『密約』

segakiyui

文字の大きさ
2 / 24

2

しおりを挟む
 早起きしたから電車もいつもより混んでいなくて、俺はほっとした。
 窓から入って来る風が甘くまとわりつく。駅の周囲に植えられた花々の、舞うように動く花びらが、俺を花芯へ誘い込むように見える。
 『恋愛濃度』のときは、ささいなことでも気持ちの揺れがひどくなる。特に、『近江潤』は男性体だから、女性体との『接触』は気をつけるに越したことはない。もし、万が一、後々後悔するような相手と『接触』したら最後、それは俺の運命をとんでもない方向にねじ曲げてしまう。
 『恋愛濃度』というのは、故郷では『成人』の徴にあたる。自分の唯一の相手、『密約』の相手を選び、一生涯を共にするという大仕事にかかるときだ。
 簡単にいえば、繁殖期、次世代を生み出す時期ともいえる。
 なるべく誰の体にも触れないように、電車のドアから離れた小さな凹みに体を潜ませて外を見ながら、幼いころからあちこちで聞かされた『密約』の悲喜劇を思い出すともなく思い出していた。
 『密約』は『恋愛濃度』中の個体が激しい感情的な衝撃をともなった『接触』によって行われる、らしい。もっとも、『恋愛濃度』中には、どんな『接触』もすぐさま激しい衝撃をもたらすぐらい過敏になっているのが常だから、気まぐれとか通りすがりに『密約』してしまう、なんてことさえありうる。
 ところが、そうなったときに、お互いに必要としあっているのならよし、もし、片方が『密約』を重視しない個体だったり、まもなく死ぬ運命にある個体だったりすると、ひどいことになる。
 なぜなら、『密約』をした個体同士は、以後、相手の生み出すエネルギーだけで生きていくことになるからだ。しかも、『密約』の関係は基本的には個体の意志では変えられない、と聞かされている。
 俺達は『成人』に達すると『恋愛濃度』になって、『密約』をし、生涯その相手と生きていく。もちろん、死ぬ時もそうだ。片方が死ねば、もう片方は生きてはいられない。
 『密約』は相手以外の全ての個体とつながる術を断ち切る封印と言えるかもしれない。
 故郷ならまだしも。
 俺は電車の中を見回した。
 笑いあう強烈なエネルギーの人間達。そして、その中の『女』と呼ばれる生命体。赤い唇や白く伸びた脚、これみよがしに柔らかな布一枚で遮られた胸元や体の線は、『近江潤』の感覚をじりじりと焦がし始めつつある。
 けれど、それに巻き込まれたが最後、俺には致命傷になる。『地球』の、特に『人間』という知的生命体は他の生物に全く優しくない。自分達の中でさえ、少しでも形や色や行動が違うと、群れから突き放し叩き出し、痛めつけるものだ。
 『地球』の五年間で、俺は十二分にそういうことについて学んでいた。
 そんな生物と一生涯を共にするなんて、冗談じゃない。ましてや、そんな相手に命の鍵を握られるなんて、ごめんだ。
「ねえねえ、そこのあの人、ちょっと、さあ」
「こっち見てるよ、こっち」
 斜め前にいた花柄のミニワンピースの娘と淡い色のモヘア上下の二人連れが、つつきあって俺を見た。
「ちょっといいかも」
「声かけてみる?」
「一人って? それとも」
 その後は淫らな含み笑いになって、顔を寄せ合った。声は聞こえなくなったが、ちらちらと動く視線がこちらを舐め回し、濡れたようなリップをべっとり塗りつけた唇の奥に舌が覗いた。露骨に体を品定めされていると気づいて不快になる。
 俺は無意識に組んで体を抱き締めていた腕を解き、そこから離れた。
「あん、いっちゃうよ」
「つけようか」
 含み笑いが耳に粘りついてきそうだ。感覚に耐えながらも、ふと気を緩めると、そちらに否も応もなく吸い寄せられ飲み込まれていきそうな気がして、俺は必死にその感覚を振り切った。
 駅に着いたのをいいことに、大学には一つ二つ遠いけれど、電車を降りてしまう。足早に改札を抜け、大股に歩きだす。
 春の日差しは街路樹の透き間からこぼれて、ちらちらと歩道に踊っていた。木漏れ日はどこか清々しく、体にたまったもやもやした気配を少しずつ流してくれるようだ。
 ようやく気が緩んで、吐息をつく。
「あ、あっ、ごめん」
 ふいに覚えのある声がすぐ側の公園から響いて、俺は足を止めた。
 小さな公園なのに、真ん中に花の形をした石から水を吹き上げる噴水がある。その回りは円形の池になっていて、コンクリートのベンチが丸く取り囲んでいる。
 そこに一人の女の子がいる。
 ショートカットのさらさらの髪を日の光に輝かせて、白いTシャツにスリムジーンズ、興奮して上気した頬はほころんだ桜草の色だ。両手を噴水に差し伸べて何事か唱えるように目を閉じると、まろやかな曲線を描いた頬にも陽光が躍った。すべすべした両腕が、水の気配を囲うように、ゆっくりと柔らかな動きで何度も丸く形を作る。
 そう、彼女は繰り返し、繰り返し、跳ね散る水を抱き締めている。
 足元には、撒かれたパンくずを忙しそうに啄んでいる小鳥の姿が点々としていた。さっきの『ごめん』は、どうやら小鳥達に向けられたものらしい。彼女の手が噴水の水を抱こうとするたびに跳ね上げるしぶきに、慌てたように鳥達が逃げ惑っている。
 女の子、と呼んだけど、本当はそんなに幼くない。華奢な体つきや、少年じみた表情がそう思わせるだけで、本当は大学三年、名前を秋野ひかり、という。
(きれいだ)
 ふいに、胸苦しくなるような思いで自分が秋野さんに見愡れていると気がついて、俺はあわてた。
(何考えてる、見慣れてるはずだろ)
 相手がすぐに秋野さんだと気がついたのも、友達の村西と一緒に入っている学内サークル『異常現象研究部』で彼女を見ていたからだ。
 俺が人付き合いが悪すぎると気にした村西が引っ張っていったのが『異常現象研究部』、そのころあちらこちらの勧誘合戦にうんざりしていた俺は、幽霊部員がほとんどだということばに引かれて入部したのだ。
(でも、何してるんだ? こんなところで)
 人気のない朝の公園の噴水で、まさか、いい年をした女性が水遊びでもないだろう。
 俺のことばが聞こえたみたいに、秋野さんは急に動きを止めて、目を開いた。くるりとためらいもせずに振り返り、俺の方をまっすぐ見る。
 避ける暇などなかった。
 こぼれ落ちそうに見張った目が笑みをたたえて細くなる。噴水の水が飛んだのだろうか、ふんわりと笑った唇が濡れて、淡く柔らかく日の光を受け止めて輝いている。
(水が、彼女の唇に、触れた)
 何かが体を貫いて、俺は身を翻した。急いで、大学の方へ歩き出し、やがて逃げるように駆け始める。
 唐突に自分の体を駆け抜けた衝撃。
 俺もあの唇がほしい、と思ったのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

白苑後宮の薬膳女官

絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。 ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。 薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。 静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。

後宮薬師は名を持たない

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を診る薬師・玉玲は、母が禁薬により処刑された過去を持つ。 帝と皇子に迫る“鬼”の気配、母の遺した禁薬、鬼神の青年・玄曜との出会い。 救いと犠牲の狭間で、玉玲は母が選ばなかった選択を重ねていく。 後宮が燃え、名を失ってもなお―― 彼女は薬師として、人として、生きる道を選ぶ。

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~

悠井すみれ
キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。 強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。 お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。 表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。 第6回キャラ文芸大賞応募作品です。

火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~

秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。 五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。 都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。 見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――! 久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――? 謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。 ※カクヨムにも先行で投稿しています

異国妃の宮廷漂流記

花雨宮琵
キャラ文芸
唯一の身内である祖母を失った公爵令嬢・ヘレナに持ち上がったのは、元敵国の皇太子・アルフォンスとの縁談。 夫となる人には、愛する女性と皇子がいるという。 いずれ離縁される“お飾りの皇太子妃”――そう冷笑されながら、ヘレナは宮廷という伏魔殿に足を踏み入れる。 冷徹と噂される皇太子とのすれ違い、宮中に渦巻く陰謀、そして胸の奥に残る初恋の記憶。 これは、居場所を持たないお転婆な花嫁が、自ら絆を紡ぎ、愛と仲間を得て”自分の居場所”を創りあげるまでの物語。ときに騒がしく、とびきり愛おしい――笑って泣ける、異国妃のサバイバル宮廷譚。最後はハッピーエンドです。 ※本作は2年前にカクヨム、エブリスタに掲載していた物語『元敵国に嫁いだ皇太子妃は、初恋の彼に想いを馳せる』を大幅に改稿し、別作品として仕上げたものです。 © 花雨宮琵 2025 All Rights Reserved. 無断転載・無断翻訳を固く禁じます。

処理中です...