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ふいに、そこに静かで冷ややかな声が割り込んだ。
(深雪)
ぎくりと体を震わせて、中谷は急に目を開けた。
笙子の歌は同じように続いている。
けれど、一体何が起こったのだろう、その歌に、中谷はさっきまでの憩いを感じなくなっている。
(深雪)
また胸の奥で名前が弾けた。
それは氷ででもできていたように、中谷の胸を内側から鋭く貫いた。
(お前は、何を、している、んだ)
どこからか、陰欝な声が聞こえて、中谷は体を起こした。
笙子の歌が聴こえない。
違う。
聴こえてはいるのに、それが重苦しい圧迫感を伴って、中谷の罪を責め始めたのだ。
こんなところで、何をしている。
深雪を殺した女の歌に酔い痴れて何をしているんだ。
声の響きには容赦がない。
竦んだ中谷の体に、彼の弱点を見つけだしたように、生き生きと力を満たしてささやく。
さあ、よく、考えてみろ。深雪の、自殺の、本当の理由は、何だったのか。
中井の脳裏に、再び『ソシアル』のCDがよみがえった。
不安感が募ってくる。
あの、麻薬じみたCD。強烈に人を魅きつけるCD。
日常生活さえ破壊しそうな吸引力のあるあのCDに、深雪はなぜああも没頭していたのか。
『ハレルヤ・ボイス』の素晴らしい憩いと充足感をも知っていたはずの深雪が、なぜ『ソシアル』に傾倒しなくてはならなかったのか。
そこには、何か耐えられない現実があったからではないか。
深雪を『ソシアル』にのめり込ませた現実。
それこそ、深雪を自殺へと追いやった現実ではないのか。
中谷は愕然とした。
『お兄ちゃんがかわいそう』
あの雪の日の深雪のことば。
八歳のころから、深雪は中谷が両親に愛されていないことを気にしていた。おそらくは、自殺する十七歳までずっと。
中谷が少しでも両親に認められたり褒められたりすると、自分のことのように喜んだのはそのせいだ。
そういえば、と中谷は思い出した。
一度、深雪と中谷が、同時に感想文のコンクールに入賞したことがあった。両親はひどく喜び、中谷は、自分も頑張れば両親に認めてもらえるのかと期待したのだが、数日後、両親が深雪にだけ褒美を与えていたことを知った。
どう頑張っても、自分は両親には認めてもらえないんだ。中谷はそう悟った。
それからの中谷は、両親に認めてもらうための努力をすべて放棄した。
深雪はその両親のやり方に怒り、中谷のことを哀しんでいた。
そうだ、と中谷は次々と思い出した。
あのとき、深雪はこう言ったのだ。
『深雪がいなければ、お兄ちゃん、もっと幸せだった?』
ひねくれていた中谷は、とっさに違うとは応えられなかった。黙り込んでしまった中谷を、深雪はひどく悲しそうな目で見つめていたではないか。
(ひょっとして)
中谷は凍りつくように思った。
(深雪を自殺に追いやったのは、俺自身、なのか?)
呼吸が浅く苦しくなった。
あの日のことから、深雪は、自分さえいなくなれば、もっと中谷が両親に認められ愛されるようになる、と思ったのではないか。
だから、笙子のコンサートの楽しい思い出を最後に、夢を見るような楽しげな顔で、ホームから飛び込んだのではないか。
自分が死ぬことで、中谷が幸せになると信じて。
中谷の膝が、いや、気がつくと、べっとりした冷や汗に覆われた全身が細かく震え始めていた。
拍手が周囲からわいた。回りの人間が立ち上がって、手を叩いている。
アンコールも終わったのだろう。閉じていく幕の間に立っている笙子が、頬を上気させ、客席を見渡している。着替えたのか、淡い水色のロングドレスに光が照り映え、まばゆいほど美しかった。
(そうか、深雪のことは笙子のせいなんかじゃなかったんだ)
様々な思いに振り回され、疲れ切った頭で中谷はぼんやりと思った。
彼は自分の罪を棚に上げて、笙子を恨んできた。彼女に罪をなすりつけることで、深雪の自殺が自分のせいじゃないと言い訳をしてきた。
(そうか……そうなんだ)
けれど、今、すべては明らかになった。
『ハレルヤ・ボイス』は考えてた以上に素晴らしかった。愛してる、と呼び掛けてくる柔らかな救いと憩い。中谷のような最低の男にも滴り落ちる天上の甘露。
深雪にはやはり自殺に至る悩みがあったのだ。そして、それは他ならぬ中谷の生み出したものなのだ。
中谷が生きていること、それ自体が深雪を苦しめ傷つけていたのだ。
笙子のコンサート直後に自殺した他の者にも、他人にはわからない悩みがあったのだろう。そして、笙子のコンサートに癒され力づけられて、自分の行く道を、他の人間を苦しめたり悲しませたりしている自分の罪を見つめ、償いを選び取っただけなのだろう。
警察は当たり前のことを、当たり前に判断し、結論を出しただけだったのだ。
(そうか、そうだったのか)
中谷は吐息をついた。
やりきれないほど重い疲れを感じた。
中谷のこの五年間はまったくの無駄だった。
いや、深雪を自殺に追いやったことや、笙子に責任を押しつけ、自分の罪は見ないふりをしていたことなど、中谷こそ生きていてはまずい人間だったに違いない。
(そんなことはわかっていたのに)
中谷は改めて舞台を見つめた。
(とっくの昔にわかっていていいはずだったのに)
舞台袖からもう一度呼び出された笙子が中央に立ち、拍手に応えて客席に向かってお辞儀をしている。
(きれいだ)
痛みに似た気持ちが中谷の胸を突いた。その揺らぎにもう抵抗することさえなく、中谷は笙子の姿にしみじみと見惚れた。
(笙子は本当にきれいだ。俺は、彼女にとんでもない重荷を押しつけるところだった)
まるで、その中谷の声が伝わったように、笙子が目を上げて、中谷を正面からとらえた。
次の瞬間、不審そうに笙子の眉が寄せられた。ありもしないもの、存在もしていないはずのものを見ているとでもいいたげな、いぶかしそうな視線だ。
(拒まれた)
その表情一つで、中谷は一番自分の脆いところをざっくりと裂かれた気がした。
(当然…か)
あれほど笙子を疑って責めたのだから、その笙子が中谷に優しい笑顔など向けるはずはないではないか。
頭では理解したそのことが、今の中谷には耐えられないほど辛いことのように思えた。
苦しくて眉をしかめる。吐き気がして足下がふらつく。
(笙子に嫌われた)
それは動かしがたい事実で、救いようのないことに思える。
(笙子はもう俺を癒してくれない。俺は永遠に許されない)
中谷は立ち上がった。これ以上、笙子に拒まれるのは耐えられないと思った。
(今ならまだ間に合うかもしれない)
びくびくと怯えながら少しでも早く姿を消すことで、笙子に最後の最後までは嫌われたくないと渇望している自分がいるのに気づく。
(おかしい……か? いや……おかしくねえよな?)
誰だって大切な相手に嫌われたくないはずだ。
(大切な相手……笙子が?)
いつのまにそうなったんだろう。そう思いながら、思考がうまくまとまらない。
コンサート最中に立ち上がった中谷を、笙子が見たように思えた。と同時に笙子がくるりと顔を背けた。舞台袖をにらみつけるように、中谷から目をそらせたままだ。
たったそれだけのことなのに、中谷は茫然と立ち竦んでしまった。自分がどうしようもなく汚れていて、笙子に完全に見捨てられたような気がした。
何とか、揺らめく足を踏みしめて、通路を通り、ホールを出て行く。まだ終わっていないのに、という感じの奇妙な顔つきで、係員がありがとうございました、と声をかけてきた。
中谷はこわばった笑みを返してうなずき、ふらふらと外に向かって歩いて行く。
(死のう、か)
いつその考えがわいたのか、うまく説明できない。
だが、気がつけば、死のう、と思っていた。
それは不思議なほど筋の通った発想に思えて、すんなりと中谷の心を支配した。
(そうだ、死のう)
中谷を気にかけてくれる両親はいない。この世の誰も中谷を必要としない。
中谷を唯一愛してくれた妹を死に追いやるような人間だ、愛されないのも無理もないのかもしれない。この先も生きていると、何人に迷惑をかけることになるかわからない。事実、もう笙子やキィにかなり迷惑をかけている。
(そうだ、それぐらいなら)
今ここで、ちょっと飛び降りでもして、ほんのちょっとだけ迷惑をかけておけば、この先、中谷が困らせるはずの何人かの人間は、確実に減るはずではないか。
中谷はくすくす笑った。
(我ながら、合理的ないい考えだ)
ガスやロープなんて手を使わないところが偉い、と胸でつぶやいた。電車に飛び込むのも後が大変だ。
(すまん、深雪。お前を責めてるんじゃねえよ)
つぶやきながら、中谷は横断歩道の赤信号に立ち止まった。青になるのを待ちながら、
(いっそ、ここでもいいか)
そう考えた。
(そうだとも、どこかへ上がるまでに死ぬことをやめたくなったら、それこそ問題だし、幸いに、ここの通りは大通りではないし。俺一人ぐらいの死体ならすぐに片付くしな)
「そうだ、そうだ、そうしよう」
中谷は薄笑いを浮かべた。何もかもが明瞭ではっきりしていて当然のように思えた。
(俺が死ねばいいんだ)
笙子はもうややこしいことに巻き込まれなくなる。深雪は恨みを晴らせて成仏できる。中谷は虚しくてからっぽな自分をひきずって生きずに済む。それに。
(死んじまえば、もう、笙子に嫌われねえもんな)
自分で自分の始末をつければ、少しは泣いてくれるかもしれない。あの澄んだ瞳から涙を一滴ぐらいは流してくれるかもしれない。
そう思うと、むしろぞくぞくした快感が広がった。
(笙子が俺のために泣いてくれる)
自殺するぐらいで、そんなとびきりのものが手に入るのだ。気持ちが弾んできた。
後はすっきりためらいなく、赤信号の横断歩道に足を踏み出す。周囲に上がった驚きの声が、角を曲がって突っ込んできた乗用車に悲鳴に変わった。
「深雪…待ってろよ」
波のように押し寄せる怒号の中で、中谷はほほ笑んだ。
「今すぐにそっちへ行くからな。もうさみしくないぞ」
(本当は)
とろとろと流れる時間の中で、突然中谷はわかった気がした。
(さみしかったのは、俺なんだ)
そうだ、ずっと一人でいたくなかった。深雪の死の原因を追いかけることで、自分がどこまでいっても一人なのだということを忘れたかったのだ。
(そんなことをするぐらいなら、誰かを呼べばよかったのかもな)
そばにいてくれ、と。一人が辛い、と。
(でも、もう遅い、遅すぎる)
次の瞬間。
「中谷っ!」
「がっ」
空を裂くような声が響いて、中谷は激しい勢いで右肩をつかまれ、後ろへ思い切り引き倒された。文句を言うまもなく、胸から首にがっしりした腕が絡む。のけぞった視界に、どこか非人間的な整った顔が飛び込んできた。
「キィ…?」
額に髪を乱した相手の名前に気づくや否や、中谷は痛烈な一撃をみぞおちに食らった。
「ぐっ…」
「だから、危険だと言ったのに」
薄れていく中谷の意識の中で、キィのいらだたしげな声が何度もこだました。
(胸が苦しい)
中谷はうなった。
(吐きそうだ…そんなに飲んだかな…洗面器は置いてたっけ…)
「おっ…」
考えた瞬間、強烈な吐き気が込み上げてきて、中谷は口を押さえて跳ね起きた。いつもなら、枕元あたりに放り出しているはずの洗面器を探る。
だが、それと同時に視界に入ってきた光景に、一瞬吐き気が吹っ飛んでしまった。
(どこだ、ここは?)
「どうした?」
物音に気づいたのか、部屋に入ってきた男が中谷が口を押さえて固まっているのにぎょっとした顔になる。
「吐くのか?! 待て、そこは笙子のベッドだ!」
(笙子のベッド)
中谷は余計に凍りついた。身動きできないまま、慌ただしく周囲を見回す。その視界の端から、あたふたとした様子で、キィがビニール袋を振り回しながら駆け寄ってくる。
「もういいぞ!」
覚悟を決めたみたいに、キィは、中谷の顔の下にそれを突き出したが、いつまでたっても中谷が動かないのに、おそるおそる尋ねてきた。
「中谷?」
「とまった」
「早く言え!」
むっとした顔でビニール袋を丸めたが、思いついたように枕元にのせた。
「今度気分が悪くなったら、さっさとこれを持ってバスルームへ行け」
「キィ、だよな」
「他の誰に見える」
中谷の問いに相手は不機嫌そうに応じた。
「笙子のベッド、だ?」
「不本意だが、そうだ」
キィはこれ以上崩せないほど不愉快な表情に、端正な顔をゆがめている。そのキィから、中谷はもう一度、部屋の方へ視線を巡らせた。
ホテルの一室、最上階のVIPルームという奴なのだろう。部屋数は見えているだけでも五部屋はある。各部屋十畳はある空間にゆったりとしつらえられた調度品、壁の名画、豪奢なカーテン、磨き抜かれた巨大な窓から見える広々とした緑の眺望。
「ここは…どこだ…?」
「ホテルだ」
キィは味もそっけもない応対をした。中谷でさえ高いとわかるホテル名を上げて、
「笙子が今泊まっている」
中谷は、枕元近くのナイトテーブルに、ピンクの目覚まし時計が置かれているのを見つけた。それだけが唯一の笙子の個人的な持ち物なのか、部屋の雰囲気と異なっている。
「俺は…どうなったんだ?」
「だから、危険だと言ったんだ、わたしは。なのに、笙子ときたら…」
キィは不服そうにうなった。
「何のことだ?」
「わからないなら、教えてやる。お前は大通りで自殺しかけたんだ。止めてやったのはわたしだ。礼の一つぐらい言ってもよさそうなものだが」
一言一言嫌みったらしい響きを一杯にして、キィは言い捨てた。流暢な日本語を不愉快一色で塗りつぶしながら、
「一応確認しておくが、『ソシアル』のCDを聴いたな? それも、『ソーシャル・ワンダーランド』を?」
中谷は眉を上げた。何が何だかわからない。
「…それが何か」
「じゃあ、おめでとう」
キィはふん、と鼻を鳴らした。
「お前は『ソーシャル・ワンダーランド』の暗示から生き残れた、数少ない人間の一人だよ」
ぱちぱちと手まで叩いて見せた。
「暗示…? 生き残る?」
おうむ返しに問い返した中谷にキィが応えようとした矢先、低いがはっきりとした声がそれを遮った。
「そこから先は、私がお話しします……いいでしょう、キィ」
ベッドに近づいてきた笙子が、まっすぐ中谷を見据えていた。
(深雪)
ぎくりと体を震わせて、中谷は急に目を開けた。
笙子の歌は同じように続いている。
けれど、一体何が起こったのだろう、その歌に、中谷はさっきまでの憩いを感じなくなっている。
(深雪)
また胸の奥で名前が弾けた。
それは氷ででもできていたように、中谷の胸を内側から鋭く貫いた。
(お前は、何を、している、んだ)
どこからか、陰欝な声が聞こえて、中谷は体を起こした。
笙子の歌が聴こえない。
違う。
聴こえてはいるのに、それが重苦しい圧迫感を伴って、中谷の罪を責め始めたのだ。
こんなところで、何をしている。
深雪を殺した女の歌に酔い痴れて何をしているんだ。
声の響きには容赦がない。
竦んだ中谷の体に、彼の弱点を見つけだしたように、生き生きと力を満たしてささやく。
さあ、よく、考えてみろ。深雪の、自殺の、本当の理由は、何だったのか。
中井の脳裏に、再び『ソシアル』のCDがよみがえった。
不安感が募ってくる。
あの、麻薬じみたCD。強烈に人を魅きつけるCD。
日常生活さえ破壊しそうな吸引力のあるあのCDに、深雪はなぜああも没頭していたのか。
『ハレルヤ・ボイス』の素晴らしい憩いと充足感をも知っていたはずの深雪が、なぜ『ソシアル』に傾倒しなくてはならなかったのか。
そこには、何か耐えられない現実があったからではないか。
深雪を『ソシアル』にのめり込ませた現実。
それこそ、深雪を自殺へと追いやった現実ではないのか。
中谷は愕然とした。
『お兄ちゃんがかわいそう』
あの雪の日の深雪のことば。
八歳のころから、深雪は中谷が両親に愛されていないことを気にしていた。おそらくは、自殺する十七歳までずっと。
中谷が少しでも両親に認められたり褒められたりすると、自分のことのように喜んだのはそのせいだ。
そういえば、と中谷は思い出した。
一度、深雪と中谷が、同時に感想文のコンクールに入賞したことがあった。両親はひどく喜び、中谷は、自分も頑張れば両親に認めてもらえるのかと期待したのだが、数日後、両親が深雪にだけ褒美を与えていたことを知った。
どう頑張っても、自分は両親には認めてもらえないんだ。中谷はそう悟った。
それからの中谷は、両親に認めてもらうための努力をすべて放棄した。
深雪はその両親のやり方に怒り、中谷のことを哀しんでいた。
そうだ、と中谷は次々と思い出した。
あのとき、深雪はこう言ったのだ。
『深雪がいなければ、お兄ちゃん、もっと幸せだった?』
ひねくれていた中谷は、とっさに違うとは応えられなかった。黙り込んでしまった中谷を、深雪はひどく悲しそうな目で見つめていたではないか。
(ひょっとして)
中谷は凍りつくように思った。
(深雪を自殺に追いやったのは、俺自身、なのか?)
呼吸が浅く苦しくなった。
あの日のことから、深雪は、自分さえいなくなれば、もっと中谷が両親に認められ愛されるようになる、と思ったのではないか。
だから、笙子のコンサートの楽しい思い出を最後に、夢を見るような楽しげな顔で、ホームから飛び込んだのではないか。
自分が死ぬことで、中谷が幸せになると信じて。
中谷の膝が、いや、気がつくと、べっとりした冷や汗に覆われた全身が細かく震え始めていた。
拍手が周囲からわいた。回りの人間が立ち上がって、手を叩いている。
アンコールも終わったのだろう。閉じていく幕の間に立っている笙子が、頬を上気させ、客席を見渡している。着替えたのか、淡い水色のロングドレスに光が照り映え、まばゆいほど美しかった。
(そうか、深雪のことは笙子のせいなんかじゃなかったんだ)
様々な思いに振り回され、疲れ切った頭で中谷はぼんやりと思った。
彼は自分の罪を棚に上げて、笙子を恨んできた。彼女に罪をなすりつけることで、深雪の自殺が自分のせいじゃないと言い訳をしてきた。
(そうか……そうなんだ)
けれど、今、すべては明らかになった。
『ハレルヤ・ボイス』は考えてた以上に素晴らしかった。愛してる、と呼び掛けてくる柔らかな救いと憩い。中谷のような最低の男にも滴り落ちる天上の甘露。
深雪にはやはり自殺に至る悩みがあったのだ。そして、それは他ならぬ中谷の生み出したものなのだ。
中谷が生きていること、それ自体が深雪を苦しめ傷つけていたのだ。
笙子のコンサート直後に自殺した他の者にも、他人にはわからない悩みがあったのだろう。そして、笙子のコンサートに癒され力づけられて、自分の行く道を、他の人間を苦しめたり悲しませたりしている自分の罪を見つめ、償いを選び取っただけなのだろう。
警察は当たり前のことを、当たり前に判断し、結論を出しただけだったのだ。
(そうか、そうだったのか)
中谷は吐息をついた。
やりきれないほど重い疲れを感じた。
中谷のこの五年間はまったくの無駄だった。
いや、深雪を自殺に追いやったことや、笙子に責任を押しつけ、自分の罪は見ないふりをしていたことなど、中谷こそ生きていてはまずい人間だったに違いない。
(そんなことはわかっていたのに)
中谷は改めて舞台を見つめた。
(とっくの昔にわかっていていいはずだったのに)
舞台袖からもう一度呼び出された笙子が中央に立ち、拍手に応えて客席に向かってお辞儀をしている。
(きれいだ)
痛みに似た気持ちが中谷の胸を突いた。その揺らぎにもう抵抗することさえなく、中谷は笙子の姿にしみじみと見惚れた。
(笙子は本当にきれいだ。俺は、彼女にとんでもない重荷を押しつけるところだった)
まるで、その中谷の声が伝わったように、笙子が目を上げて、中谷を正面からとらえた。
次の瞬間、不審そうに笙子の眉が寄せられた。ありもしないもの、存在もしていないはずのものを見ているとでもいいたげな、いぶかしそうな視線だ。
(拒まれた)
その表情一つで、中谷は一番自分の脆いところをざっくりと裂かれた気がした。
(当然…か)
あれほど笙子を疑って責めたのだから、その笙子が中谷に優しい笑顔など向けるはずはないではないか。
頭では理解したそのことが、今の中谷には耐えられないほど辛いことのように思えた。
苦しくて眉をしかめる。吐き気がして足下がふらつく。
(笙子に嫌われた)
それは動かしがたい事実で、救いようのないことに思える。
(笙子はもう俺を癒してくれない。俺は永遠に許されない)
中谷は立ち上がった。これ以上、笙子に拒まれるのは耐えられないと思った。
(今ならまだ間に合うかもしれない)
びくびくと怯えながら少しでも早く姿を消すことで、笙子に最後の最後までは嫌われたくないと渇望している自分がいるのに気づく。
(おかしい……か? いや……おかしくねえよな?)
誰だって大切な相手に嫌われたくないはずだ。
(大切な相手……笙子が?)
いつのまにそうなったんだろう。そう思いながら、思考がうまくまとまらない。
コンサート最中に立ち上がった中谷を、笙子が見たように思えた。と同時に笙子がくるりと顔を背けた。舞台袖をにらみつけるように、中谷から目をそらせたままだ。
たったそれだけのことなのに、中谷は茫然と立ち竦んでしまった。自分がどうしようもなく汚れていて、笙子に完全に見捨てられたような気がした。
何とか、揺らめく足を踏みしめて、通路を通り、ホールを出て行く。まだ終わっていないのに、という感じの奇妙な顔つきで、係員がありがとうございました、と声をかけてきた。
中谷はこわばった笑みを返してうなずき、ふらふらと外に向かって歩いて行く。
(死のう、か)
いつその考えがわいたのか、うまく説明できない。
だが、気がつけば、死のう、と思っていた。
それは不思議なほど筋の通った発想に思えて、すんなりと中谷の心を支配した。
(そうだ、死のう)
中谷を気にかけてくれる両親はいない。この世の誰も中谷を必要としない。
中谷を唯一愛してくれた妹を死に追いやるような人間だ、愛されないのも無理もないのかもしれない。この先も生きていると、何人に迷惑をかけることになるかわからない。事実、もう笙子やキィにかなり迷惑をかけている。
(そうだ、それぐらいなら)
今ここで、ちょっと飛び降りでもして、ほんのちょっとだけ迷惑をかけておけば、この先、中谷が困らせるはずの何人かの人間は、確実に減るはずではないか。
中谷はくすくす笑った。
(我ながら、合理的ないい考えだ)
ガスやロープなんて手を使わないところが偉い、と胸でつぶやいた。電車に飛び込むのも後が大変だ。
(すまん、深雪。お前を責めてるんじゃねえよ)
つぶやきながら、中谷は横断歩道の赤信号に立ち止まった。青になるのを待ちながら、
(いっそ、ここでもいいか)
そう考えた。
(そうだとも、どこかへ上がるまでに死ぬことをやめたくなったら、それこそ問題だし、幸いに、ここの通りは大通りではないし。俺一人ぐらいの死体ならすぐに片付くしな)
「そうだ、そうだ、そうしよう」
中谷は薄笑いを浮かべた。何もかもが明瞭ではっきりしていて当然のように思えた。
(俺が死ねばいいんだ)
笙子はもうややこしいことに巻き込まれなくなる。深雪は恨みを晴らせて成仏できる。中谷は虚しくてからっぽな自分をひきずって生きずに済む。それに。
(死んじまえば、もう、笙子に嫌われねえもんな)
自分で自分の始末をつければ、少しは泣いてくれるかもしれない。あの澄んだ瞳から涙を一滴ぐらいは流してくれるかもしれない。
そう思うと、むしろぞくぞくした快感が広がった。
(笙子が俺のために泣いてくれる)
自殺するぐらいで、そんなとびきりのものが手に入るのだ。気持ちが弾んできた。
後はすっきりためらいなく、赤信号の横断歩道に足を踏み出す。周囲に上がった驚きの声が、角を曲がって突っ込んできた乗用車に悲鳴に変わった。
「深雪…待ってろよ」
波のように押し寄せる怒号の中で、中谷はほほ笑んだ。
「今すぐにそっちへ行くからな。もうさみしくないぞ」
(本当は)
とろとろと流れる時間の中で、突然中谷はわかった気がした。
(さみしかったのは、俺なんだ)
そうだ、ずっと一人でいたくなかった。深雪の死の原因を追いかけることで、自分がどこまでいっても一人なのだということを忘れたかったのだ。
(そんなことをするぐらいなら、誰かを呼べばよかったのかもな)
そばにいてくれ、と。一人が辛い、と。
(でも、もう遅い、遅すぎる)
次の瞬間。
「中谷っ!」
「がっ」
空を裂くような声が響いて、中谷は激しい勢いで右肩をつかまれ、後ろへ思い切り引き倒された。文句を言うまもなく、胸から首にがっしりした腕が絡む。のけぞった視界に、どこか非人間的な整った顔が飛び込んできた。
「キィ…?」
額に髪を乱した相手の名前に気づくや否や、中谷は痛烈な一撃をみぞおちに食らった。
「ぐっ…」
「だから、危険だと言ったのに」
薄れていく中谷の意識の中で、キィのいらだたしげな声が何度もこだました。
(胸が苦しい)
中谷はうなった。
(吐きそうだ…そんなに飲んだかな…洗面器は置いてたっけ…)
「おっ…」
考えた瞬間、強烈な吐き気が込み上げてきて、中谷は口を押さえて跳ね起きた。いつもなら、枕元あたりに放り出しているはずの洗面器を探る。
だが、それと同時に視界に入ってきた光景に、一瞬吐き気が吹っ飛んでしまった。
(どこだ、ここは?)
「どうした?」
物音に気づいたのか、部屋に入ってきた男が中谷が口を押さえて固まっているのにぎょっとした顔になる。
「吐くのか?! 待て、そこは笙子のベッドだ!」
(笙子のベッド)
中谷は余計に凍りついた。身動きできないまま、慌ただしく周囲を見回す。その視界の端から、あたふたとした様子で、キィがビニール袋を振り回しながら駆け寄ってくる。
「もういいぞ!」
覚悟を決めたみたいに、キィは、中谷の顔の下にそれを突き出したが、いつまでたっても中谷が動かないのに、おそるおそる尋ねてきた。
「中谷?」
「とまった」
「早く言え!」
むっとした顔でビニール袋を丸めたが、思いついたように枕元にのせた。
「今度気分が悪くなったら、さっさとこれを持ってバスルームへ行け」
「キィ、だよな」
「他の誰に見える」
中谷の問いに相手は不機嫌そうに応じた。
「笙子のベッド、だ?」
「不本意だが、そうだ」
キィはこれ以上崩せないほど不愉快な表情に、端正な顔をゆがめている。そのキィから、中谷はもう一度、部屋の方へ視線を巡らせた。
ホテルの一室、最上階のVIPルームという奴なのだろう。部屋数は見えているだけでも五部屋はある。各部屋十畳はある空間にゆったりとしつらえられた調度品、壁の名画、豪奢なカーテン、磨き抜かれた巨大な窓から見える広々とした緑の眺望。
「ここは…どこだ…?」
「ホテルだ」
キィは味もそっけもない応対をした。中谷でさえ高いとわかるホテル名を上げて、
「笙子が今泊まっている」
中谷は、枕元近くのナイトテーブルに、ピンクの目覚まし時計が置かれているのを見つけた。それだけが唯一の笙子の個人的な持ち物なのか、部屋の雰囲気と異なっている。
「俺は…どうなったんだ?」
「だから、危険だと言ったんだ、わたしは。なのに、笙子ときたら…」
キィは不服そうにうなった。
「何のことだ?」
「わからないなら、教えてやる。お前は大通りで自殺しかけたんだ。止めてやったのはわたしだ。礼の一つぐらい言ってもよさそうなものだが」
一言一言嫌みったらしい響きを一杯にして、キィは言い捨てた。流暢な日本語を不愉快一色で塗りつぶしながら、
「一応確認しておくが、『ソシアル』のCDを聴いたな? それも、『ソーシャル・ワンダーランド』を?」
中谷は眉を上げた。何が何だかわからない。
「…それが何か」
「じゃあ、おめでとう」
キィはふん、と鼻を鳴らした。
「お前は『ソーシャル・ワンダーランド』の暗示から生き残れた、数少ない人間の一人だよ」
ぱちぱちと手まで叩いて見せた。
「暗示…? 生き残る?」
おうむ返しに問い返した中谷にキィが応えようとした矢先、低いがはっきりとした声がそれを遮った。
「そこから先は、私がお話しします……いいでしょう、キィ」
ベッドに近づいてきた笙子が、まっすぐ中谷を見据えていた。
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