『朱の狩人』

segakiyui

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10.成就(1)

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 「危ないっ!」
 叫びが響いたとたん、ダリューが吹っ飛んできた。内田と榊を地面に押し倒し、一塊になって桜の根元に転がる。ゔん、と耳もとで風が鳴るような、空気を派手に震わせる振動音が唸った。白い光が走って視界を遮った次の瞬間。
 どおん!
 地面を激しく揺らす音が周囲を包む。
「うおっ!」「くっ!」
 直下型地震の震源地に居た、そんな身体の中心を貫く衝撃に跳ね上がりながら歯を食いしばる。どんっ、とすぐに地面に叩きつけられ、息が止まりかけた。ざあっと強い雨音、だがそれは周囲に振り落ちる土砂の音、夜の暗さとは違った闇が回りを包み、すぐ晴れる。
「く、はっ!」
 自分を押さえつけていたダリューが突然飛び離れ、顔を背けて激しく吐いた。地面に四つ這いになり体を震わせる。そのダリューを、内田と同じようにはね飛ばされたらしい榊が呆然と見ている。
「うっ……うっ」
「ダリュー、おい、大丈夫……」
 声をかけかけた内田はことばを失った。
「何だ……こいつは……」
 周囲の様子が一変していた。
 古風な和風建築の朱乃の家は巨大なハンマーで叩き潰されたように粉々になっている。廊下に貼りついていた女性はもちろん、部屋のそれぞれも原形をとどめないほどに破壊され、かろうじて残っているのは塀の一部と門扉、内田達が転がり込んだ桜の樹ぐらいだ。
「あ……朱乃だよ……」
 口元を拭いながら、真っ青な顔をしたダリューがよろめくように振り返った。
「攻撃されたんだ」
「何……?」
「何でそんなことがわかる?」
 榊と内田の凝視を浴びて、ダリューは顔を歪めた。
「わかるよ、簡単だ……朱乃は仁を手に入れたい……そのためには僕らが邪魔なんだ」
 呼吸を乱したまま上空を見上げる。
「あそこで……仁は朱乃とぶつかってて……わかる……わかるよ」
 瞳から耐えかねたように涙がこぼれ落ちる。
「だって……だって……僕と同じだから……大事な相手さえ無事ならいいんだ……他の誰を傷つけても……他の誰が苦しんでも……自分と大事な相手さえ無事なら……」
 悲痛な表情で唇を噛みしめ、溢れる涙をそのままに内田を見据える。
「僕は朱乃の気持ちを感じ取れる……朱乃に似ているのは仁じゃない……僕だ……仁なんかじゃない……!」
 ゔ……ん、とまた震動音が周囲に満ちて、内田は我に返った。自分と榊、ダリューの体を包むように淡く光る真珠色の膜が覆っているのに気づく。
「う……うっ」
 同時にダリューが唸って体を抱え込みながら地面に突っ伏した。
「バリャー……か?」
 ダリューの様子と自分達の周囲は地面が破壊されていないことに内田は気づいた。
「そうか、壁を作ってるのか、こいつが」
 榊が魂が抜けてしまったような声で呟き、周囲の真珠色の膜にそっと指を触れた。ゔぅ、と唸りが大きくなる。ダリューが体を強ばらせて悲鳴を上げたのに慌てて手を引き、内田の近くに這い寄ってくる。
「やめろ、ダリュー、もたねえぞ」
 内田は眉をしかめてうなり、ダリューの震えている肩を掴んだ。
「さっきの攻撃をもろに食らったんだ、きついんだろ、前はこんなこと、できなかったじゃねえか」
「だめ……だ」
 ダリューは蹲った姿勢から横目で内田を見上げた。かなりの苦痛なのだろう、灰色になりつつある顔から脂汗が滲んで滴り落ち、瞳が朦朧としている。それでも、ゆるやかに首を振って拒否した。
「約束……した……」
「何を」
 より険しく内田は顔をしかめた。厳しい口調で詰問する。
「朱乃がまだ……狙っている……僕は……仁を守るって……」
 途切れたことばの後は吐き気をまた堪えているのか、目を閉じ歯を食いしばる。
「ダリュー」
「ここで……僕らがやられたら……仁はもたない……だろう……?」
 必死にことばを続けながらもダリューの顔色はどんどん悪くなっていく。呼吸がみるみせわしく浅くなり、今にも気を失いそうになっているのがわかる。閉じた目から零れ続ける涙が地面を濡らしていく。
「僕が……強くなかったから……仁を追い詰めた……から……」
「ばかやろう」
 内田が苛立ったように吐き捨て、ダリューを叱りつけ、肩を掴んで引き起こす。
「あいつが『こんなこと』を望むかよ! おまえまでそんな無茶をするこたねえんだ! 無茶なんかあいつにまかせとけ!」
「……ぃや……だ」
 ダリューは強く首を振った。
「もう……いやだ……自分が……情けないって思うのも……もう……たくさんだ!」
 はあはあと呼吸を荒げながらダリューは内田を睨んだ。抱え起こされたのを抵抗する気力さえ残っていない、わずかな意志力を全て拒否に注ぎ込むような顔で、
「ぼくは……もう……無力でなんか……いたくない……っ!」
「ち!」
 鋭い舌打ちとともに内田は拳を閃かせた。榊が制する間もなく、ダリューの鳩尾に叩き込む。とっくに限界に来ていた相手があっさりと気を失うと、周囲を取り囲んでいた真珠色の膜がみるみる薄れて消えていった。
「ったく……どいつもこいつも馬鹿ばっかで」
 ダリューを引きずり、桜の根元に転がした側に胡座をかき、内田は榊を見上げた。
「見ての通りだ、命がけの修羅場になってる。さっさと手を引いて高尾とやらのところへ戻ってやれ。そいつにはあんたしかいねえんだろ?」
「お前はどうするんだ?」
「俺?」
 内田はにやりと笑ってジーパンの尻ポケットからくしゃくしゃになったラッキーストライクを取り出した。
「ここに残るに決まってるじゃねえか。あいつがまだあそこにいるんだぜ?」
 煙草を挟んだ手の親指をたてて天空を指してみせると、榊は複雑な顔になった。
「ここにいて……何になる?」
 立ち上がりながら、榊はどこか不安定なあやふやな口調で問いかけてきた。
「お前に何ができる? お前がここにいても何もできないし、かえって仁の不利になるんじゃないのか?」
「……あんたもバカか?」
 内田は冷ややかに呟いて目を細めた。
「ったく、真奈美といいあんたといい、どいつもこいつも、てめえの意志とか気持ちってのはないのかよ?」
「何?」
「俺がここにいるのは、ここにいたいからだ。それ以外の何がある? あんたに言わせりゃ、そんなもの、ただの自己満足、一人よがりだってことになるんだろうが、はっ」
 内田はシニカルに笑ってみせた。
「そんなこと当たり前だ。俺が何を考えようとしようと、しょせん人間のするこた、言い切っちまえば自己満足さ、誰かのためなんてありえねえ」
 榊が何かに詰まったような顔になる。
「そうさ、あんたがどれほど弟のためにあれこれ考えてやったとしても、あんたが弟の代わりに生きられるわけがねえ」
 ぎく、と榊が僅かに体を緊張させた。
「さっき言ってたよな、仁の世界に居るのは命がけだって。いつ途切れるかもしれねえ関係、そんなやつと一緒には生きられねえって。結んだ絆が取り戻せない相手と知り合うぐらいなら、別の無難なやつを見つけろって弟に話すつもりなんだろう?」
 煙草をくわえて、肩をすくめて見せる。
「だがな、それこそ自己満足、あんたの勝手な一人よがりさ」
 榊の顔が険しくなり、白くなった。握った拳が固められるのを悠然と見やりながら、内田は続けた。
「あんた一度でも聞いてやったことがあるのかよ、その高尾とやらに。どうやって生きていきたいんだって。何をしたかった、今何をしたいんだって」
「!」
「かわいそうだ、見捨ててしまってた、自分の気持ちが許さねえ、そりゃそうだろうさ、身内なら当たり前だろうさ。けどな、それでも人間1人は1人分の命しか背負えねえんだ。あんたがどんなに必死に庇って守って助けて支えてやっても、ほんとに会わなきゃならねえ相手なら、会うさ、何があっても、どんなことになっても。そういう力っての、知らねえのか? そういうのゴーマンって言うんだぜ?」
 自分がぴりぴりしていることはわかっていた。この家を吹き飛ばしてしまったほどの朱乃の力を目の当たりにして、上空に居るずたずたの仁がどれほどの苦戦を強いられるのか、想像するとぞっとする。
(ひょっとしたら、帰ってこれない)
 そんなことは仁も、そして内田もわかっている。
 ゆっくりと空を見上げた。星さえ見えない暗く澱んだ空に雷の閃光が走る中、白く輝く2つの球体が浮かびながら揺れている。ときどき、それらが互いを掠めぶつかるようにしてぎらりと猛々しく光る。気のせいではないだろう、その片方が、少しずつ少しずつ、赤みを帯びて桜色に染まっていく。おそらくは、仁の流している血のせいで。
(あそこで、あいつは今、朱乃と向かい合っている)
 自分の魂の片割れと言えるほど近しい異性、それはきっと強烈に仁の気持ちを惹き付け呑み込まれていく感覚だろう。
 けれど、仁は戻ってくる、と言った。
 内田も約束は生きている、と言った。
(だから、俺はここから動くわけにはいかない)
 それは仁のためではない。はからずもさっきダリューが叫んだことばに通じるもの、それこそ内田自身のため、内田が自分自身を信じるためだ。
 しゅぼ、とふいにライターの火が近づけられて、内田は我に返った。
 いつのまにか、すぐ側に榊が座り込んで、煙草の煙をくゆらせながらライターの火を差し出している。無言でその火を吸い込む内田に、相手は苦笑いした。
「あいかわらず、きつい奴だな」
「逃げろって言ったぜ?」
「それに、強い、お前達は」
 内田のことばを取り合わずに榊は深々と煙を吸い込んだ。土埃で汚れた服をうっとうしそうに払いながら、薄い色の短髪を片手でかきあげ、どこか諦めたような口調で続ける。
「どうしてそこまで強いんだ? そいつだってぎりぎりまで頑張った。限界までいくことは簡単なことではない、けれどお前達はそこへ行こうとする。なぜだ?」
「……あいつが、いるから」
 内田は応えた自分の声が一瞬震えるのを感じて、歯を食いしばった。頼りなく揺れてしまいそうな気持ちを意地にかけて堪え切る。
「あいつが、あそこにいるから、だろ」
「ふうん?」
 榊が少し眉をあげ、問いかけるような視線で内田を促す。
「あんたの言うように、仁は強い、あいつの側に居たいなら強くなるしかねえ」
 胸に微かな痛みが走る。永遠に前へ進もうとする人間、そしてまた永遠の彼方に辿りつける人間を追いかける無謀さを思って。
「確かにあいつは別格なんだろう、けどな」
 脳裏を不安定な淡い仁の笑顔が過っていく。それが漂わせる孤高に内田の胸の一番柔らかい部分が揺さぶられていくのを感じる。
「あいつはあいつで、必死にしのいでるんだ。あいつは逃げねえ。逃げてもいいところだって、逃げねえ。何だか不安そうに笑いながら、それでも前へ進んじまう。なら、俺が怯んでるわけにはいかねえじゃないか」
 榊が再び深く煙を吸い込み、静かに吐き出しながら、何かを察したように空を見上げて内田から目を逸らせた。
「あいつは誰も責めたりしねえよ。けどな、あいつがあそこで血まみれになってるのから目を逸らしたら、俺は次の一歩が歩けねえ」
 逃げない、怯まない、たじろがない。
 いつだって、どんなことだって、不器用に全力を尽くして、それでも全てが報いられるわけではない、それでも駆け抜けていく、その強い輝きを前にすると。
 つんと内田の鼻の奥にきつい痛みが走った。一瞬目を閉じ、すぐに開いてまっすぐに仁を見上げる。
「たぶん、俺は」
 内田は掠れてしまった声で低く呟いた。
「あいつに……仁に負けたくねえ、だけだ」

 遠くの空から雨が降り始めた。闇を淡く煙らせていく水のベールが、仁と朱乃の周囲もゆっくりと包みはじめる。
「仁……」
 朱乃は柔らかく囁いた。乳房を押さえていた両手を広げ、天使が堕ちてくるように、桜の花びらを雨に光らせ舞わせながら仁に近づいてくる。
「ずっと一人だったわ……でも、信じていた……必ず巡り逢えるって……必ず……逢えるって……」
 確信を込めて繰り返す。そのことばを紡ぐ真紅の唇の甘さを、仁はもう知っている。その中で蠢く舌がもたらす快感も、体がとうに覚えている。自分の中の牡の部分がより強く激しい感覚を求めてうねり出すのがわかる。
 いつのまにか無意識に仁も両手を広げていた。朱乃との距離が縮まるに従って、意識がどんどん虚ろになり、彼女の中に吸い込まれ奪い去られていくのを感じてはいるものの、抵抗しようとする気が起こらない。
(どうして拒まなくちゃならない?)
 おそらくはこの先も仁はずっと独りだろう。内田が側にいても、同じような能力を持つ者が増えていっても、どこまでいっても仁は独りでしかないだろう。
 なぜなら、仁は『特殊』だから。さとるが怯えたように、マイヤが接触できなくなったように。
 そしてまた、内田や城崎が生きていこうとする世界に仁は必要とされていないから。
(誰とも繋がれない、関われない、本当に深いところまでは)
 仁が仁であるゆえに。
(唯一わかりあえるのは、同じ孤独を抱え同じ傷みを抱える朱乃だけ、なのかもしれない)
 確かに優れた知覚力を持つことは、より細かな情報を得たり、新しい視点を得たりすることに繋がり、これまでにない新しい変化を人類にもたらすのかもしれない。
 けれども、能力を支える基本的な何かが変わっていかない限り、種としての成熟にはつながらないのだろう。超能力があっても、能力の強さや種類の『差』が同じ発想を生む限り。
 「彼は違う」「彼は変わっている」「彼は我々と相容れない」「彼の考えていることがわからない「彼の望むことがわからない」「彼の意図がわからない」「彼の事がわからない」……「彼は敵かも知れない」。
 どれほどの優れた能力を持とうと、結局人を分けるのは『能力』ではないのかも知れない。1人の人間がもう1人の人間をどう感じ、どう捉えるかということに過ぎないのかも知れない。
 疑いは恐れを招く。恐れは怯えと混じりあって自己防衛に走らせる。さとるを跳ね起きさせたように。マイヤを困惑させたように。内田に口をつぐませ、城崎に仁を遠ざけさせたように。
 仁の新たに伸びつつある力、それこそ朱乃との接触で生まれた力は、またあの仲間達を怯えさせるのではないか。普通の人間が超能力者に対して感じるような不安。それを、力があるから解りあえる、乗り越えられると思うほうが間違いではないのか。
 では、それなら、仁や朱乃、いや超能力者はなぜ生まれてくるのだろう。人類という種が異質なものを排除するしかない、閉ざされた進化をしているということを確認するために生まれているのだろうか。『夏越』が指摘したように、人類はもう行き詰まってしまった種で、この先へ進むには別な段階を踏むしかないということなのだろうか。
 移行を示すマーカーとしての役割、仁達はただ単にそういうものなのだろうか、優れた能力と引き換えに永遠の孤独を抱えながら。
「うれしい、仁、あたしを受け入れてくれるのね?」
 朱乃が囁き、仁の体を抱き締めた。吸いつき絡みついてくる肌身の感覚、荒い呼吸を繰り返していた口をキスで深く塞がれて、体の内側に炎を落とし込まれたような痛みとも快感とも言えない震えが一気に手足の先まで走り広がっていく。
(ここならば、そうだ、僕は1人じゃない)
 いつか見た映画のシーンが唐突に胸の中に蘇った。
 苦しみに耐え、長い道のりを歩いてきた人々、疲れ果ててて座り込もうとする群集の前で、旅を導いてきた長が遥か彼方、海の向こうを指差して叫ぶのだ。
『頑張れ、もう少しだ。この先にこそ、約束の地があるのだから』
 約束の地……人々の平和と幸福が確かに約束された土地……辿りつきさえすれば、よりよく生きていけることを保証された土地……。
 そんなものが本当にあるのだろうか。
 人は皆、理想を夢みながら、道中で虚しく果てていくものではないか。
 それならば、今奇跡のように手に入った朱乃という存在は、仁が得られるただ1つの夢、安らぎの場所ではないのか。
「う……くふ…」
 唇を重ね直されながら、体が探られ、巻きつけられていたシャツが引き裂かれ解かれた。首を、胸を、腹を、脚を、朱乃の細くてしなやかな指が辿り、その軌跡に鮮烈な傷みを残していく。まるで指先に鋭利な刃物が仕込まれていて、それで仁を外側から開こうとでもするようだ。そして、内側は。
(なだれ……こまれ……る……)
 朱乃の記憶が、これまでの数倍の濃度で、鮮やかさで、激しさで、仁の心を真紅の激流となって削っていく。同調すべきもの、共感すべきもの、もう1人の自分として。
「仁……仁……あたしのものよ……あたしだけの……仁」
 朱乃は囁いて、今度は首筋に顔を埋めてきた。唇から零れる熱い吐息が触れる感覚、思わず仰け反った仁の顔に、2人が放つ高温のエネルギーの壁のせいか、気化した雨が霧となって舞い落ちてくる。
 呼吸が間に合わない。必死に開いて酸素を求める口、その中に温かな蒸気が流れ込み、肺を少しずつ満たしていく。塩っぽい、ぬらりとした、温かな霧、それは遥か太古、この胸を満たしていたものだ。そこから遠く離れて歩んだ『人』は、その海を体の中に閉じ込めながら生きている。
(溺れる……溺れて……しまう……)
 滾る体を朱乃に深く抱き締められたまま、仁の感覚は内と外から攻め落とされていく。
 朱乃は仁をもみしだくように、何度も胸を開き、繰り返し抱き直し、身体を重ねていた。指先で切り裂いた傷を一つ一つ確かめるように、唇を落とし、滲んだ血を啜っている。痛みがそこかしこから、甘い疼きになって仁の身体を走り抜ける。
 1つ傷を吸われるたびに、1つ自分と朱乃の境が消え失せていくような気がする。一滴朱乃の中に体液が呑み込まれるたびに、一滴内側から蕩け落ちた仁の感覚が朱乃の中に同化していくような気がする。そしてまた、合間に繰り返すくちづけで、朱乃の感覚が仁の中に注ぎ込まれ満たされて、それらが仁の内側から、重なる朱乃の熱さ柔らかさを感じ取り、その感覚がまた朱乃から注ぎ込まれて二重に混じりあっていく。
 それはまるで、仁と朱乃が塩っぽい体液の幻の海をお互いに差し出しながら、次第に彼我の境を失っていくようだった。仁の感覚は朱乃に同調し、朱乃の感覚は仁の中に延長され、今感じている痛みが、今通り過ぎた震えが、今揺さぶられている衝撃が自分のものなのか、相手のものなのか、だんだん見極められなくなってくる。
 揺さぶられ、揺り動かされ、身体も心も大きく深く混じりあって、仁と朱乃の存在がまるで始めから1つの細胞であったかのように、甘く塩辛い紅の霧の中でゆっくりと渦巻きながら凝縮していく。やがてくる、大きな頂きと大きな波と大きなうねりを飛び越えるために緊張が高まっていくのを感じ取りながら。
(僕は……もう……居なくなる……のか……)
 仁はぼんやりと目を開けた。瞬間、走り上がった光に意識を失い、朱乃に深く呑み込まれていきながら、仁の頬を涙が伝う。
 う……ち……だ……。
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