『未来を負うもの』

segakiyui

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8.攻防戦(1)

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「なんだか、夜の病院って、こわいな」
 先に立ってガラス戸を開けた仁の後ろから続きながら、さとるはおどおどと呟いた。
 呼吸を弾ませているのは恐怖からだけではなく、たった今、仁を抱えて『飛んだ』せいもあるのだろう。
「受付に人がいない」
 いくら夜間とはいえ、8時を過ぎた程度、緊急患者も来るだろうに、宮岸病院は奇妙に静かだった。
 『受付』と書かれたコーナーのガラス戸の向こうにも、人の気配がない。振り返った夜の街がいつもと変わらぬ喧噪に満ちていて、玄関の向こうを次々と人が通っていくのに、この中だけは時の狭間に切り取られたみたいに誰も入らない、振り向こうとさえしない。
(ひょっとして、この病院そのものが、今は周囲と切り離されているのかもしれない)
 『普通』の人間にはそれと気づかぬ、目に見えない結界でもって。
「仁…」
「うん、まっすぐ奥の方からだ」
「そこ、エレベーターがあるよ、ぼくらがいつも使うやつ」
「わかった」
 正面の広々とした空間は待ち合い室で、無機質に白い長椅子が並べられている。右側は薬を手渡すコーナー、そこにかかっているクリーム色のカーテンも動く気配がない。左側は白いリノリウムの廊下へと続き、その奥に小豆色のエレベーターの扉が見える。
 と、いきなり扉の上にあるランプが点滅しながら動いて止まった。
「仁、気をつけて」
 さとるが不安そうに後ろから囁く。
 扉が左右に分かれる。
 中にいたのは、1人の青年だ。白のサマーニットに同色のスラックス、茶色の髪の下で閉じられていた目がゆっくり開いて仁達をとらえる。薄い茶色の目だ。
「ダリュー!」
(殺気!)
「さとる!」
 嬉しそうに,今にも相手に走り寄りそうなさとるを抱えて、仁は横っ飛びに転がった。一瞬後、突然跳ね上がった長椅子が今まで2人が居た場所にぶつかり、凄まじい音をたててへし折れる。
「ダリュー?!」
 仁と一緒に床に転がり滑りながら、さとるが悲鳴を上げた。
「どうして? ぼくだよ!」
「『夏越』様に逆らったものは敵だ」
 ダリューはひんやりとした声で呟いてエレベーターの中から歩み出た。両手を軽く左右に開く。次の瞬間、側にあった長椅子が鋭い音を鳴らしながら、床を削り取るように突進してきた。
「く!」 
 仁は腕に抱えられたまま呆然としているさとるを引き寄せ転がった。行く先を阻むように別の長椅子が突っ込んでくる。とっさに方向を変えられない仁の頭の中で、金色の火花が舞う。
 ふ、と世界が蕩けた。瞬きするほどの間だけ、すぐに元の形を取り戻して病院の待ち合い室の一画に戻る。ただし、そこはさっきとは違う別方向の隅、そのまま走れば歩み出したダリューの後ろを駆け抜けてエレベーターに乗れそうな位置だ。
「、つっ」
「仁!『飛べる』の? どうして?」
 さとるが驚いた声を上げた。さすがに堪えきれないほどまで痛んだ頭に呻いた仁を見上げる。
「さっきので、少し、わかったから」
「ちいっ!」
 応える間も相手は与えてくれなかった。仁の意図を確実に読んだのだろう、吹っ飛んで来た長椅子がまた目の前の床にぶつかる。
「わかったって…わかっても、できるもんじゃないって…マイヤが…」
 さとるは混乱した顔で呟いている。
 マイヤの名前にダリューが反応した。苦しそうな色が茶色の目を曇らせる。気づいた仁の耳の奥にさとるのことばが蘇る。
『マイヤの彼氏』
 ふいに仁は感覚の一端が相手の茶色の目に吸い込まれていくのを感じた。ダリューの目が彼の心にまっすぐつながっているかのように、弱々しい声が仁の胸の内に響いてくる。

  まいやガ、ツカマッテル。
  大事ナまいや。
  僕ノタッタ1人ノ理解者。

 仁の視界にダリューとマイヤの姿が揺らめくように透ける光景になって重なった。
 激しい吹雪の中、凍えた体を抱きかかえて、振り絞るように泣いている幼い少女への同情。
 こちらを見上げたグレイの目の鮮やかさ。乱れたプラチナブロンドの儚さ。思わず差し伸べた手にすがりついてくる、小さな震える体の目眩がするほどの愛しさ。
 茹だる酷暑の街。ごわごわした布に姿を隠しながら、ターゲットになる人間を追う日々。優れた能力者はたいてい抵抗する。彼らは追いつめられていなくて、占い師やシャーマンとして社会的に居場所を保証されて生きている時もあるからだ。
 羨ましさと苛立ち。生きていけるだけで幸せなのに、マイヤを悪魔とののしった者もいる。悲しむマイヤの涙が辛い。憤りから相手を殺したダリュー、真竹からの叱責と罵倒からマイヤが庇ってくれた。
 なのに、そのマイヤに真竹は唾を吐いて笑う、化け物女、と。

  ドウシテ、僕ラハ、馬鹿ニサレ、嘲笑ワレ、貶メラレル?
  ドウシテ、僕ラハ、力ヲ与エラレタ?
  神ノ恩寵?
  馬鹿ナ。
  欲シカッタノハ、まいやト暮ス場所。
  ドコニモナイ、約束ノ地。

 マイヤは仲間を殺すのに疲れ切っていた。けれど、どこにも行く場所がない。『夏越』のところを離れれば、すぐさま追っ手がかかり、殺されてしまう。
 どちらにいても、どこにいても、きっと私達は殺されるのよね。
 諦めて笑っていたはずのマイヤが、なぜかいきなり姿を消した。攫われたのではなく自由意志、連れ戻されたマイヤからそう聞かされて、体が震えた。
 一体誰だ、何者だ。絶望しきっていたマイヤにこれほどの覇気を与えたのはどんな力だ。
 仁、浅葱仁。
 浅葱豊の息子?
 『夏越』を生み出した力がまた『夏越』を滅するというのか?

  ダカラ、賭ケタ。
  まいやガ、捕マッテテ、僕ガ闘ワナイト、殺サレル。
  僕デハ助ケラレナイ。
  デモ、仁ナラ未来ヲクレルカモ知レナイ。
  まいやガ、生キテイケル未来ヲ。

「ダリュー、ひどいよお!」
 さとるが仁の腕の中で身もがいて泣き、仁は我に返った。
(一瞬の……感応?)
「ぼく達、なかまなのに!」
「仲間だからこそ」
 ダリューは目を細めて、床に座り込んだ仁とさとるに向き直り、再び両手を広げた。ふわあ、とその体に満ちる力に煽られて茶色の髪が浮き上がる。
「裏切りは、許されない」
 嫌味なほどきれいな発音の日本語に重なって、はっきりともう1つの声が仁に届いた。

  聞コエテルナラ、僕ヲ殺セ。足手纏イニナルノハ、モウゴメンダ。

 ダリューが目を閉じる。
「ダリュー!」
 さとるが怒りの声を上げる。
 傍目には仁達を葬ろうとして力を集中させているように見える。けれど、その閉じた目の奥で溢れてくる涙を仁は感じ取っている。
 その涙に繋がる記憶も仁には透けて見える。
 
 緑深い森だ。小さな一軒家。親子3人のつつましい暮らし。雨と草原と大きな河の流れ。
 しかし、乱開発で河が狂った。氾濫し溢れた水が家を呑み込んだ。
 ダリューは幼かった。1人で走って逃げられぬほど、幼かった。
 始めに父がダリューを抱えて走った。母が遅れたので、父は片手で母の手を引いた。濁流が追ってくる。呑み込まれたとき、流れてきた木に父は頭を殴られた。父は水に沈みながら、母とダリューを板に押し上げた。父が沈んだ後、再び大きな波が来た。波はダリューを攫おうとした。母はとっさに腰の紐でダリューを板に括った。そのため両手が板から離れて自らは支えられず、母は板から滑り落ちた。泣き叫ぶダリューに、大丈夫だよ、と笑いながら。神様の守りがおまえにあるようにと、そう叫んだ。両手を差し伸べるダリューの視界で、母が茶色の渦に呑まれる。
 かみさまはいないの? ダリューは泣いた。これほど助けてってたのんでるのに。
 ダリューさえいなければ、父母は助かったのだ。
 足手纏いのダリューさえ、いなければ。

「くそお! そっちがそうなら!」
 さとるが恐怖と怒りに震えながら、念を込めるのを仁は感じ取った。それを待つかのように、ダリューはまだ力を動かさない。異様に長い間を、追い詰められたさとるは気づかない。
「いくぞ」
 煽るようにダリューが呟く。側のカウンターのガラスが次々砕けた。破片が眩い光の滝となって仁に、さとるに降り注ぐ。
「ダリュー!!」
「さとる!」
 仁はとっさに今まさに『飛んで』ダリューに突っ込もうとしたさとるの腕を引き止め、背後に庇った。同時にダリューとさとるの2方向に力を分けて、見えない壁をイメージする。包み込むような、けれど今度は圧迫するものではなく、降り落ちて来るガラスの滝から2人を守る膜だ。
「わああっ!」「あ!」「つうう!」
 3人の呻きと悲鳴が交錯した。耳の奥を抉っていく鋭い破壊音が待ち合い室いっぱいに響き渡る。力の分散のさせ方がわからなくて覆い損ねた仁の肩を、頬を、足を、ガラス片が切り裂いていく。鮮血がリノリウムの床に散る。
「う……・?」
 やがて、ふいに静かになった周囲に、さとるが踞っていた体を伸ばした。唇を噛みしめ仁王立ちになったまま竦んでいたダリューも、そろそろと目を開ける。
「なぜ……」
「仁! 血が出てる!」
 ダリューの茫然とした声にさとるの悲鳴が重なった。
「どうして、自分もかばわなかったんだよ!」
「庇い損ねたんだよ……あたた」
「なぜなんだ……」
 仁は苦笑いして、袖で頬を拭った。切り裂かれたシャツは薄くピンクに染まっている。綿パンもずたずただ。だが、思ったほど深くは食らわなかったし、ガラス片も体に入ったままにはなってないみたいだ。頭を降って体を揺すりきらきら光る粉を落としていると、ダリューが叫んだ。
「どうして、僕を殺さなかった!」
「なにおっ」
 さとるが敏感に反応して、ぐい、と仁の前に立ちはだかる。半ズボンのポケットに両手を突っ込み、今にも爆発しそうな怒りを体中に漲らせて、
「今度はとめんなよ、仁、ぼくがやるからね」
「君を殺したら」
 仁は苦笑して、さとるの肩に手を置いた。ふう、と見る間に相手から殺気が抜けるのを確認してからダリューに目を向ける。
「マイヤが助からない」
「マイヤ?」
 さとるが不審そうに繰り返した。
 びく、と体を強ばらせたダリューが目を見開き、そのまま床に目を落とす。
「僕は、マイヤと内田を助けに来たんだ。君を殺しに来たんじゃない」
「でも……」
 ダリューは呻きながら首を振った。
「だって、こうしなけりゃ、マイヤが」
 さとるがひょいと首を傾げ、仁を見上げた。
「マイヤ、やばいの?」
 それから、唐突に気づいたように、もう1度ダリューを振り向く。
「だから、ダリュー、ぼくらをおそったの?」
 ダリューは答えない。苦しそうに俯いたままだ。
「マイヤは」
 仁は息を吸った。ダリューの沈黙を溶かすように、静かに続ける。
「君が助けてくれるね?」
 跳ねるようにダリューは顔を上げた。
「え、だって、仁、今ダリューは敵なのに!」
「そんなこと!」
 さとるが不安そうに唸り、ダリューがうろたえた顔で仁を見た。
「そんなこと、できないよ!」
「できるよ」
 仁は笑った。なぜ、笑えるのかわからなかった。けれど、今笑わなければ、誰も動けなくなってしまう、そうわかっていた。
「だって、『夏越』は僕の相手で忙しくなるからね」
 さわりと微かな電気のようなものが、自分の体の表面を走ったような気がした。闘いの予感。力対力の激突を喜ぶような高揚感。それは仁の胸に切ないような不思議な感覚をも広げた。
(そうだ、『夏越』は僕を待っている)
「そんなこと……」
「『夏越』は僕が迫ってくるのに準備がいる。真竹というのは、普通の人間だよね? 君とさとる、マイヤが協力すればなんとかなると思うけど」
 いきなりダリューの顔があっけに取られたように弛んだ。そうか、そういうことができたんだ、というような表情だ。
 逆にさとるが青くなり、仁を振り仰ぐ。無意識にだろう、首を振りながら、
「仁、一人でいくの? むちゃだよ!」
「無茶じゃない」  
(内田なら、こう言っただろう)
 仁は内田の不敵な笑みを思い浮かべた。シニカルでいつも冷静な内田の語り口を、でき
るかぎりまねしてみせる。
「君とさとるが引っ掻き回してくれれば、向こうにも隙ができるかも知れない。他にもっとたくさん能力者がここにいたら無理だけど」
 ダリューは首を振った。
「ここにはもういない。ほんとはもっといたんだけど、いろんなことで……・失って……」
「じゃあ、内田を助けられるのは今しかない。だから、頼むよ、さとる」
 仁は微笑んだ。ゆっくりとさとるを見下す。
「マイヤとダリューをここから脱出させて」
「それができるの……ぼくだけ、なんだね」
 さとるは俯いて小さな声でいった。
「わかってる。ぼくの力が役に立つんだ、いいことだよね? ぼくがのぞんでいたことだよね? でも、ぼくは……」
 ぽろぽろ、と唐突に俯いたさとるが涙を零した。ダリューがぎょっとした顔で見るのに気づいたのか、慌ててごしごしと幼い仕草で顔を擦る。それから、ぐいと顔を斜めに逸らせて仁を見上げ、唇を歪めて低い声で吐いた。
「わかった、ひきうけてやるよ」
「頼む」
「さとるが……・泣いた」
「うるせえよ、うらぎりもの」
 じろりとダリューをにらんださとるは、すぐに大人びた顔になって、
「マイヤがどこにいるかぐらい、教えろよな、うらぎりもの」
「裏切り者はそっちだろ」
 ダリューが顔をしかめる。だが、さっきまでのいがみ合うような気配はお互いの中から消えたようだ。
「じゃあ、僕は行くから。このエレベーター、だよね?」
 仁のことばに2人が同時に不安そうな顔を向けて来た。
「内田は移動してるよ」
 ダリューがためらった後に言った。
「城崎って男が世話してたけど」
「世話?」
 仁は眉をひそめた。
「うん……身動きできないように、右足、折られてる……君を捕まえるために」
「!」 
 仁の胸を苦しそうな内田の声が過った。
(だから、逃げられないのか。だから、来るなって)
 内田が大人しく足を折られているわけがない。かなり抵抗したあげく、のことだろう。来るな、と言うしかない内田の状況を考えると、仁の内側にじっとりとした痛みが走る。
「くさってる」
 さとるがうっとうしそうな顔になった。
「じゃあ、なおさら、行かなくちゃね」
 仁はなるべく軽い調子を装った。そうしなければ、感情が走り出してしまいそうだった。
(内田もそうか?)
 ふいにそう思った。
 気持ちが激しければ激しいほど、それを表現することの危険がわかっていればわかっているほど、人は気持ちを押し殺すのに長けていく。 
 いつも冷ややかでシニカルな内田の体の中に滾っているのは、人一倍激しい気持ちなのではないか。そして、その内田は来るな、という。祈るように、来るな、と。
(危険がわかっているから。僕を心配しているから)
 仁は唇を引き締めた。
(ならば、何があっても帰らない、内田を無事に助け出すまで)
 エレベーターの呼出しボタンを押す。行き先は地下、もっともどこまで降りなくてはならないのかは乗ってからしかわからないが。
「場所は」
 気遣わしげにダリューが尋ねた。振り返らずに、
「わかる。来るなって、内田が叫んでるのが、聞こえるから」
 そのことばの意味を察したのだろう、ダリューもさとるも黙ってしまった。
 エレベーターが来て、扉が開く。乗り込む仁の後ろからふいに、
「ぼく、絶対マイヤを助けるからね!」
 さとるが思いつめた声で叫んだ。
「だから、だからさ、仁も!」
 仁が振り向いて頷くと、必死に叫ぶさとるの顔が扉に断ち切られる。
 ただ、思いだけは確かに仁に響いて来た。
ーゼッタイ、モドッテキテ。
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