『闇から見る眼』

segakiyui

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第3章

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 京介が脚を向けたのは『MURANO』だった。
 こういう店にしては早くに開いているのは、昼までに商品を見立てたい客もいるからと以前聞いたことがあった。そのことで村野とぶつかったこともあった、と。
 お互い自分の夢を追うのに必死になって、それはそれでよかったけれど、少しずつ話すことが減って、一緒に食事を摂ることが減って、休日も相手と居るよりは自分の店が気になって。
『そうなると、もう加速度がついて止まらなかったんです』
 村野がことば少なく語ったことがあった。
 今にして思えば、寂しかったのだろう。
 村野は出入りしていたアルバイトの娘と時々食事を一緒にするようになった。忙しそうな妻に無理させるよりはと、最初は確かにそういう配慮だったのだ。
 けれど、何度か出かけて、食事以外に店に必要なファブリックや新しい料理の開拓に他の場所へも伴うようになって、たった一度、関係を持った。
『本当にその一回、だけ』
 村野のことばがどこまで本当なのかは、きっと本人しかわからないことだ。
 だが、その一回が、全てを狂わせた。
 娘が妊娠したのだ。
 安全な日だと言った。村野は大人の付き合いとして配慮しようとして、最後の判断を守り損ねた。
 誘惑に負けたんですよ、と暗く笑ったのは、相手の思惑を考えていなかった自分の甘さを嗤ったのだろう。
 後でわかったのだが、娘は始めから妊娠するつもりだったのだ。
 村野をずっと望んでいた。結婚していても奪えばいいと思っていた。村野と響子の距離が空くのに、それとなく誘いをかけつつ引き離していった。帰らなければならない日に体調を崩したと家まで送らせ、響子との約束を聞くとそれとなく前日に仕事のトラブルを引き起こした。
 そうまでして求められるのは男としても本望、そう思う人間も居るだろうけど、村野は響子をそれこそ長い時間をかけて手に入れていた。
 妊娠をたてに離婚を迫る娘に村野は同意しなかった。それまで温厚で物静かな男として振る舞っていた村野が豹変して娘に中絶を迫った。
 村野にしてみれば、響子はそういう天秤に乗せられる存在ではなかった。
 すったもんだのあげく、娘は中絶し、それと同時に村野に見切りをつけて去って行った。
 いくらことばを飾ろうが、大人の付き合いと言い逃れようが、あんたは結局人殺しだ、あたしと同じように。
 言い捨てた娘が最後にしたのは、響子に洗いざらいぶちまけることだった。
『浮気が理由じゃない、と響子は言いました』
 村野は静かに穏やかに続けた。
 響子は、村野が他の女性に宿した命を自分の生活を守るために殺させた、それが受け入れられない、そう告げた。
『あなたはいつかそうやって、自分のために私も切り捨てるんだろう、そうとしか思えなくなった、と』
 それも本当はどうだかわからない、と京介は思う。
 欲望のはけ口を娘に求め、適当に響子とバランスを取ろうとした村野が許せなかったのかもしれない。
 どちらにせよ、村野は響子を失い、二度と会うことさえできなくなった。
 それでも京介は村野が小さな写真を持ち歩いているのを知っている。
 二度と手に入らないその人の、優しい笑顔をずっと身につけて生きている。
『自分が間抜けな男だと忘れないためですよ』
 せめてお客さまにはそのようなことのないように。
 私にできるのはそれぐらいですから。
 村野はそう言って、微かに笑った。

「?」
 いつもなら入ったとたんに聞こえてくるはずの声が聞こえず、京介は首を傾げた。
 店の中は静まり返っていて、来客があるようにも思えない。
「あれ?」
 店の中を見て回る。
 人気がない。だが乱れた様子はない。
「響子さん?」
 奥まったところに小さなテーブルが出されている。カップルで来た客がときどき相方の長い買い物に疲れて一休みできるようにと、状況に応じてコーヒーが振る舞われることもある。
 もしやと思ったその席に、響子はぼんやり座っていた。
 甘い灰色のロングワンピース、髪の毛はシニヨンにまとめて小さな白い小花をあしらったピンで止めている。伸びたうなじに後れ毛を纏いつかせて、常より華やかで頼りなげだ。
「……どうかしたの?」
「…ああ」
 ふ、と響子は我に返って振り向いた。
「いらっしゃいませ、真崎さま。ごめんなさい、ぼうっとしていましたね」
「体調が悪いならそのままで……僕は適当に見せてもらうから」
「今日は……?」
「ああ、えーっと」
 隣に伊吹を探す視線に少しうろたえて目を伏せた。
「今日は僕だけ。ちょっと急ぎで見ておきたかったから」
「何でしょう?」
 微笑みながら立ち上がる響子はいつも通りだ。
「指輪、を」
「指輪?」
「婚約、指輪を」
「……」
 京介のことばに響子は僅かに眉を寄せた。
「失礼ですが、お一人で?」
「あ、うん、その、伊吹さんはちょっと都合がつかなくて」
「……お急ぎなんでしょうか」
「え?」
「すぐにお式、ということに?」
「あ……ああ、いえ」
 響子が何を案じたのかすぐわかった。
「違います、そうじゃなくて、その、」
 僕がちょっと、不安になって。
 ぼそぼそと付け加えると、くすりと笑われた。
「婚約指輪なら、専門店で御覧になる方がいいですよ」
 ちょっとお待ち下さいね、と奥へ引っ込んで、まもなくケースを持ち出してきた。
「うちにはこの程度しか品揃えがありませんから」
 宝飾店に行かれて、お好みの石とデザインをじっくり考えて選ばれてはどうでしょう、お二人で。
 柔らかいけれど、きっちりと嗜められて京介は顔が熱くなった。
「僕、焦りすぎてますね?」
「ええ、きっと」
 コーヒーでもお淹れしますわね、とケースを片付けて立ち去る相手に、京介は溜め息をついて椅子に腰掛けた。
「だって…」
 渡来は手強い。
 何が手強いって、引く理由が見つからないじゃないか、と平然と言い放ちそうなあの自信が手強い。
「話の加減ではもっと幼い感じだったんだけどなあ」
 伊吹にしがみついて泣きじゃくった小学生が、紆余曲折を経て男としてただ一人の相手にふさわしいのは自分だと言い放つほど成長する、それだけのことがあったのだろうと思った。
「でも」
 諦めるわけにはいかない、京介だって。
 どれほど不利でも、どれほど叶わなくても。
 渡来は『ニット・キャンパス』までに別の返事をしろ、と言った。それまでに伊吹とデートして、伊吹の気持ちを
変えてみせるとも請け負った。
 本当ならばデートなんか行かせたくない。
 でも伊吹も渡来と話したいかもしれない。自分をそこまで縛るのかと京介を煙たがるかもしれない。それほど自分を信じてくれないのかとなじられるかもしれない。
 だから止められない、けど。
「あいつだって、男だし」
 どうしよう、伊吹さんの『とらくん』と呼ぶ親しさに付け込んで、押し倒されたりしたら。そのままキスされたり、
それこそ京介がようやく手に入れたものを奪われたりしたら。
「……う」
 そのとき京介は冷静に伊吹の話を聞けるだろうか。もうわけもわからず、とにかく自分のテリトリーを侵された獣みたいに伊吹に無理矢理刻印しようとしないだろうか、自分の存在をきっちり奥まで。
「そっか…」
 指輪より何より、まず伊吹がいつ渡来とどこへ出かけるつもりなのか、はっきり確かめておかなくては。
「うん、そうしよ」
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