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「笙子っ…」
がくがく震えている足を引きずりあげて叫んだ。逃げる背中が怯んだように見えたが、すぐに再びスピードを上げるのに、舌打ちして走り出した。今にも前へのめりそうになるのを足を踏み出すことで支えていく。
「待て」
首を振った、ように見えた。翻るスカートが木々の間に飲まれていく。公園の奥は雑木林を挟んでグラウンドになっている。そこを過って駆け抜けてしまえば、その先はまた細かな道が交叉する住宅地、そこまで逃げられてしまえばもう掴まらない。
(なぜだ?)
「笙子!」
(なぜ、俺を呼んだ?)
「笙子!」
呼び掛けながら後を追う、その距離が見る見る縮まっていく。やがて、グラウンドに抜ける寸前で、中谷は笙子の真後ろに迫った。最後の一足を飛びかかるように近づいて、笙子の肩を掴んで側の木へと押し付ける。
しばらく二人とも呼吸が苦しくて話せないほどだった。木に押しつけられた笙子は観念したのか、俯いてはあはあと息を弾ませている。
「今のは……何だ……」
中谷はおさまってくる呼吸を待つのももどかしく質問をぶつけた。
「何を……したんだ」
感覚を思い出して、ずきりと下腹部が疼いた。そちらに意識がもっていかれそうになるのを無理に切り離す。
笙子は俯いたまま応えない。微かに首を振ると、黒い髪がさらさらと音をたてた。
「なんで……」
なかなか整わない呼吸に苛立ちながら、中谷は声を荒げた。
「俺を……呼んだ……?」
笙子はまた首を振る。このままずっと応えないつもりなのかと思わず左手で顎をすくいあげた。
「ふ」
「…っ」
大きな音をたてて中谷の心臓が止まった。
笙子は笑っていた。とても嬉しそうに、大きな目を細めながら。紅潮した頬に紛れもなく満足そうな表情を浮かべながら。
けれど、それは一瞬だった。笑った顔が見る見る歪み、唇を噛み、顔を背ける。その目から銀の粒が零れ落ちた。透明できれいな水滴。
中谷は息を呑んだ。それが指先に触れる前に笙子の顎から手を引いた、つもりだった。だが。
「!」
びくっと笙子が体を強ばらせて気づいた。笙子の顎をすくいあげたそのままに、中谷は唇を寄せていた。白い滑らかな肌に浮かんだ血の色を、そこを流れ落ちる水滴を舌と唇で集めて吸い取る。切なげに身をよじった笙子が新しい涙を零して、それも夢中で吸い取った。追いかけそこねて耳元へ流れた涙をいいことに、薄紅に色づいた小さな耳たぶを唇で探り、舌で絡めて口に吸い込む。
(甘い)
涙に濡れて塩辛いはずのそれは、やんわりと中谷の唇に弾力を返した。
「なか…たに……さ……」
消えそうな声が呼び掛けてきて、それにもなお煽られた。
(とまらねえ)
背けた顔、押さえつけた肩、吸われて赤みを増した耳たぶの下には透き通るような首がある。自分の動作がとてつもなくもどかしいもののように思えて、歯噛みしながら唇を艶やかな首筋に落とし込む。ひくっと体を強ばらせた笙子が、それでも逃げる様子がないのに、唾を呑み込み白い肌にきつく吸いつく。
はやく、はやく。心臓が煽り立てている。手を緩めたらまた逃げる、そうしたら二度と掴まらない、だから、はやく、はやく、最後まで。
「あ…」
「んっ」
柔らかで切ない吐息を耳にして、中谷は呻いた。押さえつけるだけだった相手の体を抱き込む。体の火を相手に移したくて、膝を割り、足を滑り込ませた、その瞬間。
「中谷、さん」
掠れてはいるけど、はっきりした声が響いた。
「私を抱いたら、楽になるんですか?」
「……へ?」
我ながら間抜けた声だった。吸いついた首から顔を上げると、ゆっくりと笙子はこちらに振り向いた。
「抱かれたら……許してくれますか?」
黒い瞳がいっぱいの涙をたたえながら微笑んだ。
「抱かれたら………歌ってても………いいですか……?」
「笙…子……」
風が吹き過ぎる。静かで穏やかな夕方の風だ。どれほどそうやって見つめあっていたのだろう。ふいに、中谷は痛いほど高ぶった自分の熱と、対照的に冷えた笙子の体を意識した。
笙子は中谷の腕の中で、震えて怯えて今にも崩れそうになっていたが、瞳だけはしっかりと中谷を凝視している。抱き込まれ、膝を割られ、今にも襲われそうになっているのに、そこに映っているのは痛々しいほどの誠実さしかなくて。
『じっとしてるの?』
耳の奥に聞こえた声。
『じっとしてたら、いいの?』
おかあさんがすることを我慢してたら、僕はこの家に居られるの?
体が寒くてしんどくて辛い、けど、ここでしか生きられないから。
『おとうさん、最近、帰ってこないね』
叩かれて、なじられて、同じ男だから、どうしようもないとののしられて。
ほら、これがその証拠だよ。握られ刺激され嘲笑われて、果てた体を蹴り飛ばされた。
『だって』
『だって、そうなっちゃうんだよ?』
けだもの。母親にそんなこと考えられるなんて。けだもの。妹にもそうするんだろう。
『僕がおかしいの?』
自分を追い詰めた相手に尋ねた、きっと今の笙子のように、ただひたすら誠実に、正しい答えをくれるはずだと信じきって。
ダカレタラ………アナタノヨクボウヲミタセレバ………ココデイキテテモ……イイデスカ。
「俺に……聞くな……」
中谷は呻いた。
悪寒と吐き気が襲ってきた。
突き放した笙子が辛そうに木にもたれたまま、中谷を見つめ返す。
それは湯舟に落ちて茫然としている自分とあまりにもそっくりで。
全身が凍った。
(俺は、何を)
「中谷さん」
「しゃべんな」
口を開くと中身を全部吐き出しそうだ。苦しいのも悲しいのも痛いのも辛いのも汚いのもずるいのも。
(俺は)
ずっと被害者だと思っていた。
(俺は)
壊れてたのは母親だけだと思っていた。
「中谷さん?」
「しゃべ、んなっ」
(俺も?)
今笙子を襲ったのはなぜだ。意に添わずに抱かれる辛さを知ってるはずなのに?
(俺も)
今、中谷が襲ったのは、笙子だったのだろうか。
それとも、遠い日に、あの暗い風呂場で母親におもちゃにされていた自分だったのだろうか。
「どこかへ、消えろ」
嫌な記憶も不愉快な発想も。
「中谷さん……」
よろめくように笙子が体を起こした。首を傾げ、何かを探すように中谷を覗き込もうとする。白く細い首筋に傷つけられたように紅の花、それが中谷の罪状を告げる口に見えて思わず体を引く。
「でも、私は」
(それ以上話すな。それ以上見るな。それ以上揺さぶるな。それ以上)
「歌うな」
ぎくりと笙子が動きを止めた。大きな瞳をまっすぐに中谷に向けて凝視する。その視線にまた吐き気に襲われて、中谷はことばを絞り出した。
(もうこれ以上俺を)
「揺さぶるな」
心とことばの境が見つからない。
(俺は、もう、限界だ)
「壊れる」
どこまで口に出しているのか、どこまでは心の中のことなのか、もうわからない。
笙子が表情を消した。無言でしばらく見つめあう。
やがて、そっと笙子がつぶやいた。虚ろな弱々しい笑みを浮かべる。
「もう、さっきみたいな歌い方はしませんから……」
さっきみたいな。
鳥肌が立って、下半身が疼いて、頭が眩んで、泣き出しそうになって。中谷は即座に答えた。
(あんな歌を)
「歌うな」
「でも……」
話せ、と誰かが体の内側で囁いた。
話してぶちまけてしまいなさい。そうすれば、楽になる。すぐに楽になりますよ。だって、実際、『ハレルヤ・ボイス』のせいなんですからね、全ては。だから。
吐き気がひどい。口を開きたくない。けれど、閉じてると内側の圧に弾け飛びそうだ。
話してしまいなさい。
何を?
あなたが悪いわけじゃない。
そうだ。
さあ、真実を。
「『ソシアル』の原音は『ハレルヤ・ボイス』なんだぞ!」
「………え…………?……」
「え?」
言った瞬間、中谷は茫然とした。笙子も目を見開いたままで見返してくる。
(俺は)
「中谷さん……? ……ごめんなさい……今……なんて……」
(一体、何を)
中谷は口を覆った。霞がかかったようになっていた頭が、ふいにくっきりと澄み渡る。けれど、口に出してしまったことばがどれほどの破壊をもたらすのかも同時に気づいて、体が竦んだ。
笙子がおどおどした顔でそっと微笑みかけてくる。
「あの……今……『ソシアル』の原音が……私の声、だって……?」
否定してくれるのを待つようにことばを切った笙子は、応えない中谷にゆっくりと首を傾げた。
「『ソシアル』は……私の声を元に………造られてる………?」
「笙子…」
「そう……なんですか……?」
「笙子、待て、違う、だから、それは」
言いかけて、中谷は笙子がぼんやりとした顔で両手を上げたのに口をつぐんだ。俯いて、さっきのように掌を上に向けた両手を、今度は動かさずにじっと見つめている。
「笙子?」
「………何にも………なかったんですね……」
「え?」
「少し……あったかと……思ったんですけど……」
低い声がつぶやいて、ほう、と溜息をついた。ゆっくりと両手を握りしめる。それから静かに顔を上げた。
「中谷さんが、私を嫌うの、無理ないってわかりました」
生気の失せた顔で笑った。
「よく、わかりました」
もう一度小さな吐息をついて、笙子は笑みを深めた。今にも泣き出しそうな顔で、けれど瞳も潤ませることもないままに。
「抱かれても、ダメですね?」
微かなつぶやきが続く。
「私は……中谷さんならいいかって……勝手に思ってました」
「は…?」
(今何を)
揺さぶられ続けた気持ちが笙子のことばをうまく聞き取れない。
「中谷さんは、私を、憎んでるんでしたよね。『ソシアル』が私の声なら、ほんと、深雪さん殺したの、私ですもんね」
舌足らずな口調でつぶやいて、うんうんとひとりうなずいて見せた。
「もっと早く聞けば、よかったです」
小さな声で付け加えた。
「もっと早く。いっぱい人が死ぬ前に。いっぱい人を殺す前に。私、間違ってました」
「笙子」
「教えて頂いてありがとうございました」
唐突にぺこりと頭を下げる。そのままで、
「もう、歌いません」
「笙……っ!」
急に強い風が吹いた。木々が波打ち、葉が千切れて乱れ飛ぶ。中谷の顔をまともに叩きつけたそれに、思わず目を閉じ顔を背ける。
長くて強くて激しい風だった。目を開けようとしても、それを阻むように、中谷の体を叩く風。
やがて。
「笙子?」
風がおさまったとき、中谷の目の前から笙子の姿は消えていた。
どこを探せばいいのかわからなかった。駅にもいない。周囲のどこにも気配一つ見つからない。
迷いに迷い、探しあぐねたあげく、中谷は携帯のボタンを押した。ひょっとしたら、番号を変えているかもしれないと思ったが、相手はすぐに出た。
『中谷』
「キィ」
『満足か?』
唐突に問われて戸惑う。
「何が?」
『見事に仇を討ったじゃないか』
「……笙子はそっちに戻ってるのか?」
『ああ』
安堵の吐息をつきかけて、相手の奇妙なやりとりに気づく。
「仇?」
『貴様を殺しとくべきだった』
キィは冷ややかな怒りを漲らせて続けた。
『どうもわたしは貴様に対してぬるい。いつも一歩出遅れる。自分の愚かさが腹立たしいよ』
「笙子に何かあったのか」
『何か? 何かしたのは貴様だろう』
携帯越しでもキィの怒り狂った気配が伝わってくる。
『笙子は帰ってくるなり、こう言った。「キィ、『ソシアル』の原音は私です。確かめました」』
そのことばの意味が中谷にしみ込むには数分を要した。
「……確か……めた……?」
『笙子はCDショップを回って「ソシアル」を聴いてきたんだ』
ぞっとした。
人の一番辛い記憶を引きずり出す音を自分で刻み込んできたというのだ。
『「私が人殺しでした」、そう言った』
きり、と歯ぎしりしたような嫌な音を響かせて、キィは付け加えた。
『泣きもしない』
中谷の脳裏に淡く笑った笙子の顔が甦った。あの笑顔で、キィに言ったのだろうか。自分が人殺しだった、と。
『「ハレルヤ・ボイス」は消える。笙子はもう歌えない』
相手は吐き捨てた。
「キィ…」
『満足か、中谷』
切れた携帯を手に、中谷は暮れていく街の中で立ちすくんだ。
がくがく震えている足を引きずりあげて叫んだ。逃げる背中が怯んだように見えたが、すぐに再びスピードを上げるのに、舌打ちして走り出した。今にも前へのめりそうになるのを足を踏み出すことで支えていく。
「待て」
首を振った、ように見えた。翻るスカートが木々の間に飲まれていく。公園の奥は雑木林を挟んでグラウンドになっている。そこを過って駆け抜けてしまえば、その先はまた細かな道が交叉する住宅地、そこまで逃げられてしまえばもう掴まらない。
(なぜだ?)
「笙子!」
(なぜ、俺を呼んだ?)
「笙子!」
呼び掛けながら後を追う、その距離が見る見る縮まっていく。やがて、グラウンドに抜ける寸前で、中谷は笙子の真後ろに迫った。最後の一足を飛びかかるように近づいて、笙子の肩を掴んで側の木へと押し付ける。
しばらく二人とも呼吸が苦しくて話せないほどだった。木に押しつけられた笙子は観念したのか、俯いてはあはあと息を弾ませている。
「今のは……何だ……」
中谷はおさまってくる呼吸を待つのももどかしく質問をぶつけた。
「何を……したんだ」
感覚を思い出して、ずきりと下腹部が疼いた。そちらに意識がもっていかれそうになるのを無理に切り離す。
笙子は俯いたまま応えない。微かに首を振ると、黒い髪がさらさらと音をたてた。
「なんで……」
なかなか整わない呼吸に苛立ちながら、中谷は声を荒げた。
「俺を……呼んだ……?」
笙子はまた首を振る。このままずっと応えないつもりなのかと思わず左手で顎をすくいあげた。
「ふ」
「…っ」
大きな音をたてて中谷の心臓が止まった。
笙子は笑っていた。とても嬉しそうに、大きな目を細めながら。紅潮した頬に紛れもなく満足そうな表情を浮かべながら。
けれど、それは一瞬だった。笑った顔が見る見る歪み、唇を噛み、顔を背ける。その目から銀の粒が零れ落ちた。透明できれいな水滴。
中谷は息を呑んだ。それが指先に触れる前に笙子の顎から手を引いた、つもりだった。だが。
「!」
びくっと笙子が体を強ばらせて気づいた。笙子の顎をすくいあげたそのままに、中谷は唇を寄せていた。白い滑らかな肌に浮かんだ血の色を、そこを流れ落ちる水滴を舌と唇で集めて吸い取る。切なげに身をよじった笙子が新しい涙を零して、それも夢中で吸い取った。追いかけそこねて耳元へ流れた涙をいいことに、薄紅に色づいた小さな耳たぶを唇で探り、舌で絡めて口に吸い込む。
(甘い)
涙に濡れて塩辛いはずのそれは、やんわりと中谷の唇に弾力を返した。
「なか…たに……さ……」
消えそうな声が呼び掛けてきて、それにもなお煽られた。
(とまらねえ)
背けた顔、押さえつけた肩、吸われて赤みを増した耳たぶの下には透き通るような首がある。自分の動作がとてつもなくもどかしいもののように思えて、歯噛みしながら唇を艶やかな首筋に落とし込む。ひくっと体を強ばらせた笙子が、それでも逃げる様子がないのに、唾を呑み込み白い肌にきつく吸いつく。
はやく、はやく。心臓が煽り立てている。手を緩めたらまた逃げる、そうしたら二度と掴まらない、だから、はやく、はやく、最後まで。
「あ…」
「んっ」
柔らかで切ない吐息を耳にして、中谷は呻いた。押さえつけるだけだった相手の体を抱き込む。体の火を相手に移したくて、膝を割り、足を滑り込ませた、その瞬間。
「中谷、さん」
掠れてはいるけど、はっきりした声が響いた。
「私を抱いたら、楽になるんですか?」
「……へ?」
我ながら間抜けた声だった。吸いついた首から顔を上げると、ゆっくりと笙子はこちらに振り向いた。
「抱かれたら……許してくれますか?」
黒い瞳がいっぱいの涙をたたえながら微笑んだ。
「抱かれたら………歌ってても………いいですか……?」
「笙…子……」
風が吹き過ぎる。静かで穏やかな夕方の風だ。どれほどそうやって見つめあっていたのだろう。ふいに、中谷は痛いほど高ぶった自分の熱と、対照的に冷えた笙子の体を意識した。
笙子は中谷の腕の中で、震えて怯えて今にも崩れそうになっていたが、瞳だけはしっかりと中谷を凝視している。抱き込まれ、膝を割られ、今にも襲われそうになっているのに、そこに映っているのは痛々しいほどの誠実さしかなくて。
『じっとしてるの?』
耳の奥に聞こえた声。
『じっとしてたら、いいの?』
おかあさんがすることを我慢してたら、僕はこの家に居られるの?
体が寒くてしんどくて辛い、けど、ここでしか生きられないから。
『おとうさん、最近、帰ってこないね』
叩かれて、なじられて、同じ男だから、どうしようもないとののしられて。
ほら、これがその証拠だよ。握られ刺激され嘲笑われて、果てた体を蹴り飛ばされた。
『だって』
『だって、そうなっちゃうんだよ?』
けだもの。母親にそんなこと考えられるなんて。けだもの。妹にもそうするんだろう。
『僕がおかしいの?』
自分を追い詰めた相手に尋ねた、きっと今の笙子のように、ただひたすら誠実に、正しい答えをくれるはずだと信じきって。
ダカレタラ………アナタノヨクボウヲミタセレバ………ココデイキテテモ……イイデスカ。
「俺に……聞くな……」
中谷は呻いた。
悪寒と吐き気が襲ってきた。
突き放した笙子が辛そうに木にもたれたまま、中谷を見つめ返す。
それは湯舟に落ちて茫然としている自分とあまりにもそっくりで。
全身が凍った。
(俺は、何を)
「中谷さん」
「しゃべんな」
口を開くと中身を全部吐き出しそうだ。苦しいのも悲しいのも痛いのも辛いのも汚いのもずるいのも。
(俺は)
ずっと被害者だと思っていた。
(俺は)
壊れてたのは母親だけだと思っていた。
「中谷さん?」
「しゃべ、んなっ」
(俺も?)
今笙子を襲ったのはなぜだ。意に添わずに抱かれる辛さを知ってるはずなのに?
(俺も)
今、中谷が襲ったのは、笙子だったのだろうか。
それとも、遠い日に、あの暗い風呂場で母親におもちゃにされていた自分だったのだろうか。
「どこかへ、消えろ」
嫌な記憶も不愉快な発想も。
「中谷さん……」
よろめくように笙子が体を起こした。首を傾げ、何かを探すように中谷を覗き込もうとする。白く細い首筋に傷つけられたように紅の花、それが中谷の罪状を告げる口に見えて思わず体を引く。
「でも、私は」
(それ以上話すな。それ以上見るな。それ以上揺さぶるな。それ以上)
「歌うな」
ぎくりと笙子が動きを止めた。大きな瞳をまっすぐに中谷に向けて凝視する。その視線にまた吐き気に襲われて、中谷はことばを絞り出した。
(もうこれ以上俺を)
「揺さぶるな」
心とことばの境が見つからない。
(俺は、もう、限界だ)
「壊れる」
どこまで口に出しているのか、どこまでは心の中のことなのか、もうわからない。
笙子が表情を消した。無言でしばらく見つめあう。
やがて、そっと笙子がつぶやいた。虚ろな弱々しい笑みを浮かべる。
「もう、さっきみたいな歌い方はしませんから……」
さっきみたいな。
鳥肌が立って、下半身が疼いて、頭が眩んで、泣き出しそうになって。中谷は即座に答えた。
(あんな歌を)
「歌うな」
「でも……」
話せ、と誰かが体の内側で囁いた。
話してぶちまけてしまいなさい。そうすれば、楽になる。すぐに楽になりますよ。だって、実際、『ハレルヤ・ボイス』のせいなんですからね、全ては。だから。
吐き気がひどい。口を開きたくない。けれど、閉じてると内側の圧に弾け飛びそうだ。
話してしまいなさい。
何を?
あなたが悪いわけじゃない。
そうだ。
さあ、真実を。
「『ソシアル』の原音は『ハレルヤ・ボイス』なんだぞ!」
「………え…………?……」
「え?」
言った瞬間、中谷は茫然とした。笙子も目を見開いたままで見返してくる。
(俺は)
「中谷さん……? ……ごめんなさい……今……なんて……」
(一体、何を)
中谷は口を覆った。霞がかかったようになっていた頭が、ふいにくっきりと澄み渡る。けれど、口に出してしまったことばがどれほどの破壊をもたらすのかも同時に気づいて、体が竦んだ。
笙子がおどおどした顔でそっと微笑みかけてくる。
「あの……今……『ソシアル』の原音が……私の声、だって……?」
否定してくれるのを待つようにことばを切った笙子は、応えない中谷にゆっくりと首を傾げた。
「『ソシアル』は……私の声を元に………造られてる………?」
「笙子…」
「そう……なんですか……?」
「笙子、待て、違う、だから、それは」
言いかけて、中谷は笙子がぼんやりとした顔で両手を上げたのに口をつぐんだ。俯いて、さっきのように掌を上に向けた両手を、今度は動かさずにじっと見つめている。
「笙子?」
「………何にも………なかったんですね……」
「え?」
「少し……あったかと……思ったんですけど……」
低い声がつぶやいて、ほう、と溜息をついた。ゆっくりと両手を握りしめる。それから静かに顔を上げた。
「中谷さんが、私を嫌うの、無理ないってわかりました」
生気の失せた顔で笑った。
「よく、わかりました」
もう一度小さな吐息をついて、笙子は笑みを深めた。今にも泣き出しそうな顔で、けれど瞳も潤ませることもないままに。
「抱かれても、ダメですね?」
微かなつぶやきが続く。
「私は……中谷さんならいいかって……勝手に思ってました」
「は…?」
(今何を)
揺さぶられ続けた気持ちが笙子のことばをうまく聞き取れない。
「中谷さんは、私を、憎んでるんでしたよね。『ソシアル』が私の声なら、ほんと、深雪さん殺したの、私ですもんね」
舌足らずな口調でつぶやいて、うんうんとひとりうなずいて見せた。
「もっと早く聞けば、よかったです」
小さな声で付け加えた。
「もっと早く。いっぱい人が死ぬ前に。いっぱい人を殺す前に。私、間違ってました」
「笙子」
「教えて頂いてありがとうございました」
唐突にぺこりと頭を下げる。そのままで、
「もう、歌いません」
「笙……っ!」
急に強い風が吹いた。木々が波打ち、葉が千切れて乱れ飛ぶ。中谷の顔をまともに叩きつけたそれに、思わず目を閉じ顔を背ける。
長くて強くて激しい風だった。目を開けようとしても、それを阻むように、中谷の体を叩く風。
やがて。
「笙子?」
風がおさまったとき、中谷の目の前から笙子の姿は消えていた。
どこを探せばいいのかわからなかった。駅にもいない。周囲のどこにも気配一つ見つからない。
迷いに迷い、探しあぐねたあげく、中谷は携帯のボタンを押した。ひょっとしたら、番号を変えているかもしれないと思ったが、相手はすぐに出た。
『中谷』
「キィ」
『満足か?』
唐突に問われて戸惑う。
「何が?」
『見事に仇を討ったじゃないか』
「……笙子はそっちに戻ってるのか?」
『ああ』
安堵の吐息をつきかけて、相手の奇妙なやりとりに気づく。
「仇?」
『貴様を殺しとくべきだった』
キィは冷ややかな怒りを漲らせて続けた。
『どうもわたしは貴様に対してぬるい。いつも一歩出遅れる。自分の愚かさが腹立たしいよ』
「笙子に何かあったのか」
『何か? 何かしたのは貴様だろう』
携帯越しでもキィの怒り狂った気配が伝わってくる。
『笙子は帰ってくるなり、こう言った。「キィ、『ソシアル』の原音は私です。確かめました」』
そのことばの意味が中谷にしみ込むには数分を要した。
「……確か……めた……?」
『笙子はCDショップを回って「ソシアル」を聴いてきたんだ』
ぞっとした。
人の一番辛い記憶を引きずり出す音を自分で刻み込んできたというのだ。
『「私が人殺しでした」、そう言った』
きり、と歯ぎしりしたような嫌な音を響かせて、キィは付け加えた。
『泣きもしない』
中谷の脳裏に淡く笑った笙子の顔が甦った。あの笑顔で、キィに言ったのだろうか。自分が人殺しだった、と。
『「ハレルヤ・ボイス」は消える。笙子はもう歌えない』
相手は吐き捨てた。
「キィ…」
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切れた携帯を手に、中谷は暮れていく街の中で立ちすくんだ。
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「辞めるのは認めない」
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無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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