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しおりを挟むあなたには何に見えてるのだろう
私の広げるこの翼
天上絵画の儚い羽毛
濡れて光る折り畳まれた皮
ぎらつく鋼鉄の構築物
極彩色のCGドット
いずれにせよ
現実を裂く幻の約束
いつからわかっていたのだろう
いつから知っていたのだろう
真っ暗な夜に呼んだ
寒い明け方に抱き締めた
温かな日射しに影を求め
燃え落ちる日に手放した
かなうはずがない
夢に繋ぐ永遠への祈り
私はずっと一人だった
あなたに会うまで一人だった
14
中谷は静かな浜を歩いている。
真っ暗な闇を、どこまでも埋める波。
夜光虫の漂う青白い光が、幾つもの波形になって、中谷の足下に打ち寄せ浸していく。
もう、逃げようとは思わなかった。
逃げられなかった。
ずぶ濡れのシャツとスラックスで歩く、髪が濡れて額に首に張りついている、それは今海から上がってきたばかりの死者のような、あるいはこれから海に捧げられることを約束しているような姿だろう。
裸足が踵まで、ずぶ、ずぶ、と一歩ごとに浜に沈む。
波は砕けなかった。
ただ打ち寄せて、中谷の足を撫で、摩り、包み、そして引いていく。
波に洗われるごとに、耳の奥で微かな水音がする。
ぽた。ぽた。ぽた。ぽた。
体の中で、足よりうんと下の何かに向かって、引き絞られて落ちていく、命の水。
引き止める術は、ない。
水音一つが響くたびに、気力が失われ、脚が揺らめき、身体がふらつく。
どこへ向かっているのか、わからない。
なぜ歩いているのかも、わからない。
ぐにゃり、と唐突に足元が崩れた。
抵抗することさえできずに、そのまま砂浜に倒れ込む。
その体を、波が覆う。
ずるりと打ち寄せて、探り回って引いていく。
柔らかで貪欲な動きで中谷を引きずり寄せる。
細胞が溶け出してしまう気がする。
波の触手に肌を破られ筋肉が解かれ骨が晒され内臓が食まれる。
いつから呼吸をしていないのだろう。
いずれにせよ、中谷は波の餌になって砂に食い尽くされていくのだ。
ぞぶりと腕が呑み込まれる。
ごぶりと脚が引き込まれる。
伝い落ちてきた水は塩辛い。
舌を焼くような塩味が、崩れていく意識にただ一つ鮮烈だ。
泣いているのだろうか。
それともこれは別のものなのだろうか。
震えながら舌を出して舐め取った。
開いた口から滴るものと引き換えに、口の中に入ってきた塊は苦い。
喉まで押し込まれて僅かに仰け反るといがらっぽい味で弾けてなお奥へ入り込んでいく。
両腕も両脚も砂に呑まれて押さえつけられ、逃げられない。
呻いても同じこと。
内からも外からも、中谷は海に犯される。
こうやってばらばらになるのだ。
こうやって粉々になるのだ。
こうやって人は壊されるのだ。
だらだらと溢れるのは汗なのか涙なのか。
それとも快感に狂って流すよだれなのか。
幸福な人生だと思いませんか。
選択枝のない永遠の拘束。
ふわりと暗い海の上に輝く姿が浮かび上がった。
白いワンピースを翻らせて、悲しげにこちらを見る少女。
笙子。
その頬に幾筋も伝わった涙に胸が締めつけられる。
けれど同時に嘲笑いたいような衝動が起こる。
見ろ。
見るがいい。
こんな俺をどうやって救う。
こんなにどろどろに砂に呑まれて身動き取れずに海に溶ける、それを受け入れて抵抗さえできない俺を、そんな彼方の空に浮かんで、一体どうやって引き上げる気だ。
笙子が祈るように指を組む。
白い指先に零れ落ち煌めく涙。
あなたを失いたくない。
どうか一人で逝かないで。
「こんなものっ」
ふいに近くで叫びが起こった。
黒い浜辺でキィが何かを振り回している。銀色の機械、コードを引き抜き、そのまま力の限り海の中へと叩き込む。
「こんなものがなくても、わたしは『ソシアル』を始末してやるっ!」
怒りに満ちて、今にも爆発しそうな声で天に吠える。
「くそおおおおおっ!」
ああ、そうだろうな。
お前ならやれるさ、何でも、望む限りのことを。
けれど俺ができたのは、それが唯一。
残されたたった一つの本物の証。
それさえお前は奪うのか。
することなすこと成功して、することなすこといい結果を生み出して。
なのに俺のやることときたら。
考えても考えなくても、八方塞がり、自分を追い詰めることにしかならなくて。
なあ、何が一体まずかったんだろう。
「だめです、笙子!」
また違う方向で別のキィが叫んだ。
のろのろと振り返ると、大きく手を振り回しながら、キィがパニックになっている。
「こんなところで、やめてくださいっ」
悲鳴じみた声、こんなにうろたえた声は初めて聞く。
「ここは『ホール』じゃないんですよ!」
キィが叫んでいるのは海上の笙子に向けてだ。両手のこぶしを握りしめて、まるで小さな男の子のように半泣きになって喚いている。
「それでなくても、あなたは『ソシアル』を聴いているのにっ!」
悲痛な響きにぎょっとして重い頭を動かすと、海の上に浮かんでいる笙子がゆっくり頭を上げるのが見えた。
まっすぐな視線は中谷を捉えている。迷いのない黒い瞳。
「どうしてこんなやつのために!」
キィは悔しそうに叫び続ける。
「どうして、あなたは命を賭けるっ!」
命を?
ぼんやりと見上げた中谷に笙子が淡く微笑んだ。
「中谷さん」
澄んだ声が海を渡って耳に届く。中谷の中で滴っている水音の隙間を巧みに潜りぬけて。
「大丈夫」
全てを見通しているような目を細め笑みかけられて。
ふいにわかった。
笙子は歌おうとしている。
『ハレルヤ・ボイス』を使って中谷に呼び掛けようとしている。
やめてくれ。
全身を走ったのは紛れもない恐怖。
やめてくれ。
どうか、もう、やめてくれ。
俺のために傷つかないでくれ。
俺のために歌わないでくれ。
あんたはまた、取り返しのつかない傷みを背負うのに。
中谷の声が聞こえないのか、笙子は胸の前でそっと両手を重ねる。
その内側で何かを密かに温めるように。
「大丈夫」
何が。
「わかってるから」
何を。
「私はよくわかってるの」
笙子。
「私が何をしているのか」
違う。
「だから心配しないで、中谷さん」
違う。
そんなことをさせるぐらいなら、俺はこのまま殺されるから。
あんたを未来永劫縛るなら、このまま砂に潰されるから。
身もがく中谷の願いは霧散する。
笙子が瞳を伏せ、唇を開いた。
ああ。
中谷の身体に電流が走る。
響き渡る声にキィが膝をついて崩折れた。
打ち寄せていた波がゆらゆらと不安定に戦き止まる。
音量があがる。世界を覆う。
「くおっ」
呻いたキィが砂に埋まり陽炎のように揺らめいて消えていく。
「わたしはっ……だめだ……っ……」
苦しげな叫びを残して。
そして海に。
そうだ、海に亀裂が入っていく。
笙子の真下から、青白い夜光虫の道がこちらへ走り寄ってくる。
闇の海を裂く光の航路。
砂浜に辿り着き、なおも砂を弾いて中谷の身体に到達する。
うっあ……っ。
強烈な感覚。
砂に埋もれた身体を振動が揺さぶり掘り起こしていく。
思わず目を閉じて、けれど次の瞬間にはたとえようもなく甘い震えに身体中を摩りあげられて、声を上げながら中谷は仰け反る。見開いた目が熱で潤む。
笙子っ。
その視界で。
笙子のワンピースが細かな刃に切り裂かれていくように飛び散るのが見えた。頬にも幾筋も紅の傷が走る。凄まじい風に巻き込まれて、その鋭い切っ先に無防備に切り刻まれていくように。
笙子っっ。
呻きながら呼んだ中谷に、半眼だった目はゆっくりと開いた。
そこにあったのは、周囲の闇より得体の知れない漆黒の光。
微かに開いた唇は桜色にあどけないのに、そこにたたえられた微笑は、底知れない深みを含んでぞっとするほど妖しい。
笙……っ……あっ……は………っ。
中谷はもう声を止められなかった。熱を帯びた身体の感覚が次々開かれていく。
指先まで、髪の毛の先まで、こんなところに感じる場所があったのかと思うほどに。
あっ……ああっ………。
悪寒一歩手前、激しくて痛い波が、中谷を追い上げる。反り返り、声を放って、それでも逃しきれない。
海もまた開かれていきつつあった。
笙子の爪先から裂かれた海水が、じわじわと左右に押し広げられて立ち上がり、夜光虫をまといつかせてなだれ落ちながら水飛沫をあげる、光の崖に変わっていく。
海底まで裂かれた水が笙子の前から中谷まで、白い光の道を作る。
渇く大地。
海の底だったなんて思えない。
残された海草がみるみる干涸び、岩が白く塩の粉をふく。
しずしずと笙子は降りてきた。
望まれた地に降臨する、この世ならぬ使者のように。
ワンピースはずたずただ。頬にも腕にも、ほっそりと白い脚にも無数の切り傷を負っている。
けれど、その顔は笑みほころんでいる。
凄絶で嫣然とした微笑。
殺気立つほど猛々しくて、全てを呑み込むほど鮮やかで。
まるで街の中を歩むように、光の崖の間を静かに側まで歩いてくる。
その姿に見愡れ、沸騰する感覚の暴走に打ちのめされ、ひたすら熱い息で喘ぐだけの中谷にそっとしゃがみ込んできた。
微笑が深まる。
「中谷さん」
甘い吐息で耳元で呼ばれて、中谷はぞくりと震えた。
「見つけた」
そうか。
ふいに中谷は理解する。
そうか。
なぜ笙子は大丈夫だと言ったのか。
なぜ笙子は闇を割って中谷を見つけることができたのか。
笙子はわかっているのだ。
自分の影響力を。
人を救う正の方向性ばかりではなく、解放すれば人の心を底まで切り裂く負の方向性も。
豊かで美しい命の歌であると同時に、それら全てを破壊する消滅の歌であることも。
自分の中の暗黒を受け入れて、それをしっかり抱え込んで。
それでも望むのは人の平安、人の真実。
「そう……か」
中谷は過熱した頭で、せわしく息を吐きながら朦朧とつぶやく。
「あんた……それが力だって……とっくの昔に……知ってたんだ……」
キィの望む美しい救いではなく。
人が願う温かな祈りなどでもなく。
それはただ、厳然たる力。
自分の在り方がこうでしかなくて、それでも死ぬことを望まないなら、屠ることもその営みの中にある。
けれど、その代償に。
いつでも、どんなときであっても。
笙子は我が身を裂きながら、暗黒の海に身を投じる。
それが約束。
巨大な力を受け取ったゆえに背負う見えない十字架。
その約束を全うするためにのみ生まれ落ちた魂だから、罪悪感など抱えるぐらいは容易いこと。
「中谷さん」
優しく頬を包まれて、そっと頬をすり寄せられて、中谷はうっとりと目を閉じた。力の入らない四肢、蕩け崩れている身体、笙子に包まれている部分だけが形を為しているような。
「戻ってきて」
ああ。
ああ、笙子。
あんたが望むならどこからだって。
「笙、子」
つぶやいて目を開けると、周囲は光の洪水だった。
中谷は全身をぐったりと投げ出して、頭を笙子の膝にのせている。
汗やら何やらでどろどろだった体はきれいに拭かれてバスタオルに包まれている。
乾いた温かな感触。
笙子はその中谷の頭を上からそっと抱えながら、目を閉じ紅の唇を開いて歌っている。
あべ、まりぃあ。
ぐらてぃあす、ぷれぇな。
どぉみぬぅす、てえくぉむ。
あぁべぇ、まぁりあ。
たぶん普通に聴いていたなら、鼓膜を裂かれそうな高音。
けれど、上空で舞うだけの厳しい響きではなく、どこまで届いているのかわからないほどの高みから、降り落ちる声は黄金の柱になって笙子の身体をまっすぐに貫き、中谷の横たわる平面を過ぎ、はるか下、ひょっとしたら地球の裏をまた刺し貫いて、別の宇宙空間に抜けていってしまいそうな。
黄金の柱からはまばゆい光が満ちあふれて、周囲の空間を震わせている。
光しか見えない。
圧倒的な光しか。
目の奥まで焼かれそうなその中で、中谷は自分の身体が共鳴し、震動し、今まで感じたことのない細かな波に震えているのを感じた。
細胞が一つ一つ篩いにかけられる。
笙子の歌のレベルに合うように、動きの悪い部分が切り取られ、焼き尽くされ、捨て去られる。そして残ったわずかな部分が歌で強く震わされて、調整され再配置される。
それは言い換えれば、どんなわずかな自我が残ることも許されないような支配、とも言えて。
中谷がここまでへたっていなければ、きっと容赦なく自分を叩き潰されて、この声で狂ってしまっているだろう。
べねでぃく、たあとぅす。
べね、でぃく、たとぅす。
いんむぅりぃ、えぇりぶぅす。
えと、べねでいぃく、とぅす。
ふるくぅとぅす、べえんとりぃす。
とぅうぅりぃ、えぇりぶす。
「……そ…か」
つぶやいた中谷の声に気づいたのか、ふわりと笙子が目を開いた。
そこにあるのは漆黒の闇。
周囲の光を裏切り、底にどんな救いもない、深く重い黒。
嬉しそうに笑う唇に中谷はいつかの笙子の笑みを思い出した。
林を駆け抜け、幹に押し付けられた笙子が、中谷に一瞬向けた、このうえもなく嬉しそうな笑み。
「だから……あんたは」
笑みが微かに泣きそうな色に濡れる。
「……だから、俺……を」
いや、中谷でなくては、ならなかった。
「……あんた……うれし、かったのか……」
中谷のことばに笙子の笑みが深まる。
「俺が……壊れて……くの…」
これほどの圧倒的な、人が耐えられる限度を越えて響き渡る救いを、中谷以外の誰が必要としただろう。
『エンジェル・ホール』に制御され、自分でも押さえ込んでいた、『ハレルヤ・ボイス』の全開を、一体どこで発揮できるだろう。
笙子の瞳の黒が満足そうに揺らめいた。
「それに……ずっと……気づいてた………?」
さんた、まりあ。
おぉら、おぉらぁ、ぷろぉのおびす。
さんた、まりあ。
おぉら、おぉらあ、ぷろおのびす。
『ハレルヤ・ボイス』は、世間が考えるよりも、キィが思うよりも、もっと巨大で壮絶な力なのだ。
不治の病を治すよりも、人の悩みをすくい取るよりも、人の心の内側の仕組みを、根本的に変えてしまうような圧倒的な『力』。
その本質を誰よりも理解し、恐れていたのは、他ならぬ笙子。
だからこそ、『ソシアル』の出現におびえながらも、決定的な手を打たなかった。
なぜなら、『ソシアル』の存在は笙子の声のもう一つの未来図。
そしてその存在は、やがて身動き取れないほど深くまで傷つく人間を生み出すだろう。
自殺してしまえるものなら悩みは終わる。だが、自殺することもできずに、その力を真正面から受け止め続ける人間がいるならば。
その人間がひょっとすると、一番深い闇まで導いてくれるかもしれない。
笙子の力を全開しても消滅できない、ねじ伏せることしかできない、真の闇。
それに向き合ったとき、『ハレルヤ・ボイス』は最終的な進化を遂げる。
絶対的な、救いの、歌として。
それを望むのは力を持つものの願い。
自分の力の限界を試したいという、貪欲で昏い、祈り。
その衝動を、笙子はずっと抱えていた。
たぶん、父母が自殺した時から。
だからこその中谷への執着。
自分の暗黒を無視し、あるいは自分の暗黒に押し潰されて、誰もそこへは届かない。
けれど、ひょっとして、中谷、ならば。
数々の傷みを未解決のまま抱え込んできた、中谷ならば。
闇の奥深くまで笙子を導き連れていってくれるかもしれない。
あやうい賭け。
きわどい判断。
間違えれば、笙子は生涯中谷への罪を負う。
けれど、きっと、中谷ならば。
微かな希望。
切ない信頼。
絆が保てず壊れてしまえば、笙子も中谷も闇に沈む。
次第に壊れ潰れていく中谷を追うことで、笙子は自分の限界を、そしてその向こうに約束されている無限の可能性に近づけることを理解していた。
そこを越えるしか、生き延びる術はないのだと。
さぁんた、まりあ。
おぉら、おらぁ、ぷろぉ、のおびす。
あーめん。
声が途切れる。笙子が微笑み、そっと目を伏せて顔を近づけてくる。
「中谷さん」
柔らかな声がはっきりとした意図と艶を含んでささやき、中谷の身体を甘い波が走りあがった。
砕かれて『ハレルヤ・ボイス』で再調整された身体と心は、笙子の囁き一つにこれほどたやすく陥落する。不快感一つなく。ただ、喜びに満ちあふれて。
「しょう……」
掠れた声は重ねられた唇に飲み込まれた。
「……んっ」
温かな舌が滑り込む。中谷の唇をゆっくりと浸す甘露、それがもっと欲しくて、動かない身体を必死に延ばし、首をあげる。顎を支えてなお深く口づけられ、中谷は震えながら呻いた。
幸福な人生だとは思いませんか。
大月の声が耳の奥で甦って、笙子と唇を合わせたまま、中谷は微かに笑う。
ばかなやつ。
こんなものを取りこめるはずがない。
こんな力を受け入れられるはずがない。
他の誰にもきっと不可能だ。
自我の端きれがちょっとでも残っているうちは無理だ。
あんな動画一つで笙子が揺らぐなどと思っているのが大月の浅さ、それがあいつの限界。
そしてキィもまた。
この笙子を受け入れるには、器がくっきりできあがり過ぎている。それを壊す痛みに怯えて逃げ回っているうちに、再生不可能なまでに砕かれる。
中谷だからこそ、笙子はぎりぎりまで待てた。全てが終わる瞬間に、自分が中谷の自我を引き裂きながら再構築できることを確信していた。
たった一人。
過去にも未来にも、『ハレルヤ・ボイス』の贄になれるのは、たった一人。
中谷、のみ。
「っふ」
唇が離れ、また重なる。
笙子を受け取り、確かめる。
それがすべてで、それだけのこと。
だが、それをただ受け入れることができるのは。
「笙…子」
漏らした声に微かな声が魔性の響きを宿して笑う。
「中谷、さん」
たとえようもなく、甘い声。背骨を貫き、下半身を疼かせる。
「くれ……もっと……」
笙子の吐息が唇を撫でる。ふる、と全身が震えて視界が眩んだ。
触れるだけの唇の頼りなさに中谷は悶える。
「あんたを………くれ……」
息を吐く。身体の火を相手の口に吹き込むように。
目を閉じ、切羽詰まった声で誓いをたてる。
「俺を……やるから………」
何もかも、あんたにやるから。
完全な支配と服従を受け入れるから。
動けない身体が恨めしくて苦しい。
唇がふいに離された。
「もう、あげてます」
小さな声が囁いた。
目を開ける。
笙子の潤んだ瞳にさきほどまでの闇がなくなっていた。
「そう……だな……」
名残惜しく、笙子の中に消えうせていくもう一人の姿を追いかける。その中谷の視線に気づいたように、どこか悲しそうに笙子が笑った。
「おかえりなさい、中谷さん」
周囲を満たしていた光がゆっくりと光度を落としつつあった。見慣れた風景、中谷の部屋のフローリングの床、寝そべった中谷の頭を膝にのせて覗き込みながら、笙子が瞳に涙を膨れ上がらせる。
「私、来ました」
「ああ」
「あなたを、失いたくなかった、から」
ゆら、と微かに瞳が揺れる。そのことばの真実を笙子は胸の奥で感じ取っているのだろう、苦い笑みを浮かべて続けた。
「『ハレルヤ・ボイス』、失格です」
そのことばの意味を、本当の意味を、中谷以外の誰がわかるのだろう。
「ああ…そうだな」
笙子が目を見開いた。瞳にたまっていた涙が震えながら落ちてくる。
その滴に中谷はもう恐怖を感じなかった。唇近くに落ちたそれを、じっと笙子を見上げながら、ゆっくり舐め取る。
塩辛い海の味。
人の中にたゆとう、命あふれる凶暴な海。
けれどそれはもう、中谷を犯さない。
「あんたの……味がする」
「っ」
笙子が真っ赤になった。
「もっと、くれ」
ねだると笙子は再び涙をためた。
「ごめんなさい」
「ほしい」
ごくり、と喉を鳴らしてしまった。
「中谷さん、私」
ぽろぽろとこぼれ落ちてくる涙を、次々と口で受け止める。
「っ……は」
自分の漏らした声がひどく濡れてて妖しかった。
「ずっと、くれるか……?」
潤んだ両目に、なお、ねだった。
「あんたを……ぜんぶ……くれるか………?」
笙子は、答えのかわりに、静かに唇を降ろしてきた。
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