『密約』

segakiyui

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 早起きしたから電車もいつもより混んでいなくて、俺はほっとした。
 窓から入って来る風が甘くまとわりつく。駅の周囲に植えられた花々の、舞うように動く花びらが、俺を花芯へ誘い込むように見える。
 『恋愛濃度』のときは、ささいなことでも気持ちの揺れがひどくなる。特に、『近江潤』は男性体だから、女性体との『接触』は気をつけるに越したことはない。もし、万が一、後々後悔するような相手と『接触』したら最後、それは俺の運命をとんでもない方向にねじ曲げてしまう。
 『恋愛濃度』というのは、故郷では『成人』の徴にあたる。自分の唯一の相手、『密約』の相手を選び、一生涯を共にするという大仕事にかかるときだ。
 簡単にいえば、繁殖期、次世代を生み出す時期ともいえる。
 なるべく誰の体にも触れないように、電車のドアから離れた小さな凹みに体を潜ませて外を見ながら、幼いころからあちこちで聞かされた『密約』の悲喜劇を思い出すともなく思い出していた。
 『密約』は『恋愛濃度』中の個体が激しい感情的な衝撃をともなった『接触』によって行われる、らしい。もっとも、『恋愛濃度』中には、どんな『接触』もすぐさま激しい衝撃をもたらすぐらい過敏になっているのが常だから、気まぐれとか通りすがりに『密約』してしまう、なんてことさえありうる。
 ところが、そうなったときに、お互いに必要としあっているのならよし、もし、片方が『密約』を重視しない個体だったり、まもなく死ぬ運命にある個体だったりすると、ひどいことになる。
 なぜなら、『密約』をした個体同士は、以後、相手の生み出すエネルギーだけで生きていくことになるからだ。しかも、『密約』の関係は基本的には個体の意志では変えられない、と聞かされている。
 俺達は『成人』に達すると『恋愛濃度』になって、『密約』をし、生涯その相手と生きていく。もちろん、死ぬ時もそうだ。片方が死ねば、もう片方は生きてはいられない。
 『密約』は相手以外の全ての個体とつながる術を断ち切る封印と言えるかもしれない。
 故郷ならまだしも。
 俺は電車の中を見回した。
 笑いあう強烈なエネルギーの人間達。そして、その中の『女』と呼ばれる生命体。赤い唇や白く伸びた脚、これみよがしに柔らかな布一枚で遮られた胸元や体の線は、『近江潤』の感覚をじりじりと焦がし始めつつある。
 けれど、それに巻き込まれたが最後、俺には致命傷になる。『地球』の、特に『人間』という知的生命体は他の生物に全く優しくない。自分達の中でさえ、少しでも形や色や行動が違うと、群れから突き放し叩き出し、痛めつけるものだ。
 『地球』の五年間で、俺は十二分にそういうことについて学んでいた。
 そんな生物と一生涯を共にするなんて、冗談じゃない。ましてや、そんな相手に命の鍵を握られるなんて、ごめんだ。
「ねえねえ、そこのあの人、ちょっと、さあ」
「こっち見てるよ、こっち」
 斜め前にいた花柄のミニワンピースの娘と淡い色のモヘア上下の二人連れが、つつきあって俺を見た。
「ちょっといいかも」
「声かけてみる?」
「一人って? それとも」
 その後は淫らな含み笑いになって、顔を寄せ合った。声は聞こえなくなったが、ちらちらと動く視線がこちらを舐め回し、濡れたようなリップをべっとり塗りつけた唇の奥に舌が覗いた。露骨に体を品定めされていると気づいて不快になる。
 俺は無意識に組んで体を抱き締めていた腕を解き、そこから離れた。
「あん、いっちゃうよ」
「つけようか」
 含み笑いが耳に粘りついてきそうだ。感覚に耐えながらも、ふと気を緩めると、そちらに否も応もなく吸い寄せられ飲み込まれていきそうな気がして、俺は必死にその感覚を振り切った。
 駅に着いたのをいいことに、大学には一つ二つ遠いけれど、電車を降りてしまう。足早に改札を抜け、大股に歩きだす。
 春の日差しは街路樹の透き間からこぼれて、ちらちらと歩道に踊っていた。木漏れ日はどこか清々しく、体にたまったもやもやした気配を少しずつ流してくれるようだ。
 ようやく気が緩んで、吐息をつく。
「あ、あっ、ごめん」
 ふいに覚えのある声がすぐ側の公園から響いて、俺は足を止めた。
 小さな公園なのに、真ん中に花の形をした石から水を吹き上げる噴水がある。その回りは円形の池になっていて、コンクリートのベンチが丸く取り囲んでいる。
 そこに一人の女の子がいる。
 ショートカットのさらさらの髪を日の光に輝かせて、白いTシャツにスリムジーンズ、興奮して上気した頬はほころんだ桜草の色だ。両手を噴水に差し伸べて何事か唱えるように目を閉じると、まろやかな曲線を描いた頬にも陽光が躍った。すべすべした両腕が、水の気配を囲うように、ゆっくりと柔らかな動きで何度も丸く形を作る。
 そう、彼女は繰り返し、繰り返し、跳ね散る水を抱き締めている。
 足元には、撒かれたパンくずを忙しそうに啄んでいる小鳥の姿が点々としていた。さっきの『ごめん』は、どうやら小鳥達に向けられたものらしい。彼女の手が噴水の水を抱こうとするたびに跳ね上げるしぶきに、慌てたように鳥達が逃げ惑っている。
 女の子、と呼んだけど、本当はそんなに幼くない。華奢な体つきや、少年じみた表情がそう思わせるだけで、本当は大学三年、名前を秋野ひかり、という。
(きれいだ)
 ふいに、胸苦しくなるような思いで自分が秋野さんに見愡れていると気がついて、俺はあわてた。
(何考えてる、見慣れてるはずだろ)
 相手がすぐに秋野さんだと気がついたのも、友達の村西と一緒に入っている学内サークル『異常現象研究部』で彼女を見ていたからだ。
 俺が人付き合いが悪すぎると気にした村西が引っ張っていったのが『異常現象研究部』、そのころあちらこちらの勧誘合戦にうんざりしていた俺は、幽霊部員がほとんどだということばに引かれて入部したのだ。
(でも、何してるんだ? こんなところで)
 人気のない朝の公園の噴水で、まさか、いい年をした女性が水遊びでもないだろう。
 俺のことばが聞こえたみたいに、秋野さんは急に動きを止めて、目を開いた。くるりとためらいもせずに振り返り、俺の方をまっすぐ見る。
 避ける暇などなかった。
 こぼれ落ちそうに見張った目が笑みをたたえて細くなる。噴水の水が飛んだのだろうか、ふんわりと笑った唇が濡れて、淡く柔らかく日の光を受け止めて輝いている。
(水が、彼女の唇に、触れた)
 何かが体を貫いて、俺は身を翻した。急いで、大学の方へ歩き出し、やがて逃げるように駆け始める。
 唐突に自分の体を駆け抜けた衝撃。
 俺もあの唇がほしい、と思ったのだ。
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