『密約』

segakiyui

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 玄関のベルが鳴って、俺は立ち上がった。
「お帰り、時間がかかったね、秋野さん…」
 秋野さんだと思い込んで勢いよくドアを開け、のっそり立っていた男にぶつかりそうになった。
「ったく、なあんだよ、なんで、てめえが出迎えるんだ?」
「…のお父さん」
 俺は慌ててことばを継いだ。
「お父さんは早えって言ってんだろ、ああ?」
 相手はむっつりとした顔でうなるように応じて、ズボンのポケットに手を突っ込んだままじろじろと俺を見ていた。
「で、入っていいのか、だめなのか?」
「あ、どうぞ」
 慌てて戸口をのくと、のしのしとことさら体を振るように入ってきて、秋野さんのお父さんは折り畳み机の向こうにどさっと腰を落とした。ポケットからタバコを取り出して点けようとしたが、訝しそうに周囲を見回して尋ねた。
「灰皿、ねえのか?」
「吸わないんで…すいません」
「あいつが言ったのか?」
「は?」
「あいつだよ、あいつ。ひかりが吸うなって言ったのか?」
「いえ、その」
 俺は思いっきり叱られている子どものような気がして、体を縮めて秋野さんのお父さんの前に正座した。
「苦手なんです」
「ふうん、まあ、いいことだよな」
 秋野さんのお父さんはタバコを諦めたらしい。未練ありげにそろそろとポケットに片付ける。そのまま、部屋はしんと静まり返ってしまった。
 日ざしが一杯に差し込んでいる。

 ここへ運び込まれて数日が立っていて、体もかなり回復していたし、キスの感覚も十時間は持つようになって来た。だから、こうして、秋野さんがでかけている間をぼんやりと待っていることもできるようになったのだが、まさか、秋野さんのお父さんがやってくるとは思っていなかった。
「で、なんだ、その」
「、はい」
 唐突に相手が話し出して、俺は戸惑った。
「うちのといつまで付き合うつもりなんだ?」
「え?」
「だからよ、結婚とかそういうのまで決めてんのかって聞いてるんだ、わかるだろ、それぐれえ」
 切り返されて、俺は気がついた。
(そうか、もう、どうしてもここにいなくちゃいけないってわけじゃないんだ)
 キスとキスの間の時間はこれからどんどん長くなるだろう。最終的には、一回キスしてもらえれば数日保つようになるかも知れない。
 けれど、それは秋野さんが一緒にいるからだ、ともわかっていた。事実、秋野さんが側にいないときはエネルギーの消耗が早いのか、すぐに手足が冷たくなって震え出すはめになる。
 けれど、それは、秋野さんにとっても、俺が大事ということじゃない。
「結婚っていうのは、その…」
 思わず暗い声になってしまった。
「なんだあ? てめえ、遊びでひかりと一緒に暮らしてんのか、ええ?」
 いきなり吠え出した番犬みたいに凄まれて、俺は怯んだ。
「あ、遊びだなんて」
 遊びならずっと楽だった。身を切られるように思う。ただの遊びとかお楽しみなら、秋野さんが俺じゃなくて『近江潤』に惚れているとわかった時点で、それはそれでと割り切ることもできた。
 けれど、俺はしっかり秋野さんに『密約』されていて、そのつながりはこの数日で格段に強くなっている。
 俺が生きていくためには、秋野さんじゃなくちゃだめだ。
 けれど、秋野さんは俺じゃなくていい。
 そんな二人じゃ、結婚どころか恋愛以前の話になってしまう。
 それでなくても、つながりが確実になるほど、不安は胸の奥でとげとげした芽を吹いている。
 ひょっとしたら、ある日ふいと、秋野さんはここからいなくなっちゃうんじゃないか。俺を残し、本当に好きな奴、『近江潤』という幻なんかじゃなくて、秋野さんが必要とする奴のところへ行ってしまうんじゃないか。
(結婚できるなら、したいのは俺だ)
 少なくとも、結婚すれば、秋野さんを突然失う恐怖に脅えなくてもすむだろう。形式だけにせよ、社会的には拘束できる。
 けれど、『近江潤』に惚れているとわかった秋野さんに、そんなことを言い出せるわけもなかった。
「俺は、秋野さん、大事です」
 口ごもりながらつぶやくと、秋野さんのお父さんはぷいと横を向いた。
「父親に向かってたいした度胸だな」
「そんな」
「てめえよりずっと、ずっと、ひかりは大事な奴なんだよ」
 吐き捨てるようにいわれて竦んだ。
「そう、です」
 俺だって、こんな星に落ちたくて落ちたわけじゃない。俺だって、本当は、秋野さんなんか。
 胸の中で反論したとたん、公園で水を抱き締めようとしていた秋野さんがまばゆく甦ってきて、体が震えた。
(秋野さん、なんか)
「そうです、じゃねえだろ」
 はあ、と相手は疲れたように息を吐いた。
「付き合ってる女の親だからって、好き放題いわれて腹立たねえのかよ、てめえは、え、なんていったけ」
「近江…潤、です」
「じゃあ、まあ、その、くそ、落ち込んでるなら、いいもんやるよ、近江潤」
「は?」
 秋野さんのお父さんは不機嫌二百パーセントで白い封筒を取り出した。
「そのかわり、あいつには黙ってろよ、ひどい目にあうからな。万が一しゃべったら、以後ひかりと付き会わさねえからな。じゃ、まあ、よろしくいってくれ」
 俺の返事を待つまでもなく、すたすたと部屋から出て行ってしまう。
 なぜか急に軽くなったようなその足取りに、秋野さんのお父さんが、実はこれを渡しに来たのだと気がついた。立つことも思いつかずに見送って、閉まったドアに再び、封筒の表書きに目を落とす。
『近江潤様』
 そう書いてある。
 裏返すと、小さく緊張した字で『秋野ひかり』と書かれていた。
(ラブレターだ)
 秋野さんが近江潤に出したはずのラブレター。
 どうしてそれが、こんなところにあるんだろう。
(俺宛じゃない)
 思ったけれど、誘惑には耐えられなかった。そっと封を切り、中身を取り出す。薄いピンクの便箋が二枚、細い紺色の文字がきちんと真横に並んでいる。
『近江潤様。
 突然お手紙を差し上げてすみません。けれど、どうしても、何だか気になってしかたなかったのです。前ほど笑顔がないのが、何だかさみしいです。いろいろとつらいことがあって、それで、とても笑えないのかもしれませんが、それでも、人間がんばらなくちゃ、きっとだめです。私も、おかあさんが死んでから、家の中のどこを見ても、おかあさんがいるみたいで、けれどどこにもいなくて、ずいぶんつらかったけど、それでも、私は生きてるんだから、生きていくのが大事なんだって、おとうさんがいいました。それって、ほんとうのことだと思います。きっと、いつか、がんばってよかったなって思う日が来ます。あの時がんばった自分はえらいって思える日が。
 ずいぶん、きついことをいってすみません。私は、一年のとき、近江君が近所の猫を拾ったのを見て、いい人なんだなあと思いました。それから、ずっと気になってました。最近は、しんどそうに見えて、よけいに気になります。早く元気になってください。
                               秋野ひかり
 追伸。私でよければ、話し相手になるよ』
「秋野さん、らしいや。これのどこがラブレターだって…?」
 笑いながらつぶやいたとたんに涙がこぼれ、俺はびっくりした。急に大声を上げて泣き出しそうになって、慌てて口を掌で覆う。
 その手紙は、まるで、俺に宛てたものみたいだった。
 事故の後、ポッドに閉じ込められて『地球』に落とされ、『近江潤』の姿を借りて死に物狂いで生き抜いていたあのころの俺に。毎日毎日緊張で疲れ切って眠る、それでも見る夢がいつも事故の夢で、何度もここで生きることを諦めかけた俺に。
 あのとき、この手紙を受け取っていたら、俺はずいぶん楽だっただろう。
(でも)
 俺は猫を拾っていない。
 これは俺宛の手紙じゃない。
 秋野さんが気遣って、心配して、守ろうとしていた相手は俺じゃない。
 それがはっきりわかった。
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