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大月の処方してくれた薬はきちんと効いてくれた。
キィへの電話から十数日、薬を飲みながら、眠り、何とか食事を取り、目覚めて数十分の安定期に取材スケジュールを練り、動き回った。
調べてみると『エンジェル・ホール』はかなり特殊な造りをされていて、シューズボックスタイプのコンサートホールではあるものの、反響板や座席の配置、設計段階の音響効果だけではなく、建築資材そのものも厳選された上で各部に特殊な『音』を発生させられるような音響装置が設置されており、笙子がそこでしか歌わない、CDなどは一切出さないというのも、『ハレルヤ・ボイス』を効果的に売り出せるためというよりは、そうしてしか『ハレルヤ・ボイス』が成り立たない、という可能性さえあることが明らかになってきた。
「つまりさ」
『エンジェル・ホール』を造るときに入札できなかった建築会社の重役が、ぽろっと零した。
「『ハレルヤ・ボイス』ってのは、まあちょっとよく歌える女の子を、どうやったら派手に売り出せるかってところで『癒し』とか『救い』とか『奇跡』とかって演出をしたって言えると思うね」
『エンジェル・ホール』の建築はこの不況下にあって、かなりいい仕事だった。技術も要求されるが、それでも仕上げたことで得られる宣伝効果は凄まじい。かなり多くの建築会社が名乗りをあげたのだが、いろいろと細かな条件を出されていくに従って歯が欠けるように消えていき、最後に残ったのは数社、しかも、その入札ときたら、談合でも行なわれていたような妙な間具合で決まったのだという。
「それがさ、あのキィ、だっけ? あの人がらみの関連会社だってさ」
相手は苦笑いして続けた。
「つまりはさ、まあ、『ハレルヤ・ボイス』の売り出しと一緒に、宣伝効果のある高額な事業をでっち上げて、文化財団とかから資本提供を受けて、まあ、あちこちすんなりとおさまった、ということなんだな。はなから、キィの一人勝ちの商売だったってことだよ。そういうことなら、こっちも早めに引いたんだけどねえ、ついつい粘って余分な金を注いじまった」
表に出ない金も結構派手に動いたらしい。
「今もそうだろ? 『癒しと救い』ってカラーでさ、まあ『エンジェル・ホール』は満杯だし? かなり儲けてるよな。あの子も、さあ、それを知ってるのか、知らないのか」
儲けにあずかれなかった悔しさからの中傷半分としても、キィのような男がなぜ笙子の『ハレルヤ・ボイス』にこだわるのか、よくわかったような気がした。
「ビジネス、ってことか」
中谷は、カフェカウンターでカップのコーヒーを頼み、いつもなら蓋にストローをさすところを、そっと開けて中身を覗き込んだ。ゆら、と揺れる濃い茶色の液体を、ゆっくり速度をつけて揺らしていく。カップの内側を這い上ったコーヒーがちゃぷん、と音をたてて崩れ落ち、一瞬緊張したものの、何とかパニックを起こさずに見つめられたことに少しほっとした。透明な水はまだ緊張するが、色がついてたり、粘度があったりすると、何とか扱えるようになってきたのは、とにもかくにも大月のおかげだろう。
(笙子)
街を行き過ぎる少女にふっと彼女を重ねて立ち止まることも、少しずつだが減ってきた。それは、『ハレルヤ・ボイス』が深雪の望んだほど超常的なものではなく、傷み苦しみへたっている人間の脆い部分にちょうど滑り込むように設定された、言わば人工的で物理的な『癒し』であるらしいとわかりだしたことと重なっている。
(結局、俺も他の奴らと同じに、笙子に夢を押しつけていたってことか)
天界から降りた地上の傷みを癒す聖なる少女として。
(それでも)
中谷はまだ、笙子のことを夢だと諦めきれていない。『エンジェル・ホール』での感動や興奮が演出された幻であるにせよ、田尾に刺された中谷を守り抱き癒してくれようとしていた笙子の姿まで演技だとは思えなくて、どこかでずっと戸惑っている。
こうして、『ハレルヤ・ボイス』について、キィに脅されながらもなお調べ続けているのは、高岡に約束した仕事のためでもあるが、自分がこの先、何をどう信じて生きていこうか決めあぐねているということかもしれない。
煙草をくわえ、火をつけた矢先、携帯が鳴った。
「はい、もしもし」
『中谷さんですか? 大月です』
「あ……どうも」
穏やかな優しい声が響く。ふと、手首を握られたときの温もりが甦った。
『実は急なキャンセルがありまして。もし、お時間あれば治療にお越し頂いてもいいのですが』
「ああ」
ちら、と中谷は空を見上げた。青かった空に千切れた雲が飛んでいるのが次第に増えてきていて、いつの間にか薄暗くなってきつつあった。家に帰りつくまでに雨になるかもしれない。
(雨)
ぞくりと体の芯が凍った。透明で、天から振り落ちてくる、無数の水滴。
「伺います」
追いつめられるように答えた。
「ニ十分ほどでいけます」
『お待ちしています』
柔らかな大月の声に、居場所を見つけたような気がして、中谷はほっと息を吐いた。
「早かったですね」
大月はいつも通りにこやかに中谷を迎えた。
「雨が降りそうでしたから」
ことばを切って窓へ一瞬視線を投げる。
「その前に来られればいいのになあ、と思っていたんですよ。傘はお持ちでしたか?」
「いいえ」
中谷は肩の力を抜いた。
(気づいてくれてる)
それと示されはしないけれど、中谷の不安を抱きかかえるような寄り添われ方に安心する自分がいる。
「俺も、それが心配で」
普段なら口にしない不安を訴えていた。
「帰るときに雨がひどければタクシーを呼びましょう」
僅かに竦んだ中谷を素早く見てとって、大月は付け加えた。
「何なら泊まっていかれてもかまいませんよ?」
「……すみません」
中谷は苦笑して俯いた。顔が少し熱くなった。
実は前回初めて大月の用意した『音楽』による治療というものを受けた。そのとき、あまりにも気持ちよくて、ついつい熟睡してしまい、大月は自宅に戻るに戻れず居残ってくれたのだ。「起こしてもよかったんですが、まだしんどい状況が続いているようですから」。同情を含めた声音で笑われて、自分の弱味をそっと受け止められたような気がした。
「今日は……うーん、どうしましょうね。はい、背中を向けて」
大月が考え込みながら、中谷の背中の中央へひたりと両手を当ててきた。やはり少し温度を下げてある診療室に、その手がふんわりと温かい。そのまま、上へ少しずつずらす。
「今は? 眠れてますね?」
「はい」
「食事は」
「食べてます」
「おいしいですか」
「……えーっと、ときどき」
「ときどき、ね」
大月は背骨にそって肩まで両手を当てていくと、今度はゆっくりとやはり背骨にそって下へ両手を降ろしていく。ひた、ひた、とカイロのように形のある温もりが、背中から腰へ降りていく。最初はくすぐったくて落ち着かなかったが、体の緊張を診てるんですよと何度かされるうちに慣れてきた。腰骨のあたりをそっと押さえられて、それから中央、背骨の付け根にひたりと手を押し当てられる。微かに腹の底で揺らめく火が疼いた。それがちょうど、あの封じた記憶の蓋あたり、と思ったとたんにするすると手は背中の中央に戻ってくる。ふう、と思わず息を吐いて、自分がいつの間にか緊張していたのに気づいた。
「大丈夫ですか?」
肩ごしに思わぬ近さ、耳の後ろぐらいで声が響いてぎょっとした。
「あ、はい」
「緊張しておられますね?」
「そう、みたいです。どうしてかな」
無意識に体を前にずらせた。そのままくるりと振り返る。大月はいつもの場所でカルテを覗き込んでいる。
(もっと近くにいたような気がしたんだが)
戸惑っていると、大月は視線を上げてにこりと笑った。
「もう一度この前と同じものをしましょう。部屋へどうぞ」
「はい」
促されて立ち上がる。その瞬間にふらりと体が揺れて、大月の腕に支えられた。
「すみません」
「疲れておられるのですね?」
「そうかも、しれないです」
足下の不安定さに中谷は違和感を覚えた。自分ではそれほど疲れているとは思っていない。けれど、スツールから立ち上がった足に力が十分に入らない気がするのも確かだ。落ちつかない感覚を持て余しながら、先へ進もうとすると、中谷を支えていた大月が立ち止まったままなので、思わず振り返った。
「先生?」
「降ってきましたね」
「え」
どきりとして窓の外を見る。細い雨が次第に勢いを増しながら降り始めていた。窓にあたって跳ね返る水、流れる水滴の筋。すう、っと力が抜ける気がした。よろめいたのを、大月にすがる形でしのぐ。
「中谷さん」
「すいません……やっぱり、まだ、引っ掛かるのかな」
がっしりした腕を掴み直しながら、中谷は大月に笑いかけた。大月が心配そうに目を細める。
「そうかもしれないですね。さ、こちらへ」
いつもの部屋かと思ったらそうではなかった。隣の部屋、構造はほぼ同じだが、そこには洗面台がついている。それに気づいて足を止めた中谷に、大月はすまなそうに、
「急な予約変更だったものですみません。けれど、すぐに音楽を流しますからね」
「あ、はぁ」
一抹の不安はたじろぐ気配のない大月の動作に薄まった。中谷をベッドに横にさせ、掛け物を整え、部屋の空調を確かめて、ヘッドフォンを渡す。
「これは?」
いつもならば部屋に音楽が響くのだが、といぶかしく見上げると、大月は少し眉を上げた。
「雨が気になるかもしれないですからね。ヘッドフォンの方が音が直接届きますから」
「ああ……はい」
うなずいたものの、防音の行き届いた室内で雨のことを忘れかけていた中谷は、逆に思い出させられたような気がした。
(俺がこだわっているせいか?)
「では」
ヘッドフォンから覚えのある音楽が流れはじめる。モーツァルトに似ているが、大月が開発したもので、人の下半身に共鳴し、心理的問題でしこって固まりになってしまっている組織を緩め解放し癒すものだと言う。
大月が会釈して照明を暗くし、部屋を出ていくのを見送って、中谷は目を閉じた。
(疲れた…)
確かに前より眠れているし、食事も取れる。自分が確実に回復しているのはわかるけれども、まだるっこしくて苛立ってしまう。調べあげれば調べあげるほど、『ハレルヤ・ボイス』は巷で噂される愛と癒しの歌声などではなくて、容赦ない企業戦略の上に成り立ったビジネスだということがわかるばかりだ。
(笙子はどこまで知ってるんだ。それとも、笙子も全てわかってやっているのか)
ヘッドフォンの音楽からつい気が逸れた瞬間、『それ』が聞こえた。
ぽとん。
「っ!」
思わず息を呑み、全身を硬直させてしまう。耳をすませたが、聞こえてくるのは穏やかで明るい音楽ばかりだ。体がリラックスして緊張が解けて気持ちが安らかになる。しばらく耳をそばだてていたが、聞こえない。気のせいか、しかしひさしぶりだったな、そう気持ちが緩み始めた矢先。
ぽ、と、ん。
「う…あっ!」
ヘッドフォンを引き剥がして跳ね起きた。音が消え去る。部屋を見回す。洗面台からか? 近づいて確かめればいいのだろうけど、万が一、滴り落ちた水滴を指で受けたらと思った瞬間に動けなくなった。震える体をごまかしながらヘッドフォンをもう一度引き寄せる。音はしない。もし、滴っているのなら、今も聞こえるはずだ。
中谷はとっさに窓の外の雨を思った。
(雨音がどこからか聞こえてきていて?)
自分で尋ねて首を振る。ヘッドフォンをしたまま聞こえるような音なのだ、防音設備を越えて部屋に響き渡るほどの雨音などあるはずがない。けれど、ヘッドフォンからは聞こえなかった。
中谷は震えながらヘッドフォンを握りしめた。実は前回も一度だけ似たようなことがあって、そのときは人の囁きだったのだけど、ストレスによる幻聴かもしれない、と大月に言われた。
(幻聴……だとしたら)
中谷はきつく唇を噛んだ。大月は幻聴だとしたら、もう少し強い薬を呑み、入院も考えなくてはならない、と言った。けれど、入院して、その音が遮れるという保証はない、とも。
一番耐えきれない音が内側から四六時中響いてくる。そんなことになったら。
(俺は……耐えられるのか…?)
激しく首を振って、中谷はヘッドフォンを耳に押し当てた。流れてくる音楽に集中する。甘くて気持ちのいい旋律。柔らかな音に酔い始めて、体から力が抜け出したとき。
ぽ。と。
「く…うっ」
中谷はヘッドフォンをきつく押さえた。蹲り、流れ始めた冷や汗になお強く唇を噛む。血の味がする。
(違う、気のせいだ)
ヘッドフォンの音に意識を必死に固定する。集中し、それ以外の音を遮ろうと頭を抱え込む。過熱する体が震えを増すのに歯を食いしばる。
(違う、違う、聞こえてなんかいない)
ぽ。。と。。。ん。。。
「う……あ……っ……あっ……」
顔が涙で濡れる。その感触に追いつめられる。
(水が、流れる)
中谷の『水』が。闇へ向かって。呼吸が乱れる。苦しくて辛くて、身動きできない。
(誰か……たすけて……くれ……)
意識が飛びかけたとき、ドアがそっと開いた。
「中谷さん……いかが…」
大月の声にヘッドフォンを押さえつけたまま振り返る。視界が涙で揺れている。
「中谷さんっ」
「せん…せぃ…」
走りよってくる白衣に手を差し伸べる、指が握られて手が受け止められ体が抱きとめられて、自分がベッドから転げ落ちかけたことに気づく。すがりつく温もりが揺らがずに中谷を支えた。
「助けて……ください……」
掠れた声で懇願する。
「大丈夫、大丈夫ですよ、中谷さん」
しっかりと抱え込まれて息を吐いた。
「大丈夫です、すぐに楽になりますよ」
低い声で囁かれて、深い安堵が広がる。
「すぐに楽にしてあげますよ、だから」
声がなぜか一瞬笑みを含んだ。すぐに中谷の心の奥底までしみ通るような深い声音で、
「すぐに楽にしてあげます、だから」
大月がゆっくりと繰り返す声をひどく快く感じながら、中谷は意識を失った。
キィへの電話から十数日、薬を飲みながら、眠り、何とか食事を取り、目覚めて数十分の安定期に取材スケジュールを練り、動き回った。
調べてみると『エンジェル・ホール』はかなり特殊な造りをされていて、シューズボックスタイプのコンサートホールではあるものの、反響板や座席の配置、設計段階の音響効果だけではなく、建築資材そのものも厳選された上で各部に特殊な『音』を発生させられるような音響装置が設置されており、笙子がそこでしか歌わない、CDなどは一切出さないというのも、『ハレルヤ・ボイス』を効果的に売り出せるためというよりは、そうしてしか『ハレルヤ・ボイス』が成り立たない、という可能性さえあることが明らかになってきた。
「つまりさ」
『エンジェル・ホール』を造るときに入札できなかった建築会社の重役が、ぽろっと零した。
「『ハレルヤ・ボイス』ってのは、まあちょっとよく歌える女の子を、どうやったら派手に売り出せるかってところで『癒し』とか『救い』とか『奇跡』とかって演出をしたって言えると思うね」
『エンジェル・ホール』の建築はこの不況下にあって、かなりいい仕事だった。技術も要求されるが、それでも仕上げたことで得られる宣伝効果は凄まじい。かなり多くの建築会社が名乗りをあげたのだが、いろいろと細かな条件を出されていくに従って歯が欠けるように消えていき、最後に残ったのは数社、しかも、その入札ときたら、談合でも行なわれていたような妙な間具合で決まったのだという。
「それがさ、あのキィ、だっけ? あの人がらみの関連会社だってさ」
相手は苦笑いして続けた。
「つまりはさ、まあ、『ハレルヤ・ボイス』の売り出しと一緒に、宣伝効果のある高額な事業をでっち上げて、文化財団とかから資本提供を受けて、まあ、あちこちすんなりとおさまった、ということなんだな。はなから、キィの一人勝ちの商売だったってことだよ。そういうことなら、こっちも早めに引いたんだけどねえ、ついつい粘って余分な金を注いじまった」
表に出ない金も結構派手に動いたらしい。
「今もそうだろ? 『癒しと救い』ってカラーでさ、まあ『エンジェル・ホール』は満杯だし? かなり儲けてるよな。あの子も、さあ、それを知ってるのか、知らないのか」
儲けにあずかれなかった悔しさからの中傷半分としても、キィのような男がなぜ笙子の『ハレルヤ・ボイス』にこだわるのか、よくわかったような気がした。
「ビジネス、ってことか」
中谷は、カフェカウンターでカップのコーヒーを頼み、いつもなら蓋にストローをさすところを、そっと開けて中身を覗き込んだ。ゆら、と揺れる濃い茶色の液体を、ゆっくり速度をつけて揺らしていく。カップの内側を這い上ったコーヒーがちゃぷん、と音をたてて崩れ落ち、一瞬緊張したものの、何とかパニックを起こさずに見つめられたことに少しほっとした。透明な水はまだ緊張するが、色がついてたり、粘度があったりすると、何とか扱えるようになってきたのは、とにもかくにも大月のおかげだろう。
(笙子)
街を行き過ぎる少女にふっと彼女を重ねて立ち止まることも、少しずつだが減ってきた。それは、『ハレルヤ・ボイス』が深雪の望んだほど超常的なものではなく、傷み苦しみへたっている人間の脆い部分にちょうど滑り込むように設定された、言わば人工的で物理的な『癒し』であるらしいとわかりだしたことと重なっている。
(結局、俺も他の奴らと同じに、笙子に夢を押しつけていたってことか)
天界から降りた地上の傷みを癒す聖なる少女として。
(それでも)
中谷はまだ、笙子のことを夢だと諦めきれていない。『エンジェル・ホール』での感動や興奮が演出された幻であるにせよ、田尾に刺された中谷を守り抱き癒してくれようとしていた笙子の姿まで演技だとは思えなくて、どこかでずっと戸惑っている。
こうして、『ハレルヤ・ボイス』について、キィに脅されながらもなお調べ続けているのは、高岡に約束した仕事のためでもあるが、自分がこの先、何をどう信じて生きていこうか決めあぐねているということかもしれない。
煙草をくわえ、火をつけた矢先、携帯が鳴った。
「はい、もしもし」
『中谷さんですか? 大月です』
「あ……どうも」
穏やかな優しい声が響く。ふと、手首を握られたときの温もりが甦った。
『実は急なキャンセルがありまして。もし、お時間あれば治療にお越し頂いてもいいのですが』
「ああ」
ちら、と中谷は空を見上げた。青かった空に千切れた雲が飛んでいるのが次第に増えてきていて、いつの間にか薄暗くなってきつつあった。家に帰りつくまでに雨になるかもしれない。
(雨)
ぞくりと体の芯が凍った。透明で、天から振り落ちてくる、無数の水滴。
「伺います」
追いつめられるように答えた。
「ニ十分ほどでいけます」
『お待ちしています』
柔らかな大月の声に、居場所を見つけたような気がして、中谷はほっと息を吐いた。
「早かったですね」
大月はいつも通りにこやかに中谷を迎えた。
「雨が降りそうでしたから」
ことばを切って窓へ一瞬視線を投げる。
「その前に来られればいいのになあ、と思っていたんですよ。傘はお持ちでしたか?」
「いいえ」
中谷は肩の力を抜いた。
(気づいてくれてる)
それと示されはしないけれど、中谷の不安を抱きかかえるような寄り添われ方に安心する自分がいる。
「俺も、それが心配で」
普段なら口にしない不安を訴えていた。
「帰るときに雨がひどければタクシーを呼びましょう」
僅かに竦んだ中谷を素早く見てとって、大月は付け加えた。
「何なら泊まっていかれてもかまいませんよ?」
「……すみません」
中谷は苦笑して俯いた。顔が少し熱くなった。
実は前回初めて大月の用意した『音楽』による治療というものを受けた。そのとき、あまりにも気持ちよくて、ついつい熟睡してしまい、大月は自宅に戻るに戻れず居残ってくれたのだ。「起こしてもよかったんですが、まだしんどい状況が続いているようですから」。同情を含めた声音で笑われて、自分の弱味をそっと受け止められたような気がした。
「今日は……うーん、どうしましょうね。はい、背中を向けて」
大月が考え込みながら、中谷の背中の中央へひたりと両手を当ててきた。やはり少し温度を下げてある診療室に、その手がふんわりと温かい。そのまま、上へ少しずつずらす。
「今は? 眠れてますね?」
「はい」
「食事は」
「食べてます」
「おいしいですか」
「……えーっと、ときどき」
「ときどき、ね」
大月は背骨にそって肩まで両手を当てていくと、今度はゆっくりとやはり背骨にそって下へ両手を降ろしていく。ひた、ひた、とカイロのように形のある温もりが、背中から腰へ降りていく。最初はくすぐったくて落ち着かなかったが、体の緊張を診てるんですよと何度かされるうちに慣れてきた。腰骨のあたりをそっと押さえられて、それから中央、背骨の付け根にひたりと手を押し当てられる。微かに腹の底で揺らめく火が疼いた。それがちょうど、あの封じた記憶の蓋あたり、と思ったとたんにするすると手は背中の中央に戻ってくる。ふう、と思わず息を吐いて、自分がいつの間にか緊張していたのに気づいた。
「大丈夫ですか?」
肩ごしに思わぬ近さ、耳の後ろぐらいで声が響いてぎょっとした。
「あ、はい」
「緊張しておられますね?」
「そう、みたいです。どうしてかな」
無意識に体を前にずらせた。そのままくるりと振り返る。大月はいつもの場所でカルテを覗き込んでいる。
(もっと近くにいたような気がしたんだが)
戸惑っていると、大月は視線を上げてにこりと笑った。
「もう一度この前と同じものをしましょう。部屋へどうぞ」
「はい」
促されて立ち上がる。その瞬間にふらりと体が揺れて、大月の腕に支えられた。
「すみません」
「疲れておられるのですね?」
「そうかも、しれないです」
足下の不安定さに中谷は違和感を覚えた。自分ではそれほど疲れているとは思っていない。けれど、スツールから立ち上がった足に力が十分に入らない気がするのも確かだ。落ちつかない感覚を持て余しながら、先へ進もうとすると、中谷を支えていた大月が立ち止まったままなので、思わず振り返った。
「先生?」
「降ってきましたね」
「え」
どきりとして窓の外を見る。細い雨が次第に勢いを増しながら降り始めていた。窓にあたって跳ね返る水、流れる水滴の筋。すう、っと力が抜ける気がした。よろめいたのを、大月にすがる形でしのぐ。
「中谷さん」
「すいません……やっぱり、まだ、引っ掛かるのかな」
がっしりした腕を掴み直しながら、中谷は大月に笑いかけた。大月が心配そうに目を細める。
「そうかもしれないですね。さ、こちらへ」
いつもの部屋かと思ったらそうではなかった。隣の部屋、構造はほぼ同じだが、そこには洗面台がついている。それに気づいて足を止めた中谷に、大月はすまなそうに、
「急な予約変更だったものですみません。けれど、すぐに音楽を流しますからね」
「あ、はぁ」
一抹の不安はたじろぐ気配のない大月の動作に薄まった。中谷をベッドに横にさせ、掛け物を整え、部屋の空調を確かめて、ヘッドフォンを渡す。
「これは?」
いつもならば部屋に音楽が響くのだが、といぶかしく見上げると、大月は少し眉を上げた。
「雨が気になるかもしれないですからね。ヘッドフォンの方が音が直接届きますから」
「ああ……はい」
うなずいたものの、防音の行き届いた室内で雨のことを忘れかけていた中谷は、逆に思い出させられたような気がした。
(俺がこだわっているせいか?)
「では」
ヘッドフォンから覚えのある音楽が流れはじめる。モーツァルトに似ているが、大月が開発したもので、人の下半身に共鳴し、心理的問題でしこって固まりになってしまっている組織を緩め解放し癒すものだと言う。
大月が会釈して照明を暗くし、部屋を出ていくのを見送って、中谷は目を閉じた。
(疲れた…)
確かに前より眠れているし、食事も取れる。自分が確実に回復しているのはわかるけれども、まだるっこしくて苛立ってしまう。調べあげれば調べあげるほど、『ハレルヤ・ボイス』は巷で噂される愛と癒しの歌声などではなくて、容赦ない企業戦略の上に成り立ったビジネスだということがわかるばかりだ。
(笙子はどこまで知ってるんだ。それとも、笙子も全てわかってやっているのか)
ヘッドフォンの音楽からつい気が逸れた瞬間、『それ』が聞こえた。
ぽとん。
「っ!」
思わず息を呑み、全身を硬直させてしまう。耳をすませたが、聞こえてくるのは穏やかで明るい音楽ばかりだ。体がリラックスして緊張が解けて気持ちが安らかになる。しばらく耳をそばだてていたが、聞こえない。気のせいか、しかしひさしぶりだったな、そう気持ちが緩み始めた矢先。
ぽ、と、ん。
「う…あっ!」
ヘッドフォンを引き剥がして跳ね起きた。音が消え去る。部屋を見回す。洗面台からか? 近づいて確かめればいいのだろうけど、万が一、滴り落ちた水滴を指で受けたらと思った瞬間に動けなくなった。震える体をごまかしながらヘッドフォンをもう一度引き寄せる。音はしない。もし、滴っているのなら、今も聞こえるはずだ。
中谷はとっさに窓の外の雨を思った。
(雨音がどこからか聞こえてきていて?)
自分で尋ねて首を振る。ヘッドフォンをしたまま聞こえるような音なのだ、防音設備を越えて部屋に響き渡るほどの雨音などあるはずがない。けれど、ヘッドフォンからは聞こえなかった。
中谷は震えながらヘッドフォンを握りしめた。実は前回も一度だけ似たようなことがあって、そのときは人の囁きだったのだけど、ストレスによる幻聴かもしれない、と大月に言われた。
(幻聴……だとしたら)
中谷はきつく唇を噛んだ。大月は幻聴だとしたら、もう少し強い薬を呑み、入院も考えなくてはならない、と言った。けれど、入院して、その音が遮れるという保証はない、とも。
一番耐えきれない音が内側から四六時中響いてくる。そんなことになったら。
(俺は……耐えられるのか…?)
激しく首を振って、中谷はヘッドフォンを耳に押し当てた。流れてくる音楽に集中する。甘くて気持ちのいい旋律。柔らかな音に酔い始めて、体から力が抜け出したとき。
ぽ。と。
「く…うっ」
中谷はヘッドフォンをきつく押さえた。蹲り、流れ始めた冷や汗になお強く唇を噛む。血の味がする。
(違う、気のせいだ)
ヘッドフォンの音に意識を必死に固定する。集中し、それ以外の音を遮ろうと頭を抱え込む。過熱する体が震えを増すのに歯を食いしばる。
(違う、違う、聞こえてなんかいない)
ぽ。。と。。。ん。。。
「う……あ……っ……あっ……」
顔が涙で濡れる。その感触に追いつめられる。
(水が、流れる)
中谷の『水』が。闇へ向かって。呼吸が乱れる。苦しくて辛くて、身動きできない。
(誰か……たすけて……くれ……)
意識が飛びかけたとき、ドアがそっと開いた。
「中谷さん……いかが…」
大月の声にヘッドフォンを押さえつけたまま振り返る。視界が涙で揺れている。
「中谷さんっ」
「せん…せぃ…」
走りよってくる白衣に手を差し伸べる、指が握られて手が受け止められ体が抱きとめられて、自分がベッドから転げ落ちかけたことに気づく。すがりつく温もりが揺らがずに中谷を支えた。
「助けて……ください……」
掠れた声で懇願する。
「大丈夫、大丈夫ですよ、中谷さん」
しっかりと抱え込まれて息を吐いた。
「大丈夫です、すぐに楽になりますよ」
低い声で囁かれて、深い安堵が広がる。
「すぐに楽にしてあげますよ、だから」
声がなぜか一瞬笑みを含んだ。すぐに中谷の心の奥底までしみ通るような深い声音で、
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物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
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