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「大槻くん、このデータ」
「廃棄、ですね」
「うん……」
認めたくないが認めなくちゃならない。教授も難しい顔で資料を睨んで、首を振る。大きな深い溜め息をついて、今日は帰っていいぞ、と言われて、いつもならまだ頑張ります、と跳ね返すところを、そうですか、と頷いたのはやっぱり疲れていたせいだ。
頑張ったのに。頑張ったのに。頑張ったのに。
何よりこのデータのためには、いつもより多くの実験体が必要で。いつもより多くの小さな身体が固く動かなくなるのを見なくちゃならなくて。さすがのあたしも、見えないところで傷みが来てる。
「『ラップ』いきますか?」
「ん……」
「それとも、僕の知ってるところへ御案内しましょうか」
「え?」
ひょいと覗き込んだ相手が気づかうように優しい目をしていて、一瞬ゆらっと泣きそうになったのを、苦笑いして振払った。
「止めとく。明日もあるし。今日は帰って寝る。へたって明日の仕事を失敗したくない」
「わかりました」
じゃあ、送るだけでも、と申し出てくれたのを断る気力がなくて、ぼんやりと送られる。
今日も要は遅いんだろうか。またどこかの男と一緒だろうか。
真正ホモの夫を持った仮面夫婦の妻なんて、こんな時は自分で寒い身体を何とかしなくちゃならないけれど、だからといって女はそれほど身軽になれない。落ちてもいいけど、落ちられない。特に命がどれほど儚いかを知っているなら、自分がそれを左右できる能力があるのを忘れちゃいけない。
「……ここでいいよ、ありがと」
「万里さん」
「ん? …っん…っ?」
家の近くで御礼を言って、翻した体をまたくるりと振り向かされて、あっという間に抱き込まれてキスされて、ちょっと驚いてから和んでしまう。嫌いじゃないな、この匂い。微かで柔らかなコロン。要はめったにこういうのはつけないから、こんなに近くに抱かれてたら、何か思われてしまうかな。けど、どうでもいいか、そんなこと。どうせ要には関係ないし。
「……すみません」
「……うん」
「なんか……頼りなく見えて」
「うん…今日ちょっとへたってたからね」
「許してくれます?」
「ん」
「……これからも?」
「え…?」
気恥ずかしくて俯いたのを思わず顔を上げた。きつい目をして見返してくる相手の顔に、はっきり欲しいと書かれていて、同じように飢えた顔をしてたんだろうかと少し悲しくなってしまう。
「あのさ……」。
言いかけた瞬間に、ぱあん、と派手なクラクションが鳴って、驚いて振り返った。いきなりのライトアップ、その向こうには見覚えのある車体。
「あ、じゃ、じゃ、すみません、今夜は」
「あ、うん」
「おやすみなさいっ」
「おやすみぃ……」
うろたえた顔で慌てて立ち去るのに苦笑。やれやれ、亭主が現れちゃ立つ瀬無しってぐらいの気持ちなわけか。ライトで照らしたまま動かない車にゆっくりと歩みよると、するすると左の窓が開く。覗き込んで、ハンドルにもたれてじっと前方凝視の要を見つけた。
「お帰り」
「ただいま」
「早かったね」
「今の誰?」
「ああ、大槻くん」
「研究室の?」
「うん」
「車、置いてくる」
「うん」
頷いて体を引こうとすると、じろりと横目で睨まれる。
「シャワー浴びてよ」
「え?」
「その匂い、俺嫌いだから」
「あ……」
すぐにそっぽを向いた要に一瞬泣きそうになった。何も言ってくれないんだね。あたしが誰に何されてようと、あんたには関係ないんだよね。
「わかった」
「夕飯食べてきたから」
「うん」
「万里は?」
「……済んだ」
食欲がなくて、昼も何も食べてないけど、もういいかと思ってしまった。掠れた声で気づかれそうかなと思って、そんなのも気にしてくれるわけないかと思って、急いで閉まってくる窓から頭を抜いた。
「廃棄、ですね」
「うん……」
認めたくないが認めなくちゃならない。教授も難しい顔で資料を睨んで、首を振る。大きな深い溜め息をついて、今日は帰っていいぞ、と言われて、いつもならまだ頑張ります、と跳ね返すところを、そうですか、と頷いたのはやっぱり疲れていたせいだ。
頑張ったのに。頑張ったのに。頑張ったのに。
何よりこのデータのためには、いつもより多くの実験体が必要で。いつもより多くの小さな身体が固く動かなくなるのを見なくちゃならなくて。さすがのあたしも、見えないところで傷みが来てる。
「『ラップ』いきますか?」
「ん……」
「それとも、僕の知ってるところへ御案内しましょうか」
「え?」
ひょいと覗き込んだ相手が気づかうように優しい目をしていて、一瞬ゆらっと泣きそうになったのを、苦笑いして振払った。
「止めとく。明日もあるし。今日は帰って寝る。へたって明日の仕事を失敗したくない」
「わかりました」
じゃあ、送るだけでも、と申し出てくれたのを断る気力がなくて、ぼんやりと送られる。
今日も要は遅いんだろうか。またどこかの男と一緒だろうか。
真正ホモの夫を持った仮面夫婦の妻なんて、こんな時は自分で寒い身体を何とかしなくちゃならないけれど、だからといって女はそれほど身軽になれない。落ちてもいいけど、落ちられない。特に命がどれほど儚いかを知っているなら、自分がそれを左右できる能力があるのを忘れちゃいけない。
「……ここでいいよ、ありがと」
「万里さん」
「ん? …っん…っ?」
家の近くで御礼を言って、翻した体をまたくるりと振り向かされて、あっという間に抱き込まれてキスされて、ちょっと驚いてから和んでしまう。嫌いじゃないな、この匂い。微かで柔らかなコロン。要はめったにこういうのはつけないから、こんなに近くに抱かれてたら、何か思われてしまうかな。けど、どうでもいいか、そんなこと。どうせ要には関係ないし。
「……すみません」
「……うん」
「なんか……頼りなく見えて」
「うん…今日ちょっとへたってたからね」
「許してくれます?」
「ん」
「……これからも?」
「え…?」
気恥ずかしくて俯いたのを思わず顔を上げた。きつい目をして見返してくる相手の顔に、はっきり欲しいと書かれていて、同じように飢えた顔をしてたんだろうかと少し悲しくなってしまう。
「あのさ……」。
言いかけた瞬間に、ぱあん、と派手なクラクションが鳴って、驚いて振り返った。いきなりのライトアップ、その向こうには見覚えのある車体。
「あ、じゃ、じゃ、すみません、今夜は」
「あ、うん」
「おやすみなさいっ」
「おやすみぃ……」
うろたえた顔で慌てて立ち去るのに苦笑。やれやれ、亭主が現れちゃ立つ瀬無しってぐらいの気持ちなわけか。ライトで照らしたまま動かない車にゆっくりと歩みよると、するすると左の窓が開く。覗き込んで、ハンドルにもたれてじっと前方凝視の要を見つけた。
「お帰り」
「ただいま」
「早かったね」
「今の誰?」
「ああ、大槻くん」
「研究室の?」
「うん」
「車、置いてくる」
「うん」
頷いて体を引こうとすると、じろりと横目で睨まれる。
「シャワー浴びてよ」
「え?」
「その匂い、俺嫌いだから」
「あ……」
すぐにそっぽを向いた要に一瞬泣きそうになった。何も言ってくれないんだね。あたしが誰に何されてようと、あんたには関係ないんだよね。
「わかった」
「夕飯食べてきたから」
「うん」
「万里は?」
「……済んだ」
食欲がなくて、昼も何も食べてないけど、もういいかと思ってしまった。掠れた声で気づかれそうかなと思って、そんなのも気にしてくれるわけないかと思って、急いで閉まってくる窓から頭を抜いた。
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