『ラズーン』第六部

segakiyui

文字の大きさ
5 / 119

1.運命(さだめ)のもとに(5)

しおりを挟む
 ゆっくりと、遠目にはことさらゆっくり遠ざかって行くような砂埃の雲が動いて行くのを、アシャはユーノが眠っていた部屋の窓から見守っている。
 今頃ミダスの館ではリディノあたりがアシャの姿がないのに大騒ぎをしているだろう。
 夜半何かに呼ばれたような気がして、それが他ならぬユーノの、それも救いを求める悲鳴だったような気がして、矢も盾もたまらず宙道(シノイ)を開いてきてしまったものの、前のように寝込みを襲ったなどと罵られてはそれこそたまらない、寝息だけ確かめて帰ろうと思っていた。
 扉越しに苦しげな吐息を耳にして動けなくなり、入ろうか入ろまいか迷っていた矢先に誰何された。理由を聞かれなかったのは有り難かったが、顔を合わせてみれば、ユーノはいつものように百戦錬磨の戦士の落ち着き、深沈とした目でアシャを見上げてくるだけだった。
 けれども、今思えば、確かにアシャは呼ばれたのだ。
 『聖なる輪』(リーソン)が声を届けるということについて、あえて触れなかったことがある。それは、声が届くのは『氷の双宮』だけでなく、アシャや『太皇(スーグ)』にも届くということだ。
 それを話すと、ユーノは呻き声さえ漏らさない、そんな気がした。ただでさえ悲鳴を押し殺す悲しい習癖の娘を、これ以上追い詰めたくはなかった。
(あれは…何だった?)
 声とは言い切れなかった。
 夢の中のユーノが、12歳の時のように背中から深々と切り下げられ、切れ切れの声にもならない叫びをあげ、血飛沫を散らしながらのめり倒れる。その、空気を震わせる音のない悲鳴が、アシャの心を抉り取っていった。痛みは未だ胸に痼っていて、許されるなら体を抱きしめ衣服を開いて、新たな傷がないことを隅々まで確かめたいほどだった。
 今も目の奥に残る、朱に塗れたユーノの姿。背中を断ち割られたユーノの肌を、とめどなく緋色の滑りが伝い落ちる。乱れた髪の下、蒼白な顔にも次々と鮮血が筋を作り、ぐっしょり濡れた衣服から浸み出す血が紅い川を作り……それでも彼女の唇は固く閉ざされて誰の名前も呼ばなかった……。
「切ない眼をされておいでだ」
「…」
 背後から声が聞こえて、アシャは振り返った。こちらを見つめている黄色の虹彩、名だたる野戦部隊(シーガリオン)の長、シートスの凝視を受け止める。
「一緒にユカルが行きましたが、構わないのですか?」
「…知っている」
 もちろん、ユカルがユーノに想いを寄せていることも、と言外の問いにも重ねて答える。
「2人とも若い」
 シートスが目を細める。
「戦いに疲れ果てた夜を慰めあっても不思議ではない」
「…だろうな」
 じりりと胸の底を焼いた嫉妬に、心の中で唇を嚙む。
「追わないのですか」
「追って……ユーノが救えるなら、そうしている」
 今、アシャにできるのはできる限りの手を尽くし、ユーノの負担をこれ以上増やさないようにすることだけだ。
(あいつは、『俺のもの』じゃない)
 離れている、離れて行く、心も体も、その全てが。
「ユカルも物見とは言え野戦部隊(シーガリオン)、自分より先にユーノを逝かせはしませんよ」
「そう願いたいな」
 ことば少なに応じて、アシャは窓際を離れた。空気が動いて、ユーノの匂いを今更ながら気づかせる。甘く熱っぽく、吐息を漏らした唇を吸い取りたい疼きを、首を振って追い払う。
「これから先は一歩も退けん。こき使うぞ、シートス」
「御意のままに」
 微かな笑みを返して、シートスはアシャの背後に従った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

クラス最底辺の俺、ステータス成長で資産も身長も筋力も伸びて逆転無双

四郎
ファンタジー
クラスで最底辺――。 「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。 教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。 友達もなく、未来への希望もない。 そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。 突如として芽生えた“成長システム”。 努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。 筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。 昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。 「なんであいつが……?」 「昨日まで笑いものだったはずだろ!」 周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。 陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。 だが、これはただのサクセスストーリーではない。 嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。 陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。 「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」 かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。 最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。 物語は、まだ始まったばかりだ。

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

三歩先行くサンタさん ~トレジャーハンターは幼女にごまをする~

杵築しゅん
ファンタジー
 戦争で父を亡くしたサンタナリア2歳は、母や兄と一緒に父の家から追い出され、母の実家であるファイト子爵家に身を寄せる。でも、そこも安住の地ではなかった。  3歳の職業選別で【過去】という奇怪な職業を授かったサンタナリアは、失われた超古代高度文明紀に生きた守護霊である魔法使いの能力を受け継ぐ。  家族には内緒で魔法の練習をし、古代遺跡でトレジャーハンターとして活躍することを夢見る。  そして、新たな家門を興し母と兄を養うと決心し奮闘する。  こっそり古代遺跡に潜っては、ピンチになったトレジャーハンターを助けるサンタさん。  身分差も授かった能力の偏見も投げ飛ばし、今日も元気に三歩先を行く。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...