『segakiyui短編集』

segakiyui

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SSS110『守ってあげたい』

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 悔し泣きをしたのは3回。

 長男を妊娠した時、私は看護師だった。
 少ない人員にスタッフの怪我や病気が重なって、ぎりぎりの人数で三交替を回していた。
 病棟には体位変換といって、体をこちらで動かして床擦れを防がなくてはならない患者さんも、30分おきのバイタルチェックが必要な患者さんも居た。
 初めての子供で、知識はあったが、下腹部にときどきしこったように固くなる子宮が「切迫早産」の徴候であると気付かずに勤務に走り回り、巡回してきた夜勤師長が体の調子をきいてくれて異常がわかった。
 深夜明けで即診察、即入院。
 驚いて会社から戻ってきた夫の前でわんわん泣いた。
 悔しかった。
 子供が苦しんでいるのがわからなかった。仕事をちゃんと引き継げなかった。体調を自分でコントロールできなかった。看護師なのに。
 授かった子供は、本当は居なかったかもしれない子供だった。事情があって子供は望めないかもしれない、そう言われてお互いに納得ずくで結婚して、けれど不思議なことに授かった子供だった。
 ここで失うわけにはいかなかった。その命を危険に晒した自分が腑甲斐無かった。
 三ヶ月の絶対安静。24時間点滴。
 どこに行くにも点滴台を引きずっていく。点滴台を『ぽち』と呼んで同室者と笑いあった。部屋には『
たま』も『みけ』もいる。切迫早産流産を懸念された、病棟で一番重症な部屋なのに、ここはどうしてこんなに明るいの、と看護師が呆れていた。 
 トイレに行けるし、シャワーも入れる。じっとしてることなんて苦痛じゃなかった。ただ、夜中ふと目を覚まして、万が一この努力も気力も実らないことがあるとしたら、そう思った一瞬にどきどきした。応じるように下腹部がきつくなる。
「あんたも怖いんだね」
 一緒に頑張ってるんだとうなずいて目を閉じた。
 
 出産後、部屋に赤ちゃんがやってきた。小さな頭、小さな手足、信じられないことに細い指に爪まで生えてる。
 本で見たり聞いたり、よその赤ん坊は知っている、けど、無防備にこてんと寝ている姿にほんと飽きなくて、ずっとずっと見た。嬉しいというより不思議で、可愛いというより愛おしい。大切だというには胸が詰まってしんどかった。
 長男はおっぱいを吸うのがへただった。私のおっぱいも吸いにくい形だった。指導を受けて繰り返し母乳に挑戦しても、うまく吸えずにお腹を減らして彼は泣く。おっぱいをやりたくてもやれなくて、私も苛立ち、それでも頑張る。
 初出産直後の体で、うまくいかない母乳トライの日々、疲れ切ってる私を見兼ねて、一晩彼は詰め所の方で預かられた。夜泣きする彼を一時間おきにだっこしてうろうろしてた夜が続いていたから、すぐに眠れると思ったら、側にある空っぽのベビーベッドから目が離れなかった。
 遠く詰め所から泣き声が聞こえる。
 あれは私の子のだ。そう思うと悲しくて悔しくてぼろぼろ泣いた。
 もう絶対一人にさせない。預けたりしない。一緒に側に居て、一緒に頑張るんだ。
 次の朝、いそいそと迎えに行った。大丈夫、と聞かれたのはぼたっと疲れた顔をしてたからだろう。でも、大丈夫です、と笑った。もう大丈夫です。
 その夜もやっぱり彼は泣いた。だっこして、同室者を起こさないように廊下の端へそっと行く。うあんうあんうあん。お腹減ったの。うあんうあんうあん。おむつかな。うあんうあんうあん。寂しいの。疲れてへとへとしながら、うろうろして、昼間一緒にくうくう眠る。
 無理だ、と思った。ずっとどこかで迷ってた、看護師への復職。確かに保育所で見てくれるし、環境は整ってる、問題はない、けれど、私が無理。
 私は子育てと仕事を同時にできるほど心の容量が多くない。そうやっていける人もいる、けれど、私はできない。一度に一つが手一杯。
 だから今、私はこの子を選ぶことにする。けど、この子を理由にはしない。これは私の問題。
 そう胸の中で繰り返したのは、家族喧嘩のたびに「あんた達がいるから離婚しないんだ」と言い聞かせた母親のことばに反発して。違う違う。選ぶのは私。選んだのは私。そこを間違えないでいよう。

 仕事を辞めて、子育てに集中して、それでも「赤ん坊」はとんでもないものだった。全精力を奪い、全気力を求め、全体力を搾り取る。
 誰も交代できない24時間フル勤務。夫は頑張ってくれた。けど、彼にも生活のための仕事がある。そのために、寝る時は寝なくちゃならない。
 再び夜泣きの子供を抱えて家の中を徘徊する。
 加えて、またおっぱいがうまくいかない。飲みきれないおっぱい、絞りきれないおっぱい、管理がスムーズにいかなくて、疲れも溜まって乳腺炎を発症した。
 高熱で動けない。でも、ふらふらと子供を見る。
 見兼ねて今度は夫が一晩面倒を見ると変わってくれた。爆睡した、けど夢の中で。
 悔しくて泣いた。
 お腹減ってるっていうのに。さみしいって言ってるのに。なんで私はちゃんとやれないんだろう。母親なのに。情けない。悔しい。悲しい。辛い。おっぱいもきっと一緒に泣いてる。だから熱を持っている。子供も一緒に泣いている。うあんうあんうあん。泣き明かして、必死にしのいだ夫もまたふらふらと会社へ向かって、そうしてまた、たった一人の昼間。
 疲れ切ったのか長男は眠る。
 きっとまた夜中に起きて泣くんだろう。本には昼間起こしましょうとあった。生活リズムを取り戻しましょうと。でも、私もへとへと、長男もへとへと。
 もういいや、と思った。全面この子に合わせてしまおう。この子の寝る時に眠って、この子の起きてるときに家事をしよう。世間とずれても今はいい。両親との電話も今はいい。今はこの子と二人でびっちりやっていこう。
 そう居直ったせいか、子供が成長していくせいか、少しずつ落ち着いていった嵐のような日常が、実は子供が大きくなるたびに、越える坂だと気付いたのは、もっと何度も悔し泣きを重ねていってわかったこと。

 守ってあげたかった。
 いい親ではなくてもいいから、十分大きくなれるように、それよりうんと度量の広い自分であろうとした。
 その長男は今ときどき、もうー、母さんは困ったやつだな、という顔で私を見る。
 守ってあげたい思いも、私の身長も遥か越えている。

 そのままどんどん遠くに歩いていけばいい。

                                終わり
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