『ハレルヤ・ボイス』

segakiyui

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離れた鳥を
いつまでも見送っていた

戻ってほしいとは思わない
飛ぶべき空を見つけたから
もう少しとも望まない
その翼は癒されているから
陽に融ける姿を
光に混じる影を
差し伸べた手で受け止めた

もう届かないことを
確かめた


11

 耳の奥で柔らかく響いていた音が幻のように消え去っていくのを確認してから、ゆっくりとヘッドフォンを外して、中谷は起き上がった。思わず吐息を漏らして、そのまま少し、ベッドの上でぼんやりする。
 
 もう、一週間以上になる、あの雨の日。
 あれが最大の危機だったのだ、と大月は言った。
 中谷の傷みがぎりぎりになって、大月に助けを求めることが狙いだったので、いささか無理をさせてしまったかもしれません、と数時間後に目覚めた中谷に相手は笑った。「枠を外してもらって、新しい道を探してもらうためには、自我というものを一旦手放してもらうことが必要なんです」。疲れで身動きできない中谷にそう説明した。
 その夜、中谷は大月に薬を処方してもらい、そこで眠った。
 翌朝、隣の部屋に泊まったという大月は、迷惑をかけたと恐縮する中谷を促して、近くの喫茶店でモーニングを取った。プライベートの友人のように、スポーツの話、好みの酒や食い物の話をして、熱いコーヒーを飲んで。そういう付き合いをしたのは本当にひさしぶりだった。友人らしい友人も仕事についてからは碌にいなかったから、大月の屈託のない笑顔に寛いだ。 
 それから、もう一度診療室に戻って、中谷は大月の治療を受けた。
 元通りのいつもの部屋で横になり、音楽を聞きながら、大月の声に従って、記憶を巻き戻していく。
 自分の一番苦しい記憶の側に近づいて、無意識に強ばった中谷の手首を脈を取るようにしっかり握り締めた大月に、母親が風呂場で自分をどうしたかを途切れ途切れに話した。
 不思議なことに、それを大月に話すことはあまり抵抗がなかった。「苦しかったですね」。そうつぶやかれて、閉じた視界がじんわりと熱くなった。「ええ、はい」「あなたのせいではなかったのに」「…そう、ですか?」「そうですよ。親がその範囲を越えてしまった、それが問題だった。あなたのせいではないんです」「俺は……ずっと俺のせいだと……思ってました……」。自分の中に人間失格の浅ましい欲望が潜んでいて、それが吹き出してしまったのだと。「違いますよ」。大月が静かに否定する声が音楽に混じり込みながら響いて、中谷は深く震える息を吐いた。「あなたのせいじゃないんです、だから、もう自分を許してあげましょう」「……はい」。ぎゅ、と力づけるように手を握られて、それにまた安心した。
 大月の言うには流れている音楽には4000~8000ヘルツの高音が入っているのだそうだ。
 一般的に8000ヘルツ以上の音域には「神の世界へ扉」を開くもの、つまり、精神的な悟りとか深い理解を促す働きがあるらしい。赤ん坊が胎内で聴いている音は、昔は低音域だとされていたが、最近の研究ではこの音域にかなり近いのではないかとも言われている。
 その少し手前の音域は体の中の首から頭に近い部分を共鳴させる。人の心の愛とか憐れみとかの他者との関係を高度に発展させる感情を刺激するらしい。
 『エンジェル・ホール』に流されている音域は、この4000~8000ヘルツ以上のもので、それによって人は母親の胎内を想起する。観客が安らぎ受け入れられた気持ちになるのも当然だということになる。また高音域はうまく使えば高揚感をもたらすので、かなり高いヘルツの音が巧みに織り込まれて流されているのだろうとも付け加えた。
 大月の療法では、その受容感をベースに重ねて大月が話しかけることで、日本語の125~1500ヘルツの音域を強化する。その低音域の響きは仙骨から胸椎あたりまでを共鳴させ、再調整するものだという。
 仙骨から胸椎にかけては人間の生存本能や感情、意志などを司るとされる場所でもあり、中谷の問題は幼いときに発達すべきその部分が、母親との行為を無視しようとして切り捨てられたために起こったのだろう、と大月は言った。「トラウマになっている記憶を、安定した条件の元で甦らせ、もっと巻き戻していくことで、トラウマ以前の発達段階に戻れます。そこから、再度、発達し直すというか、今の大人としての思考や感覚を注ぎ込んで修正しながらやり直すわけですよ」。
 それを順調にすすめるためにも、高音域の刺激が必要なので、音楽を使うのだという。「流れているのはCDトラックではありません。CDは20000ヘルツまでしか収録できないようになっているので、アナログベースにあれこれ手を加えてあるんです。レコードだと40000ヘルツぐらいまで再現できるものがありますから」。人間の可聴域とされているのは16~16000ヘルツ、220~20000ヘルツの二説があるらしいが、意識の活性化には20000ヘルツ以上が必要とされているらしい。
 おそらくは、と大月は言いにくそうに付け加えた。「『ハレルヤ・ボイス』がCDプレスを避けているのは、ホールで加えられている高音域を確保できないためでしょう。医科学的なアプローチで説明できることをことさら大袈裟にして利益を貪るなんてひどいことです」。しかも、その声は一方で『ソシアル』の原音となって、多くの罪のない人を苦しめているのに、自分も被害者であるようなふりをして中谷さんを追い詰めるなんてもっての他ですね、と苛立った表情の大月に、中谷は人に初めて親身になってもらったような気がした。

 あれから、三日に一度の割合で、中谷は大月の治療を受けている。
 今日みたいに音楽を聞いてひたすらゆっくりとベッドに横になっているときもあれば、大月が側にいて、あれやこれやと思い出すままに話すときもあった。
 だが、今はもうあれほどひどい状態にはならない。というか、あれを話してしまった時点で、その他のさまざまに積み重なった辛いことも、話すに足りないことのような気がしてきた、という方が正しいのかもしれない。次第に中谷は話すことばを失いつつあり、大月もことさらに聞いてくるようなことはない。今日のように、大月は診療を続け、中谷は与えられた部屋で音楽を聞きながら横になっているということが増えてきた。
 怪我から一ヶ月半、傷が痛むこともかなり減ったし、食欲も戻ってきた。煙草を手放せないが、酒を浴びるように飲むこともなくなった。動けるようになった中谷を、高岡がのんびり放置するわけもなく、後半月で仕上げてこれるんだろな、と急かす声もあって、治療の日以外は取材や調査に回っている。
 今は『ソシアル』への再接近をはかっている最中だ。
 回復している、のだろう、と思う。
 たぶん。
「中谷さん? 終わりましたか?」
「あ、はい」
 声をかけられて、中谷は我に返った。部屋に響いた声に応じて、ヘッドフォンを床頭台に戻してベッドから滑り降り、診療室へ戻る。
「大丈夫ですか?」
 大月がにっこりと笑ってカルテから顔を上げた。
「調子はどうですか?」
「いいと思います……食べ物もおいしいですし」
「眠れていますね?」
「はい」
「じゃあ……次は」
「あの」
 中谷はスツールに座ったまま背筋を伸ばした。
「いつになったら、治療が終わるんでしょう?」
「え?」
「ずいぶん元気になったと思うんです。夢も……見ないし」
「そう、ですね」
 大月は考え込むようにペンを頬に当てた。カルテに落とした視線をゆっくりと上下させながら、
「安定は、していると思います。けれど、似たような状況が大丈夫とは……言えないかもしれない。たとえば、雨……とか」
「……」
 中谷は俯いた。雨、ということばにまだ竦むものがある。
 あの日。必死に『水音』を遮ろうとしてもがき、ついに力尽きて大月にすがった日。
 じり、と胸の奥に広がったのは微かだけれど怒り、だった。自分一人で保てなかった誇りが傷ついた瞬間。
(次に同じことが起こったら、俺はもつ、のか?)
 自分で問うた瞬間に不安が湧き起こる。
「お仕事に問題がありますか?」
 尋ねられて顔を上げた。
「いえ……時間はやりくりできるので」
「じゃあ、焦らずに気長にやっていきましょう。こういうストレスは繰り返すほど酷いものになります。今回はうまくおさまったけれど、次回はもっと酷いかもしれない」
(次回は……もっと酷い……?)
 大月のことばにひやりとした刺で胸を貫かれたような気がした。
(あれでも酷かった)
 なのに、あれより『酷い』ことになる、というのか?
 心の中でさえことばにならずに、ぞくりとして体が凍った。
(そんなの……耐えられない)
「たとえば、雨に濡れるはめになったり……今はお風呂は入れるようになったんですね?」
「あ、はい」
「けれど、唐突に水を浴びてしまうこともあります。トンネルを通ったときに急に落ちてくる雫とか、車が跳ね上げる水たまりの飛沫とか」
 大月がさらさらと例をあげるたびに、ぞく、ぞく、と冷えた針に体中を刺されるような気がした。
「わかっているときは大丈夫でも、予期しないときに起こる出来事は衝撃も大きいです。中谷さんの場合は『水音』というどこにでもあるものがきっかけなんですから、何を避ければいいというものではない。避けられずに……水に落ちてしまうことだってあるでしょう」
 びくっ、と体が跳ねた。行為の後、突き落とされるように背中から落ちた湯舟。竦んだ手足。なのに、中心は妙に熱くて。湯舟の冷めかけた湯にひんやりと包まれたとき、なぜかまた一瞬くらっと感覚が揺れたことを思い出す。
 いつの間にか、腰を引いて体を抱えるように座っていた。呼吸が乱れて上がっている。
「中谷さん?」
「大丈夫、です」
 呼び掛けられて笑い返す。我ながら、不安定な笑みだろうと思った。
「……では、もう少し続けましょう」
 大月は目を細めた。カルテに赤いラインをいれて何か書き込みながら、
「お薬を少し減らしますね。お薬の方はもう少ししたら、飲まなくてよくなるでしょう」
「そう、ですか」
 それが少しは治療が進んだということのように思えて、中谷はほっとした。

 『大月シンフォニア』を出て駅に向かう。
 今日は午前中だったから、まだ日射しが明るく街を照らしている。
「く…」
 ふいに首のネクタイがどうしようもなく息苦しくなって、結び目に手をかけて強く引いた。元々緩く巻き付けていた程度のそれがよれて垂れるのに、のろのろともう一度ひっぱる。
 回復している、はずだ。
 たぶん。
(たぶん、ってのは何だ?)
  夜眠れるようになった。食欲も回復した。仕事もでき、こうして街中もうろつける。顔も洗えるようになったし、シャワーはまだ抵抗があるが、入浴はできるようになっている。数週間前の追いつめられた気持ちが嘘のようだ。そうしてみると、中谷は確かに回復しているし、大月の音楽療法は効果的だったのだろう。
(なのに)
 夢を見なくなった。悪夢だけではない、それまでに見ていた様々な夢をぴたりと見なくなった。
 そのせいかどうかわからないが、微妙に自分の感覚が鈍い気がする。何と言うか、気持ちが動かなくなった。声を上げて笑うことがなくなり、胸が痛くなるほど辛くならなくなり、取材先での理不尽な扱いに苛つき怒ることが減った。社の連中は中谷は穏やかになった、と言う。丸みのある性格になった、と。
(本当にそうか?)
 それは今までに味わったことのない奇妙な感覚だ。穏やかで平和で落ち着いていて、気持ちは揺れず体調は崩れず、つまりは平和そのものなのに、なぜかふとした拍子に自分が世界からはじき出されたような感じが襲ってくる。
『たぶん。』
 それは中谷の感覚をとてもよく現している。
 今自分は回復し治っていっているのだろう。
 たぶん。
 今自分はよい方向に向かっているのだろう。
 たぶん。
 感じること考えること全てに、たぶん、とつけなくては落ちつかない。なぜ、たぶん、なのか。自分の気持ちや考えなのに、なぜ、たぶん、と言い訳しなくてはならない気持ちになってしまうのか。
 駅へ向かう道を足を引きずって歩きながら、煙草をくわえた。
 吸いたいからではない。それしかない、そんな感覚だ。家に帰るために駅へ向かう、その間はただ歩くだけ、口が寂しい、だから、煙草を押し込んで火をつけ、何かしているような気になる。
 煙を吸い込まないまま、散り落ちていく煙草の灰を眺めている。のろのろ歩いていた足が次第に速度を落とし、やがて中谷は立ち止まった。一本灰になってしまった煙草を落として踏みつけることさえなく、次の煙草をくわえて火をつける。だが、それもただ燃えて灰になっていくだけだ。
 そうやって何本も何本も、駅の手前のバスターミナルで、ただただ煙草を灰にしている中谷を、周囲の人間は気にした様子もない。足下に溜まり出した吸殻にときどき眉をしかめる人はいるが、それだけだ。皆足早に目的地へ急ぐ。
 ついに最後の一本になったのに、中谷は体を翻した。駅へ向かうのではなくて、少し戻った場所にあった煙草の自販機に辿りついて、ポケットから出した小銭を入れる。一個買い、二個買い、ふいに全然足りないという気がして、三個、四個と買い、我に返った。
「何……やってんだ?」
 つぶやきながらも、新しいパッケージを開けて、煙草をくわえている自分がいる。火をつけ、それでも安心できない気がして、次の一本を指先で探る。不安が募ってきているのがわかった。煙草を燃やしている間は停止状態になる思考、その間だけ安心できると気づいて、なお不安になる。
「薬の……せいかもな」
 自分にそっと言い聞かせてみた。
 精神を安定させる薬の中には、感覚を鈍らせることで過敏になっている神経を押さえるものがある。感覚が鈍い気がするのはそのせいかもしれない。大月もそう言っていたはずだ。「けれど、その安静は、今の中谷さんに必要なものですよ」。自信たっぷりな口調で不安がる中谷に教えてくれたはずだ。
 こんなところで立ち止まってるからおかしなことを考えてしまうのだ。
 中谷は首を振って駅へ向かい直そうとした。その左手から買い過ぎてポケットにおさまり切れなかった煙草が一つ道路に落ちる。舌打ちしてそれを拾い上げようとしたとき、ふいにざわりとした感触が背中を走った。
「なに…?」
 何か鳥の羽根のようなもので背筋を撫で上げられたような感覚。煙草を拾い上げて振り返ると、自販機の横から細い道が住宅地の奥に入り込んでいるのに気づいた。奇妙な感触はそちらの方から流れてきたような気がする。ためらって立ちすくんでいると、風が微かに吹き寄せて、まるでそれに何かが含まれていたように、中谷は再び皮膚を粟立てた。
 ざわめく、不安な、けれど、なぜか鮮烈で胸を揺らす、その感覚。
 吸い寄せられるようにその小道へ足を進める。
 駅からこの住宅地の住人だけが使っているのだろう、コンクリートで固めただけの味もそっけもない小道は、家の間をすり抜けるようにして、やがて小さな公園に続いていた。滑り台と鉄棒しかない、雑草だらけの公園。中央にもとは花壇だったのだろうか、円形の赤レンガで囲んだ部分があって、そこも雑草に絡みつかれたツツジのようなものが枯れかけながら植わっている。周囲を武骨なコンクリートのベンチが囲んでいる。
 そして、その一つに腰掛けている細い姿。
(笙子!)
 ベンチで笙子が目を閉じて小さな声で歌っていた。光を浴びて幸福そうなその笑顔、鼻歌程度なのだろうが透き通った声がはっきりした旋律をまるで音符一つ一つを確認するように積み重ねていく。
 よく見れば、そのベンチには中谷にはよくわからない小さな鳥が集まっていて、笙子の声に聞き惚れているように大人しくしている。背後に茂った草も木も、心なしか笙子の方に身を乗り出すように見えて、それはまるで、彼女の歌を人ではなくてこの世界が待ち望んでいるように見える。
 古くて懐かしい絵画を見るように、思わずその光景に目を奪われていた中谷は、ふいに遠くで車のクラクションが鳴ったのにぎくりとした。同じ音が歌を遮り、驚いたのだろう、鳥達が一斉に笙子の側から羽ばたき飛び出し、空へと消える。
「あ」
 立ち上がった笙子が引き止めるように鳥の去った空へと手を伸ばした。背伸びする膝にセーラー服が揺れる。幸福そうに微笑んでいた顔が一瞬にして眉を寄せて寂しそうに歪んだ。置き去りにされた、そんな顔で、もう姿の見えない鳥達の消えた方向に両手を伸ばし続ける。
「っ」
 中谷の胸が、痛んだ。
 大丈夫だと抱き締めてやりたい、と思った。側に駆け寄り、細い体を抱きかかえて、耳元でそっと、大丈夫だ、と。あいつらはあんたを愛してる。必ずまた戻ってくるから、大丈夫だ。そんな悲しい顔をするな、と。
 けれど、身動きできなかった。
 中谷は笙子を傷つけた。伸ばされた手をはねつけたのは中谷自身だ。それでなくても、自分の内側に問題を抱え、わけもわからず煙草をやたらと買ってしまって困っているような男に、一体何ができるのか。
 唇を噛んでそのまま身を引こうとしたとき、笙子がそろそろと両手を降ろした。諦めたのかと思って見直すと、胸のあたりまで引き寄せた両手をやわやわ、と握ってみている。
「?」
 掌を上に向けて、まるで何かそこにあるような感じで、また軽く動かし、小首を傾げた。
「何も」
 小さなつぶやきが漏れた。
「ない……」
 掠れた声。俯いて空っぽの掌を見つめ、ふいに不安そうに笑った。
「何も、ない、のね」
(笙子)
 自分に言い聞かせるような切ない声音に心臓に手を突っ込まれて握りしめられたような気がした。さっきよりも数段消えそうで、脆そうで、不安そうで、頼りなげで。今にも泣きそうな顔でやわやわ、とまた掌を動かして、それから目を閉じた。眉を寄せて、また、笑う。困ったように。苦しそうに。
 それから、もっと小さな声で、
「なかたにさん」
 いきなり名前を呼ばれた。茫然とする中谷の耳にもう一度、優しい声で、
「……なかたに、さん」
(俺…?)
 一体どうして、そう声をかけかけた矢先、微かなハミングが響いた。
「!」
 繰り返される旋律には覚えがある。田尾に刺されて命の境を彷徨ったあのとき、笙子が歌っていたものだ。
 柔らかな声。
 あなたが大切だ。
 あなたを失いたくない。
 だから、どうか、死なないで。
 一人で逝って、しまわないで。
 懇願する、切ない響き。
 だが、レベルが違った。
 笙子は握りしめた両手をそっと胸に押し当てて体をゆすっている。まるで、そこに彼女の大事なものがあって、それに聞かせているようにハミングしている。
 それが次第次第に大きく響き始めたのだ。
「なに…?」
 響きに空気が震える。空間が震える。
 そればかりではない。葉が震え、草が震え、木が震える。いや、コンクリートも土もレンガも、そこにあるどれほど硬いものでも震えている。
 見えない波が笙子を中心に広がっていく。地震のような津波のような、世界そのものを揺さぶるような震えが、笙子の軽く閉じた唇から、その細い体から、微かにこぼれるハミングから生まれていく。
「…っっ!」
 その震えが空間を満たして中谷まで届いた瞬間、全身に何かを打ち込まれたような気がした。皮膚を貫き肉を犯し骨の髄に直接響く衝撃、体の細胞一つ一つが否応なく揺さぶられていく。
(なに? 何が?)
「……っあ」
 突然、怯んで後じさりした足下から頭のてっぺんに向けて、巨大な波が駆け上がってきた。身体全てがざわめく波にくるまれて摩り上げられる感覚、しかも衣服を剥がれた肌に直接加えられているように鮮烈な刺激。それは限りなく快感に近い。それも中途半端に煽られていた気持ちが一気に沸点を迎えるときのような、身動きとれないほどのもの、だ。
◆(あ……ああっ)
 声にならないまま、中谷はその震えに貫かれて仰け反った。一気に過熱する頭、跳ね上がるように硬直した身体を支えようとした足がくにゃりと力を失う。よろめきながらかろうじて踏み止まったものの、衝撃はおさまらない。
「……く……ぅ……っ」
 二度、三度と襲ってくる波を堪えて側の木にすがる。それでも、その木がもう、細かなさざ波をたてて揺れているように感じてしまう。何に触れても、どこにすがっても、全てが快感を呼び起こす細かな波に揺さぶられていて、触れたが最後、すぐに身体が共鳴し次の波に攫われていきそうになる。
(これが……ホールで……機械で増幅されている…だと……っ)
 息が上がって視界が眩んだ。大月は笙子の『ハレルヤ・ボイス』は『エンジェル・ホール』の特殊な音響装置によって加工されてできていると言っていた。
 だが、ならば今中谷やこの周囲を巻き込んで鳴り響いている、この『声』は一体何だというのだろう。
 それはもう『歌』というレベルではない。『音』と呼ぶのさえ控えめな表現に感じる。震動、波動、物理的で掴めそうなほど攻撃的な、はっきりとした『力』だ。これとくらべれば、あの『エンジェル・ホール』の歌声が、それでも心にしか入ってこなかったことがわかる。
 『大月シンフォニア』で流されている音楽とはけた違いの、全身を容赦なく引っ掴んで、細胞、いや構成分子そのものを揺さぶり切り解き砕いてくるこの『震動』は、意志も感情も無視して中谷を叩きのめす。
(立って……られない……)
「は……っ」
 食いしばった口を開いて息を吐いたとたん、一瞬意識が飛んだ。にじんだ汗が流れ落ちる。足が崩れて倒れかける。必死にすがった木が大きく揺さぶられて動き、ばさっと音をたてた。
 ふいに音が止んだ。あやうく地面に膝をつきかけた中谷の潤んだ視界に、驚いた表情の笙子が映る。
「あんた……一体……何を……」
 喘ぎながらかけた声はみっともないほど掠れていた。堪えて堪え切れず、そのままずるずると崩れて、地面に膝をつき、手をついて激しい呼吸を繰り返す。体の中に無理矢理に火をつけられて燃え盛ったままで放置されているようで、苦しくて動けない。
「何を……やった……っ」
「中谷…さん」
「!」 
 笙子が囁いて、ぞくりと中谷は身体を震わせた。周囲はもう震動していないのに、笙子の声に体が反応してしまう。
「く……っ」
 呻いて蹲る、へたをするとこのままきわどい一線を越えてしまいそうだ。
(そんな…みっともねえこと……できっかよ……)
 十代の坊やでもそんな馬鹿な振る舞いはしない、しかも惚れた女の前で、など。呼吸を吐き出し、熱を逃がす。くらくらする意識を必死に周囲に引き戻す。
 どうにかこうにか体を押さえて必死に呼吸を整えながら見上げると、笙子は見開いた目で口を押さえた。
「あ……」
(だからっ……しゃべ……んな……)
 刺激されてすぐに揺れそうになる視界を瞬きしながら堪えて、中谷は笙子と視線を絡めた。相手は真っ白な顔色になっている。そろそろと足を引き、体を引いた。
「笙…子」
 かけた声がまずかった。潤んで濡れた声、まるで今この場で笙子を求めるような。我ながらぎょっとして口をつぐむと、顔が熱くなった。
(なんて声)
 その中谷の声に、笙子はきつい顔になって身を翻した。セーラー服のプリーツを乱して公園の向こうへ走り出していく。
 その後ろ姿に深雪の最後の背中が重なって、中谷はぞっとした。
(また、失う?)
 冷水を全身に浴びた気がした。


 

 


 
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