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しおりを挟むそれは幻だ
あなたの抱いている
そのすばらしいものは
私には宿っていないのだ
裏切られたと泣かなくていい
永遠はあなたの中にある
足りないのは
それを見ることのできる力
美しいのはあなただと
何度口説けばわかるのか?
6
「『ソシアル』は今から八年前にデビューしました」
ベッドからソファセットに移って、中谷を前に笙子はゆっくりと話を始めた。
「そのころ、私の『声』が少しずつ話題になってきていて、それに焦ったライバル会社が対抗するために『ソシアル』のデビューを計画したのです」
「それは知ってる」
キィが気を利かせたのか、隣の部屋からコーヒー二つとレモンティを運んできた。向かい合った笙子と中谷を遮るようにカップを並べると、二人の間の席に陣取る。
笙子は中谷のそっけなさにも、キィのいらだちにも動揺した様子はなかった。軽くうなずいてレモンティを口に運び、唇を湿して先を続ける。
「一~ニ年に一回、CDを出して、一番新しいのが五年前に出した『ソーシャル・ワンダーランド』です。初めのうちは、コンピューターで手を加えた単なる環境音楽のようなCDだったのですが、三枚目の『ソーシャル・プランニング』で担当が変わったらしく、まるっきり違うタイプの音楽を作り上げるようになりました」
笙子はどう説明しようかと考えるように首をかしげた。瞳が深い影を宿す。やがて、諦めたようにゆっくりとことばを選んで、
「詳しいことは省きますが、私の『声』に対抗するために、音声によるサブリミナル効果を利用したのです」
キィが苦々しい口調で割って入った。
「日本という国は、信じられないぐらいに、そのあたりの規制がなってませんからね。集団催眠術にかかりやすい民族なんだから、少しは自覚して対処を考えてもいいようなものですがねえ。二回の戦争でもまったく懲りてない、ほとほとあきれ返りますよ」
ことさらな敬語は、笙子が同席しているためらしい。
「待てよ」
中谷は、なおも話し続けようとするキィを遮った。
「音声によるサブリミナル効果って……サブリミナル広告なら知ってる。コマーシャルなんかを瞬間的に映画やテレビに映して、視聴者の潜在的な感覚に商品の映像を送り込み、購買欲を高めるって奴だな? だが、そんなに確実な方法じゃないとも聞いたことがある。なのに」
中谷は首を振って不審を示した。半分は本気だが、残り半分はより多くの情報を手に入れるための意識的な動作だ。ことさら疑った声で、
「映像ならまだしも、音声で、だって?」
「便宜上、そう呼んでいるんです」
笙子は考え込みながら応じた。
「本当のところは、どういう心理作用によるものか、はっきりわかっていません。ただ、何度も繰り返して聞かされるから覚え込む、と言う単純なものではないのは確かです。『音』は一般的に考えられている以上に、人間の精神作用に影響を及ぼします…」
笙子は少し目を伏せた。ためらいがちに、そっと、
「たぶん、私の歌の『ハレルヤ・ボイス』という作用もそれに属してはいるんでしょうが」
「ああ…それは…わかるよ」
中谷はコンサートでの笙子の歌声を思い出した。
ことば、ではない。音色やリズムだけでもない。それらを越えたもの、あるいはそれらの組合わさった何か、が中谷を揺さぶったのだ。
(まるで、笙子に抱かれた、ような)
ちら、と動きかけた妖しい揺れを腹で押さえ込む。だが、同時にそれは、胸に深雪への罪悪感を甦らせた。同時に、自殺を試みてしまったという不安感、するべきことに失敗してしまったという恥辱感が重なり合う。
それらの気持ちの裏には、不思議なことに『ハレルヤ・ボイス』の安らかな癒しの世界が広がっている。
(許されて、愛されて)
あのまま、ずっと、いられたなら。
(俺の人生も……変わっただろうか)
またふわりと甘い感覚が広がって、中谷は眉をしかめた。
(ばかな)
首を振ってまとわりつくものを追い払い、無理に冷静な思考を引っ張り込む。
受容と癒し。
それが『ハレルヤ・ボイス』の本質であるのは間違いない。
だが、なぜかそれは、中谷の中で、深雪への罪悪感を助長した。
(癒されると……死にたくなる……なぜだ?)
笙子が中谷を受け入れてくれている、そう思えば思うほど、そうだ、自分の愚かさ情けなさが身に染みて、中谷は自殺へ駆り立てられたとも言える。
(癒されるのを望んでいるはずなのに……俺のせい、なのか?)
自分の何かがおかしいのか。
そう思いかけて、慌てて口を開いた。
「それだけわかってるなら、どうして歌い続けてるんだ? 俺の経験から言えば、あんたの声は、やっぱり人を追い詰めてると思うぜ」
言い放ってから、中谷は口をつぐんだ。
(しまった)
笙子の頬に紅がのぼる。耳たぶまで染めた赤い色が、瞳に集められて目元を染め、涙になってこぼれ落ちそうだ。
まずいと思った反面、中谷は笙子の顔の変化に見入った。朝焼けや夕焼けに似たもの、善悪ではなくて、そうして動く表情の豊かさや美しさが、中谷の胸を締めつけた。
(泣かせたい?)
危うい気持ち。針の上に載った自制心が、貫かれて崩れて落ちてしまいそうな。
キィさえ側にいなければ、と苛立ちが過った。
(そうだ、こいつさえいなければ)
笙子をさらってどこかに閉じ込めてしまいたい。
(泣かせたい?)
体がゆっくりと熱くなる。
(泣かせたくない?)
深雪の泣き顔が脳裏に揺れる。水音の滴る音が耳元で甦り、体の奥で煽られたものに火がつきそうになって、中谷はうろたえて笙子から目を逸らせた。
(俺は、何を)
こんな子ども相手に、そう制する気持ちの端から、俯いた笙子の桜色に染まった耳たぶに見愡れてしまう。柔らかそうで、温かそうで。唇よりも頼りなげで。白い肌にとろけるようなピンク色。
ごく、と無意識に喉を鳴らしてしまい、中谷は口元を手で覆った。
(『ソシアル』のCDのせいか?)
どうかしている。
たまりかねたように、キィが横から口を出した。
「違うんだ、中谷」
中谷は必死に笙子から意識を逸らせて、キィに目を向けなおした。
「笙子の声が、じゃない。自殺する人間にはそれぞれ何らかの負い目がある。それを『ソシアル』が引き出すんだ」
キィは笙子を気遣うあまり、中谷の暗い欲望には気づいていないようだ。そればかりか、険しく上品な眉をひそめて、
「第一、『ソシアル』に負い目を引き出されただけで自殺するのは、結局その人間が弱いからだ」
冷徹な声で言い切った。
びくりと体が強張る。
キィは中谷の反応には気づかなかった。笙子の弁護を夢中で続けている。
「死ねば何でもうまく行くと考えている。冗談じゃない。死ねばうまく行くのは自殺した本人だけだ。自殺した奴だけが、後の苦しみも哀しみも背負わなくてもよくなるんだ」
キィの目は暗く激しい怒りに燃えて、中谷を貫いた。それは自殺者が笙子に与えている苦痛を思ってのことに違いない。
「残された者がその全てを背負っていかなくてはならないのに、それを無視して自分を殺すことで他人を生かしたなんて、さも立派な人間であるかのように考えているだけなんだ」
黙ったままの中谷に、手ごたえがないと感じたのか、キィはなおも言わなくてもいい一言を付け加えた。
「お前の妹とやらも、結局は弱かったということだ」
「キィ!」
笙子の制止は遅かった。
「……聞き捨てならねえことを言ってくれるじゃないか」
中谷はうなった。揺れた心が一気に冷えた。
「お前にわかんのかよ、深雪のことが」
笙子に向けかけていた危うい気持ちがきれいに消える。深雪を自己中心的な人間だと言い放つキィへの憎しみが、体の奥からふつふつと滾ってくる。
だが、キィは冷笑した。
「じゃあ、お前はわかるのか、妹が自殺した、本当の理由とやらを?」
ぎくりとして息を引いた中谷を、なおも嘲笑うように眺め、キィは続けた。
「いや、それとも、よくわかったから、自殺しかけたのかな、お優しい兄貴としては」
声をどんどん冷えさせながら、顔を歪める。
「妹の後追い自殺? は。うるわしくてヘドが出るね」
中谷はキィをにらみつけた。もちろん、そんなことで怯むような相手ではない。
淡々とした突き放した口調で、
「何が兄、だ。この五年、お前は本当に、妹が死んだ理由を考えたことがあるのか? 自分の責任を考えた事があるのか?」
中谷を切り捨てる。
「笙子の歌を聞いてから死んだから、笙子の歌が悪いだと? それより前に考えることがあっただろうが」
「…」
反論できなかった。深雪の死を受け入れて、その死を無駄にしないために日々を生きてきたというよりは、その死を考えたくないために笙子を追ってきた。今ではもう十分、それがわかっている。
「現に」
キィは容赦なく突っ込んできた。
「お前には、笙子の歌を聴く前に、自分の『負い目』について考え込んでいる時間があったはずだぞ」
『ソシアル』のCDを聴いたときに甦った記憶を思い出した。
あの雪の夜の記憶。
思い出してしまえば、あれほど鮮明な記憶も少なかっただろうに、深雪の自殺を追いながら、中谷は、あの記憶にはまったくぶつからなかった。
(どうして、だ?)
確かにあれは、笙子の歌に引き出されたものではない。
投げた問いがくるりと回り、銀色の牙を剥きながら、闇の空間を自分の首を刈りに戻ってくる。
「どういう…ことだ…」
中谷は声を絞り出した。
少し立ち直ったらしい笙子が、自分に言い聞かせるような沈んだ声音で話を続ける。
「…これは、推測、ですが。『ソシアル』は、始めは自分達が売れるためだけにサブリミナル効果を使っていたんだと思います」
中谷はうなずいた。
音楽にせよ美術にせよ、ぎりぎりのところは、買い手の感覚で決まる。好みと言ってもいい。もし、それが何らかの方法で操作できるようならば、売り手としてはその方法を使わない手はない。
同じ思いは笙子の中にもあったのだろう、中谷に応じるようにうなずき返した。
「『ソシアル』のCDを聴くと、他の『ソシアル』のCDも聴きたくなるような暗示だと思います。一枚聴けばもう一枚、別の一枚を聴けば、新しい一枚がほしくなるような」
笙子は少しためらった。
「ところが、それでは、『ソシアル』は売れなかった。だから、彼らは二重のサブリミナルを考えたんでしょう。一つは今までと同じ、一枚聴けば二枚目がほしくなるという暗示を与えるものです。けれども、もう一つの方は……」
笙子の目がきつい光を放った。今まで笙子の中に中谷が見たことのない昏く激しい光、そんなものが笙子の中に存在するとは思えない、闇を含んだ気配だ。口にたまった苦いものを吐き出すように、強い調子で言い放った。
「『ソシアル』のCDを聴いていると、私の歌が聴きたくなるというものです」
「何?」
きょとんとした。
「そんなことをしたら、逆効果だろうが」
訝しさが募る。
確かに『ソシアル』のCDには麻薬的な魅力がある。CDを聴いているときは緊張が取れ、体の力も抜けてリラックスしているように感じる。人の一番ストレートな欲望を煽り、煽られた興奮に巻き込まれ、高揚しエネルギッシュになり、疲れも一緒に抜けた気がする。
だが、その実、一枚全部を聴き終わってみると、そうじゃないと気がつく。リラックスしていると思っていたのは、煽られ育てられた欲望が自分を食い尽くすほどにエネルギーを奪っていくから、体に力が入らなかっただけだとわかる。
寒くてひどい脱力感が手足からゆっくり這い上がってきて、気力まで萎えてしまう。先ほどまで与えられていた快感と興奮とにくらべると余りに深い落差があって、絶望ににも似た思いに襲われる。
もう二度とあれほどのものは味わえないのではないかと思ってしまうのだ。
いつの間にか、自分で気づかぬうちに疲れ果てている。もう何をする気にもなれないし、かといって別のものを試す気にもなれない。その快楽を与えてくれたのが『ソシアル』なのだから、『ソシアル』ならばもう一度与えてくれるだろう。それだけが確実な理解になってしまっている。だから、ついつい、繰り返し『ソシアル』を聴いてしまう。
だが、それは、笙子の歌が持っている、人を憩わせ立ち上がらせる力とは全くの別物だ。
「あんたの歌は……」
柔らかくて温かい。
言いかけて中谷は思わず口をつぐんだ。
(あんたの唇や耳たぶみたいに)
触れもしていないのにそう思った瞬間、また全身が熱くなった。『ソシアル』に煽られた欲望と紙一重のところに、笙子の身体が揺らめいているようで、息苦しくてコーヒーを含む。
「いいえ…いいえ…」
しかし、中谷のことばに、笙子は激しくかぶりを振った。
「本当の暗示は、私の歌を聴いているうちに、ある種の罪悪感に囚われるようになる、ということです」
苦しそうな声に冷水を浴びせられた気がした。笙子のコンサートの間、自分を責めていたことが思い浮かんだ。
辛そうに眉をひそめながら、笙子が続ける。
「……それも、自殺したくなるような罪悪感に……それというのも……」
言い澱む。
「笙子、そこからはわたしに話させてくれ、もう落ち着いたから」
キィが口を挟んだ。痛ましくてたまらないといいたげな視線を笙子に注いだ後、打って変わって厳しい顔で中谷を見つめる。
「体験したならわかるだろう。まず、『ソシアル』のCDを聴く。そのときに過去にあった、わずかな後悔を思い出したはずだ。人によっては取るに足らない些細なできごとだ。聴き終わったころには、たいていは無意識に忘れてしまう。家族にもそれで悩んでいるなどとは話さない」
中谷は『ソーシャル・ワンダーランド』を聴きながら、雪の日の記憶に取り込まれたことを思い出した。あの記憶は、『ソシアル』のCDを聴かなければ、思い出しさえしなかったものかもしれない。だが、中谷はあの記憶に、深雪の自殺の原因かもしれないやりとりがあると感じた。
本当は、ただそう思い込んだだけなのかも知れない。『ソシアル』の何かに揺り動かされ、重要でないものにある種の合図を読み取るように仕向けられたのかもしれない。
だが、それは、中谷の心の動きを借りて、見事に深雪への罪悪感をもたらした。その罪悪感は、中谷の心を侵すのには十分すぎるほどのものだったのだ。
(あれが、『ソシアル』の音楽がもたらしたものだというのか?)
「ところが、その人間はしばらくすると、笙子のコンサートに行きたくなる。心の内側になんだか奇妙な空間ができている気がして、あるいは、そのままではいたたまれないような気持ちに急き立てられる。それを埋めるのは笙子の歌しかないような気がするらしい」
キィの声に殺気が籠った。自分には手の出せないところで、大切な人を傷つけるようなことが起こっている、その無力さをののしるように。
「確かに、笙子の歌は心の虚しさを癒してくれる。だから、コンサートに出かけた『そいつ』は、笙子の歌に聴きほれる。笙子の歌が、『そいつ』の本当にほしかったものをすべて与えてくれるからだ」
中谷は無意識に煙草を探した。笙子のコンサートで子どものように竦んで震えていた自分を、キィに見られていたような気がする。
キィは中谷の落ち着きのなさには気づかないまま、先を続けた。
「笙子の歌は全てを癒す。『ソシアル』が心の奥から引きずり出して表に残した、かすかな傷さえも癒してくれる。だが、歌に浸っているうちに、『そいつ』は気がつく。笙子が他の誰でもない、自分のために歌ってくれているのだと。そして、その喜びに舞い上がる一方で、『そいつ』はふいに思い出す、『ソシアル』に引きずり出された記憶のことを。その記憶に含まれた後悔を。そして、自分は『罪』を犯したのだと思い始める」
中谷は緊張した。笙子が硬い表情でうつむく。
「笙子の歌は祈りのようなものだ」
キィはわざと体の力を抜くように、深く大きなため息をついた。
「笙子が『そいつ』のために祈っている、とわかってくるにつれ、『そいつ』の中では『ソシアル』に掘り起こされ、罪だと植えつけられた記憶が繰り返されて、罪悪感が膨らむ。やがては、自分が生きていること自体が『まずい』ことだと思い始める」
(その通りだ)
中谷は苦い思いに顔をしかめた。
笙子の歌が素晴らしいとわかったからこそ、自分の情けなさや不甲斐なさが苦しくなった。自分はするべき責任を果たしていないのではないかと思うようになった。
キィは鋭い目で中谷を見ながら続けた。
「コンサートが終われば、『そいつ』の気持ちは決まっている。『そいつ』は笙子の歌に感謝しながら、自殺場所へ喜びに満ちて走っていく。笙子の歌のおかげで、自分がやるべき唯一のことがわかった、それを今自分がすぐにできるんだという喜びで、浮き浮きとしながら、な」
「……ああ…そう……だろう…な」
中谷は干からびた声を出した。キィの話は、そのまま中谷の体験通りだった。
笙子は黙ったままうつむいている。膝にそろえて乗せた真っ白な手の指が、激情を耐えかねているように引き寄せられ握りしめられる。
キィは中谷の視線を追って笙子の指先に気づき、余計にいらだたしそうに眉をしかめてことばを継いだ。
「笙子はどうなる? 彼女の歌を聴けば聴くほど『ソシアル』に洗脳された人間が死んでいく。遠からずスキャンダルになって、笙子の歌、笙子自身を葬ってしまうだろう、永遠に」
カシャン、と透明な何かが笙子の中で壊れた気がした。
笙子の震えがぴたりと止まり、かわりにいつか中谷の弾劾を受けたときのように、異様に静かな人形のような表情になる。笙子の内側からいきなり彼女がどこかへ抜け出てしまったようだ。
(笙子がいなくなった)
笙子が自分の側から立ち去ってしまった、その感覚がふいに中谷は苦痛になった。それを感じ続けるのは、自分まで消え去ってしまうことのような気がして、急いで口を開いた。
「いっそ、そうしちまったらどうなんだ」
笙子の気持ちを引き留めるために、できるだけ挑発的なことばを選んだつもりだったが、それがもたらすもう一つの効果に、中谷はすぐに気がついた。
笙子がびくりと体を震わせ、中谷を見上げた。黒い瞳には一杯の涙が揺れていて、今にも頬を伝ってこぼれそうだ。
(あの光が零れたら…)
きらめきながら紅潮した頬を伝い落ちる、その涙を揺れる瞳まで吸い上げたら、もっと泣くだろうか、それとも、甘い吐息に身を委ねてくれるだろうか。
ぞくりと痺れが腰に走った。
(だめだ、こんな言い方はよくない)
心ではそう思ったのに、中谷の口は勝手に動き続けた。
「もし、今の話が本当なら……『ソシアル』か笙子、あんたが消えない限り、自殺者が出ることになる」
口に出してしまってから、中谷は顔をゆがめた。
笙子はゆるやかに首を振った。こぼれるぎりぎりのところで盛り上がっていた涙が、ついにきらきらと光る粒になって散っていく。
「だめ……です」
人形のように動かない顔に不似合いな、切なげな、吐くような拒否が唇から漏れた。
「私のコンサートには、多くの人が来てくださいます。お医者様に見放された、多くの患者さん……末期のがんで、来るのがやっとだった人も……私のコンサートで自殺者が出る……でも、同時に命が助かる人もいる……あの人達を前にして、歌わないなんて、できない……歌をやめるなんて、できるわけがない」
こんな状況でも、そのことばは豊かな響きとリズムをたたえていた。少し黙ってから、笙子は細い両腕で体を抱き締めるようにしながら目を伏せた。それから、その自分の身勝手さにも傷ついたように、小さくささやく。
「きっと……私の歌が……未熟だから……人を裁いてしまうんです……罪悪感を持っている人を……裁いて……自殺するまで……追いやってしまう…」
頼りなく消える笙子の声が中谷の胸を揺さぶった。
呼応するように、あやしい戸惑いに満ちたつぶやきが、中谷の奥から問いかけてくる。
(泣かせたい? 泣かせたくない?)
体の奥を絞るような、きりきりと何かを強く握りながら問うような声だ。
気がつけば、中谷は次のことばを口にしていた。
「でも、じゃあ、どうするんだ? 自殺する奴は弱い奴だから、他の奴が助かるかわりに死んでくれ、とでも言うのか?」
(ひどいことを言っている)
十分自覚していながら、なぜだろう、中谷は口をつぐまなかった。
「……第一、今の話だって推測だろう、事実じゃない」
「『ソシアル』は今度DVDを出す……今度は視覚効果も入る……それまでに……」
キィが今にも爆発してしまいそうな怒りを無理に抑えた口調で応じた。そのいらだちを感じ取ったのか、笙子が心配そうな顔をキィに向ける。
その笙子の瞳に灯った優しい光に、じり、と中谷の胸の奥に再びじれったいようないらだたしさが波立つ。
(泣かせたくない? 泣かせたい?)
惑いをそそるささやきが、中谷の胸の中から少しずつ大きく聞こえてくる。
中谷はなおも笙子を攻撃した。
「それまでに、なんだ? 今の話は推測でしかない。ああ、はっきり言ってやろう、信じられないね。たかが、歌手の売り出しごっこに、自殺者を出してまでもライバルを蹴落とすように企む、だと? ……そこまでする奴がいるか?」
笙子がはっとしたように表情を強ばらせた。信じられないようにキィから目を逸らせて中谷を振り仰ぐ。
「中谷…さん」
掠れた声で名前を呼んだ。その自分を見つめる笙子の目に、中谷の胸がなおも妖しく騒ぎ立てる。
「たかが、ライバル歌手の蹴落とし、だけじゃないとしたら?」
キィは中谷の挑発にはのってこなかった。中谷が煽るほどに、逆に気持ちが冷えたのか、淡々とことばを並べる。
「『ソーシャル・ワンダーランド』で効果は確認できた。笙子の歌を起爆剤に『どんな暗示』でもかけられるとわかった。おまけに、事が起こるのは笙子の歌の後だ。心理学者が調査を始めても、まず『ソシアル』には手が伸びない。これは完全犯罪だよ」
キィの目が暗い陰りを宿して、中谷を見据えた。
「もう一つ厄介なことに、笙子の歌は、確実にその『暗示』を利用している。いずれにせよ、笙子は…」
さすがにことばを切ったキィの顔は凍りついている。
こちらを凝視している笙子の目をそっと避けた中谷の胸で、とくとくと不思議な音色で心臓が打ち、蕩かすような声がささやきを繰り返している。
(泣かせたい? 泣かせたくない?)
中谷が責めて煽れば笙子は中谷を見つめ続ける、その潤んだ黒の瞳で。
たった一人の想い人のように。
(泣かせたい?)
0
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