『ラズーン』第六部

segakiyui

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 泣きじゃくるユーノは気づいていなかっただろう。だが、顔を上げたアシャとは視線があった気がした。そのまま戸口から廊下へ、駆けるイリオールの手には、月光を浴びて光る短剣が握られている。
「…」
 無言で走り続けるイリオールの頭には、今しがた聞いたユーノの叫び声が谺している。
『まだあなたはアシャじゃないか! 「魔」じゃなくて、アシャ・ラズーンじゃないか! 「魔」に抗しもしないで、何がアシャ・ラズーン、ラズーンの正当後継者だ!!』
 その声はイリオールの胸にこう響いた。
『まだあなたはイリオールじゃないか! 「魔」じゃなくて、まだあなたはイリオールじゃないか!』
 誇りを取り返せ。
 心の底に押し潰されていたものが熱く応じる。
 お前は虫けらのような自分が哀しくて、ギヌアの元から離れたのではないのか。夜伽の場に繰り返し侍ってきたギヌアでさえ、自分を物のように扱うのが辛くて、そのギヌアが執着しているユーノ・セレディスと言う人間を見たくてここまでやってきたのではなかったか。
 なのに、お前はもう一度、自ら望んで虫けらに戻る気か。誇りも何もない、人の欲望に弄ばれる姿に自ら堕ちていくつもりなのか。
『あっ……あなたを切りたくないんだから! な…なのに…っ…どうして……私に切れって言うんだ!!』
(そうだ、ぼくも嫌だ。あなたを切りたくなんかない。なのに、どうして、ぼくにあなたを切れって言うんだ)
 血が泡立つような、毛が逆立つような、誇りと怒りが湧き上がってくる。
『嫌だ! まだ、諦めるのは嫌だ!』
 しがみつかれたアシャがユーノを抱き返す、見上げた顔がイリオールを凝視した気がした。
 諦めるな、逃げるな、お前の真の願いは何だ。ユーノを切ることか。違うはずだ。ならば目を反らすな、ごまかすな。
 ああ、そうだとも。本当にするべきこと、しなくてはいけないことから、イリオールはどれほど遠回りをしてきたのだろう。
 イリオールはジュナの休んでいる部屋の前まで来て、少し息を整えた。
 戸を開ける。自堕落な半裸姿で寝そべっていたジュナはぎくりとしたように戸口を振り返り、忌々しそうな表情になった。
「なんだ、お前か。ここへはあまり来るなって言ってる……」
 途中でことばを切り、乱れた髪や微かに息を切らせている様子に気づいたように口調を変える。
「おい……失敗したのか?!」
 返り血がないところから判断したのだろう、部屋の中ほどまで歩いて来るイリオールに歩み寄り、両肩をつかんで覗き込む。深緑の鮮やかな瞳がどす黒い怒りと殺気を満たして睨みつけた。
「答えろイリオール!」
「…触るな」
「何?」
「汚い手で…触るな」
「な…に?」
 ジュナは呆けた。耳がおかしくなったのかと訝るように、中途半端に浮かせた手とイリオールの強張った顔を見比べていたが、やがて下卑た笑みで再びイリオールの両肩に手を置き、体重をかける。
「おい…何を不貞腐れてる?」
「…聞こえなかったのか、ジュナ・グラティアス」
「おいおい、呼び捨てとは穏やかじゃねえなあ」
 笑みを一瞬強張らせ、声に恫喝を加える。
「その俺に悦んでいたのはどこのどいつだあ…?」
「…ぼくさ……そして、今ここにいるのも…ぼくだ」
「ぐっ?!」
 どすっと鈍い音とともに突っ込んだイリオールに、ジュナは呻いてよろめいた。信じられないと言う表情で2、3歩後退る。逃すまいと、イリオールは歩を進める。
「イ…リオ……ル…」
「…お前なんかに……あの人を傷つけさせやしない…」
 粘り気のある雫が音を立てて床に、イリオールの脚に零れ散る。呻いたジュナの唇からも、同様の紅がぼたぼたと首や背中に落ちてきて生温く広がる。じわじわ後退るジュナ、詰め寄るイリオール、2人の体がベッドに当たってジュナが座り込み、イリオールがのしかかる。
「ぐう…」
 呻いたジュナの手が枕元を探った。枕の下から取り出した短剣を、傷ついた男とはとても思えぬ素早さで閃かせ、次の瞬間イリオールの首を抉る。
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