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所詮、本来ならば、笙子は中谷などとは関わることのない人間、それはこの部屋が証明している。中谷が笙子の気持ちを手の内にしているのは、この瞬間だけのことだ。
(泣かせたい)
中谷の胸で荒々しい声が言い切った。
(笙子を泣かせて、俺の胸にすがりつかせたい)
その意味を考えることは拒んで、中谷は胸の声に従った。
「それも、やっぱり推測、だろ。事実は……あんたの『歌』を聴いた人間の中で、自殺する奴がいる、ってことだ。俺もその一人になるところだったってことだ」
罪を暴いて裁き、罰を下しているはずなのに、その裏側で切羽詰まった声音で要求している自分を感じる。
(だから、俺に)
許してくれと、すがってこい。
もう一度、笙子を見つめる。笙子も中谷を見つめる。
息の詰まるような沈黙。
(このまま時をとめてしまいたい)
中谷はそう願った。
(そうすれば、この瞳は俺のものだ。もう二度となくさない)
深雪のように。
通り過ぎていったたくさんの手や視線のように。
けれど。
中谷の願いはかなわなかった。
「キィ」
すっと唐突に笙子が立った。
「お礼を差し上げて、中谷さんにお帰り願いましょう」
中谷はぎょっとして笙子を見上げた。
見返してくる笙子の目は、もう潤んでも揺らめいてもいない。いつか舞台の上で見た、さえざえとした黒の中の黒の瞳に戻っている。
中谷の胸の奥まで見通すような、透明な視線に、中谷はうろたえた。自分の気持ちの揺れを、すべて見透かされた気さえした。
「中谷さん、あなたを巻き込んだのは私が悪いのです」
笙子は静かに断じた。
「『ソーシャル・ワンダーランド』を私が教えなければ、中谷さんが自殺しかけることもなかったでしょう。あなたには妹さんのことを含めて、本当にいろいろとご迷惑をおかけしました、申し訳ありません」
「え、あ」
中谷のうろたえを突き放し、きっぱりと言って頭を下げ、笙子はくるりと背中を向けた。迷いのない、怯みのない、そのほっそりした後ろ姿の向こうから、
「次の取材はお断りします。あなた自身の安全を考えてください。キィ、後をよろしく」
「ちょっと、待て…」
想像以上の衝撃にことばが出てこない。
(行ってしまう?)
立ち上がり、笙子の後を追おうとした中谷の目の前に、キィが立ち塞がった。そのキィの後ろで、笙子は一瞬立ち止まることさえなく、部屋を出て行く。
「話は終わった。それだけ元気なら大丈夫だろう、早々にお帰り願おう……これ以上、笙子を傷つけることは許さない」
キィの声に含まれた凄みと威圧感に我に返って、中谷は辛うじて皮肉な笑いを返した。
「何だ、あんた、あの女に惚れてるのか」
(こいつはずっと、笙子の側に居続ける、これまでも、これからも)
そして、中谷にはそれは絶対にかなわない、深雪を生き返らせることができないように。
「つくづく無粋な男だな。愛している、と言ってくれ」
キィは平然と言った。照れることもないその態度には、ずっと笙子を支えてきた、その自信がほの見える。
中谷の腹でかっとしたものが燃えた。 気がつけば、薄っぺらいからかいをキィに向けていた。
「いい年して、ロリコンか?」
(馬鹿なことばだ)
「可愛い可愛い笙子ちゃん、ってか?」
(惨めで情けない、負け犬の声だ)
キィには聞こえたふうもない。間違えて入り込んできた性質の悪い押し売りででもあるかのように中谷を戸口へ追い立てながら、もう話そうともしない。開いたドアからやんわり押し出し、背後から迫るように廊下を歩き、中谷が立ち止まることさえ許さない。とうとう追いやられてエレベーターに乗った中谷の後から、なぜかキィも続いて乗り込んできた。
さすがに、中谷はあきれ声を上げた。
「おい、どこまでついてくる気だ?」
「お前が笙子から完全に離れたことを確認するまでだ」
キィはあっさりと言い放った。憎々しげに、中谷をにらみ、エレベーターのドアが閉まるや否や、
「笙子がぜひにと頼むから、お前の取材を許したが、後の接触まで許可した覚えはない。それなのに、笙子を呼び出す、連絡を取る。そればかりか、コンサートに顔を出す、あげくの果てが自殺騒ぎだ。……一体、どういうつもりなんだ。笙子をそこまで苦しめて楽しんでる、お前こそサディストじゃないか」
エレベーターには中谷とキィの二人だけ、その密閉された空間がキィの抑制を解いたようだ。今までずっと抑えて続けてきたのか、怒りを込めた口調で中谷を非難する。
(そうだ、それがあった)
今の今まで笙子の存在に振り回されていた中谷の心が、ふいと平静になった。
「……それが聞きたい」
微妙な位置でずっと引っ掛かっていた疑問をキィに持ち出す。
「言っておくが、俺は笙子を呼び出したりなんかしていない」
「いまさらごまかしは見苦しいぞ」
「俺の方も呼び出されたんだ。それに、コンサートのことだって、俺のところへチケットが送られてきたんだぜ。こっちはてっきり、あんたが何か企んだのかとさえと思ってた」
「わたしは知らない」
キィは眉をしかめた。広い額にくっきりと縦じわが寄る。
「三流雑誌記者のことばなぞ、信用するに値しないが」
中谷を食い入るように見つめながら、
「もしお前が本当のことを言っているとしたら…」
「本当だよ」
「一体、誰が、お前と笙子を会わせようとした? 何のメリットがあった?」
つぶやいた矢先、何かを思いついたようにキィは空中に視線を浮かせた。彼方の方角で何の示唆を得たのだろう、やがて視線を中谷に戻す。
「少し、わたしの部屋に寄ってくれないか、見せたいものがある」
「ロリコンだけじゃなくて、男でもいいのか」
からかうつもりではなかったが、つい中谷が軽口を叩くと、キィはこのうえなく不愉快そうな表情で中谷をねめつけた。
「………お前とは一生意見が合いそうにないな」
言い捨てて、キィはエレベーターのボタンを押し直した。
キィの部屋は実は笙子の隣だった。そこでも十分に広くて三部屋はある。
人間が住んでいるとは思えないほど整然と片付けられた部屋のソファに腰を下ろしながら、思いついて中谷は続きの部屋に消えるキィの後ろ姿に声をかけた。
「ああ……礼だけは言っておく……自殺を止めてくれて、すまん」
どういう経緯にせよ、それにかなり荒っぽいやり方だったにせよ、結果的には、キィの行動で中谷は自殺せずにすんだのだ。
「……何だって?」
キィがファイルを手に戻ってきながら、
「聞こえなかったぞ」
「…気のせいだ」
中谷はぶっきらぼうに話を打ち切った。それ以上追求される前に話題を変えようと、相手の手にしている灰色のファイルを顎でしめす。
「そいつか、話っていうのは」
キィはうなずいた。
「笙子との話がスムーズにいくようならば、後でこれについて尋ねようと思っていた。事前に気づいてこちらで手を回したから表には出ていないし、もちろん、笙子も知らない」
「何だよ、もったいぶるな…」
言いかけた中谷は、途中でことばを切った。目の前に差し出されたファイルの中におさめられた記事を、あっけにとられて凝視する。
「何だ……これは…」
「週刊『トップ』の記事だ」
キィはうっとうしそうにため息をついた。
「本当なら、今日の夕方出ているところだった。いつ、撮られたか、わかるか?」
「いつ…って…」
中谷は並べられた記事と写真を一つ一つ見比べた。見出しは三色で派手派手しく、『「ハレルヤ・ボイス」と雑誌記者の秘められた恋! 「ローマの休日」は実るのか!』となっている。衝撃的なニュアンスを出すためか、大きな文字が写真の間に躍っている。
いつの間に撮られた写真だろう。
一枚はあの甘党喫茶から出てくるところ、先に出た中谷を笙子が追いかけているという感じ。次のは公園でのやりとりの場面、両手を握りしめて泣きそうな気配の笙子と中谷が向き合っている。きわめつけは、座席にうずくまって惚けたような笑みを浮かべながら、舞台を食い入るように見ている中谷と、その中谷に笑いかけているような笙子の姿だ。
どれもその気で見れば、今をときめくスターと売れない雑誌記者の密会現場で十分通ってしまうだろう。
写真につけられた記事を読み込んで、中谷は二重に狼狽した。
「お、おい……これ…」
「だから、わたしはてっきりお前の売名行為、だと考えたんだ。ところが、お前は笙子のコンサートの後、ごていねいにも大通りで自殺を企ててくれる。笙子が気づいて知らせてくれなければ、お前は今ごろ『ハレルヤ・ボイス』の自殺誘導説を証明していたところだ」
キィは煮えたぎるような不機嫌さを隠そうともしなかった。
中谷はもう一度記事に目をやり、それでやっと今日のキィの敵意に満ちた対応がわかった気がした。キィにしてみれば、中谷などは死んでくれてもいいところだが、笙子の気持ちを考えるとそうもいかない、という難しいところだったのだろう。
「……悪かった、な。俺のせいばかりじゃないが」
中谷は仕方なしに謝った。
キィがますますむっとした顔になって、
「余計なことを言うな、それより」
「ああ、わかる」
中谷は片手でキィを遮った。
「この記事によると、俺は笙子の恋人で、おまけに笙子を売り出すために、雑誌などの記事で『ハレルヤ・ボイス』の自殺誘導説を故意に伏せていた、とある。俺がもし今日自殺していたら、弁解どころじゃなかっただろうな」
苦々しい思いで肩をすくめて見せる。
「俺が笙子を追っていたのも、形だけのカムフラージュだったってことになるからな。つまり、俺はもう少しではめられるところだった、ってわけだ」
答えながら、中谷の頭は目まぐるしく回転した。
これだけの写真を、それもタイミングよくそろえられる奴。
そいつこそが、中谷を笙子に接近させ、笙子にも中谷を意識させ、ついには、中谷を笙子の『ハレルヤ・ボイス』で自殺させようとした張本人に違いない。
(笙子をかぎ回る俺がうるさかったのか、それとも、俺が真実に気づくと思ったのか)
そう考えて、中谷はいつの間にか、自分が笙子達の訴えている、サブリミナル自殺誘導説を前提として受け入れていることに気づき、苦笑した。
高岡がいれば、思い込みで走るときは命がないと思え、とじっくりと説教されているところだろう。
「思い当たる人物はあるか?」
キィが中谷をじっと見ていた。
「待てよ」
中谷は眉を寄せて、ファイルを返した。
「俺と笙子が接触するのを全部知っていた人間となると……会社の人間は知ってたし、それ以外にも知ろうと思えば何とかなる情報ではあるしな。一度、こっちで当たってみるが」
「そうだな、それぐらいの恩返しはしてもらってもいいはずだ」
キィが横柄に応じるのに、中谷は相手を冷ややかに見た。
「言っておくが、笙子が深雪を自殺させた原因じゃない、とは思ってないからな。この件が落ち着いたら、改めて越智笙子の取材に来るぞ」
「そういうところが気に入らないんだ」
より冷ややかにキィがやり返した。
話がついたところで、それでも、キィは中谷を送って、やはり下までエレベーターで同行すると言ってきかなかった。よほど中谷には信用がないと見える。
別れ際に、ふと気がついて、中谷はもう一つの疑問を尋ねてみた。
「そうだ、笙子はなぜ俺のことを知ってたんだ?」
「ゴキブリは見ようとしなくても目に入るものらしいぞ」
「おい」
「冗談だ」
中谷を面白そうに見て、キィはしらっととぼけたが、仕方なさそうに吐息をついた。
「中谷深雪、という娘は笙子に手紙を出してきていた。一生懸命頑張っているんだけど、どうしても人に受け入れられない兄がいます、できれば、兄のために少しだけ、笙子さんの気持ちを分けてください、と書かれていたそうだ」
(深雪)
中谷はことばを失った。
フラッシュバックのように、笙子が『ハレルヤ・ボイス』と呼ばれていて傷ついた聴き手の病気や怪我を治す、と話した深雪の、ひどく真剣な目を思い出す。キィが中谷の反応を観察するように見ているのに、ようよう平気そうな声を絞り出そうとしたが、失敗した。
「よく…覚えてたな…」
中谷の声が震えたのに、キィは多少欝憤を晴らしたようだ。満足そうな顔になって、
「笙子は必ずすべてのファンレターに目を通す」
不審そうな中谷に噛んで含めるようにキィは説明した。
「歌を歌うときに必要なことなんだそうだ。聴き手のことが詳しくわかればわかるほど、笙子の歌は意味を深め、力を増すもの、らしい。歌の意味が深まり力が増せば、聴き手に受け入れられやすくなって、より大きな祈りになれる、と」
舞台の上の笙子を中谷は思い出した。
両手を差し伸べ、目を閉じ、あるいは一人一人の顔を見ながら歌っていた笙子。そうして彼女は、あの舞台でそこにいる聴き手一人一人を感じようとしていたのかもしれない。
自分の歌を聴くすべての人に、癒しの祈りが届くようにと。
(その笙子を、泣かせてきた)
さっきまで目の前にいた少女の、大きな瞳とこぼれた涙を思い出して、中谷は唇を噛んだ。どうしてあんなことを言ってしまったのか、あそこまで言う必要が本当にあったのか、今の中谷にはよくわからない。
ただ、あのときは、何をしてでも笙子の気持ちを自分に魅きつけたかった。側にずっといるキィではなく、自殺しかけたかわいそうな男としてでなく、中谷晃という人間自身に。
だが、その中谷の気持ちは笙子を泣かせただけだった。泣かせてしか、自分に引き寄せることができなかった。
それ以外の方法は中谷には思いつけなかったのだ。
自分は笙子を傷つけるしかできない男なのだろう。中谷はため息をついて立ち上がった。
「頼んだぞ」
部屋のドアからのろのろと出て行く中谷の背中で、キィが小さくつぶやく。
「聞こえねー」
中谷はわざと大声で応じた。今度は、これまでも、これからも、無条件で当然のように笙子の側にいることを許された男への、ささやかな仕返しだとわかっていた。
「…お前とはとことん相性があわん!」
キィのいきりたった声に、
「こっちもだ!」
どなり返しながら、中谷は虚ろに笑った。
(お前なんか、大嫌いだ)
胸の声を押さえつける。その底に潜んだ気持ちもろともに押しつぶす。気持ちが報われないこと、望みがかなわないことなど、慣れているはずのことなのに、疲れ切っている自分がいて、中谷は足を引きずるように歩き始めた。
(泣かせたい)
中谷の胸で荒々しい声が言い切った。
(笙子を泣かせて、俺の胸にすがりつかせたい)
その意味を考えることは拒んで、中谷は胸の声に従った。
「それも、やっぱり推測、だろ。事実は……あんたの『歌』を聴いた人間の中で、自殺する奴がいる、ってことだ。俺もその一人になるところだったってことだ」
罪を暴いて裁き、罰を下しているはずなのに、その裏側で切羽詰まった声音で要求している自分を感じる。
(だから、俺に)
許してくれと、すがってこい。
もう一度、笙子を見つめる。笙子も中谷を見つめる。
息の詰まるような沈黙。
(このまま時をとめてしまいたい)
中谷はそう願った。
(そうすれば、この瞳は俺のものだ。もう二度となくさない)
深雪のように。
通り過ぎていったたくさんの手や視線のように。
けれど。
中谷の願いはかなわなかった。
「キィ」
すっと唐突に笙子が立った。
「お礼を差し上げて、中谷さんにお帰り願いましょう」
中谷はぎょっとして笙子を見上げた。
見返してくる笙子の目は、もう潤んでも揺らめいてもいない。いつか舞台の上で見た、さえざえとした黒の中の黒の瞳に戻っている。
中谷の胸の奥まで見通すような、透明な視線に、中谷はうろたえた。自分の気持ちの揺れを、すべて見透かされた気さえした。
「中谷さん、あなたを巻き込んだのは私が悪いのです」
笙子は静かに断じた。
「『ソーシャル・ワンダーランド』を私が教えなければ、中谷さんが自殺しかけることもなかったでしょう。あなたには妹さんのことを含めて、本当にいろいろとご迷惑をおかけしました、申し訳ありません」
「え、あ」
中谷のうろたえを突き放し、きっぱりと言って頭を下げ、笙子はくるりと背中を向けた。迷いのない、怯みのない、そのほっそりした後ろ姿の向こうから、
「次の取材はお断りします。あなた自身の安全を考えてください。キィ、後をよろしく」
「ちょっと、待て…」
想像以上の衝撃にことばが出てこない。
(行ってしまう?)
立ち上がり、笙子の後を追おうとした中谷の目の前に、キィが立ち塞がった。そのキィの後ろで、笙子は一瞬立ち止まることさえなく、部屋を出て行く。
「話は終わった。それだけ元気なら大丈夫だろう、早々にお帰り願おう……これ以上、笙子を傷つけることは許さない」
キィの声に含まれた凄みと威圧感に我に返って、中谷は辛うじて皮肉な笑いを返した。
「何だ、あんた、あの女に惚れてるのか」
(こいつはずっと、笙子の側に居続ける、これまでも、これからも)
そして、中谷にはそれは絶対にかなわない、深雪を生き返らせることができないように。
「つくづく無粋な男だな。愛している、と言ってくれ」
キィは平然と言った。照れることもないその態度には、ずっと笙子を支えてきた、その自信がほの見える。
中谷の腹でかっとしたものが燃えた。 気がつけば、薄っぺらいからかいをキィに向けていた。
「いい年して、ロリコンか?」
(馬鹿なことばだ)
「可愛い可愛い笙子ちゃん、ってか?」
(惨めで情けない、負け犬の声だ)
キィには聞こえたふうもない。間違えて入り込んできた性質の悪い押し売りででもあるかのように中谷を戸口へ追い立てながら、もう話そうともしない。開いたドアからやんわり押し出し、背後から迫るように廊下を歩き、中谷が立ち止まることさえ許さない。とうとう追いやられてエレベーターに乗った中谷の後から、なぜかキィも続いて乗り込んできた。
さすがに、中谷はあきれ声を上げた。
「おい、どこまでついてくる気だ?」
「お前が笙子から完全に離れたことを確認するまでだ」
キィはあっさりと言い放った。憎々しげに、中谷をにらみ、エレベーターのドアが閉まるや否や、
「笙子がぜひにと頼むから、お前の取材を許したが、後の接触まで許可した覚えはない。それなのに、笙子を呼び出す、連絡を取る。そればかりか、コンサートに顔を出す、あげくの果てが自殺騒ぎだ。……一体、どういうつもりなんだ。笙子をそこまで苦しめて楽しんでる、お前こそサディストじゃないか」
エレベーターには中谷とキィの二人だけ、その密閉された空間がキィの抑制を解いたようだ。今までずっと抑えて続けてきたのか、怒りを込めた口調で中谷を非難する。
(そうだ、それがあった)
今の今まで笙子の存在に振り回されていた中谷の心が、ふいと平静になった。
「……それが聞きたい」
微妙な位置でずっと引っ掛かっていた疑問をキィに持ち出す。
「言っておくが、俺は笙子を呼び出したりなんかしていない」
「いまさらごまかしは見苦しいぞ」
「俺の方も呼び出されたんだ。それに、コンサートのことだって、俺のところへチケットが送られてきたんだぜ。こっちはてっきり、あんたが何か企んだのかとさえと思ってた」
「わたしは知らない」
キィは眉をしかめた。広い額にくっきりと縦じわが寄る。
「三流雑誌記者のことばなぞ、信用するに値しないが」
中谷を食い入るように見つめながら、
「もしお前が本当のことを言っているとしたら…」
「本当だよ」
「一体、誰が、お前と笙子を会わせようとした? 何のメリットがあった?」
つぶやいた矢先、何かを思いついたようにキィは空中に視線を浮かせた。彼方の方角で何の示唆を得たのだろう、やがて視線を中谷に戻す。
「少し、わたしの部屋に寄ってくれないか、見せたいものがある」
「ロリコンだけじゃなくて、男でもいいのか」
からかうつもりではなかったが、つい中谷が軽口を叩くと、キィはこのうえなく不愉快そうな表情で中谷をねめつけた。
「………お前とは一生意見が合いそうにないな」
言い捨てて、キィはエレベーターのボタンを押し直した。
キィの部屋は実は笙子の隣だった。そこでも十分に広くて三部屋はある。
人間が住んでいるとは思えないほど整然と片付けられた部屋のソファに腰を下ろしながら、思いついて中谷は続きの部屋に消えるキィの後ろ姿に声をかけた。
「ああ……礼だけは言っておく……自殺を止めてくれて、すまん」
どういう経緯にせよ、それにかなり荒っぽいやり方だったにせよ、結果的には、キィの行動で中谷は自殺せずにすんだのだ。
「……何だって?」
キィがファイルを手に戻ってきながら、
「聞こえなかったぞ」
「…気のせいだ」
中谷はぶっきらぼうに話を打ち切った。それ以上追求される前に話題を変えようと、相手の手にしている灰色のファイルを顎でしめす。
「そいつか、話っていうのは」
キィはうなずいた。
「笙子との話がスムーズにいくようならば、後でこれについて尋ねようと思っていた。事前に気づいてこちらで手を回したから表には出ていないし、もちろん、笙子も知らない」
「何だよ、もったいぶるな…」
言いかけた中谷は、途中でことばを切った。目の前に差し出されたファイルの中におさめられた記事を、あっけにとられて凝視する。
「何だ……これは…」
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キィはうっとうしそうにため息をついた。
「本当なら、今日の夕方出ているところだった。いつ、撮られたか、わかるか?」
「いつ…って…」
中谷は並べられた記事と写真を一つ一つ見比べた。見出しは三色で派手派手しく、『「ハレルヤ・ボイス」と雑誌記者の秘められた恋! 「ローマの休日」は実るのか!』となっている。衝撃的なニュアンスを出すためか、大きな文字が写真の間に躍っている。
いつの間に撮られた写真だろう。
一枚はあの甘党喫茶から出てくるところ、先に出た中谷を笙子が追いかけているという感じ。次のは公園でのやりとりの場面、両手を握りしめて泣きそうな気配の笙子と中谷が向き合っている。きわめつけは、座席にうずくまって惚けたような笑みを浮かべながら、舞台を食い入るように見ている中谷と、その中谷に笑いかけているような笙子の姿だ。
どれもその気で見れば、今をときめくスターと売れない雑誌記者の密会現場で十分通ってしまうだろう。
写真につけられた記事を読み込んで、中谷は二重に狼狽した。
「お、おい……これ…」
「だから、わたしはてっきりお前の売名行為、だと考えたんだ。ところが、お前は笙子のコンサートの後、ごていねいにも大通りで自殺を企ててくれる。笙子が気づいて知らせてくれなければ、お前は今ごろ『ハレルヤ・ボイス』の自殺誘導説を証明していたところだ」
キィは煮えたぎるような不機嫌さを隠そうともしなかった。
中谷はもう一度記事に目をやり、それでやっと今日のキィの敵意に満ちた対応がわかった気がした。キィにしてみれば、中谷などは死んでくれてもいいところだが、笙子の気持ちを考えるとそうもいかない、という難しいところだったのだろう。
「……悪かった、な。俺のせいばかりじゃないが」
中谷は仕方なしに謝った。
キィがますますむっとした顔になって、
「余計なことを言うな、それより」
「ああ、わかる」
中谷は片手でキィを遮った。
「この記事によると、俺は笙子の恋人で、おまけに笙子を売り出すために、雑誌などの記事で『ハレルヤ・ボイス』の自殺誘導説を故意に伏せていた、とある。俺がもし今日自殺していたら、弁解どころじゃなかっただろうな」
苦々しい思いで肩をすくめて見せる。
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答えながら、中谷の頭は目まぐるしく回転した。
これだけの写真を、それもタイミングよくそろえられる奴。
そいつこそが、中谷を笙子に接近させ、笙子にも中谷を意識させ、ついには、中谷を笙子の『ハレルヤ・ボイス』で自殺させようとした張本人に違いない。
(笙子をかぎ回る俺がうるさかったのか、それとも、俺が真実に気づくと思ったのか)
そう考えて、中谷はいつの間にか、自分が笙子達の訴えている、サブリミナル自殺誘導説を前提として受け入れていることに気づき、苦笑した。
高岡がいれば、思い込みで走るときは命がないと思え、とじっくりと説教されているところだろう。
「思い当たる人物はあるか?」
キィが中谷をじっと見ていた。
「待てよ」
中谷は眉を寄せて、ファイルを返した。
「俺と笙子が接触するのを全部知っていた人間となると……会社の人間は知ってたし、それ以外にも知ろうと思えば何とかなる情報ではあるしな。一度、こっちで当たってみるが」
「そうだな、それぐらいの恩返しはしてもらってもいいはずだ」
キィが横柄に応じるのに、中谷は相手を冷ややかに見た。
「言っておくが、笙子が深雪を自殺させた原因じゃない、とは思ってないからな。この件が落ち着いたら、改めて越智笙子の取材に来るぞ」
「そういうところが気に入らないんだ」
より冷ややかにキィがやり返した。
話がついたところで、それでも、キィは中谷を送って、やはり下までエレベーターで同行すると言ってきかなかった。よほど中谷には信用がないと見える。
別れ際に、ふと気がついて、中谷はもう一つの疑問を尋ねてみた。
「そうだ、笙子はなぜ俺のことを知ってたんだ?」
「ゴキブリは見ようとしなくても目に入るものらしいぞ」
「おい」
「冗談だ」
中谷を面白そうに見て、キィはしらっととぼけたが、仕方なさそうに吐息をついた。
「中谷深雪、という娘は笙子に手紙を出してきていた。一生懸命頑張っているんだけど、どうしても人に受け入れられない兄がいます、できれば、兄のために少しだけ、笙子さんの気持ちを分けてください、と書かれていたそうだ」
(深雪)
中谷はことばを失った。
フラッシュバックのように、笙子が『ハレルヤ・ボイス』と呼ばれていて傷ついた聴き手の病気や怪我を治す、と話した深雪の、ひどく真剣な目を思い出す。キィが中谷の反応を観察するように見ているのに、ようよう平気そうな声を絞り出そうとしたが、失敗した。
「よく…覚えてたな…」
中谷の声が震えたのに、キィは多少欝憤を晴らしたようだ。満足そうな顔になって、
「笙子は必ずすべてのファンレターに目を通す」
不審そうな中谷に噛んで含めるようにキィは説明した。
「歌を歌うときに必要なことなんだそうだ。聴き手のことが詳しくわかればわかるほど、笙子の歌は意味を深め、力を増すもの、らしい。歌の意味が深まり力が増せば、聴き手に受け入れられやすくなって、より大きな祈りになれる、と」
舞台の上の笙子を中谷は思い出した。
両手を差し伸べ、目を閉じ、あるいは一人一人の顔を見ながら歌っていた笙子。そうして彼女は、あの舞台でそこにいる聴き手一人一人を感じようとしていたのかもしれない。
自分の歌を聴くすべての人に、癒しの祈りが届くようにと。
(その笙子を、泣かせてきた)
さっきまで目の前にいた少女の、大きな瞳とこぼれた涙を思い出して、中谷は唇を噛んだ。どうしてあんなことを言ってしまったのか、あそこまで言う必要が本当にあったのか、今の中谷にはよくわからない。
ただ、あのときは、何をしてでも笙子の気持ちを自分に魅きつけたかった。側にずっといるキィではなく、自殺しかけたかわいそうな男としてでなく、中谷晃という人間自身に。
だが、その中谷の気持ちは笙子を泣かせただけだった。泣かせてしか、自分に引き寄せることができなかった。
それ以外の方法は中谷には思いつけなかったのだ。
自分は笙子を傷つけるしかできない男なのだろう。中谷はため息をついて立ち上がった。
「頼んだぞ」
部屋のドアからのろのろと出て行く中谷の背中で、キィが小さくつぶやく。
「聞こえねー」
中谷はわざと大声で応じた。今度は、これまでも、これからも、無条件で当然のように笙子の側にいることを許された男への、ささやかな仕返しだとわかっていた。
「…お前とはとことん相性があわん!」
キィのいきりたった声に、
「こっちもだ!」
どなり返しながら、中谷は虚ろに笑った。
(お前なんか、大嫌いだ)
胸の声を押さえつける。その底に潜んだ気持ちもろともに押しつぶす。気持ちが報われないこと、望みがかなわないことなど、慣れているはずのことなのに、疲れ切っている自分がいて、中谷は足を引きずるように歩き始めた。
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⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
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母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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