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7.ミダスの裏切り(10)
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子どもの瞳が救いを求めるように天空を仰いだ。釣られてミダス公も空を見上げた。
青く深い空だった。昇った月の白さえも青みがかった静かな宵……大気さえも存在を主張しないほど透明な……。
ミダス公は待った。正義と真実を司る神々が何かの意志を、例えば幼い子どもの命を無碍に奪った無慈悲さに対する鉄槌であろうとも、待った。
だが、あたりは依然として蒼く静かで、足元に血と共に流れ去った命への悼みの声さえも上がらない。
(神などおらぬ)
不意にミダス公は悟った。
(この世のどこにも神などおられぬ)
低い嗤い声を漏らしていると気づくのに、なお数瞬の間を要した。気づいて、嗤いは止むどころか、次第に己の裡一杯に昏い濁流となって広がった。
神などいない。人の世を正しく導き、善と正義を守る神などどこにもいない。
地上にも天上にも、人間達の様々な妄想が溢れ返っているだけなのだ。そこで人間はただ生の鎖に繋がれて、毎日を浅ましくも愚かしく生きていくだけなのだ。
その夜から、ミダス公の心にはいつも、倦怠と疲労と嘲りが渦巻くようになった。一人娘のリディノの美しさ健やかさも、民の従順さも、それになおさら拍車をかけた。
表面上は何食わぬ顔をしてラズーン四大公の一人、『ミダス公』を務めながら、時折鎌首をもたげる己の禍々しい衝動を容認した。夜に一人、闇に紛れて屋敷を出る。長衣は暗い色に変え、被り物をつけ、懐には小剣、路地に入り込み、出会った最初の人間を一突きに殺す。
悲鳴を上げ、己を責める相手の目に、ほっと一瞬安堵が湧く。今夜こそ何かが変わるに違いない。今夜こそ彼は咎められ、責めを受け、罪人として引き出され、そして何かが変わるに違いない………。
期待はいつも裏切られた。国境を走る黒い影の噂に人々は怯え始めており、悲鳴を聞いても誰も外には出てこなかったからだ。あれは人の悲鳴ではない。何か他の小動物の声だと己をごまかしながら。
人々は知らなかった。自分達の危険を恐れるあまり、別の魔性を、本当はそれこそ恐れなくてはならなかった、『運命(リマイン)』と相通じるものを、自らの内に育てていたのを。
ミダス公の剣は夜毎に血濡れるようになった。なのに、いつも虚しさだけがミダス公の心に残る。その虚しさを埋めようとして、再び夜の中へ忍び出る。抱いた期待はやはり裏切られ、ミダス公は拠り所のなさに夜を一人で過ごせなくなった。
リディノと居る時もふと思うのだ。
もし……もし。
ここでこの娘を殺したなら、何かが変わるだろうか。
さすがに慌てて考えを打ち消したものの、次第にミダス公はリディノの側を離れるようになった。禁忌の中でも最大の禁忌を犯せば、何か変わるのではないか………その誘惑が心を去らなくなるのを、ミダス公は凍てついた思いで見つめていた。
心の揺らぎを読んだように、『運命(リマイン)』シリオンはミダス公の前に姿を現した。
我らは世を変える。我らに従い、ラズーンを裏切れ。四大公としての仮面を我らが為に使うのだ。
シリオンのことばは強くミダス公を揺さぶった。
ラズーンを裏切る。それは四大公としての最大の背徳となるに違いない。『運命(リマイン)』に従う、それは人間として最も恥ずべきものに屈することになろう。しかし、だからこそ、ひょっとすると何かが変わりはしないだろうか。『ミダス公』と言う呪縛を断ち切れるのではないか。
ミダス公は『『運命(リマイン)』の『眼』として動き始めた。ラズーンの情報を流し、守りの手薄なところを知らせる。ラズーン内に『運命(リマイン)』軍を少しずつ引き入れ、来たるべき時に備える。
人々の恐怖の呻きも叫びもミダス公を引き止めなかった。狂って行く世の中を、むしろ喜びを持って眺めた。アシャやセシ公などの手練れが必死に『運命(リマイン)』を食い止めるのを、疎ましくさえ感じていた。
そして今、南へ下って行くジットーを追いながら、ミダス公の脳裏には、つい先日知らされたリディノの死に様が物憂く残っている。知らせたのは『運命(リマイン)』側とミダス公の連絡役を務めるジュナ・グラティアスだった。人の心を失ったとは言え、やはり愕然として立ち竦むミダス公に、ジュナは凄んだ嗤い声を含ませながら嘲った。親子共々、定めは『運命(リマイン)』にあった様子、血の絆は争えぬ、と。
明滅しながらぐるぐると回るミダス公の頭の中に、幼いリディノの姿、美しかった妻、裏切りと告別の末路への想いが次第に凝り、やがてそれは、ことん、とどこか虚ろな音を立てて固まった。
もはや、これまで。
青く深い空だった。昇った月の白さえも青みがかった静かな宵……大気さえも存在を主張しないほど透明な……。
ミダス公は待った。正義と真実を司る神々が何かの意志を、例えば幼い子どもの命を無碍に奪った無慈悲さに対する鉄槌であろうとも、待った。
だが、あたりは依然として蒼く静かで、足元に血と共に流れ去った命への悼みの声さえも上がらない。
(神などおらぬ)
不意にミダス公は悟った。
(この世のどこにも神などおられぬ)
低い嗤い声を漏らしていると気づくのに、なお数瞬の間を要した。気づいて、嗤いは止むどころか、次第に己の裡一杯に昏い濁流となって広がった。
神などいない。人の世を正しく導き、善と正義を守る神などどこにもいない。
地上にも天上にも、人間達の様々な妄想が溢れ返っているだけなのだ。そこで人間はただ生の鎖に繋がれて、毎日を浅ましくも愚かしく生きていくだけなのだ。
その夜から、ミダス公の心にはいつも、倦怠と疲労と嘲りが渦巻くようになった。一人娘のリディノの美しさ健やかさも、民の従順さも、それになおさら拍車をかけた。
表面上は何食わぬ顔をしてラズーン四大公の一人、『ミダス公』を務めながら、時折鎌首をもたげる己の禍々しい衝動を容認した。夜に一人、闇に紛れて屋敷を出る。長衣は暗い色に変え、被り物をつけ、懐には小剣、路地に入り込み、出会った最初の人間を一突きに殺す。
悲鳴を上げ、己を責める相手の目に、ほっと一瞬安堵が湧く。今夜こそ何かが変わるに違いない。今夜こそ彼は咎められ、責めを受け、罪人として引き出され、そして何かが変わるに違いない………。
期待はいつも裏切られた。国境を走る黒い影の噂に人々は怯え始めており、悲鳴を聞いても誰も外には出てこなかったからだ。あれは人の悲鳴ではない。何か他の小動物の声だと己をごまかしながら。
人々は知らなかった。自分達の危険を恐れるあまり、別の魔性を、本当はそれこそ恐れなくてはならなかった、『運命(リマイン)』と相通じるものを、自らの内に育てていたのを。
ミダス公の剣は夜毎に血濡れるようになった。なのに、いつも虚しさだけがミダス公の心に残る。その虚しさを埋めようとして、再び夜の中へ忍び出る。抱いた期待はやはり裏切られ、ミダス公は拠り所のなさに夜を一人で過ごせなくなった。
リディノと居る時もふと思うのだ。
もし……もし。
ここでこの娘を殺したなら、何かが変わるだろうか。
さすがに慌てて考えを打ち消したものの、次第にミダス公はリディノの側を離れるようになった。禁忌の中でも最大の禁忌を犯せば、何か変わるのではないか………その誘惑が心を去らなくなるのを、ミダス公は凍てついた思いで見つめていた。
心の揺らぎを読んだように、『運命(リマイン)』シリオンはミダス公の前に姿を現した。
我らは世を変える。我らに従い、ラズーンを裏切れ。四大公としての仮面を我らが為に使うのだ。
シリオンのことばは強くミダス公を揺さぶった。
ラズーンを裏切る。それは四大公としての最大の背徳となるに違いない。『運命(リマイン)』に従う、それは人間として最も恥ずべきものに屈することになろう。しかし、だからこそ、ひょっとすると何かが変わりはしないだろうか。『ミダス公』と言う呪縛を断ち切れるのではないか。
ミダス公は『『運命(リマイン)』の『眼』として動き始めた。ラズーンの情報を流し、守りの手薄なところを知らせる。ラズーン内に『運命(リマイン)』軍を少しずつ引き入れ、来たるべき時に備える。
人々の恐怖の呻きも叫びもミダス公を引き止めなかった。狂って行く世の中を、むしろ喜びを持って眺めた。アシャやセシ公などの手練れが必死に『運命(リマイン)』を食い止めるのを、疎ましくさえ感じていた。
そして今、南へ下って行くジットーを追いながら、ミダス公の脳裏には、つい先日知らされたリディノの死に様が物憂く残っている。知らせたのは『運命(リマイン)』側とミダス公の連絡役を務めるジュナ・グラティアスだった。人の心を失ったとは言え、やはり愕然として立ち竦むミダス公に、ジュナは凄んだ嗤い声を含ませながら嘲った。親子共々、定めは『運命(リマイン)』にあった様子、血の絆は争えぬ、と。
明滅しながらぐるぐると回るミダス公の頭の中に、幼いリディノの姿、美しかった妻、裏切りと告別の末路への想いが次第に凝り、やがてそれは、ことん、とどこか虚ろな音を立てて固まった。
もはや、これまで。
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