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天国へイカせてくれ
救いを求めてるんじゃない
記憶も思考も感情も
何もかもを捨てるから
あんたの天国へイカせてくれ
俺を抱き締める腕が
地獄から伸びてるとわかる前に
俺が正気に戻る前に
あんたの中へイカせてくれ
10
目が覚めたときには全身がぐったりと虚脱していて、すぐに身動きできなかった。
「ふ…ぅ」
ゆっくりと息を吸って吐く。腕も足もひどく重い。
(これも、どこかで)
ぼんやりと考えた瞬間、中谷はくかかかっと全身に氷が突き刺さったような気がして目を見開いた。
(『ソシアル』!)
「う…ぁっ」
跳ね起きてバランスを崩した。慌てて体を支えようとした手がナースコールを思いきり押さえつけたのに気づいたときには、高いノックが響いてドアが開いていた。
「中谷さん、開けますよ、いいですね!」
眠る前に穏やかに語りかけた声が緊迫感を満たして告げ、上背のある白衣姿が飛び込んでくる。が、ベッドの上でうろたえながら座り込んでいる中谷を素早く見てとって、にっこりと笑いかけた。
「大丈夫、ですね?」
「あ、ああ、あの、すみません、俺、間違って押しちゃって」
弁解する中谷に大月はゆっくりと近づいてきた。そのまま無造作にベッドに腰掛けると、中谷の左手を取り、脈拍を診た。
「大丈夫、です、ただ」
「ちょっと待って」
言いかけた中谷を制して、まるで何か別の音を聞いているように首を傾げたまま、大月は数分間沈黙した。仕方なしに黙り込んで、中谷は所在なく大月医師の向こうの診療室を見た。診療室には誰もいない。
診療の切れ目なのか、そう思って、ふと窓の外の色に気づく。薄青い夕暮れの、いや、もう夜に近い大気の色だ。ぎょっとして診療室の時計に目をやると、眠り込んでいる間に数時間たってしまっている。もう診療時間外だ。
ぞくり、と皮膚が粟立った。眠り込んで意識がない間に数時間失い、しかも身動きできないほどの倦怠感。それはまさに『ソシアル』のCDを聴いたときとそっくりで。
体が強ばって思わず引き込みかけた手を、ぐい、と握り直されて我に返る。
「中谷さん?」
大月医師がいつの間にか、じっとこちらを見つめていた。
「す、みません」
干涸びた喉から無理矢理絞った声が掠れた。
「なんか、とんでもない時間、寝てたみたいで」
「いいんですよ」
大月はもう一度、ゆっくりと手首を握った。柔らかくて温かな感触を中谷に伝えるように、もう片方の手で握った手を外から包む。
「一時間で起こそうと思ったのですが、どうも疲れておられるようだったし、眠れていないとおっしゃっていましたから。心の回復はまず休息から始まるんですよ」
静かな声で応じた。
「いったい、何がありましたか?」
「何、が、ですか…」
中谷はぼんやりと大月に握られた手首を見た。
(温かい)
部屋は起きてこうして座っていると僅かに肌寒い感じがする。気持ちがささくれだっているところに、ひんやりとした空気は落ちつかない。それを大月の熱が薄めてくれるような気がする。だが、どこか心の片隅では、大の大人が誰かに手を握ってもらって落ち着くなんておかしなもんだと思っている。
(そういや……)
人とこんなふうに触れ合うのはひさしぶりだと思った。叩かれる、掴まれる、小突かれる、押される、引かれる、剥がされる。そんなふうには触れ合うけれど、こんなふうに温められるように、守られるように握りしめられるのはめったにない。
が、そう思った瞬間に、ふわりと疼くように切ない揺れが胸に沸き上がった。
(違う)
田尾に刺されて傷ついた中谷を呼び続けていた笙子の手を思い出した。白くて細くて華奢で、けれど熱くてしなやかで、まるで皮膚からひたひたと命が流れ込んでくるように豊かな感じで。その鮮烈さを思い出すと、今大月の握りしめて伝えてくるものは、どこか頼りなく遠い感じがする。
中谷の凝視に気づいたように、大月は静かに手を離した。無意識に自分の手を膝に引き戻す。手を離されたとたんに、温もりを失ったという不安と解放されたという安心が同時に浮かび上がって、中谷は戸惑った。右手で手首をそっと握り、摩ってしまう。
「脈は大丈夫みたいですね」
「はい……ちょっと驚いて」
「何に?」
「……起きたとき……知ってる感覚に似てたものですから」
「どういう感覚ですか?」
「何かだるくて、何もしたくなくて……」
中谷は少し目を閉じた。まだ体が竦む。知らず知らずに、自分の摩る右手に笙子の手を重ねてイメージした。熱くて柔らかで中谷に命を与えてくれる手。細い指先、けれど怯まない強さに満ちて。大月の手に握られていた部分が妙に感覚が鈍っていたような気がしていたのが、次第にはっきりしてくる。それと一緒に、自分が何をしに来たのか、何をしようとしていたのかを、かろうじて思い出せた。
「……先生、『ソシアル』という音楽のグループをご存知ですか」
目を開いて問いかける。大月は一瞬眉をひそめた。
「それが?」
「今さっき起きるときに、全身がだるくて辛かった。その感じが、その『ソシアル』のCDを聴いた直後の感覚とそっくりなんです」
まっすぐに大月を見る。
「この部屋、ひょっとして、何か『音』が流されていますか?」
大月は中谷の視線を避けなかった。ただにこやかな笑みを消し、真面目な、どちらかというと厳しい表情で中谷を見返す。
「あなたは、患者ではないのですか?」
「というと」
中谷は胸に走った期待をゆっくり口にした。
「今までにも、俺みたいなことを言った人がいるんですね?」
「……患者でないのなら」
大月は重い溜息をついて立ち上がった。険しい口調で、
「お帰り下さい。興味本位の取材を受けているほど、私も暇ではありません」
「興味本位じゃない」
中谷は大月を見上げた。
「俺は、ちゃんとした『患者』ですよ? 他の医師に『重篤なPTSD』と診断されてる」
訝るように眉を寄せた相手に苦い笑みを押し上げて、医師の名前を告げた。
「何なら、そいつに聞いて下さい。俺はそこでパニックを起こして、あやうく緊急入院させられるところだったんだ。さっきのも」
どうしても自嘲気味になる口調を抑えられない。
「それを思い出したからだ」
「……どういうことです」
大月はもう一度、今度は椅子に腰を降ろした。
「じゃあ、あなたは本当に診療を受けにいらしたんですね?」
「そう言ってるでしょう。さっき言った症状は本当です。眠れない、食えない、怪我をした痛みもあるけれど、問題なのは…」
ちり、と胸を走った辛さを無視する。
「水に触れない。さっき言った『ソシアル』のCDの一枚に『水音』をテーマにしたものがあるんです。それを聴きながら、俺は昔の記憶を思い出した。……それは俺にとっては辛い記憶だったんです。それを何とか押し込めながらしのいできていた、んでしょう。ところが、そのCDを聴いた後、何だか罪悪感にかられて……俺は自殺しかけた」
大月は目を見開いた。
「怪我はそのときの?」
「……ええ、まあ」
「よく助かりましたね」
「ええ、そう思います。けど、その後、『水音』がだめになった。記憶を引っ掻き回されたみたいな具合で、『水音』に絡むものを聴くと全く……え、何?」
ふいに中谷はことばを止めた。じっとこちらを見つめている大月を、信じられない思いで見返す。
「よく、助かりましたね? 先生は……他にも同じような人間を『知って』るんですか?」
大月は太い息をついて、立ち上がった。部屋のドアを閉め、のろのろとした重い動作で戻ってくると、急に疲れたようにどさりと腰を落とす。椅子にもたれて、大きな手で熱をはかるように目の辺りを覆いながらつぶやいた。
「『ソーシャル・ワンダーランド』でしょう? それから、『ハレルヤ・ボイス』のコンサートに出かけた。違いますか?」
中谷は息を呑んだ。
「その通りです」
「自殺したくなったのは、厳密に言うと『ハレルヤ・ボイス』を聴いた後だ。そうでしょう?」
「……ええ」
「無理もない」
「…は?」
大月が溜息まじりに吐いて、中谷は呆気に取られた。
「無理もない?」
「素人が考えもなしに人工的に音を操作すれば、そういうことになるんです」
大月のうんざりした声に不安が募る。
「……どういうことですか?」
大月はゆっくりと体を起こした。いかつい顔には不似合いな、気遣うような表情で中谷を覗き込む。
「あなたは『ハレルヤ・ボイス』の被害者なんだ」
「『ソシアル』の、ではなくて、ですか?」
「他にもいっぱいいますよ。そりゃ、あれだけ専用のホールまで作って音を操作していたら、いつかはこういう問題は起こります」
「音を、操作、ですか?」
「あの『エンジェル・ホール』というのは、越智笙子の声を媒体に特別な作用を及ぼすように音を操作できるように作られているんです。彼女自身に罪はないのかもしれませんね、まだ子どもだし。けれど、周りの大人にいいように操られているのかもしれません。あなたはその被害にあわれたんです」
「ちょっと……待ってください」
中谷は混乱してきた頭を何とかとりまとめようとした。
「彼女は…何をやってたんです?」
「癒しの世界の演出、ですね」
大月は残念そうに溜息をついた。
「素晴らしい歌い手であることは確かでしょう。けれど……あのホールへ出かけられたとき、妙な安心感というか、受け入れられているような、そんなものを感じられませんでしたか?」
「ああ……確かに」
中谷はコンサートに集まった人々の穏やかな雰囲気を思い出した。ホールに入ったときの、自分が待ち望まれているような感覚も甦らせた。
「あれは、人工的にある波長の音を流すことで作りだせる感覚なんです」
「え!」
大月は苦笑した。
「さっき、あなたがこの部屋に『音』が流されている、とおっしゃってましたね? 可聴範囲ではありませんが、確かに『音』は流されています。つまり、安心してもらい寛いでもらうための『音』です」
「……ああ……」
ふいに中谷は眠りに落ちる前の寛ぎ感を思い出した。どこかで味わったと思ったのは、『エンジェル・ホール』での感覚だったのだ。
「彼女が歌わないときは流されていませんから、そういう違和感に気づかれてないんでしょうね、専門以外には」
「そういえば……」
中谷が田尾と初めて『エンジェル・ホール』へ出向いたときに、あんな受け入れられ感はなかった。つまり、あの神憑かり的な気配というのは一つの演出に過ぎなかった、ということなのだろうか。
「それに…」
大月はちょっとためらった。迷う顔でしばらく中谷を眺めていたが、
「こんなことを言っていいのかどうか……けれど、あなたにちゃんと治療を受けてもらうためには、私を信じて頂かねばならないのでしょうね。ですから、あえてお話しします。専門家の間ではよく知られていることなのですが、『ソシアル』の被害というより『ハレルヤ・ボイス』の被害と言ったのにはちゃんとした理由があります」
中谷にいたわるような笑みを向けて、大月は静かな声で言った。
「実は『ソシアル』の音は、『ハレルヤ・ボイス』から造られたものなのです」
「な…」
中谷はことばを失った。茫然と相手を見返すと、大月はとげとげしい顔でうなずいた。
「越智笙子には知らされていなくても、キィ・ロドニ-は知っているはずですが」
(『ハレルヤ・ボイス』から『ソシアル』が造られていた? それをキィが知っていた?)
中谷はよろめいて倒れそうになる体をかろうじて電車の壁にもたれさせた。帰宅時のラッシュアワーから少しずれたのか、ほどほどに混んだ車内は座席が全部埋まっている。窓の外の暗闇に流れ去っていく街の灯は、暗い海に浮かぶ漁り火のように見えた。
(俺は……だまされていたのか?)
キィの屈折はしているが、それなりに好意的に見えた対応も、笙子の真摯でひたむきな音楽への姿勢も、しょせんは金と名声を追うのに邪魔になる中谷を、適当なところでいなすための手練手管だったのだろうか。
(何を信じればいいんだ)
暗い海を背景にした窓には頬をこけさせた窶れた男の顔が幽霊のように浮かんでいる。
大月には一週間後の予約を入れた。音楽療法というのは人気があるらしく、そこしか時間が取れなかったのだ。それまでに飲むようにと精神安定剤を処方されている。眠れる成分も入っているからきちんと飲めば、今より落ち着き、眠れて食欲も回復するだろうということだった。
ただ、『水音』に関しては、まだ手がつけられないらしい。
中谷も大月に全部を話したわけではない。深雪のことや母親のことはほとんど伝えていないし、田尾に殺されかけたこともまだだ。だが、現状を話しただけでも、気持ちの重さは少しましになった。自分一人で背負うはずだった荷物を、そっと隣で支えてもらったような感覚だ。
何度か話しましょう、と大月は笑った。人なつこい温かな目で見つめながら、ゆっくりと知り合って、少しずつ近づいて、お互いどういうふうにやればもう少し楽に生きられるか探しましょう、と。帰る間際に自然な感じで肩に一瞬置かれた手は、やっぱり大きく温かで、それも少し気持ちを緩ませた。
電車を降り、タクシーでマンションに戻る。
真っ暗な部屋に少し焦りながら明かりを灯し、中谷は座り込んだ。久しぶりの外出で心底疲れた。
それでも、次に進む先が見えてきているのはありがたい。
習慣のように酒瓶に手を伸ばしかけて、寸前大月のことばを思い出した。もらった薬には酒を併用するとまずいものがある。「ひょっとして、お酒をたしなまれるかもしれませんが」。大月は部屋を見たような表情で付け加えた。「この薬とお酒は併用しないで下さい。強い副作用があります」「どんな?」「強い入眠作用と幻覚、肝臓にもよくないです。急性肝炎の恐さはご存知ですね?」。中谷はうなずいた。『ジャーナル』でも何人か肝臓を傷めて入院するはめになったのがいる。
空の瓶はゴミに放り込み、残っているのは冷蔵庫の奥へ突っ込んだ。かわりにというのではないが、煙草に火をつけて一服する。
「ぅ…」
くら、と一瞬めまいがした。それほど吸ってなかったかなと思い出してみたが、よくわからない。唇の端にくわえながら、久しぶりに取り出したノートに必要な情報と取材ルートを書き出してみた。
まず『ソシアル』についてだ。
中谷の知っている情報は田尾が仕入れてきたものだ。田尾が『ソシアル』と何らかの関わりがあるのなら、やつが見せたカードが正しいとは限らない。
田尾がらみでない情報を得なくてはならないが、音楽業界からどのように入り込むか。普通の歌手ならば所属事務所と、それに繋がる音楽出版社が情報をコントロールしているはずだが、『ソシアル』は所属こそ結構な大手事務所だが、音楽出版社は『カオス』という聞いたこともない無名のところと契約しているらしい。今回はその両方から情報が取れないのは明らかだから、別ルートで『ソシアル』が何ものなのかについて探っていかなくてはならない。そのルートをどこに求めるか。
それに、『ハレルヤ・ボイス』そのものについても、再調査だ。
大月の話によれば、『エンジェル・ホール』には特別な仕掛けがあって、観客を酔わせるようになっているらしいし、『ソシアル』の原音はこともあろうに『ハレルヤ・ボイス』であり、それは音楽を媒体として医療に関わっている人間にとってはよく知られたことらしい。
そういうことならば、この劇的な『ハレルヤ・ボイス』の一件が単なる新興宗教のイニシェーション程度にしか話題にならず、医学界で無視されてきた理由もわかる。医学ではない『音楽』が治病効果をあげたことへの抵抗だけではなく、それが実は治癒だけではなく発症ももたらす諸刃の剣である可能性を判じかねたというところなのだろう。「私達は困ってるんです、ああいう理論も何もなく、ただ症状が消えるというそれだけで『音楽』の治療効果について論議されるのは」。大月はそこだけは不愉快そうに眉をしかめていた。
『ハレルヤ・ボイス』や『越智笙子』についても、今までとは違ったルートで情報を集め直さなくてはならないだろうが、こっちにはキィ・ロドニ-というケルベロス並みの番犬がいる。中谷とは多少の繋がりがあるように振舞っているが、中谷が笙子の敵に回ったと認識したら容赦なく噛みついてくるだろう。
「ふ…ぅ」
ペンを放り出し、短くなった煙草を強く吸いつけた。一気に血液がどこかに持ってかれる感覚を頭の中心に捉えて、目を閉じ壁にもたれる。
自分がどこかでまだ笙子を、『ハレルヤ・ボイス』を信じたがっているのを中谷は感じた。深雪が信じてすがった笙子、その救いの幻ができれば本当であってほしいと願っている。目を開けると、久しぶりの喫煙で酸欠に陥った脳みそのせいか、部屋がゆらゆらと揺れている。
中谷はフィルター近くまで燃えた吸殻を灰皿に落とし、次の煙草に火をつけた。取り出した携帯で短縮ダイヤルを押す。時間は真夜中に近い。出るとは思わなかったが、数回のコールの後、冷ややかな声が戻ってきた。
『何だ、中谷』
「元気か」
『お前がいなくて、わたしも笙子もすこぶる快調だ。そっちは危なそうだな』
微かに笑みを含んだキィの声に苦笑いする。
「よくご存知で」
『情報は使わなくては意味がない。お前は一体何を掴んだ?』
キィは中谷の電話の意味を確実に理解していたようだ。
「『ソシアル』の原音は『ハレルヤ・ボイス』なのか?」
水面に小石を落としたような沈黙が応じた。
やがて、
『あのとき、放り出しておけばよかったな。へたな情けが仇になる』
「笙子は知ってるのか?」
どうせぶつかる地獄の門番、二度目の奇襲は許すまい。ことば一つ一つをできるだけ鋭く突きつける。
『今どこにいる、中谷』
「知らないんだな?」
『自宅ならば、そのまま一時間ほど居ろ。明日には天国が見られるぞ』
「どうしてそんなことになった?」
『切るぞ』
「いつかはわかるぞ、それほど鈍い人間じゃない、一度でも聴けばわかる」
『彼女が「ソシアル」を聴くことはない』
初めてキィとことばが噛み合った。
『彼女が「ソシアル」を聴いたときは……「ハレルヤ・ボイス」だけじゃない、越智笙子がこの世から消える』
「どういうことだ?」
『わからないのか、中谷』
嘲りを帯びた声が切ない響きを宿したように聞こえた。
『笙子は罪悪感を抱えてるんだぞ?』
「……ああ」
両親を殺した。自分の歌を聴くものを、罪を背負わせ死に追いやった。それでも自分が歌が捨てられない、自分が生き延びるために。それはたぶん、究極のエゴでしかない。笙子はそう感じている。
「お前は『ソシアル』を聴いたのか?」
『当然だ』
「自殺とか」
『するわけがなかろう』
キィはあっさりと言い放った。
『わたしは罪悪感など持ったことがない。わたしの言動がどういう効果をもたらすにせよ、最終決断は当人にある。それに責任を持つなど不可能だ。他者の評価にも興味はない』
「笙子以外、はな」
『ゴキブリでも学習できるんだな』
「……褒めてくれて嬉しいよ」
くわえていた煙草から灰が崩れて膝に散った。
「『ソシアル』は『ハレルヤ・ボイス』の暗黒面、というわけだ」
『笙子さえ同意してくれればさっさと消せるんだ』
キィは苛立った声で答えた。
『「ソシアル」を消せば、「ハレルヤ・ボイス」を諦めなくて済む。なのに、笙子は同意しない。頑固で困る』
どこか舌足らずになった声に、中谷は笑った。キィが「消せる」というのなら、跡形もなく『ソシアル』も田尾も消せるのだろう。ならば、
「田尾を逃がしたのはお前か」
ずっと引っ掛かっていた。田尾のやり方はとても用意周到とは言えない。思いつきとその場しのぎ、それから底の浅いブラックジョークだ。なのに、その田尾は警察とキィの追及を逃れて、どこかに紛れ込み消えてしまった。警察はともかく、それなりに手荒い仕事もこなしているはずのキィ・ロドニ-が、たかがマニアックなプログラマーの一人や二人、見つけられないということがあるだろうか。
「ついでに聞いといてやる。あの日、シャワーを勧めたのは俺への牽制か?」
笙子の『ハレルヤ・ボイス』を支え守り保ってきた男が、心理的な問題に無知であったとは思えない。笙子が心配しているのは確かだったろうが、中谷を追い込むことは理解していたはずだ。
『中谷』
声が微かに笑い返した。
『ゴキブリから猿にしてやろうか?』
「なぜだ?」
それは思わず零れた問いかけだった。
「俺はお前が叩くほどのやつじゃないだろう?」
社会的にも肉体的にも、それこそ心理面でも、中谷はキィにとってすぐに押し潰せる虫けらのような存在だったはずだ。
『勘違いするな』
キィはひんやりとした声で応じた。
『わたしは田尾を逃がしたりしていない。田尾はもういない。そういうことだ』
相手の声の温度が携帯を通して耳から体にしみ通ったようだった。
「キィ」
『だから、今「ハレルヤ・ボイス」の脅威はお前だけだ。言っている意味はわかるな?』
くすくす、と楽しげな笑い声が響いた。
『てっきり自滅してくれたと思ったんだが、やはりゴキブリだな、殺虫剤につけこまないと死なないらしい。中谷、水は好きになったか?』
全身の毛穴が開いた気がした。
「この…っ」
『お前を始末するときは溺死にしよう』
電話は切れた。口から落ちた煙草を拾う手が白く色を失ってがたがた震えている。
「くそ……っ……」
『水音』が甦りそうになる。押さえつけた心の底の蓋が跳ね上がり、血の色をした水が吹き上がってくる。歯を食いしばり、煙草をねじりつけ、放り出していた薬袋を開けて、中身をペットボトルの水で飲み下した。勢い余ってつるりと唇から這い降りた液体の感触に、全身が竦んで悲鳴をあげそうになる。
「う…う……っ」
唇に鋭い痛みが走った。けれどなおも強く噛みしめて、中谷は両手で体を抱え、よろめきながらベッドに転がり込んだ。
「畜生……っ………ちく………しょ………う……っ……」
自分の中でまたもや鮮やかにくっきりと再現される悪夢に身悶えながら、中谷はベッドに蹲った。
救いを求めてるんじゃない
記憶も思考も感情も
何もかもを捨てるから
あんたの天国へイカせてくれ
俺を抱き締める腕が
地獄から伸びてるとわかる前に
俺が正気に戻る前に
あんたの中へイカせてくれ
10
目が覚めたときには全身がぐったりと虚脱していて、すぐに身動きできなかった。
「ふ…ぅ」
ゆっくりと息を吸って吐く。腕も足もひどく重い。
(これも、どこかで)
ぼんやりと考えた瞬間、中谷はくかかかっと全身に氷が突き刺さったような気がして目を見開いた。
(『ソシアル』!)
「う…ぁっ」
跳ね起きてバランスを崩した。慌てて体を支えようとした手がナースコールを思いきり押さえつけたのに気づいたときには、高いノックが響いてドアが開いていた。
「中谷さん、開けますよ、いいですね!」
眠る前に穏やかに語りかけた声が緊迫感を満たして告げ、上背のある白衣姿が飛び込んでくる。が、ベッドの上でうろたえながら座り込んでいる中谷を素早く見てとって、にっこりと笑いかけた。
「大丈夫、ですね?」
「あ、ああ、あの、すみません、俺、間違って押しちゃって」
弁解する中谷に大月はゆっくりと近づいてきた。そのまま無造作にベッドに腰掛けると、中谷の左手を取り、脈拍を診た。
「大丈夫、です、ただ」
「ちょっと待って」
言いかけた中谷を制して、まるで何か別の音を聞いているように首を傾げたまま、大月は数分間沈黙した。仕方なしに黙り込んで、中谷は所在なく大月医師の向こうの診療室を見た。診療室には誰もいない。
診療の切れ目なのか、そう思って、ふと窓の外の色に気づく。薄青い夕暮れの、いや、もう夜に近い大気の色だ。ぎょっとして診療室の時計に目をやると、眠り込んでいる間に数時間たってしまっている。もう診療時間外だ。
ぞくり、と皮膚が粟立った。眠り込んで意識がない間に数時間失い、しかも身動きできないほどの倦怠感。それはまさに『ソシアル』のCDを聴いたときとそっくりで。
体が強ばって思わず引き込みかけた手を、ぐい、と握り直されて我に返る。
「中谷さん?」
大月医師がいつの間にか、じっとこちらを見つめていた。
「す、みません」
干涸びた喉から無理矢理絞った声が掠れた。
「なんか、とんでもない時間、寝てたみたいで」
「いいんですよ」
大月はもう一度、ゆっくりと手首を握った。柔らかくて温かな感触を中谷に伝えるように、もう片方の手で握った手を外から包む。
「一時間で起こそうと思ったのですが、どうも疲れておられるようだったし、眠れていないとおっしゃっていましたから。心の回復はまず休息から始まるんですよ」
静かな声で応じた。
「いったい、何がありましたか?」
「何、が、ですか…」
中谷はぼんやりと大月に握られた手首を見た。
(温かい)
部屋は起きてこうして座っていると僅かに肌寒い感じがする。気持ちがささくれだっているところに、ひんやりとした空気は落ちつかない。それを大月の熱が薄めてくれるような気がする。だが、どこか心の片隅では、大の大人が誰かに手を握ってもらって落ち着くなんておかしなもんだと思っている。
(そういや……)
人とこんなふうに触れ合うのはひさしぶりだと思った。叩かれる、掴まれる、小突かれる、押される、引かれる、剥がされる。そんなふうには触れ合うけれど、こんなふうに温められるように、守られるように握りしめられるのはめったにない。
が、そう思った瞬間に、ふわりと疼くように切ない揺れが胸に沸き上がった。
(違う)
田尾に刺されて傷ついた中谷を呼び続けていた笙子の手を思い出した。白くて細くて華奢で、けれど熱くてしなやかで、まるで皮膚からひたひたと命が流れ込んでくるように豊かな感じで。その鮮烈さを思い出すと、今大月の握りしめて伝えてくるものは、どこか頼りなく遠い感じがする。
中谷の凝視に気づいたように、大月は静かに手を離した。無意識に自分の手を膝に引き戻す。手を離されたとたんに、温もりを失ったという不安と解放されたという安心が同時に浮かび上がって、中谷は戸惑った。右手で手首をそっと握り、摩ってしまう。
「脈は大丈夫みたいですね」
「はい……ちょっと驚いて」
「何に?」
「……起きたとき……知ってる感覚に似てたものですから」
「どういう感覚ですか?」
「何かだるくて、何もしたくなくて……」
中谷は少し目を閉じた。まだ体が竦む。知らず知らずに、自分の摩る右手に笙子の手を重ねてイメージした。熱くて柔らかで中谷に命を与えてくれる手。細い指先、けれど怯まない強さに満ちて。大月の手に握られていた部分が妙に感覚が鈍っていたような気がしていたのが、次第にはっきりしてくる。それと一緒に、自分が何をしに来たのか、何をしようとしていたのかを、かろうじて思い出せた。
「……先生、『ソシアル』という音楽のグループをご存知ですか」
目を開いて問いかける。大月は一瞬眉をひそめた。
「それが?」
「今さっき起きるときに、全身がだるくて辛かった。その感じが、その『ソシアル』のCDを聴いた直後の感覚とそっくりなんです」
まっすぐに大月を見る。
「この部屋、ひょっとして、何か『音』が流されていますか?」
大月は中谷の視線を避けなかった。ただにこやかな笑みを消し、真面目な、どちらかというと厳しい表情で中谷を見返す。
「あなたは、患者ではないのですか?」
「というと」
中谷は胸に走った期待をゆっくり口にした。
「今までにも、俺みたいなことを言った人がいるんですね?」
「……患者でないのなら」
大月は重い溜息をついて立ち上がった。険しい口調で、
「お帰り下さい。興味本位の取材を受けているほど、私も暇ではありません」
「興味本位じゃない」
中谷は大月を見上げた。
「俺は、ちゃんとした『患者』ですよ? 他の医師に『重篤なPTSD』と診断されてる」
訝るように眉を寄せた相手に苦い笑みを押し上げて、医師の名前を告げた。
「何なら、そいつに聞いて下さい。俺はそこでパニックを起こして、あやうく緊急入院させられるところだったんだ。さっきのも」
どうしても自嘲気味になる口調を抑えられない。
「それを思い出したからだ」
「……どういうことです」
大月はもう一度、今度は椅子に腰を降ろした。
「じゃあ、あなたは本当に診療を受けにいらしたんですね?」
「そう言ってるでしょう。さっき言った症状は本当です。眠れない、食えない、怪我をした痛みもあるけれど、問題なのは…」
ちり、と胸を走った辛さを無視する。
「水に触れない。さっき言った『ソシアル』のCDの一枚に『水音』をテーマにしたものがあるんです。それを聴きながら、俺は昔の記憶を思い出した。……それは俺にとっては辛い記憶だったんです。それを何とか押し込めながらしのいできていた、んでしょう。ところが、そのCDを聴いた後、何だか罪悪感にかられて……俺は自殺しかけた」
大月は目を見開いた。
「怪我はそのときの?」
「……ええ、まあ」
「よく助かりましたね」
「ええ、そう思います。けど、その後、『水音』がだめになった。記憶を引っ掻き回されたみたいな具合で、『水音』に絡むものを聴くと全く……え、何?」
ふいに中谷はことばを止めた。じっとこちらを見つめている大月を、信じられない思いで見返す。
「よく、助かりましたね? 先生は……他にも同じような人間を『知って』るんですか?」
大月は太い息をついて、立ち上がった。部屋のドアを閉め、のろのろとした重い動作で戻ってくると、急に疲れたようにどさりと腰を落とす。椅子にもたれて、大きな手で熱をはかるように目の辺りを覆いながらつぶやいた。
「『ソーシャル・ワンダーランド』でしょう? それから、『ハレルヤ・ボイス』のコンサートに出かけた。違いますか?」
中谷は息を呑んだ。
「その通りです」
「自殺したくなったのは、厳密に言うと『ハレルヤ・ボイス』を聴いた後だ。そうでしょう?」
「……ええ」
「無理もない」
「…は?」
大月が溜息まじりに吐いて、中谷は呆気に取られた。
「無理もない?」
「素人が考えもなしに人工的に音を操作すれば、そういうことになるんです」
大月のうんざりした声に不安が募る。
「……どういうことですか?」
大月はゆっくりと体を起こした。いかつい顔には不似合いな、気遣うような表情で中谷を覗き込む。
「あなたは『ハレルヤ・ボイス』の被害者なんだ」
「『ソシアル』の、ではなくて、ですか?」
「他にもいっぱいいますよ。そりゃ、あれだけ専用のホールまで作って音を操作していたら、いつかはこういう問題は起こります」
「音を、操作、ですか?」
「あの『エンジェル・ホール』というのは、越智笙子の声を媒体に特別な作用を及ぼすように音を操作できるように作られているんです。彼女自身に罪はないのかもしれませんね、まだ子どもだし。けれど、周りの大人にいいように操られているのかもしれません。あなたはその被害にあわれたんです」
「ちょっと……待ってください」
中谷は混乱してきた頭を何とかとりまとめようとした。
「彼女は…何をやってたんです?」
「癒しの世界の演出、ですね」
大月は残念そうに溜息をついた。
「素晴らしい歌い手であることは確かでしょう。けれど……あのホールへ出かけられたとき、妙な安心感というか、受け入れられているような、そんなものを感じられませんでしたか?」
「ああ……確かに」
中谷はコンサートに集まった人々の穏やかな雰囲気を思い出した。ホールに入ったときの、自分が待ち望まれているような感覚も甦らせた。
「あれは、人工的にある波長の音を流すことで作りだせる感覚なんです」
「え!」
大月は苦笑した。
「さっき、あなたがこの部屋に『音』が流されている、とおっしゃってましたね? 可聴範囲ではありませんが、確かに『音』は流されています。つまり、安心してもらい寛いでもらうための『音』です」
「……ああ……」
ふいに中谷は眠りに落ちる前の寛ぎ感を思い出した。どこかで味わったと思ったのは、『エンジェル・ホール』での感覚だったのだ。
「彼女が歌わないときは流されていませんから、そういう違和感に気づかれてないんでしょうね、専門以外には」
「そういえば……」
中谷が田尾と初めて『エンジェル・ホール』へ出向いたときに、あんな受け入れられ感はなかった。つまり、あの神憑かり的な気配というのは一つの演出に過ぎなかった、ということなのだろうか。
「それに…」
大月はちょっとためらった。迷う顔でしばらく中谷を眺めていたが、
「こんなことを言っていいのかどうか……けれど、あなたにちゃんと治療を受けてもらうためには、私を信じて頂かねばならないのでしょうね。ですから、あえてお話しします。専門家の間ではよく知られていることなのですが、『ソシアル』の被害というより『ハレルヤ・ボイス』の被害と言ったのにはちゃんとした理由があります」
中谷にいたわるような笑みを向けて、大月は静かな声で言った。
「実は『ソシアル』の音は、『ハレルヤ・ボイス』から造られたものなのです」
「な…」
中谷はことばを失った。茫然と相手を見返すと、大月はとげとげしい顔でうなずいた。
「越智笙子には知らされていなくても、キィ・ロドニ-は知っているはずですが」
(『ハレルヤ・ボイス』から『ソシアル』が造られていた? それをキィが知っていた?)
中谷はよろめいて倒れそうになる体をかろうじて電車の壁にもたれさせた。帰宅時のラッシュアワーから少しずれたのか、ほどほどに混んだ車内は座席が全部埋まっている。窓の外の暗闇に流れ去っていく街の灯は、暗い海に浮かぶ漁り火のように見えた。
(俺は……だまされていたのか?)
キィの屈折はしているが、それなりに好意的に見えた対応も、笙子の真摯でひたむきな音楽への姿勢も、しょせんは金と名声を追うのに邪魔になる中谷を、適当なところでいなすための手練手管だったのだろうか。
(何を信じればいいんだ)
暗い海を背景にした窓には頬をこけさせた窶れた男の顔が幽霊のように浮かんでいる。
大月には一週間後の予約を入れた。音楽療法というのは人気があるらしく、そこしか時間が取れなかったのだ。それまでに飲むようにと精神安定剤を処方されている。眠れる成分も入っているからきちんと飲めば、今より落ち着き、眠れて食欲も回復するだろうということだった。
ただ、『水音』に関しては、まだ手がつけられないらしい。
中谷も大月に全部を話したわけではない。深雪のことや母親のことはほとんど伝えていないし、田尾に殺されかけたこともまだだ。だが、現状を話しただけでも、気持ちの重さは少しましになった。自分一人で背負うはずだった荷物を、そっと隣で支えてもらったような感覚だ。
何度か話しましょう、と大月は笑った。人なつこい温かな目で見つめながら、ゆっくりと知り合って、少しずつ近づいて、お互いどういうふうにやればもう少し楽に生きられるか探しましょう、と。帰る間際に自然な感じで肩に一瞬置かれた手は、やっぱり大きく温かで、それも少し気持ちを緩ませた。
電車を降り、タクシーでマンションに戻る。
真っ暗な部屋に少し焦りながら明かりを灯し、中谷は座り込んだ。久しぶりの外出で心底疲れた。
それでも、次に進む先が見えてきているのはありがたい。
習慣のように酒瓶に手を伸ばしかけて、寸前大月のことばを思い出した。もらった薬には酒を併用するとまずいものがある。「ひょっとして、お酒をたしなまれるかもしれませんが」。大月は部屋を見たような表情で付け加えた。「この薬とお酒は併用しないで下さい。強い副作用があります」「どんな?」「強い入眠作用と幻覚、肝臓にもよくないです。急性肝炎の恐さはご存知ですね?」。中谷はうなずいた。『ジャーナル』でも何人か肝臓を傷めて入院するはめになったのがいる。
空の瓶はゴミに放り込み、残っているのは冷蔵庫の奥へ突っ込んだ。かわりにというのではないが、煙草に火をつけて一服する。
「ぅ…」
くら、と一瞬めまいがした。それほど吸ってなかったかなと思い出してみたが、よくわからない。唇の端にくわえながら、久しぶりに取り出したノートに必要な情報と取材ルートを書き出してみた。
まず『ソシアル』についてだ。
中谷の知っている情報は田尾が仕入れてきたものだ。田尾が『ソシアル』と何らかの関わりがあるのなら、やつが見せたカードが正しいとは限らない。
田尾がらみでない情報を得なくてはならないが、音楽業界からどのように入り込むか。普通の歌手ならば所属事務所と、それに繋がる音楽出版社が情報をコントロールしているはずだが、『ソシアル』は所属こそ結構な大手事務所だが、音楽出版社は『カオス』という聞いたこともない無名のところと契約しているらしい。今回はその両方から情報が取れないのは明らかだから、別ルートで『ソシアル』が何ものなのかについて探っていかなくてはならない。そのルートをどこに求めるか。
それに、『ハレルヤ・ボイス』そのものについても、再調査だ。
大月の話によれば、『エンジェル・ホール』には特別な仕掛けがあって、観客を酔わせるようになっているらしいし、『ソシアル』の原音はこともあろうに『ハレルヤ・ボイス』であり、それは音楽を媒体として医療に関わっている人間にとってはよく知られたことらしい。
そういうことならば、この劇的な『ハレルヤ・ボイス』の一件が単なる新興宗教のイニシェーション程度にしか話題にならず、医学界で無視されてきた理由もわかる。医学ではない『音楽』が治病効果をあげたことへの抵抗だけではなく、それが実は治癒だけではなく発症ももたらす諸刃の剣である可能性を判じかねたというところなのだろう。「私達は困ってるんです、ああいう理論も何もなく、ただ症状が消えるというそれだけで『音楽』の治療効果について論議されるのは」。大月はそこだけは不愉快そうに眉をしかめていた。
『ハレルヤ・ボイス』や『越智笙子』についても、今までとは違ったルートで情報を集め直さなくてはならないだろうが、こっちにはキィ・ロドニ-というケルベロス並みの番犬がいる。中谷とは多少の繋がりがあるように振舞っているが、中谷が笙子の敵に回ったと認識したら容赦なく噛みついてくるだろう。
「ふ…ぅ」
ペンを放り出し、短くなった煙草を強く吸いつけた。一気に血液がどこかに持ってかれる感覚を頭の中心に捉えて、目を閉じ壁にもたれる。
自分がどこかでまだ笙子を、『ハレルヤ・ボイス』を信じたがっているのを中谷は感じた。深雪が信じてすがった笙子、その救いの幻ができれば本当であってほしいと願っている。目を開けると、久しぶりの喫煙で酸欠に陥った脳みそのせいか、部屋がゆらゆらと揺れている。
中谷はフィルター近くまで燃えた吸殻を灰皿に落とし、次の煙草に火をつけた。取り出した携帯で短縮ダイヤルを押す。時間は真夜中に近い。出るとは思わなかったが、数回のコールの後、冷ややかな声が戻ってきた。
『何だ、中谷』
「元気か」
『お前がいなくて、わたしも笙子もすこぶる快調だ。そっちは危なそうだな』
微かに笑みを含んだキィの声に苦笑いする。
「よくご存知で」
『情報は使わなくては意味がない。お前は一体何を掴んだ?』
キィは中谷の電話の意味を確実に理解していたようだ。
「『ソシアル』の原音は『ハレルヤ・ボイス』なのか?」
水面に小石を落としたような沈黙が応じた。
やがて、
『あのとき、放り出しておけばよかったな。へたな情けが仇になる』
「笙子は知ってるのか?」
どうせぶつかる地獄の門番、二度目の奇襲は許すまい。ことば一つ一つをできるだけ鋭く突きつける。
『今どこにいる、中谷』
「知らないんだな?」
『自宅ならば、そのまま一時間ほど居ろ。明日には天国が見られるぞ』
「どうしてそんなことになった?」
『切るぞ』
「いつかはわかるぞ、それほど鈍い人間じゃない、一度でも聴けばわかる」
『彼女が「ソシアル」を聴くことはない』
初めてキィとことばが噛み合った。
『彼女が「ソシアル」を聴いたときは……「ハレルヤ・ボイス」だけじゃない、越智笙子がこの世から消える』
「どういうことだ?」
『わからないのか、中谷』
嘲りを帯びた声が切ない響きを宿したように聞こえた。
『笙子は罪悪感を抱えてるんだぞ?』
「……ああ」
両親を殺した。自分の歌を聴くものを、罪を背負わせ死に追いやった。それでも自分が歌が捨てられない、自分が生き延びるために。それはたぶん、究極のエゴでしかない。笙子はそう感じている。
「お前は『ソシアル』を聴いたのか?」
『当然だ』
「自殺とか」
『するわけがなかろう』
キィはあっさりと言い放った。
『わたしは罪悪感など持ったことがない。わたしの言動がどういう効果をもたらすにせよ、最終決断は当人にある。それに責任を持つなど不可能だ。他者の評価にも興味はない』
「笙子以外、はな」
『ゴキブリでも学習できるんだな』
「……褒めてくれて嬉しいよ」
くわえていた煙草から灰が崩れて膝に散った。
「『ソシアル』は『ハレルヤ・ボイス』の暗黒面、というわけだ」
『笙子さえ同意してくれればさっさと消せるんだ』
キィは苛立った声で答えた。
『「ソシアル」を消せば、「ハレルヤ・ボイス」を諦めなくて済む。なのに、笙子は同意しない。頑固で困る』
どこか舌足らずになった声に、中谷は笑った。キィが「消せる」というのなら、跡形もなく『ソシアル』も田尾も消せるのだろう。ならば、
「田尾を逃がしたのはお前か」
ずっと引っ掛かっていた。田尾のやり方はとても用意周到とは言えない。思いつきとその場しのぎ、それから底の浅いブラックジョークだ。なのに、その田尾は警察とキィの追及を逃れて、どこかに紛れ込み消えてしまった。警察はともかく、それなりに手荒い仕事もこなしているはずのキィ・ロドニ-が、たかがマニアックなプログラマーの一人や二人、見つけられないということがあるだろうか。
「ついでに聞いといてやる。あの日、シャワーを勧めたのは俺への牽制か?」
笙子の『ハレルヤ・ボイス』を支え守り保ってきた男が、心理的な問題に無知であったとは思えない。笙子が心配しているのは確かだったろうが、中谷を追い込むことは理解していたはずだ。
『中谷』
声が微かに笑い返した。
『ゴキブリから猿にしてやろうか?』
「なぜだ?」
それは思わず零れた問いかけだった。
「俺はお前が叩くほどのやつじゃないだろう?」
社会的にも肉体的にも、それこそ心理面でも、中谷はキィにとってすぐに押し潰せる虫けらのような存在だったはずだ。
『勘違いするな』
キィはひんやりとした声で応じた。
『わたしは田尾を逃がしたりしていない。田尾はもういない。そういうことだ』
相手の声の温度が携帯を通して耳から体にしみ通ったようだった。
「キィ」
『だから、今「ハレルヤ・ボイス」の脅威はお前だけだ。言っている意味はわかるな?』
くすくす、と楽しげな笑い声が響いた。
『てっきり自滅してくれたと思ったんだが、やはりゴキブリだな、殺虫剤につけこまないと死なないらしい。中谷、水は好きになったか?』
全身の毛穴が開いた気がした。
「この…っ」
『お前を始末するときは溺死にしよう』
電話は切れた。口から落ちた煙草を拾う手が白く色を失ってがたがた震えている。
「くそ……っ……」
『水音』が甦りそうになる。押さえつけた心の底の蓋が跳ね上がり、血の色をした水が吹き上がってくる。歯を食いしばり、煙草をねじりつけ、放り出していた薬袋を開けて、中身をペットボトルの水で飲み下した。勢い余ってつるりと唇から這い降りた液体の感触に、全身が竦んで悲鳴をあげそうになる。
「う…う……っ」
唇に鋭い痛みが走った。けれどなおも強く噛みしめて、中谷は両手で体を抱え、よろめきながらベッドに転がり込んだ。
「畜生……っ………ちく………しょ………う……っ……」
自分の中でまたもや鮮やかにくっきりと再現される悪夢に身悶えながら、中谷はベッドに蹲った。
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