『ハレルヤ・ボイス』

segakiyui

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傷みの箇所を確認し
しっかりと爪をたてて抉ればいい
悲鳴は生きている証
血が流れればなおさらのこと

問題なのは
ハイテンションで済まないことかな
骨に到達する瞬間が
快楽に変わるまでほんの僅かの距離だから

12

  新聞がこぞって笙子を責めていた。
『「ハレルヤ・ボイス」患者見捨てる』
『救いの歌声は人工的な演出? エンジェル・ホールに秘められた謎』
『真実を暴かれた歌姫、幻の期待の代償は』
「抜かれたな」
 スポーツ紙と週刊誌をばさっと机に投げ出して、高岡が前に立つ中谷を見上げた。
「見ろ、鮮やかなもんだ、どいつもこいつもあっという間に逃げに入った」
 中谷は無言で記事を見た。改めて確認するまでもない、散々読みあさって、ほとんど頭に入ってる。
 あの日以降、笙子はコンサートを中止した。
 公的な理由は「インフルエンザで体調を崩した」ということだが、命を限られた患者達の、ほんの一曲でもいいという願いにも関わらず、次の公演も決まっていない。
 今までにない『ハレルヤ・ボイス』の沈黙にメディアが大人しくしているわけもなく、各紙はすぐに「真実の理由」を探しまわった。
 どこから漏れたのかはわからない。
 だが、『エンジェル・ホール』には特殊な音響設備があり、それは人間に心理的な安定と解放を与えるものであること、笙子の歌声も実は平凡なものであるのに、その音響設備によって細工された偽りの『奇跡の歌声』である可能性が高いこと、しかも、その『音』に仕込まれた心理的な影響を与える細工というのは聞き手によっては深いトラウマを掘り起こして精神的なトラブルを引きずり出す恐れがあるとして、『ハレルヤ・ボイス』のコンサート直後に何例かの自殺があったことなどが、数社の記事で明らかにされていた。
 その中の一例として中谷深雪が仮名にせよ取り上げられており、今さらながら真実を解きあかすべきだとまとめられていたのは、皮肉としか言いようがない。
 中谷が何年も悩み続け苦しみ続け、それでも何の助けも得られず振り返りもされなかった『ハレルヤ・ボイス』との確執が、他ならぬ中谷自身が関わったことで注目され、しかもその歌声が封じられている。
「満足か?」
「!」
 キィとそっくり同じ声で問いかけられて、びくりとした。
 高岡が灰皿の隅から汚れた吸いさしを引き抜き、口に加えて火をつけ、薄笑いする。
「お前の望み通りだな。『ハレルヤ・ボイス』は人を救う『奇跡の歌声』なんかじゃなくて、人を追い詰め破滅させる悪魔の囁きだ。みんな笙子にだまされている、そう言ってたのはお前一人だったからな」
 中谷は眉を寄せた。
「抜かれたのは仕方ない、お前が惚けてても世界はかまってやしねえ、そういうことだ。あの店の払いは今月と来月の給料でちゃらにするとして」
 高岡の目が冷えた色で中谷を射抜いた。
「お前はどうしてここにいるんだ?」
(無理も、ねえ)
 首だ、出て行け、そういうことかと相手を見返せば、その目の奥に面白がるような光が躍っているのに気づく。吸いさしが煙るのをしかめっつらをして灰皿に押しつけ、次のしけもくを探しながら、
「納得したのか?」
 からかうように重ねて聞かれた。
「……納得してません」
「どうする気だ、三度目はないぞ」
「わかってます」
 中谷の声に高岡は目を上げた。その目を覗き込むようにして、
「『ハレルヤ・ボイス』を聴きました」
「ああ、だから自殺しかけて、田尾に刺されて、入院して、ぶっ飛んだんだろ」
「違います。生で、聴きました」
 答えて、もう数日前のことなのに脚の内側をぞくりとしたものが這い上がって顔をしかめる。思い出すだけで勝手に体が反応するのは、へたなAVよりタチが悪い。なまじその後に、笙子の体を抱き込んでいるだけに、感触がまともに甦る。
「あれは……幻なんかじゃない」
「ほう?」
 高岡が興味深そうに眉を上げた。
「180度方針転換か? 『ハレルヤ・ボイス』に洗脳されたのか」
(洗脳)
 確かにあの声をもって、笙子が何かを人の体に植え込もうとすれば、それは容易くできる気がする。いや、ただあの声に包まれたいばっかりに、何でもするというやつさえ出るかもしれない。
「……正直、わかりません」
 中谷は重い息を吐いた。
 自分の脆さ弱さはもう手に負えないほど思い知らされ自覚させられている。今考えていることも、次の瞬間には幻のように忘れてしまい、あの街角の煙草の自販機の前で虚ろな顔で煙草を買い続けている自分に気づくのかもしれない。あるいはまた、我に返った瞬間に、道の真ん中で幻の快感に喘ぎながら汗やら何やらに塗れて転がっているのかもしれない。
 得体の知れない悪寒が這い上がる。
「俺には、何が真実だか、もう、わからない」
 自分の声が弱々しく震えた。
「ただ」
「ただ?」
「ただ……『ハレルヤ・ボイス』が単にちょっと歌える少女の声を機械で増幅させた、というようなものでないことは知っている」
「それだって、お前の思い込みかもしれないぞ?」
 高岡は容赦なく突っ込んだ。
「お前はずたずたになってる。へたった神経で正確な情報なんか掴めやしない。不安定にふらついてる気持ちでやるべきことなんか判断できない。お前は野良犬以下だ」
 ふい、と笙子の姿が胸に浮かんだ。
 やわやわ、と両方の掌を確かめるように握ってみている姿。「何もないのね」。微かな囁きと微笑み。
(何もない)
 中谷は右手を上げて覗き込んだ。そして左手も。
 空っぽの何もない掌。
(何もない)
 確かなものなど何もない。中谷の基盤は、居るはずの世界は、自分の体の輪郭さえ、これほどに脆くて弱い。
「それでも……」
 ぎゅ、と両手を握って降ろし、高岡を見下ろした。
「納得できない」
「ふん」
 高岡はまた苦い顔で吸殻を押し潰した。
「仕方ないやつだな」
「すみません」
「俺の目は節穴だ」
「すみません」
「田尾がいれば、お前の方を放り出してるとこだ」
「すみま…」
「まあ、やつは港で見つかったしな」
「……え?」
「コンクリートと仲良しになってたぞ。今朝連絡があった」
 中谷は息を呑んだ。キィの冷ややかな笑い声が聞こえた気がする。
「見え見えだな、これ以上突っ込むなってか? 『あいつ』は昭和やくざ映画ファンか?」
 高岡がキィに十分張り合える冷たい笑いを浮かべて中谷を見上げた。田尾が始末されたこと、それがキィ絡みであることなどはとっくの昔にお見通しというわけだ。
「ってことは、この裏に」
 ぽん、と机の上の各紙を叩く。
「人を何人殺しても守らなくちゃならねえものが隠してあるってことだ」
 にい、とやにに汚れた歯をむいた。
「俺は臆病な人間だからな、自分も会社も大事なんだ。無駄な弾は使わない。お前なら潰れたところで俺の懐は傷まないしな、そこんところで手を打ってもいい」
「食いついてきて……いいんですか」
「納得できないんだろ」
 中谷の声にうっそり応じる。じろりと鋭い視線を返して、
「納得してこい」

 中谷は『大月シンフォニア』で診療を済ませて、足早に駅へ向かった。大月は中谷の安定を喜んでくれたが、やはり三日ごとの診察は続けてほしいとのこと、ただずっと呑み続けてきた薬は前回の受診から頓服にかわっているのが救いだ。
 電車に乗り込み、連絡を取り付けていた『エンジェル・ホール』の音響設備を担当した会社に向かう。この前のときに、『エンジェル・ホール』の建築はキィがらみの建築会社が入札し、その関連で全ての請負が決まったとわかっていたから、絞り込むのは早かった。
 窓の外に初夏の鮮やかな緑が駆け抜ける。目を細めてそのまぶしさを受け止めていると、ちらちらする光に重なってくるのは、やはり笙子の姿だ。
 初めて会った舞台上、甘党喫茶のセーラー服、コンサートでの白く輝く立ち姿、ホテルでの王族のように気品あふれる振るまい、ベッドの側で中谷の手を握って泣き崩れた小さな肩、立ち竦んでいた病室のドアの向こうの幼い顔、そして、公園で胸に手をあてハミングする、驚いて逃げ去る、駆け寄って、掴まえて、抱き締めて。吸い取った涙の、その甘さ。
 永久に、戻らない、その、甘さ。
 首を振って電車を降り、目的地へ急ぐ。
「『エンジェル・ホール』の、ですか」
 相手はうんざりした顔で中谷を迎えた。
「もういい加減にしてもらえませんかね? 新聞にも話したし、けど、碌なこと書かないしねえ? こっちもせっかくいい仕事させてもらったのに、おつき合いだってあるし」
「他紙さんが『エンジェル・ホール』について酷いこと書いてるの、知ってますよ」
 中谷は下手に出た。
「俺はそう思わないから、何とか反論できないかって思ってんだけど」
「へえ?」
 相手が興味を見せたところで、にっこり笑ってみせる。窶れた顔だが、数週間前よりはましな笑顔にはなっているはずだ。
「そう思わないの、あんた?」
「俺の妹が『ハレルヤ・ボイス』に助けてもらったからね。俺もきついときを……支えてもらったし」
「そうなの、あんた、笙子さんの、へえ」
 相手は中谷への警戒を緩めたようだ。
「私らも笙子さんには世話になったんだよ。うちのがね、余命2ヶ月ってのを何と1年、生かしてもらったんだよ。死んでからもね、落ち込んでても、あの歌を聴くとね、頑張れるんじゃないかって気になったんだ、そうか、あんたもか、うん」
 自分の経験を適当に脚色するのに罪悪感はない。必要な情報を得るためには、持ちうる全てのものを使っても足りないことがわかっている。
「俺、縁があって生の『ハレルヤ・ボイス』聴いたことがあるんですよ、凄かったなあ」
「え」
 相手がぎょっとした顔で見つめ返してやり過ぎたか、とひやりとする。だが、続いたことばに、逆に中谷が驚かされた。
「生の? 大丈夫だったの、あんた」
「は?」
「確かに笙子さんの歌は凄いけど、生の歌を聴くのは……よした方が」
「……というと?」
「だってさ……」
 相手は声を顰めた。
「やばくなかった?」
「あの」
「何か、『あっち』へいきそうな気、しなかった?」
 瞬時に体を走った波に中谷が凍りつくと、その反応で相手が妙な笑みを見せた。
「あ、やっぱり。まさかと思ったけど……あんた、ほんとに聴いてるんだね?」
「と、いうと」
 中谷の声が掠れているのに相手は満足した様子でうなずく。
「若い男はまずやられるね。女もやばいかな? 子どもと年寄りと……病人なら何とか大丈夫だけど。きつすぎるんだよね、だから『ホール』ではそっちを干渉させて押さえてるんだ、なのに」
「え?」
 中谷は眉をしかめた。
「押さえてる?」
「そう! そこんとこ、何人かには話したんだけど、みんな信じてくれないの。私らがあそこでした仕事はね、笙子さんの声を押さえる仕事だよ?」
 相手の言うには、『エンジェル・ホール』の音響設備は主として低音域に、笙子の声に干渉するような『音』を流して、彼女のその部分での『声』を押さえることだったという。
 よく知られている通り、『音』は波だ。その『音』を押さえるには二つの方法がある。一つはその波を遮るか小さくすること、そしてもう一つはそっくり同じ波を干渉させるように流すことだ。そっくり同じ波がうまい具合に重なると、そこでは『音』が消える。『音』自体は流れているのだけれど、波が打ち消されて、結果としては何も聞こえなくなってしまうのだ。
 つまり、笙子の声は『エンジェル・ホール』や人々の感想から高音域を震わせる『天上の歌声』のように思われがちなのだが、その実、深く大きく豊かな音量を持つ低音域を備えており、それが人に安らぎと憩い感を与えるのだが、あまりに巨大なその影響力は人間の意志や感情、それらの基盤にある本能的なものを強く刺激してしまう。
 それは、簡単に言えば「性的衝動の増大」ということに集約されるというのだ。
(ひょっとして)
 中谷ははっとした。
(『ソシアル』の音源はそちらか)
 笙子が表には出していない、あの衝撃的な声こそが『ソシアル』の原音とされたものなのかもしれない。
「日本語っていうのが、ほら低音域のもんだから。生でいくと、笙子さんの声を聴くととんでもなくやばい気持ちになるのね、なんていうのか……」
 くすん、と相手はくすぐったそうに笑った。
「イきそう? 若い人はそういうかな? だからね」
 それではあんまりまずいだろうというので、『エンジェル・ホール』が作られたのだ。そこで行なわれたのは、大月や他のメディアが予測しているような、声の増幅ではない。むしろ、『エンジェル・ホール』は笙子の声を押さえ込んでいる巨大な制御装置だった、ということになる。

「じゃあ、記事になるのを楽しみにしてるから」
 気はいいが、メディアの恐ろしさに無防備すぎる相手に笑顔で送りだされて、中谷は昼近い街中に戻った。
 小さな喫茶店でカレーライスをかき込み、次の取材先に連絡を取る。昼から少し用事があるということで、訪問は3時になった。少しほっとして、アイスコーヒーを頼み、煙草をくわえて火をつける。
(こんなことをして、何になる)
 ぼんやりと立ち上る煙を見る。やがて目を閉じ、ひさしぶりにきちんと締めたネクタイを緩め、べったりとしたソファの合成皮革の背にもたれる。
 中谷は笙子を失った。
 笙子は『ハレルヤ・ボイス』を失った。
 田尾は始末され、キィは巨大な権力の向こうに隠れ、『ハレルヤ・ボイス』のスクープは他紙にかっ攫われた。
「何も、ねえなあ」
 いつかの笙子の口調をなぞるようにつぶやくと、胸が締めつけられるように痛くなった。
 大月の処方が頓服になったから、さすがにたびたび眠気が襲うことはなくなってきたが、代わりに夜が眠れなくなりつつあった。目を閉じれば、空っぽの掌を眺めている笙子と、駅のホームから微笑んで身を投げる深雪の映像が重なり合い、入り混じる。
 キィがいるから笙子は自殺することはないだろう。『ハレルヤ・ボイス』として歌えなくても、キィの管理下でミニコンサートを開くことはできるかもしれない。もし万が一まずいことになりそうなら、キィのことだ、万全の手配をして笙子を守るだろう。
 けれど、歌うことが命だとした笙子からそれを奪ったのは紛れもなく中谷だ。笙子が再び歌えるまでには、きっと長い準備が必要だろう。その月日を、笙子はどうして耐えていくのだろう。
「何も、ねえんだ」
 中谷にできることは何もない。
 笙子と中谷の接点は何もない。
 あの一瞬に掴まえ損ねたから、もう二度と手に入らない。
「ずっと……何も……ねえ……」
 適度に膨れた腹と疲れが眠気を誘ってきた。
 淡い夢の中、場面は夜の海だ。
 ひたひたと足下に波が打ち寄せてくる。夜光虫のせいだろうか、青のような白のような、不思議な形を作って波が動くのが視界いっぱいに広がっている。
 回復してきて、確かに水はかなり平気になった。だが、跳ね散る雫はまだきつい。降りかかる水滴には体が竦む。予測していない場所で浴びた飛沫に悲鳴をあげかけたときがあって、震える体が情けなかった。
 中谷は浜辺から急いで逃げる。砕ける波に襲われまいと、夜目に白い砂浜を足早に、やがて走り出す。
 陸へ、陸へと走ったはずなのに、いつの間にか岩場に来ていて驚いた。慌てて向きを変えようとして、足を滑らせ、岩場の凹みに背中から落ち込む。
 ざぶん、と波を浴びた。着ていた服がずぶぬれになって中谷の自由を奪う。パニックを起こしかけて、必死にもがき、立ち上がろうとするが、濡れた服が重くて身動きできない。口の中に押し上がってきた悲鳴を噛み殺しながら、手足を動かし、何とか体を起こした瞬間。
 ざっばーん。
 上空を大きな波が覆い、すぐに砕けた。「ひっ」。目を見開く中谷の体に無数の水滴が降り注ぐ。それは次の一瞬に、鮮やかな紅の雨になって中谷を打つ。
「っ…ぁ!」
 声を上げて跳ね起きた。激しい鼓動とせわしない呼吸に胸が焼けつく。
 しばらくして、周囲の奇妙な視線に気づいた。慌てながら席を立ち、強くなり始めた日射しの中へよろめきながら出ていく。
(最近、見なかったのに)
 大月の薬が切れてきたからだろうか、と考えて不安になった。一生涯、薬を呑み続けなければ、うたたねさえできないのだろうか。
(笙子もそうか?)
 『ソシアル』を聴いて、自分の中の罪悪感を引きずり出され、しかもそれを癒す術を奪われて、笙子もまた、中谷のように眠れぬ夜を堪えて苦しい涙を流すのだろうか。
(キィがいる)
 中谷のように一人ではない。それだけでもしのぎやすいはずだ、けど。
『なかたに、さん』
 呼ばれた声が、今すぐ聞いたばかりのように耳を浸す。
(俺も、呼んでくれた)
 何もできないのだろうけど。
 中谷は少し立ち止まって息を整えた。笙子のまねをするように、そっと右手で、やわやわ、と空気を掴んで離してみる。
「笙、子」
 つぶやくと少し気力が戻った気がした。
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