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SSS93『街の人魚』
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ひろしのクラスには海子と言う女の子がいます。
窓際の席に座って、長い髪の毛をいつもきちんと耳の横で2本の三つ編みにした、時々先生に指されては恥ずかしそうに立ち上がって、もじもじ俯く女の子です。
けれど、ひろしは海子の秘密を知っているのです。
プール開きの日のことです。
男の子がさっさと着替えて外へ飛び出した後、女の子達がきゃあきゃあ言いながら水着に着替えたあの日です。
ひろしが水泳帽を忘れて教室に戻った時、そこには海子一人が残っていました。青く青く晴れ上がった空に染まった教室は、不思議にしん、と静かでした。
プールの水の波紋が教室の天井にきらきら揺れます。跳ね飛んだ声が水飛沫のように窓や机や黒板なんかを濡らします。その中に海子一人、小さな細い手を誰かの机に当てながら、ぽろぽろ涙を零していました。いつもきちんと編んでいたおさげを解いて、背中の中ほどまで長い髪が波打っていました。細い体が青い空を背景に陽炎のように頼りなく揺れています。そうして海子は、誰かの机をそっとそっと、とても優しく撫でながら泣いていました。
ひろしは胸をどきどきさせて、足音を忍ばせてプールに戻りました。水泳帽を忘れたので先生には怒られましたが、心の中は海子のことで一杯です。
ひょっとして、海子は人魚じゃないのかしら。今まで人間のふりをして、皆んなと変わらない顔をして暮らしてきたのではないのかしら。けれど時々、こうして空がひどく青くて、水のとても綺麗な日には、海が恋しくなって、ああして一人で泣いていたのではないかしら。
きっと誰も知らないんだ。きっと先生も知らないことなんだ。
けれどひろしは知っているのです。
それからひろしは海子を見ることがますます多くなりました。見れば見るほど海子は人魚のように思えます。大きい瞳はいつも潤んでいるようですし、細い手足も水の中なら自由自在に動けるような気がします。魚の尻尾はどうしたのでしょう。『人魚姫』の話のように魔法使いのおばばに変えてもらったのでしょうか。そう言えば、ひろしは海子が話をするのを聞いたのは一度きりです。その時も、好きなものは、と聞かれて一言、海、と答えたのでしたっけ。それにあの日、海子は一体誰の机を撫でて泣いていたのでしょう。
いろんな謎がひろしの心をますます一杯にして、ひろしは我慢できなくなりました。そしてある日、ついにひろしはこう考えたものです。明日こそ海子に尋ねてみよう、人魚なの、と。どうして泣いていたの、と。誰の机を撫でていたの、と。
翌朝ひろしは、一大決心をして学校へやってきました。友達が次々やってきます。たかおくんやあきこちゃんやひろむくん………けれど海子だけがいつまで経っても来ないのです。始業のベルが鳴ってもまだ来ません。とうとう先生が来られたのに、海子の席はぽっかり空いたままです。
先生はいつものように部屋に入って来られ、くるりと周りを見渡されると、海子の席が空いているのに少し頷かれて仰いました。
「皆さん、今日は残念なことをお知らせしなくてはなりません。お友達の岸野海子さんが、昨日限りで転校されました。お別れをいうのが悲しいので、と言うことで、先生も今日まで皆さんにお伝えできませんでした」
先生のことばは途中からひろしの耳に入っていませんでした。
海子は海に帰ったんだ。
ひろしは何度も繰り返してそう思いました。
夏が近くなって、水の音があんまり海子を誘うから、海子は海へ帰ってしまったんだ。尋ねたいことが一杯あったのに。話したいことが一杯あったのに。海子は一人で帰っていってしまったんだ。
そうして、ひろしは俯いて、ほんのちょっぴり泣きました。
終わり
窓際の席に座って、長い髪の毛をいつもきちんと耳の横で2本の三つ編みにした、時々先生に指されては恥ずかしそうに立ち上がって、もじもじ俯く女の子です。
けれど、ひろしは海子の秘密を知っているのです。
プール開きの日のことです。
男の子がさっさと着替えて外へ飛び出した後、女の子達がきゃあきゃあ言いながら水着に着替えたあの日です。
ひろしが水泳帽を忘れて教室に戻った時、そこには海子一人が残っていました。青く青く晴れ上がった空に染まった教室は、不思議にしん、と静かでした。
プールの水の波紋が教室の天井にきらきら揺れます。跳ね飛んだ声が水飛沫のように窓や机や黒板なんかを濡らします。その中に海子一人、小さな細い手を誰かの机に当てながら、ぽろぽろ涙を零していました。いつもきちんと編んでいたおさげを解いて、背中の中ほどまで長い髪が波打っていました。細い体が青い空を背景に陽炎のように頼りなく揺れています。そうして海子は、誰かの机をそっとそっと、とても優しく撫でながら泣いていました。
ひろしは胸をどきどきさせて、足音を忍ばせてプールに戻りました。水泳帽を忘れたので先生には怒られましたが、心の中は海子のことで一杯です。
ひょっとして、海子は人魚じゃないのかしら。今まで人間のふりをして、皆んなと変わらない顔をして暮らしてきたのではないのかしら。けれど時々、こうして空がひどく青くて、水のとても綺麗な日には、海が恋しくなって、ああして一人で泣いていたのではないかしら。
きっと誰も知らないんだ。きっと先生も知らないことなんだ。
けれどひろしは知っているのです。
それからひろしは海子を見ることがますます多くなりました。見れば見るほど海子は人魚のように思えます。大きい瞳はいつも潤んでいるようですし、細い手足も水の中なら自由自在に動けるような気がします。魚の尻尾はどうしたのでしょう。『人魚姫』の話のように魔法使いのおばばに変えてもらったのでしょうか。そう言えば、ひろしは海子が話をするのを聞いたのは一度きりです。その時も、好きなものは、と聞かれて一言、海、と答えたのでしたっけ。それにあの日、海子は一体誰の机を撫でて泣いていたのでしょう。
いろんな謎がひろしの心をますます一杯にして、ひろしは我慢できなくなりました。そしてある日、ついにひろしはこう考えたものです。明日こそ海子に尋ねてみよう、人魚なの、と。どうして泣いていたの、と。誰の机を撫でていたの、と。
翌朝ひろしは、一大決心をして学校へやってきました。友達が次々やってきます。たかおくんやあきこちゃんやひろむくん………けれど海子だけがいつまで経っても来ないのです。始業のベルが鳴ってもまだ来ません。とうとう先生が来られたのに、海子の席はぽっかり空いたままです。
先生はいつものように部屋に入って来られ、くるりと周りを見渡されると、海子の席が空いているのに少し頷かれて仰いました。
「皆さん、今日は残念なことをお知らせしなくてはなりません。お友達の岸野海子さんが、昨日限りで転校されました。お別れをいうのが悲しいので、と言うことで、先生も今日まで皆さんにお伝えできませんでした」
先生のことばは途中からひろしの耳に入っていませんでした。
海子は海に帰ったんだ。
ひろしは何度も繰り返してそう思いました。
夏が近くなって、水の音があんまり海子を誘うから、海子は海へ帰ってしまったんだ。尋ねたいことが一杯あったのに。話したいことが一杯あったのに。海子は一人で帰っていってしまったんだ。
そうして、ひろしは俯いて、ほんのちょっぴり泣きました。
終わり
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