目に。
 あいつは、人生踏み外したりなんてしない。あいつは強いやつなんだ。俺はひどいことをしたけれど、あいつは俺を恨んでるだろうけど、でもあいつはそれで曲がったりしない。
 あいつは、仁は。
 きしんってば、一瞬涙ぐんだりして。
 仁は、とくべつなやつ、なんだ。
 どんなやつよ、それ。
 気持ちが潰れそうだった。
 どんなやつさ、それ。あなたみたいな情けないやつに、そこまで言わせるやつなんて。
 なのに、あたしに似てるなんて。
 なのに、あたしにはあんたみたいなやつさえいないなんて。
 何が違う?
 何が違うのさ。
 教えろよ、教えてよ。
 ねえ誰か、教えてよ。
 あたしは何が違ってたんだ?

 桜が乱れて舞い落ちる。モザイクのように記憶が一緒に乱れて入り混じる。
 それから以降はきしんの誘いをことごとくはねつけた。
 はねつけるたびに、きしんの中に『仁』を感じた。朱乃を見るきしんの視線に繰り返し『仁』が重なってくるのを感じた。誘われるたびに、きしんが求めているのは自分ではないと思い知らされた。
 朱乃ではない、けれど朱乃ととてもよく似た『仁』。
 日増しに『仁』が自分の中に広がってのしかかっていくような気がした。会ったことも見たこともない『仁』に自分の内側が犯され切り刻まれ食い破られていくような気がして、夜中に跳ね起きることさえあった。
 自分がどんどん消えていって、自分そっくりな『仁』、自分とそっくりなくせに、周囲に、この世界に溶け込み暮していけている『仁』が朱乃にすり変わっていくような。
 そして、それを誰もが望んでいるような気がしてきた。
 朱乃ではなくて、『仁』になったら生きてもいい、と。
 じゃあ、『朱乃』はどうなる?
 自分はどこまでいっても『猫』でしかないのに『犬』になれと言われている、そうしたら、本当の自分はどうなるのだろう。
 募る不安を抱え込んで身動きとれなくなっていった朱乃がきしん達に襲われたのはそんなときだった。公園の隅にあったのはぐずぐずになった段ボール箱、あの見捨てられた子猫の墓場そのもので。
 そうか、とふいに納得した、納得してしまった。
 『猫』は見捨てられ殺されるしかないのだ。
 朱乃の心が本当の限界を越えたのはそのときだった。
 きしんを屠り終わってしまったのに、いつものようにその心にある『仁』の影が、朱乃の中に入り込んでいる。それまではきしんが抱えていたのに、もう今では朱乃の中に暗い闇を持ち込んで、きっとこのまま居座り続ける、朱乃が自分を失うまで。
 1つの心に2つの魂は入らない。
 同じ存在は世界に2つ要らない。
 殺さなければ殺されるのだから、先に殺しておけばいい。
 『仁』を探すのも追い詰めるのも簡単だった。
 相手は朱乃と同じ恐怖、同じ不安、同じ傷みに苦しんだことがあるはずだから、そこを貫いてやればいい。朱乃と同じように1人の世界に追い落としてやれば、もっと扱いやすくなる。
 そして、朱乃の考えでいけば、『仁』は孤独を恐れ朱乃に怯え力を暴走させて、自ら孤立し周囲を害し破滅していくはず、だったのだ。
 ところがどうしたことだろう。
 『仁』は朱乃の攻撃に対して自分から1人を選んだ。『仁』の力に怯え距離を置くはずの周囲はむしろ『仁』をガードしようとする。そして、その動きはなぜか周囲の人間を発達させ、強くさせる。それはまるで、光に導かれて次々と自分の限界という巨大な河を越えていく人々のおとぎ話のようで、朱乃を焦らせ不安に陥れる。

 なぜ『仁』は1人にならない?
 なぜ『仁』は孤独にならない?
 会えばわかる? いや、わからなかった。
 触れ合い話し合えばわかる? いや、まだわからない。
 内側に入り込み、心を犯し、体を食い尽くせばわかるのだろうか? いや、きっとわからない。
 どうしてそう思うのだろう。どうしてあたしはわからないのだろう。
 教えて、誰か、教えてほしい。
 どうしてあたしはここまでひとりぼっちなんだ?

「……っく」
 しゃくりあげるような声が響いて、仁はのろのろと目を開いた。
 朱乃がぼろぼろと涙を流しながら、そしてそれにさえ気づいていないように、あいかわらず妖艶な微笑みを浮かべながら、キスと愛撫を続けている。
「あけ……の……」
「仁……仁」
 ふいに、その泣き顔に重なった顔があった。
 それは仁の母親の顔だ。
 夫、豊が突然理由も告げずに姿を消してしまったとわかった夜、母親は放心した顔でキッチンのテーブルに座っていた。
 ほつれた髪、疲れ切ってかさかさになった肌に隈が沈んでいて、瞳はまるでそこに全ての答えがあるようにじっとテーブルを見つめている。
 いや、見つめているけど、見つめていない。
 仁は始めはテレビを見ていた。
 おとうさんが帰ってこないかもしれない。
 それはわかっていた、つもりだった。けれどまたどこかでは、一晩眠れば覚めてしまう幻だと思っていた気もする。
 テレビを見ながら時々母親を振り返った。夕飯はまだできていない。母親は立つ気配もない。もう10時を越えていて、明日も学校がある。
「おかあさん」
 仁はそっと声をかけた。
「お腹、空いたんだけど、パンとか食べてていい?」
 ゆるゆると母親が顔を上げた。2つの目が恐ろしいほどに真っ黒で、それが何かを仁に予感させた。とっさに体を後ろに引いた。そのとたん、テーブルを飛び越えるように飛びついてきた母親が自分の上にのしかかって、仁は思いきり背後に倒れた。頭を強く打つ。右横のやや上にさし貫かれるような痛みが走って、ばちん、と耳の奥で音がした。
(ああ!)
 仁の今の意識がいきなりそこに吸い込まれ、突然仁は理解した。そこは、仁の力の水門、そこが一番最初に開いたのはそのときだ、と。そして、それが開いたのは、命の危険を感じたからだ、と。
 本来なら感じるはずのないもの、実の母親から吹き出してくる、凄まじい敵意、それこそ、ほとんど殺意にも似た。
 ごん、ごん、と続けさまに頭を床に打ちつけられた。
「あたしに、何を、しろと、いうの!」
 仁の上にのしかかった母親が呻くように叫んだ。
「疲れてるのが、わからないの、必死に、やってるのが、わからないの、なのに、まだ、夕飯を、作れって、いうの、夕飯、作れないから、パンだなんて、あんたは、どこまで、あたしを、ばかに、するの!」
 髪の毛を掴まれ繰り返し叩きつけられ、朦朧とする幼い仁の意識にすり変わって、現在の仁の意識が流れ込む。痛みと恐怖に砕かれそうな魂を背後に庇って、仁は意識の中央に入り込んだ。
(ああ、そうか……だから、僕はこのことを覚えていなかったんだ)
 わからない、わからないよ、と小さな仁が背中に震えてしがみついてきながら泣いている。
 どうして、おかあさんはおこってるの。
 どうして、おかあさんはないてるの。
 ぼくは、なにをしたの。
 どんな、わるいことを?
 ことばの意味はわからなくても、母親の怒りと悲しみはちゃんと伝わっているのだ。そして、それが自分のことばがきっかけであることもわかっている。
「あんたが、いたから、あんたの、世話で、ていっぱいだったから、あの人が、でていったんだ!」
 母親が切羽詰まった悲鳴を上げた。
「あの人は、イイ人、なのに、あの人は、悪くないんだ、悪いのは、あんただ、あんたが、あんたが、あんたが」
 ぼくが?
 ぼくが、わるいの?
 ぼくが、いるのが、わるいの?
 小さな仁が混乱し、悲鳴を上げる。
(違う)
 仁は首を振り、相手の体をしっかりと背後に庇って守ってやりながら、静かに呟いた。
 そうだ、今ならもうわかる。母親は急にいなくなった夫の行動に混乱し、困惑し、この先のことに恐怖し不安に駆られていた。そこにどんな理由も見つけられないままなら、自分が崩壊すると感じていた。だから、一番わかりやすい答え、受け入れやすいイメージに飛びつき、掴んだのだ。
 それは、子どもの世話で夢中になって日々を過ごしているうちに、女性としての魅力を失ってしまった自分に夫が愛想をつかして出ていってしまった、というもの。
 よくある話としてそこらじゅうに転がっている物語の1つだ。そしてまた、あまりにも一般的だからこそ、深くまで考えなくてもすむ話だ。なぜとかどうしてとかに続く、根源的な問いにつながらなくてもすむ物語だ。
 そう、私はあなたにとって何だったのか、という問いに。
(違うよ、仁)
 今の仁は幼い自分を抱きかかえた。
(おかあさんはわからなくなってしまったんだ、あまりにも怖くて、そう、1人になったことが、耐えられなくて。でもそれは、おかあさんのこと、君のことじゃない)
 ぼくのせいじゃ、ないの?
(そうだ、君のせいじゃない)
 おかあさんはこわいんだね?
 1人になるのがこわいんだね?
 じゃあ、ぼく。
 幼い仁がそっと背後から滑り出て、手を伸ばした。記憶の中の仁も頭を打ちつけられてぼうっとしながら、少し動きが止まった間に両手を伸ばし、母親の体に触れた。
「おかあ……さん……」 
 びくっと激しい勢いで仁の母親は体を震わせた。
「ぼくが……いるよ……?……」
 小さな両手が母親の体を抱きかかえようとする。その瞬間、母親の中で大きなものが崩れた。
「仁……仁!」
 自分が何をしていたのかふいに気づいたように飛び退き、やがて悲鳴を上げながらすり寄って、自分が叩きつけた息子の頭を必死に抱え撫でさする。急いで仁を抱きしめる。
「ごめんね、ごめんね、おかあさん、あんたがいないと、死ぬかもしれない……」
 泣き崩れた母親の顔が虚ろに遠ざかっていく、そして入れ代わりに、再び自分の体を抱きすくめる朱乃の顔がはっきりと戻ってきて。
「あんたを殺したい……あんたを殺したくない……あんたがいるとあたしは1人になる……あんたがいないとあたしは1人になる……どうしてなんだろう……?」
 朱乃は泣きながら何度も仁に頬をすり寄せた。まるで、触れ合うところ全てから自分の存在を仁の中に刷り込もうとするように。そして、それがどうにも叶わないことに苛立つように、
「じぃん!」
 喘ぐように声を上げて、抱きしめてくる腕に力がこもった。
「ぐ……っ……!」
 掴まれた左脇腹に指が食い込んでくる。駆け上がる痛みに意識がまた吹き飛びそうになった。
「こんなに近くにいて……こんなに深くにいるのに……」
「う……っ……う…」
 痛みに体が勝手にがくがくと震え出す。朱乃は気を失いそうになっている仁に気づいているのか気づかないのか、ぽろぽろと涙を零し続けながら、なおも仁の肩口に顔を埋め、呻いた。
「……どうしてあたしはまだ1人なんだろう……?」
「あ……けの……」
 仁は必死に意識をかきあつめた。体が熱いのか冷たいのかわからない。
 けれど、蘇った記憶は朱乃が辿れるただ1つの道を教えてくれた。今にも途切れそうになる呼吸を必死に繰り返しながら、力が入らない両腕に無理矢理力を込めて持ち上げ、自分を抱えている朱乃の体をそっと抱き締めてやる。
 びくっ、と朱乃が体を強ばらせた。
 同時に再び傷をえぐられて、視界が一気に暗くなった。気を失うぎりぎりのところで、かろうじて意識を頭の右隅、自分の中の解放点に繋ぐ。瞬間、ぐおっと轟音が響いた。巨大な穴、かつて仁自身を呑み込もうとした水門を意識して開く。
 心の中の金色の獣が思わぬ解放にうれしそうに体を起こし、ゆるやかに伸びをする。
「力を……放ってごらん……」
「え?」
「どんな力でもいい……全部受け止めるから……」
 どこまでいっても1人でしかない孤独、1人でいるしかない恐怖。
 それは朱乃1人のものだっただろうか、仁の母親だけのものだっただろうか。
(違う)
 確かに幼い自分は母親の恐怖と不安を理解しきれなかった、受け止めきれなかった。けれど、今やそれは、まさに仁の傷みそのものでもあるのだから。
(どこまで行っても、1人で。どこまで生きても、1人で)
 その苦痛を今仁はしみじみとわかる。その竦むような孤独を。
 あの悪夢の後、壁に溶け込んでいた時計を見たとき。
 RDで1人闇の中を走りながら誰も追いついてこれなかったとき。
 マイヤを守れなかったとダリュ-に責められたとき。
 内田に、置いていかないだろうな、と怯えた顔で微笑まれたとき。
 あの廃虚でひたすらに『印怒羅』を狩っていたとき。
 孤独が朱乃の恐怖の源で、それが朱乃を破壊に走らせているならば、そこに寄り添えるのは他ならぬ仁だけだ。朱乃を止められるのは、仁だけだ。
「だ、だって、だって」
 朱乃は身をよじりいやいやをするように首を振った。仁の中に開いた闇の入り口に気づいたのだろうか、今の今まで引きちぎるほど強く抱きしめていた腕を離し、むしろ仁から離れようとするように身もがいた。
 だが、今度は仁が朱乃を離さなかった。傷みに麻痺して動きが鈍くなった手足に残った気力を注ぎ込みながら、身悶えする朱乃を強く抱きかかえる。
「だめだ、だめだ、そんなことしたら、あたしつぶれる、潰れちゃって、消えて、なくなって、死んじゃう、死んじゃうよお」
 朱乃は怯えたように悲鳴を上げた。声は打って変わって幼い。まるで小さな子どものようだ。
「やだ、やだ、仁、やだ、あたし消えたくない、1人になりたくない、仁……仁!」
「だから……」
 仁は消えかけた意識を引き戻した。荒い呼吸のままに朱乃の耳もとに囁きかける。
「だから……1人にしない……僕がいるよ」
「……え……?」
 しゃくりあげて泣いていた朱乃はもがくのを止める。
「僕が……いる……ずっと側に……いてやるから……」
 囁きながら、それは仁の安堵だったのだろうか、それとも朱乃の気持ちが弛んだのだろうか、ふいに温かで柔らかな気持ちが広がってきて、仁は少し笑った。
「始めから……こうすれば……よかったんだね……」
「仁……」
 朱乃がふいに大きく目を開いた。
「いて……くれる……?……あたしの側に……あたしと……居てくれる……?」
「うん」
「ずっと?」
「ずっと……」
「永遠に?」
「ああ……永遠に……」
「……仁……!」
 朱乃が小さく叫んで唇を重ねてきた。だが、すぐにぎょっとした様子で体を引く。
「……どうしたの…?」
「何か……変だよ……」
 朱乃は年より幼い顔のままで訴えた。
「何が……?」
「何か……」
 涙で汚れた顔をそっと仁に近付ける。確かめるように、おそるおそると言ったようすで、唇を触れる。
「仁が……甘い……」
「甘い……?」
「うん……」 
 ふいに朱乃の顔に鮮やかな紅が散った。
「何だろ……甘くて……柔らかい……仁……果物みたい……ううん……お菓子みたい……ううん……何か……あっ」
 両手を仁の体に回し直した朱乃が体を硬直させて青くなる。そのまま凍りついたような顔で見つめているのは、仁の左脇腹だった。そこからはまだぬるぬると血が滴り落ちている。触れた自分の腕を朱乃は凝視しているが、顔が見る見る恐怖に強ばっていく。
「仁……どうしよう……あたし……腕が焼かれてる……」
「……え……?」
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赤林檎
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

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