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「中谷さあん!」
田尾のはしゃいだ声がした。
「怒鳴るな……田尾……頭に響く…」
翌日、中谷は、朝から社のデスクに突っ伏して唸っていた。
昨夜いつ眠ったのか、まったく覚えていない。朧な記憶は、『ソーシャル・ワンダーランド』を五回まで繰り返して聴いた、と教えているが、その後は闇だ。
気がつけば、朝の九時だった。ともすれば、またCDをかけようと手を伸ばしかけるのを必死に堪え、ごわごわの服を脱ぎ捨て着替えて何とかマンションを飛び出したものの、頭の中は色鮮やかで不安定な原色の渦巻きがうごめき揺れていて、まともに考えられないし、文字が読めない、仕事にならない。
それよりもっと恐ろしいのは、こうしていても、ふと気を抜くと、あのCDを聴くためにマンションに戻りたいという欲求が襲ってくることだ。 性質のワルイ 女に口説き落とされ抱いてしまった朝のような。なのに、その女の体のあれこれが一時たりとも忘れられないような。
「くそ…っ……とんでもないCDを……すすめやがって…」
中谷はうなりながら、デスクの上で顔の向きを変えた。
「どうしたんですかあ、中谷さあん」
妙な顔で覗き込んでいる田尾に気づいて、中谷は顔をゆがめた。
いくらなんでも、越智笙子の手にのってしまったせいで、理由のわからないパニックと戦って今にも負けそうだなどと話す気になれない。
田尾の問いかけを無視して、ぶっきらぼうに尋ね返す。
「…資料室はどうだった」
「えーと、はい」
いぶかしげに顔をしかめながらも、田尾はメモを取り出した。
「『ソシアル』。デビューは意外に古いです、八年前。はなっからCDのみで、実体不明のグループとして売ってます。越智笙子の対抗馬としてあてられたみたいですねえ。取材は一切お断り、秘密厳守。売り出しによくある手っちゃそうなんですが、今回はそれが災いしたって言うか、すぐに表に出てこれなかった。まあ金はかけてますよお。着実にCDを出してって売れ続け、ファンもマニアックな層に受けて口コミで広がってます」
田尾は自分のメモにふんふんと満足そうにうなずいた。
「最近は何でもオープン、でしょお? 業界の裏も表もみいんな知ってる。なのに、これだけ厳重に正体が隠されてるってんで、業界通ほどのめりこんでるみたいですねえ。超売れっ子アーティストの混成グループだとか、コンピューターによる合成音だとか、いろいろ言われてますよお」
「実体不明、か」
◆ 確かに、昨今は歌手が必要だとは限らない。バーチャル・アイドルは既に目新しくなくなっているし、姿形から声、歌までバーチャルで作り上げるのは簡単だ。映画『ファイナル・ファンタジー』や『タイタニック』の群衆の例を持ち出すまでもなく、役者だってそのうち、群衆だけでなくメイン・キャストまで、バーチャルで動くようになるだろう。ひょっとすると、本物とバーチャルの共演、いや、ダブル・キャストなんていうことも出てくるかも知れない。
「何もかも、作り上げてしまえるってわけだ」
そうして、世界はいつのまにか、人間を必要としないところで成り立ってしまうのかもしれない。
(なら、俺達はどこへ行けばいいんだ? 俺のこの気持ちは? 俺の感情は? どこかでバーチャルに代行して表現してくれればよしってことになるのか?)
中谷はますます顔をしかめた。昨夜のCDの音が甦り、それと同時にずきん、と体の奥からあの不思議な快感を求めようとあがく気持ちがうねる。
(あのCDを聴いている間は辛くない、感動していられる、痛みもない、けれど、それって、いったい何をしてるってことなんだ?)
「で、向こうはどう言ってるんだ」
堂々巡りに陥りかけた思考を、中谷は無理やり現実に引き戻した。
「はい。いちおうコメント、求めてきましたけどお……やっぱり取材はお断りでした。正体不明で売れてきてるのに、自分からそれをつぶす馬鹿はいない、って、向こうに笑われちゃいましたよお。ただ、今度、DVDで新曲出すそうです。画面はメンバーじゃなくて、ゲームクリエーターとエンジニアで、イメージ世界を表現するそうです」
「ふうん」
中谷は口をゆがめた。
「でどうだったんですう、『ソシアル』のCD。さっきの話だと、越智笙子は中谷さんに、そのCDを聴かせたかったみたいじゃないですかあ」
田尾はくふふ、と目を細めて、意味ありげに笑った。
「『ハレルヤ・ボイス』、中谷さんに興味ありそうだったしい。なんか、秘密のメッセージ、とかあったりしてえ?」
(秘密のメッセージ?)
中谷は眉を寄せて、深くため息をついた。
(あの感覚を知って笙子がCDを薦めたとしたら、やっぱりとんでもない女だってことだ)
「CD、な」
つぶやいた中谷の脳裏に、昨夜の夢とも幻ともつかないものが甦った。
八歳の深雪。中谷は十三歳だった。
両親が一番派手な喧嘩をした夜のことだ。止せばいいのに、中谷と深雪の目の前で、いらだって我を忘れた母親が、父親に向かって言い切った。
『子どもさえできなきゃ、誰があんたなんかと結婚なんか! あたしは子どものためを思ったからこそ、あんたみたいな男とでも暮らしてやったんだ! 晃さえいなけりゃ。ううん、晃が女の子だったら、もっと早くに家を出ていけたのよ!』
『おかあさん、ひどい!』
深雪が血相を変えて母親に詰め寄ったのを、中谷はどこか他人事のように見ていた。
ああ、やっぱり俺はいらない人間だったのか。
聞いたとたんに、すとんとそう納得してしまった。しばらくしてから、いまさらそんなことを言われても、無邪気に死ねもしないだろうに、と思った。
その二つの気持ちに追い詰められて、なんだかひどく疲れた気がして、ぼんやりと深雪と母親を見ていた気がする。
要らないのに、どうして育てたのかなあ。要らないのに、どうして一緒に暮らしているのかなあ。そんなことも考えていたような。
どのくらい無言で座り込んでいただろう。気がつくと、両親はとっくにそれぞれ自分の好きなことをしに出掛けていて、中谷は深雪と二人で冷えた家の中に取り残されていた。
深雪がくしゃん、と小さなくしゃみをして、我に返ったのだ、と中谷は思い出した。
『ストーブ、つけなきゃな』
立ち上がって、自分と同じようにうつむいて座り込んでいる深雪の肩に手をかけた。
『寒いだろ、ホットレモンでも作ってやろうか』
『お兄ちゃん』
深雪は涙でぐしゃぐしゃになった顔で中谷を見上げた。
『お兄ちゃんがかわいそう…』
そのとき胸に走った痛みと、切ないほどの深雪へのいとしさは、その後ずっと、中谷を支えていてくれた。
そう、両親は深雪を溺愛していた。中谷なんか、いないも同然だった。
今思えば、深雪はよくそのことを気にしていた。女だというだけで両親に愛してもらえる、男だというだけで両親に疎まれるなんてあんまりだ、と。
(まさか)
中谷は目を見開いた。むくりと体を起こして瞬きする。今まで考えてもいなかったことだが、深雪の自殺理由を突然思いついたのだ。
もし、深雪が、自分が中谷よりも両親に愛されていることが苦痛だったのなら。自分が生きているから両親の愛が中谷に届かないのだと、ずっと一人で思い詰めていたとしたら。
そして、自分さえいなくなれば、両親も中谷を愛してくれるかもしれない、と思い込んだとしたら。
中谷の脳裏に、コンサートに行く直前、何かをいいたげにためらった深雪の姿が過る。
「ばかな…」
体中の血の気がどこへとも知れない闇に引いていくような気がした。ぐらぐら揺れてくる体を、中谷は自分の両腕で包むようにして支えた。つぶやいた声が、自分のものとは思えないほどかすれて頼りなく聞こえる。
「中谷さあん?」
田尾がのぞき込んで、不安そうな声をかけてきた。
「どうしたんですう?」
「いや…」
喉が乾いて田尾への返事が引っ掛かった。ばかな、と思う一方で、もしかしたら、という声が響くのを無視できない。
中谷は冷たい汗をぬぐって、無理に唾を飲み込んだ。
「気分悪いんですかあ。なら、これ、断った方がいいですよねえ」
田尾が何かをひらひらと振って見せた。
「何だ……それ」
必要以上に口を開けば吐きそうな気がして、中谷は歯の間からことばを押し出した。
揺らめく視界に、田尾が一枚のチケットを差し出しているのを必死にとらえる。
「……『ハレルヤ・ボイス』からです」
田尾は体を中谷に近づけると、なぜかささやくように声を潜めた。ゆっくりとした動作で、高岡からチケットが見えないように体でかばいながら中谷に渡す。
「今日、届いてました。一人で来てほしいみたいで……中谷さんの分しかありませんよお」
かすれた、笑みを含んだ声で田尾はつぶやくように言った。
中谷はチケットを受け取って、眉をしかめた。
(昨日の今日、だぞ?)
コンサートの日付は三日後になっている。その日に来い、ということなのだろう。
(いったい、今度は何を企んでるんだ、越智笙子)
笙子がなぜ『ソシアル』のCDを中谷に聴かせたがったのかも、まだよくわからない。確かにあのCDには妙なところがある。だが、それが何なのか、『ソシアル』が何者なのかを確かめることができないままの中谷に、笙子は何をさせたいのだろうか。
黒い目が中谷の脳裏を深雪の姿に重なり合って流れていく。
(それとも…?)
ひょっとして、笙子はあの日のように、中谷に会いたいと思った、のだろうか。
そう考えた自分、そしてそれを考えた瞬間の胸苦しさに気づいて、中谷はうろたえた。
(会いたい? 笙子が俺に? いや、それとも、俺が笙子に?)
笙子に会えば、この辛い記憶の苦しさから逃れることができるのだろうか。笙子の歌を聴けば、中谷のずたずたになった過去が何かを取り戻せるのだろうか。
(それとも、これはCDの刷り込みって奴なのか?)
「ああ、そういや…」
中谷がチケットを受け取ったことで自分の責任を果たしたと思ったのか、離れかけていた田尾が何事か急に思いついたように戻ってきた。
「中谷さん、越智笙子のこと洗ってましたよねえ……で、こんなこと、知ってますう? たまたま情報入ったんですけどお」
「情報?」
中谷はチケットをポケットにねじこみながら、田尾を見上げた。
「越智笙子の両親ねえ」
田尾はうっすらと妙な笑いを浮かべた。
「彼女の前で、自殺、したんだそうですよお、それもねえ、笙子の歌を聴いた後で…」
「な……にい」
中谷は目を剥いた。
田尾のはしゃいだ声がした。
「怒鳴るな……田尾……頭に響く…」
翌日、中谷は、朝から社のデスクに突っ伏して唸っていた。
昨夜いつ眠ったのか、まったく覚えていない。朧な記憶は、『ソーシャル・ワンダーランド』を五回まで繰り返して聴いた、と教えているが、その後は闇だ。
気がつけば、朝の九時だった。ともすれば、またCDをかけようと手を伸ばしかけるのを必死に堪え、ごわごわの服を脱ぎ捨て着替えて何とかマンションを飛び出したものの、頭の中は色鮮やかで不安定な原色の渦巻きがうごめき揺れていて、まともに考えられないし、文字が読めない、仕事にならない。
それよりもっと恐ろしいのは、こうしていても、ふと気を抜くと、あのCDを聴くためにマンションに戻りたいという欲求が襲ってくることだ。 性質のワルイ 女に口説き落とされ抱いてしまった朝のような。なのに、その女の体のあれこれが一時たりとも忘れられないような。
「くそ…っ……とんでもないCDを……すすめやがって…」
中谷はうなりながら、デスクの上で顔の向きを変えた。
「どうしたんですかあ、中谷さあん」
妙な顔で覗き込んでいる田尾に気づいて、中谷は顔をゆがめた。
いくらなんでも、越智笙子の手にのってしまったせいで、理由のわからないパニックと戦って今にも負けそうだなどと話す気になれない。
田尾の問いかけを無視して、ぶっきらぼうに尋ね返す。
「…資料室はどうだった」
「えーと、はい」
いぶかしげに顔をしかめながらも、田尾はメモを取り出した。
「『ソシアル』。デビューは意外に古いです、八年前。はなっからCDのみで、実体不明のグループとして売ってます。越智笙子の対抗馬としてあてられたみたいですねえ。取材は一切お断り、秘密厳守。売り出しによくある手っちゃそうなんですが、今回はそれが災いしたって言うか、すぐに表に出てこれなかった。まあ金はかけてますよお。着実にCDを出してって売れ続け、ファンもマニアックな層に受けて口コミで広がってます」
田尾は自分のメモにふんふんと満足そうにうなずいた。
「最近は何でもオープン、でしょお? 業界の裏も表もみいんな知ってる。なのに、これだけ厳重に正体が隠されてるってんで、業界通ほどのめりこんでるみたいですねえ。超売れっ子アーティストの混成グループだとか、コンピューターによる合成音だとか、いろいろ言われてますよお」
「実体不明、か」
◆ 確かに、昨今は歌手が必要だとは限らない。バーチャル・アイドルは既に目新しくなくなっているし、姿形から声、歌までバーチャルで作り上げるのは簡単だ。映画『ファイナル・ファンタジー』や『タイタニック』の群衆の例を持ち出すまでもなく、役者だってそのうち、群衆だけでなくメイン・キャストまで、バーチャルで動くようになるだろう。ひょっとすると、本物とバーチャルの共演、いや、ダブル・キャストなんていうことも出てくるかも知れない。
「何もかも、作り上げてしまえるってわけだ」
そうして、世界はいつのまにか、人間を必要としないところで成り立ってしまうのかもしれない。
(なら、俺達はどこへ行けばいいんだ? 俺のこの気持ちは? 俺の感情は? どこかでバーチャルに代行して表現してくれればよしってことになるのか?)
中谷はますます顔をしかめた。昨夜のCDの音が甦り、それと同時にずきん、と体の奥からあの不思議な快感を求めようとあがく気持ちがうねる。
(あのCDを聴いている間は辛くない、感動していられる、痛みもない、けれど、それって、いったい何をしてるってことなんだ?)
「で、向こうはどう言ってるんだ」
堂々巡りに陥りかけた思考を、中谷は無理やり現実に引き戻した。
「はい。いちおうコメント、求めてきましたけどお……やっぱり取材はお断りでした。正体不明で売れてきてるのに、自分からそれをつぶす馬鹿はいない、って、向こうに笑われちゃいましたよお。ただ、今度、DVDで新曲出すそうです。画面はメンバーじゃなくて、ゲームクリエーターとエンジニアで、イメージ世界を表現するそうです」
「ふうん」
中谷は口をゆがめた。
「でどうだったんですう、『ソシアル』のCD。さっきの話だと、越智笙子は中谷さんに、そのCDを聴かせたかったみたいじゃないですかあ」
田尾はくふふ、と目を細めて、意味ありげに笑った。
「『ハレルヤ・ボイス』、中谷さんに興味ありそうだったしい。なんか、秘密のメッセージ、とかあったりしてえ?」
(秘密のメッセージ?)
中谷は眉を寄せて、深くため息をついた。
(あの感覚を知って笙子がCDを薦めたとしたら、やっぱりとんでもない女だってことだ)
「CD、な」
つぶやいた中谷の脳裏に、昨夜の夢とも幻ともつかないものが甦った。
八歳の深雪。中谷は十三歳だった。
両親が一番派手な喧嘩をした夜のことだ。止せばいいのに、中谷と深雪の目の前で、いらだって我を忘れた母親が、父親に向かって言い切った。
『子どもさえできなきゃ、誰があんたなんかと結婚なんか! あたしは子どものためを思ったからこそ、あんたみたいな男とでも暮らしてやったんだ! 晃さえいなけりゃ。ううん、晃が女の子だったら、もっと早くに家を出ていけたのよ!』
『おかあさん、ひどい!』
深雪が血相を変えて母親に詰め寄ったのを、中谷はどこか他人事のように見ていた。
ああ、やっぱり俺はいらない人間だったのか。
聞いたとたんに、すとんとそう納得してしまった。しばらくしてから、いまさらそんなことを言われても、無邪気に死ねもしないだろうに、と思った。
その二つの気持ちに追い詰められて、なんだかひどく疲れた気がして、ぼんやりと深雪と母親を見ていた気がする。
要らないのに、どうして育てたのかなあ。要らないのに、どうして一緒に暮らしているのかなあ。そんなことも考えていたような。
どのくらい無言で座り込んでいただろう。気がつくと、両親はとっくにそれぞれ自分の好きなことをしに出掛けていて、中谷は深雪と二人で冷えた家の中に取り残されていた。
深雪がくしゃん、と小さなくしゃみをして、我に返ったのだ、と中谷は思い出した。
『ストーブ、つけなきゃな』
立ち上がって、自分と同じようにうつむいて座り込んでいる深雪の肩に手をかけた。
『寒いだろ、ホットレモンでも作ってやろうか』
『お兄ちゃん』
深雪は涙でぐしゃぐしゃになった顔で中谷を見上げた。
『お兄ちゃんがかわいそう…』
そのとき胸に走った痛みと、切ないほどの深雪へのいとしさは、その後ずっと、中谷を支えていてくれた。
そう、両親は深雪を溺愛していた。中谷なんか、いないも同然だった。
今思えば、深雪はよくそのことを気にしていた。女だというだけで両親に愛してもらえる、男だというだけで両親に疎まれるなんてあんまりだ、と。
(まさか)
中谷は目を見開いた。むくりと体を起こして瞬きする。今まで考えてもいなかったことだが、深雪の自殺理由を突然思いついたのだ。
もし、深雪が、自分が中谷よりも両親に愛されていることが苦痛だったのなら。自分が生きているから両親の愛が中谷に届かないのだと、ずっと一人で思い詰めていたとしたら。
そして、自分さえいなくなれば、両親も中谷を愛してくれるかもしれない、と思い込んだとしたら。
中谷の脳裏に、コンサートに行く直前、何かをいいたげにためらった深雪の姿が過る。
「ばかな…」
体中の血の気がどこへとも知れない闇に引いていくような気がした。ぐらぐら揺れてくる体を、中谷は自分の両腕で包むようにして支えた。つぶやいた声が、自分のものとは思えないほどかすれて頼りなく聞こえる。
「中谷さあん?」
田尾がのぞき込んで、不安そうな声をかけてきた。
「どうしたんですう?」
「いや…」
喉が乾いて田尾への返事が引っ掛かった。ばかな、と思う一方で、もしかしたら、という声が響くのを無視できない。
中谷は冷たい汗をぬぐって、無理に唾を飲み込んだ。
「気分悪いんですかあ。なら、これ、断った方がいいですよねえ」
田尾が何かをひらひらと振って見せた。
「何だ……それ」
必要以上に口を開けば吐きそうな気がして、中谷は歯の間からことばを押し出した。
揺らめく視界に、田尾が一枚のチケットを差し出しているのを必死にとらえる。
「……『ハレルヤ・ボイス』からです」
田尾は体を中谷に近づけると、なぜかささやくように声を潜めた。ゆっくりとした動作で、高岡からチケットが見えないように体でかばいながら中谷に渡す。
「今日、届いてました。一人で来てほしいみたいで……中谷さんの分しかありませんよお」
かすれた、笑みを含んだ声で田尾はつぶやくように言った。
中谷はチケットを受け取って、眉をしかめた。
(昨日の今日、だぞ?)
コンサートの日付は三日後になっている。その日に来い、ということなのだろう。
(いったい、今度は何を企んでるんだ、越智笙子)
笙子がなぜ『ソシアル』のCDを中谷に聴かせたがったのかも、まだよくわからない。確かにあのCDには妙なところがある。だが、それが何なのか、『ソシアル』が何者なのかを確かめることができないままの中谷に、笙子は何をさせたいのだろうか。
黒い目が中谷の脳裏を深雪の姿に重なり合って流れていく。
(それとも…?)
ひょっとして、笙子はあの日のように、中谷に会いたいと思った、のだろうか。
そう考えた自分、そしてそれを考えた瞬間の胸苦しさに気づいて、中谷はうろたえた。
(会いたい? 笙子が俺に? いや、それとも、俺が笙子に?)
笙子に会えば、この辛い記憶の苦しさから逃れることができるのだろうか。笙子の歌を聴けば、中谷のずたずたになった過去が何かを取り戻せるのだろうか。
(それとも、これはCDの刷り込みって奴なのか?)
「ああ、そういや…」
中谷がチケットを受け取ったことで自分の責任を果たしたと思ったのか、離れかけていた田尾が何事か急に思いついたように戻ってきた。
「中谷さん、越智笙子のこと洗ってましたよねえ……で、こんなこと、知ってますう? たまたま情報入ったんですけどお」
「情報?」
中谷はチケットをポケットにねじこみながら、田尾を見上げた。
「越智笙子の両親ねえ」
田尾はうっすらと妙な笑いを浮かべた。
「彼女の前で、自殺、したんだそうですよお、それもねえ、笙子の歌を聴いた後で…」
「な……にい」
中谷は目を剥いた。
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