『京都舞扇』〜『猫たちの時間』2〜

segakiyui

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2.企みの影

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 京都へ向かう列車の中、持ってきた文庫にも飽きて本を閉じ、目を上げる。
 美しい緑、鮮やかな色は人の心を浮き立たせる。空の青さに心の奥がくすぐられるような甘さがあった。開いた窓からは肌寒い風が流れ込んできているが、そこには微かに花の薫りもするようで、春が来たんだと嬉しくなる。
 だが、周一郎はさっきから押し黙ったまま、その柔らかな春景色の中に一点の冬を持ち込んだように、虚ろな目を外に向けていた。年齢相応というにはあまりにも笑いを忘れた、重い憂いに沈み込んでいる顔。
 昼過ぎに朝倉家を出てからは、一度も口を開かない。大人びた表情にはサングラスだけでは隠せない思い詰めた色がある。
 高野の心配そうな声が俺の脳裏を過った。

「綾野様というのは、前の奥様のお兄様にあたる方です」
「ってことは……親類、か」
 思わず嫌な予感がしたのは、周一郎がらみの『身内』がどれほど不愉快な系統だかよく知っているからだ。
 同じような憂いを浮かべて高野がゆっくり頷く。
「奥様が亡くなられた後、旦那様がすぐ若子様を迎えられたことで、一時は旦那様が妹を殺したようなものと触れ回っておいででしたが、今は誤解を解かれて朝倉家の取り引き相手としては五番目の位置におられます」
「それじゃ……特にやばいとかまずいとかいう人間じゃないってことだよな?」
 ちょっとしつこい確認をする。
 若子。周一郎の義理の母親。
 もっとも周一郎を消して遺産を独り占めすることしか考えていなかったような母親だ。
 今となっては、切れ者であったはずの朝倉大悟が、なぜ若子などに引っかかってしまったのかがよくわからない。永遠の謎、男女の不思議の一つ。そこに周一郎に母親を与えてやろうと思った気持ちが少しでもあれば、もっと落ち着いた女性を選んでいただろうけど。
 その若子も今はここにいない。
 大悟を死に追いやり、朝倉家を乗っ取ろうとしたあげくに、周一郎の巧みな罠に引っ掛かって、社会的に始末されてしまった。裁判はまだ争われているようだが、計画性残忍性を周一郎の存在でクローズアップされた形になった状態では、無期懲役かそれに近い刑罰になると予想されている。
「それが……その」
 俺のことばに、高野は言いにくそうに顔を歪めた。
「表向きは申し上げた通りですが、昔から異常なほど奥様を大切にされていた方で」
「異常なほど?」
「昔、奥様が近くの犬に追い回されたとき、その犬を捕まえてナイフでめった突きにされたそうです。啓一様が高校生ぐらいの頃だったとお聞きしておりますが」
「うえ」
 それって近所の飼い犬ってことだろう? そんなことして犯罪にはならなかったんだろうか。第一、飼い主が黙っていないんじゃないか?
 俺の疑問を察したように高野が曖昧に微笑んだ。
「綾野家は代々名士であられましたので」
「………なるほど………って、待てよ」
 嫌な予感がまた広がる。
 妹を追い回して怖がらせたという理由だけでも犬をめった突きにするようなぶっ飛んだ兄貴が、今度は妹が社会的な居場所を失い刑罰を受ける羽目になった、その元凶を放置しておくだろうか?
「今回のことも何か、そいつが妹の恨みを晴らそうって周一郎を狙ってるって可能性もあるってことか?」
「それだけではありません」
 高野は険しい顔になった。
「綾野様は現在の御自分の地位に納得されていない御様子です。密かにご自分の関連会社の所有株を増やそうとされたこともあるとも聞いております。事前に坊っちゃまに止められてはおりますが」
「それ……まずいだろ」
 俺は引きつった。
「そんなの俺だって、京都に行くのはやばいってわかるぞ?」
 あいつはマゾか? それとも、苦難は人を成長させるという堅い信念の持ち主なのか? 
 まあ、確かに一人で何もかも背負い込む傾向にはあるが。
「たぶん、坊っちゃまは清さまのお気持ちをお確かめになりたいのではないかと」
「清?」
「綾野様のお母様ですが、昔は坊っちゃまのお世話をされておられました……乳母、みたいなものですか」
「乳母…」
 なるほどなーそういうものも世の中にはあるんだなー厳然と階級組織は生きてるってわけだー。
「というとー……あ」
 どこか遠くに流れていきそうな思考を引き止めたのは、何度も俺を見遣った周一郎の顔だった。
「ひょっとして、あいつは信じたくないのか。あいつを狙う計画に、その清、とかが噛んでるかもってこと」
「ええ……おそらくは」
 高野は苦しそうに眉をしかめ、思いきったように打ち明けた。
「以前、お仕事がらみでお命を狙われたことがありまして」
「はい?」
 命を狙われる?
「外食された折、たまたま御気分が優れず、あまりお食べにならなかったものに、人体にとって好ましくない成分が入っておりまして」
「毒っ?!」
「戻られてから、ご一緒された方が入院されたので、それとわかり」
「うわー」
「……粗忽な計画ですが」
 いや、突っ込むところはそこじゃないだろう!
 ああ、だからか、と気づいた。
 だから外でも周一郎はあまり物を食べようとしないのだ。
「あまり気になったので、清も遠ざけようとしたのです。けれど、その折に、『清まで僕が死ねばいいと思ってるなら、きっと生まれてこない方が良かったんだ。なら、僕はさっさと殺された方がいいのかもしれない』そう、笑われて」
 胸を突かれてことばを失った俺に、高野は静かに頭を下げた。
「どうか、坊っちゃまをお守り下さいませ。私が知る限り、お仕事にどなたかを同行させてよいとおっしゃったのは、滝様が初めてです。きっと、坊っちゃまにとって滝様は特別な方なのに違いありません」

 たまらない。
 そう思う。
 俺は確かに天涯孤独で両親を知らなかったが、生まれつきのしぶとさなのか異常に運が良かったのか、まずまずの環境には恵まれてきた。厄介事にすぐ巻き込まれるという欠点はあったけれど、居直るのも得意だったし、ねちねち絡むやつのいやがらせや意地悪の類もそれなりにしのいできた。
 ましてや、この歳になるまで『生まれてこない方が良かった』なんて思ったことはない。
 なのに周一郎は、乳母に面倒を見てもらってるような歳からそんなことばかり考えてたっていうのか?
 そんな思いをずっと抱えて……人は壊れないもんなのか?
「滝さん、着きましたよ」
「…ああ」
 席を立ち、スーツケース片手に俺を促して、周一郎は列車を降りた。ホームの人混みをすり抜け、改札へ向かっていく。
 周一郎の視力は弱視のせいで人影が蠢くのがわかるぐらいしかないはずだけど、まるで誰がどこへどう動くのかを全て知っているような無駄のない足運びだ。
 しばらくはその鮮やかさに見愡れていたが、改札近くになると駆け込んでくるのやら、駆け出してくるのやらでごった返してきた。
 さすが京都の観光地、嵐山だけある。
「こっちこい」
「、」
 スーツケースの取っ手を掴み、隅の人通りの少ない方へ誘導する。それでも前から突っ込んできた男に跳ね飛ばされそうになった周一郎を、慌てて腕を掴んで引き寄せた。珍しく文句も言わずに従ったと思ったら、額にうっすらと汗をかいている。微かに顔色も白い。
「大丈夫か?」
「…え?」
「疲れたか? 顔色、よくないな」
「っ」
 すうっと見る間に血の気が戻った。
「大丈夫です」
 俺の手からスーツケースをひったくりながら顔を背ける。
「子どもじゃないんですから」
 十分餓鬼だよ、その応対は、と思ったが、そんなことは絶対認めないだろうからはいはい、と頷いて改札を出る。
「こっからは?」
「タクシーに乗ります。もう少し松尾よりですから」
 駅前のターミナルからタクシーに乗った。座って行き先を告げた周一郎が微かに息を吐いて席に埋まる。強がってても堪えてるらしい。俺にもたれて眠っててもいいぞ、と言ったが無視される。
 綾野清は、周一郎に京都滞在中の宿として自宅を提供していた。
 辿り着いたのは、想像していたより現代風な建物だった。二階建ての和風建築ではあるが出窓などもある。
 こじんまりした庭先は整えられた植木が瑞々しく配置され、気のせいか、周囲より一層ひんやりとする。立派な表札に彫り込まれた『綾野』の文字を見つめていると、玄関の飴色の引き戸がからからと開いて、やや小太りの七十前ぐらいの和服の女性がいそいそと出て来た。
「まあ、坊っちゃん!」
「やあ、清」
 はにかんだような周一郎の声に驚いて見遣ると、確かに微笑みを浮かべている。俺がついぞ見たことのない、可愛らしい笑みだ。
 もっとも、そんなことを言えば僕は絶対笑ってない、俺の目が悪くなったのか幻覚でも見たのかと言い張るだろうが。
「立派にならはりましたなあ」
「清も元気そうだね」
 にこにこ微笑みかける相手に俺はほっとした。どうやら害意とか悪意はなさそうだ。
 これは高野の思い込みだったかなと思っていると、清はひょいと俺に顔を向けた。
「そちらのお人は……?」
「ああ、滝、志郎さん。僕の………友人なんだ」
 なんだ、その微妙な間合いは。
「よろしくお願いします」
 心の中で突っ込んで頭を下げる。
「それは失礼いたしました。こちらこそよろしゅうお願いいたします………ほんまに、よう来ておくれやした。さあさあ、入っておくれやす、たいしたところやおへんけど」
 外は現代風でも中は日本間ばかり、玄関奥の部屋に並べられたこざっぱりとした座布団にちょっと怯みながら腰を下ろす。ごそごそ正座しようとしているのが不格好だったのだろう、清が小さく笑った。
「どうぞ、お楽に」
「あ、じゃ、すいません」
 俺はさっさと膝を崩して胡座を組んだ。隣できちんと正座した周一郎がちらりと横目で見てきたが、知らぬ顔で出された茶を啜る。
「あ……うまい」
「そうどすか、なんぼでも飲んどくれやす、外、暑おしたろ?」
 和菓子をすすめながら清がくすくす笑う。
「ああ、暑かったです、な、周一郎?」
「そうですね、今日は蒸してました」
「蒸した? なんだ、それは」
「あ」
 きょとんとすると周一郎が見る見る赤くなる。なおさら理由がわからずに瞬きしていると、清が柔らかい頷きを返して、
「蒸し暑くなってきた、いう意味どす。東やったらあんまり使わはらへんことばでっしゃろ。坊っちゃんは私と長う居はったさかい、ことばが移ってますのん」
 こともなげに解説する清に、目の前の女性にまとわりつくように暮らしていた幼い周一郎の姿を思って、俺は胸が重くなった。
 ことばが移るまで。
 そして、そのことばを相手の顔を見たとたんに無意識に使ってしまうほど、こいつはこの人に気持ちを許しているのか。
 なのに、その相手に殺されるかもしれないと思いながらここに座っているのか。不安も恐怖も、これっぽっちも見せない静かな顔で笑って。
 思わず周一郎を振り向くと、相手は俺の視線の意味に気づいたように、険しい表情で立ち上がった。
「荷物、片付けてきます」
「ほな、晩御飯にかかりまひょか。二階の一番奥の部屋、寝間に使うておくれやす」
「わかった」
 いきますよ、と声をかけただけでさっさとスーツケースを手に階段へ向かう周一郎に、俺はコップや皿を流しへ運んでいきながら声をかけた。
「あの……」
 まさか、あなたはあいつを酷い目に合わせようなんて、思っちゃいないですよね? そんなに優しそうで、そんなにあったかそうで、あいつがあんなに心許してるあなたが、まさか。
 そう問いかけそうになった矢先、ぴりぴりした周一郎の声が遮った。
「滝さん! 荷物、片付けて下さい!」
「あれ……おおきに、もう上がってもろたら」
「あ、はい」
 ちぇ。
 これだから勘のいいやつってのは困る。
 俺は舌打ちしながら、慌てて向きを変えた。

 急な狭い階段を上がり、奥の部屋で荷物を下ろす。棚がすっきりと空けてあり、小さな洋服箪笥も空になっていた。タオルと歯ブラシのセットがさりげなく置かれて、どこまでも細やかで優しい心遣いを感じる。
 しばらくして呼ばれた夕食の席はもっと感動ものだった。
 菜の花のお浸し、卵焼き、焼き魚、麩の赤だし味噌汁、ぬか漬けのきゅうりとなす、がんもどきとフキの炊きもの、まいたけとあげとたけのこの炊き込み御飯。
「うわ」
「いつも食べてるようなもんですけど、すんまへん」
「いや、嬉しいです、凄くうまそう!」
 いそいそと箸を取り上げてひょいと隣を見ると、いつも豪勢な朝倉家の食事を食べ慣れているはずの周一郎が、気のせいか目元を染めるようにして俯いている。
「周一郎?」
「……覚えててくれたんだ」
「え?」
「へえ、そら忘れしまへん」
 清がにこにこ笑って、はっとしたように周一郎が顔を上げた。無防備な驚きの顔、それがまたうっすらと染まっていく。
「坊っちゃんがしんどいときでも食べてくれはったもんどっさかいなあ」
「何?」
「かやく御飯とふぅのお味噌汁」
 清は嬉しそうに名前を上げた。
「お風邪召してお熱あって、それでもこの二つだけは食べる言うて。他は何にも食べられへんのになあ、いっつもこの二つは食べられますんのんえ」
「清!」
 かあっと、今度は音をたてるほど激しく周一郎は真っ赤になった。
「そんなこと言わなくても!」
「あきまへんの? そら鈍なことで」
 頭を下げてみせながら、清の目は悪戯っぽく微笑んでいる。親しいものだけに許されるからかい、その気配に周一郎が困った顔で口を噤む。
 笑うまいと思ったが、何だか可愛いよな、とにやにやしてしまった。
「いいじゃないか、別に」
 むつっと唇を尖らせている周一郎は俺を無視してはくはくと飯を口に運び始める。
「お口に合いますやろか?」
「合うどころか! めちゃくちゃうまいです!」
「お代わりありますえ?」
「下さい、あ、待って、これ食ってから!」
 俺は慌てて茶腕を空にして清に差し出した。

「あー……食ったー………気持ちいい……」
 布団の上にひっくり返って大の字になりながら呟く。
 時計はもう夜中を回っていて家の中は静まり返り、階下の清はもちろん、隣の布団の周一郎まで微かに寝息をたてている。
 十分で旨い夕飯の後、気持ちいい風呂に入り背中まで清に流してもらい、のんびり寛いであがってくれば、ぱりっとしたシーツがかけられたふかふかの布団が待っていて、もう天国に来たような気分だ。
「いいよなあ……ああいうのを『お袋』っていうんだよなあ」
「清…」
「え?」
 うん、と伸びをしたとたん、掠れた小さな声が響いて、俺は周一郎を振り返った。
 てっきり眠っていると思っていたのに、まだ起きてたのか。
 声をかけようとして、相手がやっぱりぐっすり眠り込んでいるのに気づく。
 サングラスを外して手足を縮め、布団にこぽりと潜り込んでるから、十七、八というより十四、五にも見える。
「寝言か」
 こんなに完璧に感情コントロールしてるようなやつでも寝言って言うのか、それとも、完璧に感情コントロールしてるから、ついつい零れちまうもんなのか。
 周一郎の寝顔を見守りながら、ちょっと人間の不思議に浸ってると、ふいにその睫のあたりから光るものが伝い落ちた。
 どきりとして身動きできなくなる。
「……清………おまえも……僕を……」
 滲んだ声で切なそうに呟き、けれどもう、それ以上は口にするまいとするように、周一郎はきつく唇を噛み締めた。眉を寄せて身体を竦める。手足が震えるほど力を込めて。
 それは昼間のたじろがない姿を裏切る、痛々しいほど怯えた姿で。
「どんな夢……見てんだよ」
 口にするものにさえ神経を使っていたのに、病んだ時でも清の作るものは安心して食べられた。なのに、その信頼が今、周一郎の中でゆらゆら揺れている。
 いや、揺らいでいるのは自分への信頼、なのかもしれない。
 それほど疎まれるような存在なのか、それほど意味がない命なのか、と。
 俺達が初めて出会った事件で、俺に見せた涙は演技だったと周一郎は言った。お人好しの俺を巻き込み利用するための芝居に過ぎなかったのだ、と。
 それが本当なら、今俺が見ているのは周一郎が見せる最初の涙、いや、いじっぱりなこいつのことだから、ひょっとしたらこれが最後の涙なのかもしれない。
「うー…」
 俺は掌をひらひら動かした。
 撫でてやりたい。今すぐこいつの頭をぐりぐり撫でてやり、揺さぶり叩き起こして、辛い夢を断ち切ってやりたい。
 けれど。
「だめ、だよなあ…」
 ぐ、っと手を握って諦める。
 そうやって目覚めた瞬間に、こいつは泣いていたことを全力で否定するに違いない。濡れた頬や伝った水滴は汗だっただの俺の目の錯覚だっただのと不愉快な理由を、そしてその実、泣いてた自分を傷つける嘘っぱちな理由を並べ立てるに違いない。
 そうして、きっと、どこでも泣けなくなっちまうに違いない。
 俺は溜め息まじりに布団に潜り込んで、周一郎に背中を向けた。
 明日の朝は何があってもこいつより先に目を覚まさないでおこう。
 こいつがいつも通り、きちんと満足いくような『朝倉周一郎』の仮面を被り終わってから、何も気づかなかった顔でのそのそ起きあがってやろう。
 目を閉じながら溜め息を重ねる。
 俺には今、それしかできない。
 無力が、はがゆい。
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