『ハレルヤ・ボイス』

segakiyui

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揺さぶられる自分がいる
揺さぶられてうろたえる自分が

何だろう
不安だけど気持ちいい
感じたことないほどわくわくしてる
信じられないとつぶやきながら
どきどきしてる
今生き返ったと気がついたみたい

これは悪夢の始まりなのか
それとも奇跡の入り口なのか

揺さぶられている自分が
胸を抱えて怯えているのを抱き締めて
笑いながらささやいてやりたい

大丈夫だよ

ここにいる                  



 その後、コンサートまでの三日、中谷は友人の家と社の仮眠室を転々として過ごし、マンションには戻らなかった。
 戻れば最後、あの『ソシアル』のCDを聴きたくなって我慢できなくなるだろう。いや、パブロフの犬みたいに、体が勝手に動いてCDをセットし、無意識に聴いてしまうかもしれない。『ソーシャル・ワンダーランド』を聴いてしまえば、ほかのCDにも手を出すのは確実だ。
 そうなれば、あの吸い込まれるような音にどっぷり浸かって絡まれて、身動きできなくなるに違いない。
 笙子の狙いが何なのかはわからないが、もう一度笙子に直に会える機会が巡ってきた以上、前と同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。幼いころの記憶の辛さでぐずぐずと腑抜けになって、笙子を取り逃すわけにはいかないのだ。
 ただ、『ソシアル』の麻薬的な要素に気づいた後は、中谷は深雪のことをより深く考えるようになった。
 特に気になったのは、あの深雪を、『ソシアル』にのめり込ませてしまったものはいったい何だったのだろうかということだ。
 我を失うような世界に入って、深雪が忘れたかったものは一体何だったのだろう。
 だが、中谷はいつも最後まで考えることはできなかった。資料をまとめたかな、とか、あいつと連絡を取らなくてよかったかな、などと、関係のない仕事を思い出す。
 それはたぶんどこか本能的なものだ、と中谷はうすうす気づいていた。深雪の忘れたかったものに向き合い考え続けることは、自分の何かを危うくするのだ。

 コンサートの当日。
 多少は身なりを整えて中谷が出掛けたエンジェル・ホールは、さまざまな年齢と服装の観客で一杯だった。
 それなりに情報を集めはしたものの、笙子のコンサートに、中谷は来たことがない。
 限られた場所、限られた人数しか入れないホールで、チケットの入手が困難だということもあったし、深雪の最後をことさら思い返したくないという気持ちもあった。
 だが、今、中谷は、実際にここへやってきて、観客の年齢層が広いこと、それらの人間がコンサート会場にありがちな興奮した様子でざわめいているのではなくて、一種の静かな落ち着きを保って待っているのに驚いている。
 そして、もう一つの驚き。
「何だ……この…感じは」
 ホールに入った中谷を柔らかな気配が包んだ。
 自分がひどく高級なガラス細工になったような、とても丁寧に扱われているという感じ。自分がコンサートにたまたまやってきたのではなく、ずっと相手に待たれていた、いや、待ち焦がれられていたような気持ち良さが中谷を包み込んでいく。
 中谷は、その快さを認識したとたん、足元が崩れていくような不安を感じた。
(何だ、どうして、こんなことを感じる? 建物か? 接客か? それに、どうして俺は不安になるんだ?)
 中谷は必死にその理由を探そうとした。
 だが、係員が特別親切で礼儀正しいというのではなく、ホールが格別に豪華で美しいというのでもない。それらの背後に何かの企みがあるというふうでもない。
 やがて、指定された席に座り、幕が開くのを待っている間に、中谷は自分がどんどん落ち着き、穏やかな気持ちになっていくのに気がついた。
 コンサートへの期待とは少し違う。
 懐かしくて温かい。不快になるものはひとつとしてない。
 すべて用意され整えられて、中谷はずっとここで待たれていた、そう改めて感じる。
(俺が、待たれていた。他の誰でもない、この俺、が)
「!」
 ふいに視界に熱いものがにじみそうになって、中谷はぎょっとした。
 目頭が痛い。おかしな話だが、今にも泣き出してしまいそうだ。
(どうかしている)
 中谷は自分につぶやいた。
(疲れてるぞ、お前)
 確かに、『ソシアル』を聴いてからというもの、不安定で眠れない夜が続いていた。
 けれども、中谷のような仕事では、眠れないことなどはしょっちゅうだ。忙しい時期には徹夜など当たり前、飯抜き睡眠抜き夜討ち朝駆けの突撃取材も何度もこなしたことがある。三十近くで体力がいくら衰えてきたからと言って、二日や三日の不眠が体に応えるわけがない。
(冷静になれ、呼吸を整えろ)
 中谷は目を閉じて言い聞かせた。
(今、お前が失うものなんか何もない。失って辛いものなど何もない)
 ましてや、今、中谷は、暴力団の組事務所に乗り込んでいるわけでもないし、噴火しつつある火山のど真ん中付近におりたわけでもないのだ。
(単にコンサートを聴きに来ているだけなんだぞ)
 それも、『ハレルヤ・ボイス』とかいうご大層な名前の付いた、妹を死に追いやった歌手のコンサートに。
 深雪のことを思い出すと、ぴりっとしたものが体に通った気がした。
(さあ、しっかりしろ)
 中谷は自分を叱りつけた。姿勢を正し、目をこすって、どうにかこうにか立ち直る。
 同時に開幕のブザーが鳴った。引かれていた臙脂のビロードカーテンがゆっくりと左右に開かれていき、ふわり、と煙のようなものがこぼれた。
 幕の後ろは、一面の白の世界だった。舞台の上を煙が這い、壁にあたってぶつかり砕ける。ドライアイスとライティングで作り出された天国、のイメージだ。
(お粗末なセットだな)
 中央に白い階段がある。その両端に、見えない天井を支えるように、ギリシャの遺跡のような柱が二本、建てられている。周囲には薄い柔らかそうな布が上からつり下げられ、背後の壁も覆っている。
 だが、それだけだ。
 淡くて白くて、けれど他には何にもない、殺風景な天国。
(新興宗教の舞台の方がもっと派手だぜ)
 せめて天使一人でも飛ばせば、ちょっとはステージらしく華やかになるだろうに。
 そう思った中谷の意識は、突然響いた声に断ち切られた。
(声?)
 本当に、それは、声、だろうか。
 ホールの天井より高いところで響きが舞っている。舞台より客席より、ひょっとすると土台より深いところで音が豊かに広がっていく。
 その二つの響きが、ホールをいきなり数千倍の広大な空間に変えてしまったようだった。その間にいる自分が、とてつもなく小さな存在になったしまったように感じる。矮小で今にも消えそうな頼りなさ。
 その不安と怯えを包み込むように、天空を駆け抜ける声と地底を押し広げる声の間に、柔らかな、けれど豊かな音量の旋律が渡っていく。
 優しさと潤いに満ちて、人の心を、いや体すべてを抱く声。
 目に見えない電撃を通されたように、中谷の皮膚が粟立った。
 これほど鮮やかな音を聴いたことはない。これほど豊かな音を聴いたことがない。これほど人の耳を奪う、けれどもその願いのすべてを満たす音を、中谷は聴いたことがない。
 両手を差し伸べその音に飛び込みたいと願って、体が無意識に浮く。
 その瞬間。
 声が、途切れた。

 静寂。

 痛いほどに。

「ん…っ」
 沈黙が辛くて、体が飢えて叫ぶようで、中谷は半端に浮いた体をよじった。
(声を、聴かせてくれ)
 不安定に取り残されたまま、感覚が研ぎすまされていく。
(もっと)
 ちりちりと四肢に苛立つような震えが走る。『ソシアル』のCDなどとは比べものにならない。
(もっと……) 
 思わず漏らした息の熱さに戸惑いながら、笙子に向かう気持ちが止まらない。
 この声を聴いた後では、なまじな声では満足できない。けれども、勝るようなものが思いつかない。ましてや、自分の声など聴きたくない。
 なのに、中谷は叫びそうになる。
(誰か、何か、言ってくれ)
 不安が募る。いら立ちが増す。きりきりと体の中心が絞られる。ひじ掛けを強く握りしめる。
 自分の中がからっぽなんだ、と痛いほどに感じ取る。
(誰か、俺を、満たしてくれ、もう一度)
 そう、この静まり返った会場に怒鳴りたくなる。
(誰か……)
 くらくらと視界が歪み始めて、中谷は唇を噛んだ。どこかで自分の反応の過激さに驚きながら、それでも否応なく流されていくのに抵抗できない。
(だれ……か……)

ーー呼んだのは、わたしーー

「…く……ふっ」
 優しいささやきがわきでるようにホールに満ちて、体から力が抜けた。がく、と座席に腰が落ち、自分が今にも立ち上がりそうなほどだったのに気づく。
(なんだ……これは……)
 額から汗が流れ落ちた。抵抗と混乱にエネルギーを根こそぎ持って行かれて、たった数分なのに疲れ切ってしまった。

ーーあなたを、呼んだのはーー

 いつのまに現れたのだろう。
 舞台の上には笙子が一人立っていた。
 いつかのように、白いブラウス、白いスカート、白いパンプス、ショートの髪に白い花を散らせている。ライトがそれらに跳ねるように輝いて、頭の回りに光の輪を作っている。
 聴き手の姿をじっと優しく見守っている、そんな視線が中谷を包む。
 哀れむような慈しむような瞳、呼びかけてくる歌声。

ーーようこそ、ここへ。
  あなたを、待っていました。
  祈るのは、わたし。
  あなたの、ことを。
  あなたの、歓びをーー

 ささやくような声がゆっくりと音をまとい始める。
 音に色があるならば、目も彩な無数の光に包まれて、ことばが音楽に変わっていく。ここで、この場所で、今、ことばから音楽が生まれていこうとしているのが、中谷にさえ感じられる。
 それと同時に笙子の姿にも変化が起こっていた。
 ただ白い姿としか見えなかったのが、歌うにつれてほほ笑みを浮かべる笙子の頬が染まっていった。唇も赤みを増していく。瞳が輝き、柔らかく広げた手が、わずかに伸び上がるように見える体が、ライトに照らされて光る髪が、揺れて動いてさまざまな陰影を生む。
 笙子の姿も、リズムを、音色を、そして美しい絵を生んでいく。

「こいつは……とんでも…ねえ」
 声が掠れてことばにならない。体から力が抜けて崩れるように背もたれに身を委ねる。
 だが、それはさっきのような、そして『ソシアル』のCDを聴いたときのような、泥沼に呑まれる恐怖からではなかった。
 むしろ、温かい。
 甘くて、柔らかい。
 さっきのパニック状態が、一瞬の幻のように消え去っている。
 それどころか、ここ数日途切れることがなかった『ソシアル』を聴けないことに対するいらだちも、乾き切った喉が一番欲しかった飲み物を与えられて潤うように、満足感に変わっていくのがわかった。
 ホールに広がった熱気が少しずつ汗で冷えた中谷の体を温めていく。熱気の中で解放されて、中谷の強ばり凍りついていた体も心も外に向かって限りなく伸びやかに広がっていくような気さえする。とろかされるように目蓋が落ちる。
 何も中谷を縛らない。
 何も中谷を苦しめない。
 中谷はもう何かを求めなくてもいい。
 中谷は中谷のままで十分で、満ち足りているものだったのだ。
 今までそれに気づかなかっただけなのだ。
 そんな確信が中谷の胸にふいに強く沸き上がった。
 同時に蕩けるような甘い痺れが全身に広がって、思わず口から吐息を逃す。
(これが……笙子の…歌……)
 包まれて、受け止められて、いだかれて。
「何だ…これは…」
 大丈夫だよ、とささやきかけられているようだ。
 大丈夫、何も心配しないでいい、と。
 あなたは、そのままで、いいからね。
 びく、と中谷は体を震わせ、目を開けた。感じたことのない親愛感、周囲の人間とそのまますぐに溶け合ってしまいそうな、めまいのする一体感。
 それは『ソシアル』のCDの最中に巻き込まれた甘い波にそっくりで。
「何だって……いうんだ…」
 震える声を口元に当てた手で押さえ込む。そうでなければ、人目もはばからずに声を上げ、呼吸を乱して、幼い女の子のように、泣きじゃくってしまいそうな気がした。

 舞台には笙子しかいない。
 そして、笙子はただ歌い続けている。
 その姿は、ホールの中では頼りないほど、小さく見える。
 けれども、その声は。
 ホールを満たし、響かせ、共鳴させ、祈らせている。
 聴き手が幸福であるように、聴き手が豊かであるように。
 哀しみと傷みを乗り越えられるように、と。
『ハレルヤ・ボイス』。
 祈りに響く声。

 愛してる。
「!」
 ふいに耳元でそうつぶやかれた気がして、中谷は思わず体を強ばらせ身を竦ませた。
(嘘だ)
 目を固く閉じ、耳を塞ぎ、笙子の姿がささやきかけることばを拒む。けれど、その耳を押さえた指の間をすり抜けるように、まるで耳ではない別の器官が聴き取ってでもいるように、音は中谷の皮膚を侵して体の内側に入り込んでくる。
 愛してる、お兄ちゃん。
(深雪…?)
 ささやかな抵抗を砕かれて、気持ちの弛みを深く貫かれて、見る間に記憶の中に突き落とされる。視力と聴力を遮った感覚が中谷を闇に封じ込める。
 中谷は深く席にうずくまった。
(俺は……お前を……救えなかった……)
 それでも、愛してる。
(許して……くれるのか……?)
 うん。
 すう、と体中の力が抜けた。
(愛してる……って……?)
 誰からも、聞かされたことのない、ことば。
 ふいに、十三歳のあの日から、父母の心ない仕打ちから、深雪の自殺から、行きどころのない傷みを自分がどれほど深く重く背負ってきたのか、初めて知ったような気がした。
 それがどれほど辛かったのかも。
(そうだ……ずっと、つらかった)
 胸のつぶやきが体を緩めた。両手が耳から滑り落ち、口が開く。息が漏れて、顔が仰け反る。座席の丸みに抱かれるように体が緊張を解く。薄く開いた視界に、笙子の姿が輝きながら映り込む。
 その姿は優しく甘く伝えてくる。
 愛してる。
 あなたのすべてを、そのままに。
(笙…子…)
 打ち寄せる切ない波に名前を呼ぶと、体の奥で響く声に共鳴し応じるようなうねりが起きた。
(俺も……おれ、も……)
 そのまま、今度は自分の意志で目を閉じて、ただひたすらに笙子の声に心を委ねた。母に甘える子どものように、父に負われる子どものように、何もかもを任せ切って。
 心が豊かに満たされていく……新しい日への期待と歓びに膨らんでいく。
 体の内側に気力が戻ってきた。まだ見えない未来を望む未来に変えようとする力、豊かさと輝きに満ちて。
(こんな力が……俺の中にあったのか)
 誇らしい気持ちが沸き上がる。
(まだ大丈夫、だよな?)
 笙子の声に開かれた心が無邪気に自分に問いかけてくる。
(俺はまだ、明日を待てる、よな?)
 自分の唇が綻ぶのがわかる。
 目覚めた朝に隣に愛しい人がいるのを確信するような幸福感で。
 だが。
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