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8.まがいもの(2)
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昨日の京都は温かで心安そうだったのに、今日の京都はまるで警戒心剥き出しだな。
そんなことを思って入洛したのがまずかったのか。
「……迷った……」
「にゃ?」
ボストンバッグから顔を出したルトが、竹林の中を通り抜ける道のまん中で立ち止まってしまった俺を見上げてくる。
「確かこういう道だったと思うんだが」
嵐山駅を出て、まさか清を訪ねるわけにもいかない。
手近の交番で、川に落ちた人間が助けられたとか、行方不明になった人間が見つかったとか、そういう話はなかったか、と聞いたけれど、『周一郎』救出の件ばかりで、新たな手がかりはなかった。
仕方なしにあの廻元和尚にでも会って相談してみようと思ったのだが、考えてみれば、行きは京子に連れられて、帰りは和尚に導かれているから、道をはっきり覚えていない。それどころか、寺の名前もはっきり覚えていないし、もちろん住所や電話番号も知らない。
何とかなるんじゃないかと山手の方向に歩き出してみれば、どうにも何ともならなかった。
京都の道は碁盤の目なんて誰が言ったのか、細い曲がりくねった道が唐突に別の道路や私道らしい未舗装の道にぶつかるものの、どちらへ行けばどこに繋がっているのか、看板一つまともに立っていない。
こっちかな、いや、こっちだったかも、とうろうろしたあげくどんどん妙な方向に入り込んでいたようで、周囲は昔話に出てくるような密生した竹林、林道に人影一つもなく、道の先は山の中へ入るばかり、振り返っても離れてきた住宅街は影形もなくて、完璧に迷ってしまった。
「この場合、『金色に光ってる竹』を見つけるか、『大きなつづら』がいいか『小さなつづら』がいいか聞かれるかってとこだな」
「ふ、にゃっ」
やれやれ。
そう言いたげにルトがボストンバッグから体を乗り出し、つるんと中から滑り落ちる。
「な~」
「お前どっちだかわかるか?」
「………な~」
俺を振り向いて鳴いてみせたルトを見下ろすと、相手はふん、と鼻を鳴らして顔を背け、竹林の上に広がる空に向かって静かに鳴いた。
「誰か呼んでくれるとか?」
「な……ぐにゃう」
ちょっとは黙れ。
そんな感じでじろりと睨まれて、慌てて口を噤み、へとへとになった腰を降ろす。
「………野宿…するのも、ここじゃちょっと」
ざわざわと風が渡っていく。揺れる竹の向こうに紫に煙り始めた空がある。一気に暗さを増してくる林道には、街灯一つない。
「……ひょっとして、真っ暗?」
うわ、それは嫌だ。
「な~ぅ…」
ルトは何度か鳴いた後、無言で耳をすませるように黙った。
「何か聞こえるのか?」
俺もルトのまねをしてみたが何も聞こえない。
とにかく、せめて車が通る道までぐらいは探そうと向きを変えると、ルトも諦めたようにトコトコと付いてくる。古い笹の葉が散り落ちた道は足下が危うい。何度も滑りそうになって、それでもようやく抜けたと思ったら、道より数メートル上の場所に出た。斜めに緩やかに下っている低い崖は柔らかそうだが、その下の道はアスファルトで落ちると痛そうだ。
「にゃ」
「おい!」
ルトはくるっと尻尾を回して器用に崖を降りていく。細い足が軽々と地面を蹴っていくのに、仕方なしにそろそろと屈み込み、俺も足を踏み出そうとしたが、それがまずかった。
「ど? ど、どわわわっっっ!」
「ぎゃっ」
一気に足下が滑ってボストンバッグを振り回しながら落ちていく俺に、ルトがぎょっとしたように慌てて飛び退く。
「ひえええ…っ」
思いきり枯れ葉を散らしジーパンの尻を擦りつけながら、下の道まで転がり落ちた。頭を抱えて何とか打ちはしなかったが、そこら中擦りむいて、目はちかちかするし、しばらく蹲ってしまう。
「う~」
「な?」
「……何とか」
「ふ、な」
ドジなやつ。
ルトが笑うように牙を剥いたとたん、はっとしたように顔を上げる。
「え、何、どうし……わーーっ!」
ふいに、緩やかな坂を勢いよく乗り上げてきた自動車が目の前に現れて息が止まった。ヘッドライトに照らされて一瞬視界を失う。叫びながら頭を抱え込んで、こんなわけのわかんないところで、しかもわざわざ交通事故でおしまいかよ、と神様を詰ったとたん、けたたましいブレーキ音をたてて車が止まった。
「大丈夫ですか!」
「う」
「どこがぶつかったんですか!」
運転手が大声で叫びながら降りてきて覗き込む。
「いや、その」
別にあんたが轢いたわけじゃないから安心してくれ、そう言おうとして顔を上げた俺は、後部座席のドアが開いてもう一人小柄な姿が現れたのに気付いた。
「溝口、どうした」
「申し訳ありません、直樹さま、この方が突然」
「轢いたのか」
ぎょっとしたような声を上げて、小柄な人影は急ぎ足に近寄ってくる。
「大丈夫ですか」
「や、別に俺は車に轢かれた、わけ、じゃ……」
覗き込んできた相手の顔がヘッドライトに照らされた。
歳の頃十六、七のまだ子ども子どもした男、ばさりと垂れたうっとうしそうな前髪の下には驚いたように見張った真っ黒な瞳、かなりの美形に入るだろう顔立ちは。
「周、一郎……?」
「は?」
「周一郎!」
転がり落ちた痛みも忘れ、思わず俺は立ち上がって、差し出された相手の腕を掴んだ。
「何でお前こんなとこに! いや、それよりも、無事なら無事とどうして知らせなかった!」
苛立ちと興奮に相手を揺さぶりながら喚く。
「なんで朝倉家にも戻ってこない!」
「直樹さまに何をする!」
「ちょ、ちょっと、待って、下さい」
茫然としていた溝口と呼ばれた運転手が急いで割って入ってきて、周一郎自身も怯えたように腕をねじって逃げ、俺は呆気に取られた。
「周一郎?」
「この方は直樹さまだ!」
溝口が俺と周一郎の間に立ちはだかって叫ぶ。その背中に庇われて、周一郎が不安そうな表情でそっとこちらを伺ってきて、俺は混乱した。
「ルト…?」
小猫は足下にちょこんと座ったまま、じっと周一郎を見上げているが、一声も鳴かない。走り寄っても行かない。
「何だよ……周一郎、だろ?」
「だから!」
「……いい、溝口」
少年は俺が動きを止めたのに、そっと運転手の腕を押さえて進み出た。
「どなたかと勘違いされたようですね?」
「……勘、違い…?」
少年は気の毒そうな顔で俺を見上げている。細い首の線、繊細な卵型の顔、確かに髪型はいつものように整えられてはいないが、その黒々と光を吸い込む瞳や聡明利発を絵に描いたような顔は、周一郎以外の何者でもないのに、あえて言えば、その表情の豊かさがそれを裏切っていた。
「僕は里岡直樹、と言います」
「里岡、直樹…」
「ここは家の別荘への私道ですが……御存じでしたか?」
「私道…」
少年がゆっくりと指差してみせた方向を振り返ると、確かに道の彼方に瀟洒な日本家屋がある。
「道に迷われたんですね」
『直樹』はにこりと優しく笑った。
「時々あるんです、このあたりは入り組んでいるから」
駅までお送りしましょうか。
静かな声も周一郎そのままだった。だが。
これは一体どういうことだ? こいつは何を話してるんだ?
困惑し混乱して、何度も側のルトを見下ろすが、小猫はまじまじと少年を見上げるだけで、俺を振り向きもしない。そして、ルトなしにこいつが周一郎かどうかを判断する手立てがないことを、今さらながら痛烈に感じて、俺は一気に落ち込んだ。
高野が他のやつらがどうのこうのと偉そうに言ったところで、俺にもこいつが周一郎だと証明しきれるものなんて何もない。
そんな俺が何を正義の味方ぶって、こんなところまで一体何をしに来たんだ。
もちろん、俺の勘はこいつは周一郎だと教えてくる。けれど、なぜ里岡直樹などと名乗っているのか、それより何より、俺を見ても知り合いだという素振りさえ見せないのは演技なのか本心なのか、それさえもわからない。
頼りのルトは傍観を決め込んだみたいでゆっくり擦り寄ってきたから、のろのろと抱き上げたけれど、気持ち良さそうに喉を鳴らして俺の腕におさまるだけで、何も教えてくれはしない。
「俺は」
「その猫」
「は?」
「あ、いえ」
『直樹』はくすぐったそうに微笑んだ。
「なんて名前なのかなあと思って。可愛いですね」
「ああ、ルト、って言うんだけど」
「へえ、ルト」
『直樹』はそっと指を伸ばした。神経質そうに指先でルトの頭に触れ、少し撫でて嬉しそうに笑う。
「ルト……いい名前ですね」
「あ、うん」
「確か何でも見える神様の名前なんですよね」
「……」
そうだ、周一郎もそう言ってた。
けれど、それは。
「………よく知ってるんだな」
喉に絡みそうになったことばを無理矢理押し出す。
「ふと、そう思って」
『直樹』は褒められたと思ったのだろう、目を細めて満足そうに見上げてきた。
周一郎にそっくりだ。
けれど、周一郎はこんなににこにこ笑うことなどない。見知らぬ他人にこれほど人なつこく振る舞わない。そうだ、これは周一郎とは違うはずだ、見かけがそっくりな、全く別の………これほどよく似た、人間が、居る、と?
神様、あんたの発想力はかなり衰えてきてるんじゃないのか。
「ん、く、しゅんっ」
ふいに相手がくしゃみをして、俺は我に返った。
「直樹さま、もう戻られませんと」
旦那さまや奥さまが御心配なさいます。
溝口が口を挟んで、また俺の期待が崩れていく。
そうか、家族がちゃんと居るのか。なら、これはきっと、周一郎じゃないんだろう。
それこそ、京都の竹林の中で出くわした、『あやかし』とでもいうやつなのだろう。
「……すみません、俺、人を探してたから」
俺はのろのろと頭を下げた。
「そいつがあなたにそっくりで、間違った、ようです」
「僕に?」
「ええ」
「……その人はあなたの身内なんですか?」
「いや……身内、というか」
俺は口ごもる。
周一郎を何だと言えばいいのか。雇い主? 同居人? 身内でないのは確かだが。
「その……友人、で」
「………大切な人なんですね」
「へ?」
「…………さっき」
『直樹』は目を細めた。
「とても真剣な顔で呼んだ、周一郎、って」
「ああ」
「まるで………まるで、死んだと思ってた人を見つけたみたいに、必死な顔してた」
「ああ、まあ」
周一郎そっくりな顔で、周一郎のことを他人みたいに話す相手が微妙に胸に堪えた。
もしかして、あんな家に引き取られてなくて、ちゃんと『普通の家』で育ってたなら、周一郎もこんな風にまっすぐな目で人を見つめただろうか。こんな風に通りすがりの人間に優しく笑って応対できたんだろうか。
「とにかく間違ったみたいで。すみません。駅の方向はどちらですか、教えてもらえば俺は………ルトっ!」
ふいにルトが腕から滑り降り、一目散に車の中に走り込んでぎょっとした。
「おい、こらっ!」
「すみませんっ!」
うろたえる溝口と一緒に慌てて車に駆け寄る。
「ルトっ! こらっ!」
「なぅ」
「なうじゃねえっ、何してんだ、そんなとこで!」
「な~」
ルトは平然と車の座席の上に丸くなり、気持ち良さそうに喉を鳴らしている。体を突っ込み尻尾を掴んで引きずり出そうとした矢先、目一杯手を引っ掻かれて悲鳴を上げた。
「ぎゃ」
「、きさんっ!」
「っっ!」
背中に電流が走った気がして思わず振り返る。『直樹』が真後ろに立ってきょとんとしている。
「何?」
「え?」
「なんて、言った?」
「何を?」
「今なんて言ったっ!」
「……何も……言わなかった、と思いますけど」
「いや、だって、今っ!」
滝さん、って呼ばなかったか?
「空耳……?」
「あの、それより……ルトくん、外に出ないようなら」
『直樹』は困った顔で笑った。
「今夜は僕のところにお泊まりになりませんか? 今から駅に歩いて行くにはちょっと遠いし……それに僕」
少し寒くて疲れてきました。
そういう相手の顔がうっすら青いのにどきりとした。溝口がうろたえたように、直樹さまはあまりお丈夫ではないんです、と重ねてくる。
「あ……じゃあ」
俺がうなずくと、『直樹』はこぼれるような笑顔を見せた。
そんなことを思って入洛したのがまずかったのか。
「……迷った……」
「にゃ?」
ボストンバッグから顔を出したルトが、竹林の中を通り抜ける道のまん中で立ち止まってしまった俺を見上げてくる。
「確かこういう道だったと思うんだが」
嵐山駅を出て、まさか清を訪ねるわけにもいかない。
手近の交番で、川に落ちた人間が助けられたとか、行方不明になった人間が見つかったとか、そういう話はなかったか、と聞いたけれど、『周一郎』救出の件ばかりで、新たな手がかりはなかった。
仕方なしにあの廻元和尚にでも会って相談してみようと思ったのだが、考えてみれば、行きは京子に連れられて、帰りは和尚に導かれているから、道をはっきり覚えていない。それどころか、寺の名前もはっきり覚えていないし、もちろん住所や電話番号も知らない。
何とかなるんじゃないかと山手の方向に歩き出してみれば、どうにも何ともならなかった。
京都の道は碁盤の目なんて誰が言ったのか、細い曲がりくねった道が唐突に別の道路や私道らしい未舗装の道にぶつかるものの、どちらへ行けばどこに繋がっているのか、看板一つまともに立っていない。
こっちかな、いや、こっちだったかも、とうろうろしたあげくどんどん妙な方向に入り込んでいたようで、周囲は昔話に出てくるような密生した竹林、林道に人影一つもなく、道の先は山の中へ入るばかり、振り返っても離れてきた住宅街は影形もなくて、完璧に迷ってしまった。
「この場合、『金色に光ってる竹』を見つけるか、『大きなつづら』がいいか『小さなつづら』がいいか聞かれるかってとこだな」
「ふ、にゃっ」
やれやれ。
そう言いたげにルトがボストンバッグから体を乗り出し、つるんと中から滑り落ちる。
「な~」
「お前どっちだかわかるか?」
「………な~」
俺を振り向いて鳴いてみせたルトを見下ろすと、相手はふん、と鼻を鳴らして顔を背け、竹林の上に広がる空に向かって静かに鳴いた。
「誰か呼んでくれるとか?」
「な……ぐにゃう」
ちょっとは黙れ。
そんな感じでじろりと睨まれて、慌てて口を噤み、へとへとになった腰を降ろす。
「………野宿…するのも、ここじゃちょっと」
ざわざわと風が渡っていく。揺れる竹の向こうに紫に煙り始めた空がある。一気に暗さを増してくる林道には、街灯一つない。
「……ひょっとして、真っ暗?」
うわ、それは嫌だ。
「な~ぅ…」
ルトは何度か鳴いた後、無言で耳をすませるように黙った。
「何か聞こえるのか?」
俺もルトのまねをしてみたが何も聞こえない。
とにかく、せめて車が通る道までぐらいは探そうと向きを変えると、ルトも諦めたようにトコトコと付いてくる。古い笹の葉が散り落ちた道は足下が危うい。何度も滑りそうになって、それでもようやく抜けたと思ったら、道より数メートル上の場所に出た。斜めに緩やかに下っている低い崖は柔らかそうだが、その下の道はアスファルトで落ちると痛そうだ。
「にゃ」
「おい!」
ルトはくるっと尻尾を回して器用に崖を降りていく。細い足が軽々と地面を蹴っていくのに、仕方なしにそろそろと屈み込み、俺も足を踏み出そうとしたが、それがまずかった。
「ど? ど、どわわわっっっ!」
「ぎゃっ」
一気に足下が滑ってボストンバッグを振り回しながら落ちていく俺に、ルトがぎょっとしたように慌てて飛び退く。
「ひえええ…っ」
思いきり枯れ葉を散らしジーパンの尻を擦りつけながら、下の道まで転がり落ちた。頭を抱えて何とか打ちはしなかったが、そこら中擦りむいて、目はちかちかするし、しばらく蹲ってしまう。
「う~」
「な?」
「……何とか」
「ふ、な」
ドジなやつ。
ルトが笑うように牙を剥いたとたん、はっとしたように顔を上げる。
「え、何、どうし……わーーっ!」
ふいに、緩やかな坂を勢いよく乗り上げてきた自動車が目の前に現れて息が止まった。ヘッドライトに照らされて一瞬視界を失う。叫びながら頭を抱え込んで、こんなわけのわかんないところで、しかもわざわざ交通事故でおしまいかよ、と神様を詰ったとたん、けたたましいブレーキ音をたてて車が止まった。
「大丈夫ですか!」
「う」
「どこがぶつかったんですか!」
運転手が大声で叫びながら降りてきて覗き込む。
「いや、その」
別にあんたが轢いたわけじゃないから安心してくれ、そう言おうとして顔を上げた俺は、後部座席のドアが開いてもう一人小柄な姿が現れたのに気付いた。
「溝口、どうした」
「申し訳ありません、直樹さま、この方が突然」
「轢いたのか」
ぎょっとしたような声を上げて、小柄な人影は急ぎ足に近寄ってくる。
「大丈夫ですか」
「や、別に俺は車に轢かれた、わけ、じゃ……」
覗き込んできた相手の顔がヘッドライトに照らされた。
歳の頃十六、七のまだ子ども子どもした男、ばさりと垂れたうっとうしそうな前髪の下には驚いたように見張った真っ黒な瞳、かなりの美形に入るだろう顔立ちは。
「周、一郎……?」
「は?」
「周一郎!」
転がり落ちた痛みも忘れ、思わず俺は立ち上がって、差し出された相手の腕を掴んだ。
「何でお前こんなとこに! いや、それよりも、無事なら無事とどうして知らせなかった!」
苛立ちと興奮に相手を揺さぶりながら喚く。
「なんで朝倉家にも戻ってこない!」
「直樹さまに何をする!」
「ちょ、ちょっと、待って、下さい」
茫然としていた溝口と呼ばれた運転手が急いで割って入ってきて、周一郎自身も怯えたように腕をねじって逃げ、俺は呆気に取られた。
「周一郎?」
「この方は直樹さまだ!」
溝口が俺と周一郎の間に立ちはだかって叫ぶ。その背中に庇われて、周一郎が不安そうな表情でそっとこちらを伺ってきて、俺は混乱した。
「ルト…?」
小猫は足下にちょこんと座ったまま、じっと周一郎を見上げているが、一声も鳴かない。走り寄っても行かない。
「何だよ……周一郎、だろ?」
「だから!」
「……いい、溝口」
少年は俺が動きを止めたのに、そっと運転手の腕を押さえて進み出た。
「どなたかと勘違いされたようですね?」
「……勘、違い…?」
少年は気の毒そうな顔で俺を見上げている。細い首の線、繊細な卵型の顔、確かに髪型はいつものように整えられてはいないが、その黒々と光を吸い込む瞳や聡明利発を絵に描いたような顔は、周一郎以外の何者でもないのに、あえて言えば、その表情の豊かさがそれを裏切っていた。
「僕は里岡直樹、と言います」
「里岡、直樹…」
「ここは家の別荘への私道ですが……御存じでしたか?」
「私道…」
少年がゆっくりと指差してみせた方向を振り返ると、確かに道の彼方に瀟洒な日本家屋がある。
「道に迷われたんですね」
『直樹』はにこりと優しく笑った。
「時々あるんです、このあたりは入り組んでいるから」
駅までお送りしましょうか。
静かな声も周一郎そのままだった。だが。
これは一体どういうことだ? こいつは何を話してるんだ?
困惑し混乱して、何度も側のルトを見下ろすが、小猫はまじまじと少年を見上げるだけで、俺を振り向きもしない。そして、ルトなしにこいつが周一郎かどうかを判断する手立てがないことを、今さらながら痛烈に感じて、俺は一気に落ち込んだ。
高野が他のやつらがどうのこうのと偉そうに言ったところで、俺にもこいつが周一郎だと証明しきれるものなんて何もない。
そんな俺が何を正義の味方ぶって、こんなところまで一体何をしに来たんだ。
もちろん、俺の勘はこいつは周一郎だと教えてくる。けれど、なぜ里岡直樹などと名乗っているのか、それより何より、俺を見ても知り合いだという素振りさえ見せないのは演技なのか本心なのか、それさえもわからない。
頼りのルトは傍観を決め込んだみたいでゆっくり擦り寄ってきたから、のろのろと抱き上げたけれど、気持ち良さそうに喉を鳴らして俺の腕におさまるだけで、何も教えてくれはしない。
「俺は」
「その猫」
「は?」
「あ、いえ」
『直樹』はくすぐったそうに微笑んだ。
「なんて名前なのかなあと思って。可愛いですね」
「ああ、ルト、って言うんだけど」
「へえ、ルト」
『直樹』はそっと指を伸ばした。神経質そうに指先でルトの頭に触れ、少し撫でて嬉しそうに笑う。
「ルト……いい名前ですね」
「あ、うん」
「確か何でも見える神様の名前なんですよね」
「……」
そうだ、周一郎もそう言ってた。
けれど、それは。
「………よく知ってるんだな」
喉に絡みそうになったことばを無理矢理押し出す。
「ふと、そう思って」
『直樹』は褒められたと思ったのだろう、目を細めて満足そうに見上げてきた。
周一郎にそっくりだ。
けれど、周一郎はこんなににこにこ笑うことなどない。見知らぬ他人にこれほど人なつこく振る舞わない。そうだ、これは周一郎とは違うはずだ、見かけがそっくりな、全く別の………これほどよく似た、人間が、居る、と?
神様、あんたの発想力はかなり衰えてきてるんじゃないのか。
「ん、く、しゅんっ」
ふいに相手がくしゃみをして、俺は我に返った。
「直樹さま、もう戻られませんと」
旦那さまや奥さまが御心配なさいます。
溝口が口を挟んで、また俺の期待が崩れていく。
そうか、家族がちゃんと居るのか。なら、これはきっと、周一郎じゃないんだろう。
それこそ、京都の竹林の中で出くわした、『あやかし』とでもいうやつなのだろう。
「……すみません、俺、人を探してたから」
俺はのろのろと頭を下げた。
「そいつがあなたにそっくりで、間違った、ようです」
「僕に?」
「ええ」
「……その人はあなたの身内なんですか?」
「いや……身内、というか」
俺は口ごもる。
周一郎を何だと言えばいいのか。雇い主? 同居人? 身内でないのは確かだが。
「その……友人、で」
「………大切な人なんですね」
「へ?」
「…………さっき」
『直樹』は目を細めた。
「とても真剣な顔で呼んだ、周一郎、って」
「ああ」
「まるで………まるで、死んだと思ってた人を見つけたみたいに、必死な顔してた」
「ああ、まあ」
周一郎そっくりな顔で、周一郎のことを他人みたいに話す相手が微妙に胸に堪えた。
もしかして、あんな家に引き取られてなくて、ちゃんと『普通の家』で育ってたなら、周一郎もこんな風にまっすぐな目で人を見つめただろうか。こんな風に通りすがりの人間に優しく笑って応対できたんだろうか。
「とにかく間違ったみたいで。すみません。駅の方向はどちらですか、教えてもらえば俺は………ルトっ!」
ふいにルトが腕から滑り降り、一目散に車の中に走り込んでぎょっとした。
「おい、こらっ!」
「すみませんっ!」
うろたえる溝口と一緒に慌てて車に駆け寄る。
「ルトっ! こらっ!」
「なぅ」
「なうじゃねえっ、何してんだ、そんなとこで!」
「な~」
ルトは平然と車の座席の上に丸くなり、気持ち良さそうに喉を鳴らしている。体を突っ込み尻尾を掴んで引きずり出そうとした矢先、目一杯手を引っ掻かれて悲鳴を上げた。
「ぎゃ」
「、きさんっ!」
「っっ!」
背中に電流が走った気がして思わず振り返る。『直樹』が真後ろに立ってきょとんとしている。
「何?」
「え?」
「なんて、言った?」
「何を?」
「今なんて言ったっ!」
「……何も……言わなかった、と思いますけど」
「いや、だって、今っ!」
滝さん、って呼ばなかったか?
「空耳……?」
「あの、それより……ルトくん、外に出ないようなら」
『直樹』は困った顔で笑った。
「今夜は僕のところにお泊まりになりませんか? 今から駅に歩いて行くにはちょっと遠いし……それに僕」
少し寒くて疲れてきました。
そういう相手の顔がうっすら青いのにどきりとした。溝口がうろたえたように、直樹さまはあまりお丈夫ではないんです、と重ねてくる。
「あ……じゃあ」
俺がうなずくと、『直樹』はこぼれるような笑顔を見せた。
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