『京都舞扇』〜『猫たちの時間』2〜

segakiyui

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7.幻の絆

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 ルルルルッ。ルルルルッ。
「はい、佐野です」
 柔らかく鳴ったベルの音にお由宇が立ち上がって受話器を取った。
「はい……はい、そうですか、いえ、大丈夫そうですので……御心配おかけしました」
 俺の気配に気付いていたのだろう、話しながら椅子の背にかかっていたバスタオルを投げてよこした。
「ええ、はい、明日にでもそちらへ伺います。……風邪引くわよ」
 受話器を置いて振り返る。
「体しっかり拭いて。それから、無闇にタイルに八つ当たりしないでちょうだい」
 言われてようやく、なぜ右手が痛いのかわかった。こぶしに薄赤く血がにじんでいる。のろのろと投げられたバスタオルを拾って体を拭き、巻き付けてソファに腰を降ろした。
 どうしてなんだ?
 頭の中にはそのことばがぐるぐる回っている。
 どうして、身を投げた。
 エンドレス・テープのように頭の中に何度も何度も周一郎が欄干から落ちていく場面が流れていく。
 どうして、待ってくれなかった。
 外れかけたサングラスの下の真っ黒で虚ろな瞳。
 どうして、諦めた………俺が、居たのに。
「はい、手を貸して」
 差し出した右手に包帯がはかったようにきっちりと巻かれていく。それを見るともなく見ながら、また悔しいとも悲しいともつかぬ苛立ちが沸き上がってきた。
「病院を飛び出したままだったでしょう、清さんも病院側も行方を探して大変だったのよ」
「……い……かげんにしろよ」
「え?」
「……自分一人……辛いとか……思ってやがるんだ……っ」
「志郎」
「そりゃ、清にまで責められて、行き場もなくて、けど」
「……志郎」
「俺だって、高野だって」
 そうだ、朝倉家で高野はきっと心配しながら待っている。そんなことさえ周一郎は忘れてしまったっていうのか。
「みんな……みんな、あいつを心配してんのに」
「志郎」
 それとも、そんなこんなも届かないほど、周一郎は何もかもどうでもよくなってしまったのか。
『………僕の、せいです』
 表情のない顔に過った傷み。
『僕が、あなたと、関わったから』
『僕が、あなたを、こんなとこに連れてきたから』
 震えて掠れたつぶやき。
『僕が、京子さんを、殺して』
『あなたも、殺しかけた』
「志郎」「違うだろ…」
 頭の中で俯く周一郎に首を振る。
 お前のせいじゃない。お前が引き起こしたことじゃない。
 それでも。
 おそらくは、周一郎や朝倉家が関わったことが、京子や良紀を巻き込んだのは確かで。俺が怪我をしたり殺されそうになったのも、おそらくはそのつながりで。
 あの瞬間、俺はそれを初めて理解した。
 それはたぶん、周一郎の居る世界をきっちり感じとったから。
 そこに踏み込んでいけるのか、俺は。
 それほどの力が本当にあるのか、俺は。
 一番信じなくちゃいけなかった時に、俺は自分を疑った。
 その俺の怯みを、周一郎は確実に読み取っていた。
 だからこそ、諦めた。
 こちらに戻ってこないと決めてしまった。
 きっとそういうことなんだ。
 清を詰れたもんじゃない。高野を嗤えたもんじゃない。
「……俺も…追い詰めただけ…なのか?」
 だから、あいつは死ぬことの方を選んじまったのか?
「でも……でも……っ」
 きっと他に何かもっといい方法があったはずだ。お前が死ななくてよくて、清も少し楽になって、そういう方法が何かきっとあったはずだ、なのに。
「死んじまったら探せねえだろっ!」
 パンッ!
「てえっ!」
 いきなり頬を殴られて我に返った。
「お、お由宇」「何をぐるぐる考えてるの」
 お由宇は静かに言い捨てた。
「あなたが考えて何か解決するとでも?」
「おい」「何か?」
 ひらひらと白い掌をかざされて思わず小さくなる。
「いえ、はい、ありません」
「よろしい」
 お由宇はいつの間に淹れてくれたのかコーヒーのカップをそっと押しやって微笑んだ。
「落ち着きなさい。病院には連絡を入れておいた。周一郎は、今警察が捜索してくれている。清さんには廻元さん? あのお坊さんがついて面倒を見てくれている。今あなたにできることは何もないのよ」
「……うん……」
 俺は唸ってカップを取り上げた。
「お由宇」
「何?」
「周一郎……本当に」
 そのことばを口にするのが怖かった。
 けれど、逃げていても何もきっと始まらない。
「自殺、したんだろうか」
「……私が知っている限りでは朝倉周一郎が自殺するなんてあり得ないわね」
 くす、と微かにお由宇は笑った。
 その慣れた口調にふとひっかかる。
「前から聞こうと思ってたんだけど」
「ん?」
「お由宇、ひょっとして前から周一郎を知ってるのか?」
「……そうねえ」
 表向きは単なる心理学科の大学生、その実、いろいろな情報を苦もなく集めることができる奇妙な友人はくすぐったそうな顔になった。
「知っていると言えば知っている……けれど、友人だったことは一度もないと思うわ」
「じゃあ、何だ?」
「何……ねえ」
 自分もカップを持ち上げてゆっくりと中身を口に含む。
「………商売仇……と言うべきかしらね」
「商売仇?」
 なんじゃ、それは。
 尋ねようとした矢先、再び電話のベルが鳴ってお由宇が立ち上がる。
「はい………え。ええ、はい、わかりました。今そこに? ええ、伺います」
 受話器を置くときらきら目を光らせて俺を振り返る。
「願いが通じたわね。周一郎が見つかったらしいわ」
「え!」
「今、あなたが運び込まれていた病院に収容されているって。比較的水も飲んでなくて、本人も疲れてて『誤って』落ちたから、必死に泳いで何とか這い上がった、と言っているらしいわ」
「病院だな、わかった!」
 バスタオルを後ろへ払いのけ、俺は勢いよく立ち上がった。前に座って、コーヒーの残りを飲んでいたお由宇が一瞬びくりと体を震わせ、やがてゆっくりと目を伏せて溜め息をつく。
「いきなりとんでもないものを晒さないで」
「え……? あっ、あーーっ!」
「叫ぶのは私の方でしょ」
 平然とつぶやいたお由宇の前で俺は慌ててバスタオルを引き寄せて蹲った。
「お、俺のジーパンとシャツっ」
「もう乾いてるでしょ、お風呂場」
「サンキュ、お由宇!」
 急いで飛び込み、洗濯機の上に載せられていた服を着込んで飛び出す。
「助かった、いろいろと! またお礼するから!」
「あ、志郎」
 ばたばたと玄関で半乾きの靴に脚を突っ込んだ俺は続いた声に固まった。
「ところで、ここからどうやって病院に行くのか、わかってるんでしょうね?」
「わ、かりません~」
 ひきつって振り返る。
「考えてみたら、なんでお前、こんなとこにいるんだ?」
「ようやくそれに気付いたの?」
 お由宇はしみじみと大きな吐息をついた。

 病院に慌ただしく戻ってみると、入り口付近ですれ違ったのは今朝見たばかりの刑事達、当然俺にもまた事情聴取があると思ったのだが、相手は不愉快そうなしかめっつらで側をすり抜けていく。
「あ…れ?」
「滝さん、ですね?」
 その中に一人がふいと思い直したように戻ってきて、軽く頭を下げた。
「あ、はい」
「いろいろとこちらでお聞きしたいこともあったんですが、朝倉氏が事件性がないことを保証すると言われていますので、我々は引き上げます」
「は?」
 朝倉氏? 
 形式ばった言い方に戸惑うと、先に出ていきかけた警官が早くしろ、もう関わるな、と吐き捨てるように呼び掛けてきた。わかってる、と応じた目の前の警官が、小さく溜め息をついて、
「できたら、もうこれ以上ややこしいことをせんとって下さい」
「はぁ」
「じゃ」
「あの」
 言いかけた俺を振り切るように警官は脚を速めて遠ざかっていく。
 つまり?
 これってドラマとかでよくある『圧力がかかった』とかいう状況、みたいなんだが? まあそりゃどうしても尋問受けたいとかそういう趣味はないが、調査打ち切りだとしたら、京子と良紀の死んだことはどうなってしまう?
 首を傾げていると、受付から呼ばれて、周一郎の部屋を教えられた。
「あなたも休んで頂きたいんですが。朝倉さんが入られたのは個室ですし、簡易ベッドもありますから」
「はあ……すみません」
 なるほど、今夜はもう同じ部屋で大人しくしておいてくれ、ということか。
 じろりと見上げてきた受付に頭を下げる。かなり落ち着かない不安定な感じはするが、とにかく周一郎が無事かどうかを確かめたくて教えられた部屋に急いだ。
「周!……一郎……?」
 一気に飛び込もうとして、そうだ、こいつは溺れかけて助けられたところだったんだ、と寸前思い出し、そろそろとドアを開けると、
「滝さん…」
 煌々と明るい部屋の中、薄緑の寝巻きのようなものを着せられた周一郎が、白いベッドの上ではっとしたように振り返った。
 サングラスはどこかに流れてしまったのか掛けてなくて、それでも平然としている姿に、いつも整えられていた前髪が乱れていることだけが事件を思わせた。確かに怪我はなさそうで、ほっとしたように潜めていた眉を緩めてふわりと笑う。
「……すみません」
 あれ?
 その瞬間、さっきの落ち着かなさを数倍にしたような奇妙な感覚が俺の中に広がった。
「滝さん?」
「……大丈夫か?」
「はい……御心配おかけしました」
 近寄るに従って俺を人なつこく見上げ、僅かに微笑んだ瞳はきれいに澄んでいる。心配をかけたと言いながら、自分の方が俺を心配しているようなその表情に、ますます違和感が募ってくる。
「大丈夫、なのか?」
「え?」
「なんか、………明るくないか?」
 ああ、そうだ。
 無意識に尋ねたとたん、違和感の正体に気付いた。
 明るすぎる。
 ここも。
 周一郎の笑みも。
 あれほどずたずたになっていたのに、なんでこんなにあっさり笑う?
 いや、確かに周一郎なら、どんなに傷ついていても仮面を被り通せるけれど。でも。
 すごく残念だけど、周一郎なら、こんなふうに俺を見上げてきたり、受け入れたりしないんじゃない、か?
「え?」
 なんだよ、周一郎なら、って。まるで、周一郎じゃないみたいに。
 俺は自問自答に戸惑った。
「明るい? そうですか、外から来るとそう見えるかもしれません。………僕、どこかおかしいですか?」
 まるでその俺のうろたえを見抜いたように周一郎が微かに顔を歪めた。
「滝さんにもう心配させたくないから……落ち着いたふりをしている、つもりですが」
「あ、ああ」
 落ち着いたふり、か。なるほど。うん。確かにそうも言える、そう見える、けど。
 けど、周一郎なら、そんなことは言わないんじゃないだろうか、とまた奇妙な感覚に引っ掛かった。
「は?」
「あ、いや」
 だから、何だよ、この、周一郎なら、って。
 慌てて口を押さえて零れそうになったことばを飲み込み、少し後ずさりする。
「滝さん?」
 姿も声も仕種も顔も、周一郎そっくりだ、ってか周一郎以外の何にも見えない、なのに、なんで俺は。
「疲れ、てんのかな」
「……いろんなことがありましたから」
 沈んだ声になった周一郎が俯く。
「滝さんが僕を疎ましく思うのは仕方ないですけど」
 傷ついた痛々しい表情。大事な友人に嫌われたかもしれないと不安がる少年の。
 けど。
 だから。
 だからさ、そういうことは周一郎ならきっと言わない。そういう顔を晒さない、そう思った。それを見た相手が付け込んでこないかと恐れて。不安を見せることで俺を傷つけないかと心配して。
 なら、誰だ? 
 ここに居るのは、一体誰、なんだ?
「ベッド、があるんだよな」
 危うくそのまま尋ねそうになり、それがこのベッドの上の周一郎をひどく傷つけるだろうと想像がついて、俺は慌ててベッドの下を覗き込み、片付けられていた簡易ベッドを引っぱりだした。必要以上に必死になってベッドを組み立て、二度指を挟みかけ、一度したたかに脚をぶつける。
 大丈夫ですか、と覗き込んでくる周一郎に、何度も、違うそうじゃない、そう言いかけては、気にすんな、と無理にことばを押し出し、ああ、あいつはいつもこんな気分だったんだと思った。
 違和感と不安を押し殺して。相手の言動にぴりぴりして。
 自分のことばも表情も必死にずっとコントロールして。
「今夜はここで寝てやるから、安心しろ。明日か明後日、体調が落ち着いたら家に戻ろう」
「はい……ありがとうございます、滝さん」
「………電気、消すぞ」
「はい」
 うなずいて大人しくベッドに横になる周一郎に背中を向けて、俺も簡易ベッドで横になる。
 ありがとうございます、だって? 
 確かに他人がいるところじゃ、周一郎もそれほどとっつきは悪くない。
 だが、俺の知っている周一郎というのは、口が悪くて皮肉屋で素直じゃなくていじっぱりで。
 でも、誰よりも深くいろんなことを感じ取ってて、だからこそ自分の気持ちも何もかもをいつも押し込めて、何重のもの鎧で心を隠し切っていて。
 いつ休めていた? 眠っている間もルトの視界が生きている。逃げ場がないまま、否応なく、惨い真実に晒され続けて。
 当たり前じゃないか、人と関れなくなっても。
 自然じゃないか、一人で生きると決心しても。
 ……普通なんだ、信じられなくても。
 なのに、俺は。
 すうすうと背中で微かな寝息を感じたとたん、そうだ、きっと、こんな時には絶対自分が先に眠るようなことはない、そう思ったとたん、とうとうぼそりと尋ねてしまった。
「お前、誰だよ?」

「あの家は知り合いの家なのよ」
 数日後、俺と周一郎が戻ると聞いて、お由宇は嵐山駅まで送りに来てくれた。
「ちょっとこっちですることがあって来てたの……清さんは来てないのね」
「ああ」
 俺はホームの椅子にちょこんと座っている『周一郎』を横目に声を潜めた。
「いろいろあいつの仕事のものもあったから、荷物は取りに行かせてくれたんだけど」
 俺の頭の傷は案じてくれた、無事に朝倉家へ戻れるように神仏に祈ってくれるとも言ってくれた。
 けれど、『周一郎』に対しては終始頑なで、周一郎が何度か話し掛けても、丁寧だけどそっけない、失礼ではないけれど関わる気はない、そんな対応ばっかりで。
 どうも清は、京子や良紀の事件に警察が碌に動かないことに苛立っていて、それは朝倉家が『何か』したのだろうと思っているらしい。
『人の真実言うのは、お金や力で動かせへんもんでっせ』
 別れ際にぽつりと言われて、周一郎は一瞬怯み、
『いつか清も、僕が何も関わってないってわかってくれるよ』
 そう小さな声でつぶやいた。
 そうしてやっぱり俺は、周一郎ならきっとそんなことは弁解しないだろう、と思い。
 真実。
 その真実が、自分にとって惨いものでも、清はやっぱりそう言うんだろうか。
 もし俺に見えている通りのものが真実ならば、清は、他でもない、自分の息子が、乳母として育てた子どもの命を狙い、大事にしてくれていた知人を殺し罪を被せたこと、また覚醒剤を流通させて多くの人間を苦しめているということ、を受け入れなくてはならない。
 清自身も、息子を信じる余り、周一郎を自殺させるまで追い詰めたことを認めなくてはならない。
 そんなことを本当に望んでるんだろうか。
 ……たぶん、それは望まない。
 自分や自分の身内が汚れた手の持ち主だと受け入れることは、清の世界を壊してしまうから。
 だからこそ周一郎は沈黙を守って身を引いたのだ、もう誰に信じてもらえなくても構わないと。そしておそらくは、それでもまだ大切な、かけがえのない人に、無用の苦しみを与えまいと。
「そうなんだよな」
「え?」
「周一郎、は黙り続ける、つもりだったはずなんだ」
 お由宇が少し首を傾げる。
「なあ、お由宇?」
「何?」
「あいつ、『周一郎』に見えるか?」
「……どういうこと」
「見えるよなあ? どっからどう見ても、『朝倉周一郎』だよな? 他人の空似とかクローンとか、あいつそっくりのアンドロイドとかには見えないよな?」
 お由宇はゆっくりと眉を寄せた。
「……つまり、あなたには『周一郎』に見えない、と?」
「お前にはそう見えるよな?」
「……ええ」
「だよな? やっぱりそうだよな?」
 はぁ、と思わず溜め息をついた。
 そうなんだ、誰が見ても『周一郎』に見える。清だってそう扱ったし、電話で迎えに来るの来ないのを打ち合わせていた高野も別に何も感じていなかったみたいだし、何よりここまで仕草や何かまでそっくりな人間なんていないんじゃないかと思う、思いはするのだが。
「なんだかなあ……」
 ほら、今だって、と思わず考えちまう。
 あいつはサングラスの後ろで、確かに眩そうに目を細めている。けれど、視線の先にあるのは日差しを浴びてきらきら光っているようにさえ見える桜で。
 周一郎なら、あんなものを見ているだろうか。
 一瞬、脳裏に朝倉家に居る周一郎を思い浮かべる。
 そうだ、きっと周一郎なら、どれほど見事な桜でもどれほど心魅かれても、眩しそうに羨むように見た次の瞬間、静かに目を背けるだろう。生き生きと輝く桜にもう居なくなってしまった京子を重ねるから。この美しい世界から彼女を切り離してしまったのが自分だと改めて思い知るから。
 きっとあんなふうに、ただ単純に美しいなあという顔では見ないだろう。
「見えてるもんだけじゃ、ないもんな」
 周一郎の視界に入るのは、表面に見えている事柄だけじゃなくて、その事柄が成り立った意味込みだ。通常では見えないその世界、できれば見たくなかったものまでも、目の前に突き付けられ確認させられ、人の好意とか誠意とか優しさなんて全く信じられなくなってるのが周一郎なのに。
 ああそうか、と気がついた。
 二つの世界の境界に立って、どちらの世界にも属せずに、ただ一人引き裂かれる。
 この前から俺が感じていたあの感覚をずっと抱えているのが周一郎なのだ。
 だからこそ、気持ちを封じ感覚を封じ、人と深く関わる事を恐れて。
 ふい、と急に『周一郎』が振り返り、じっとこちらを見てどきりとした。
「……何だ?」
「いえ、滝さんがいなくなったような気がしたから」
 微かに目を細め、すぐにそういう自分に照れたように苦笑した。
「子どもみたいですね」
「……高野に迎えに来てもらった方がよかったな」
「いえ……もう嵐山へ電車で来る機会もないでしょう」
 だからこれでいいんです、と続けたのは確かにやはり『周一郎』に見える、けど。
 俺がいなくなったと不安がることができる、それを人に訴えられる、そんなことができるなら、あの橋の上であれほど虚ろな目はしなかったと思うのは考え過ぎなんだろうか。
「……凄く引っ掛かってるのね」
「うん」
「ある人間が確かにその人間であるかどうか、かなり難しい証明だわね」
「だよな」
「人間は何をもって個別認識されているか、ってことよね」
「……うん」
 顔も姿も仕草も癖も、ことば遣いさえそっくりで、なのに、なぜ俺は『こいつ』は周一郎じゃない、と感じているのか。その拠り所となると、ことばにしてしまえば幻のような、僅かな僅かな反応の違いにしか過ぎないのに。
 人は変わる。
 周一郎が清や京子のことでいろいろ衝撃を受けて、少し甘え気味になったり人なつこくなったりすることはあるはずだ。事実、朝倉家の事件の前と後では、周一郎はずいぶん俺とは距離を縮めてきたのだから。
 同じような変化が、本当のところは自殺かどうかわからない、あの一件で周一郎に起こらなかったとは言えないはずだ。死にかけた恐怖が周一郎を人に近づけた、そう考えればいいだけだ。
 だけど。
「確実に見分ける方法なんてないしねえ」
「うん……」
 確実に見分ける方法。ある人間を確かにその当人だと見極める方法。
 くす、と唐突にお由宇が笑った。
「『秘密』があればね」
「は?」
「あなたと周一郎だけしか知らない秘密があれば、それで確かめられるでしょ」
「そんなもの…」
 あるかよ、と言いかけて、俺は目を見開いた。
 電車がゆっくり入ってくる。周一郎が立ち上がる。振り向いて俺を呼ぶ顔に上の空で頷き、お由宇に手を振って周一郎の側に駆け寄りながら、俺の頭の中を青灰色の小猫が尻尾をくねらせてすり抜けていく。
 ある。
 あるじゃないか、これ以上ないぐらい、とっておきの『秘密』ってやつが。
「滝さん、早く」
「わあった!」
 この前の事件で全てを知っていたルトが、今度もただ一つの真実を教えてくれるかもしれない。
 俺は速度を上げ出した心臓を『周一郎』に悟られまいとした。
 
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