『密約』

segakiyui

文字の大きさ
12 / 24

12

しおりを挟む
 大学に入ってまずは部室を、続いて、秋野さんの取りそうな講義のある校舎を見て回っていると、運悪く、この間から俺を追い回している新入生の一団に捕まった。
「近江さあん、おはようございまあす」
「今、お暇ですかあ」
「いや、あの」
「お忙しいかもしれないんですけどお」
 二人ぐらいが目を見合わせて、同時に封筒を差し出す。
「近江さん、お電話出て下さらないって聞いたんで、がんばって書いたんですう」
「手紙って書くの、大変なんですよう」
「いや、ごめん、受け取れなくて」
「ひどい、なんて思いません?」
 くね、と相手は腰から砕けるように体を振った。両手を組み合わせ、眉を寄せて続ける。
「理由知る権利、あると思いますう」
「理由?」
「何で、秋野さんはよくて、あたし達はだめなんですかあ?」
 俺はあっけに取られた。秋野さんのことを知っていても追い回しているなんて思わなかったのだ。
「秋野さんよりずうっと若いですし、近江さんに似合うと思うんですけどお」
「そんなんじゃない」
 ようやく、そう反論できた。続けようとしたとたん、ことばが喉に詰まってしまう。
「そんなんじゃないんだ、とにかくごめん!」
「あ、ひどおい!」
「逃げるなんてひどいですう!」
 必死に女の子達をかきわけて別の校舎に飛び込んだときは、心底疲れ切っていた。
 そんなんじゃない。
 耳の奥に、自分の声が鳴り響いている。
(秋野さんは『密約』の相手なんだ、ただ一人の)
 応えかけて、ふいに聞こえたもう一つの声に、言うべきことばを失った。
(そんなんじゃない? 確かに俺にとってはそうだけど、秋野さんにとっては?)
 結局は秋野さんにとって、俺は『そんな』ものに過ぎないかもしれないのに?
 勢いをつけて駆け上がった階段の踊り場で立ち竦む。急速に脱力感が襲ってきた。重力に耐えて階段を上り切ることさえできないような気がして、向きを変えてそろそろと段を降り始める。そのとたん、
「近江!」
 声をかけられ、不安定だった足元が支えを失った。転げ落ちそうになって、かろうじて階段の手すりにしがみつく。
「げ!」
 真後ろでうろたえた声が上がって、力強い手が肩をつかむ。何とか落ちずに済んだものの、とても立っていられなくて、俺はへたへたと階段に座り込んだ。おい、何だよ、危ないだろ、とぼやきながら降りて行く学生に見下ろされながら、荒くなった呼吸を整えようとする。
「何だよ、いきなり落ちんなよ」
 がらがら声をかけた村西は、あきれたように、へたり込んだ俺をのぞき込んだ。
「どうした、真っ青だぞ」
「そう、だろうな」
 応えて笑うのが精一杯、くらっと頭の中心が揺れた気がして手すりをしっかり掴み直す。
 最後のキスから十時間はとうに過ぎた。命を削り取るような残り時間が、実際どれぐらいあるのか、俺にもわからない。
「風邪か? それとも」
 村西がにやりと笑った。
「女遊びのし過ぎか? 秋野と同居してんだってな」
 からかい口調にも苦笑するしかなかった。
 階段から落ちかけたのが引き金になったのか、足の感覚はみるみる鈍くなってきた。さっきまでは、多少ぶつけてもわからない、ぐらいだったのが、今はきちんと地面を踏んでいるのかどうかがあやふやになってきている。
 それは、初めてのキス、『密約』をされたときの感覚にそっくりだった。秋野さんのお父さんが運転するタクシーの中で、あっさりと溶け崩れてしまった足。ごとん、という無機質的な音を思い出す。
 とても嫌な感覚だ。視界が揺れて吐き気がする。パニックを起こしそうなのをかろうじて抑えている。
「何があったんだ? ひょっとして、秋野に振られた、とか……おいおいおいおい」
 ずるずると、今度は階段を数段滑り落ちてしまった。村西は心底あきれ返ったといいたげな声を上げた。
「派手なリアクションする奴だなあ、そんなに秋野に惚れてんのか?」
 とんとん、と段を降りてきて、身を屈めて俺の腕を掴み上げ、くすくす笑った。
「わかったよ、十分わかったからもう立てって。おまえが、こんなに冗談のわかる奴だとは思わなかった」
 ふざけてなんかいなかった。体中からエネルギーが抜け落ちていく。『密約』者が側にいないということがこれほど恐怖に拍車をかけるとは思わなかった。ささいな気持ちの揺れが直接体に響いてしまうのがわかる。
 秋野さんが俺を振った、ということばだけで、十分俺にはきつい一撃だったのだ。
「それじゃあ、秋野が夜中の三時に、男と一緒にいるのを許しちゃならねえな」
 村西が笑いながら続けて、我に返る。
(秋野さんが、男と一緒にいたって?)
 じゃあ、やっぱり、そうだったんだ、秋野さんはもう俺から離れる気なんだ。
 つぶやく胸とは反対に、俺は思わず村西を見返して問い詰めていた。
「秋野さんを見たのか?」
「ああ、何だ、少し元気がでたな」
 村西は、俺を引っ張り上げて立たせてくれた。
「誰と居たって?」
「南大路製紙って会社、知ってるだろ?」
「南大路?」
「あいかわらず、世情に疎い奴だな、頭のいい割りには。先月だか、環境破壊企業だって、マスコミのやり玉に上げられてたろ? ほら、よく妙な情報もって来る宮内が、たいした証拠がないから突っ込みようがねえってぼやいてたじゃないか」
 宮内。その名前には覚えがあった。一度、秋野さんに分厚い封筒を送ってきたはずだ。
「で、その、南大路製紙の工場近くで、昨日だか一昨日だか、秋野が男と一緒に居たって聞いたぞ。宮内に聞けば、もう少しわかるかもな」
「そうか」
 手掛かりが何もないまま焦っていたこの数時間に比べれば、あやふやな情報でもありがたかった。たとえ、その宮内とやらが、秋野さんの『恋人』だとわかるとしても。
「助かったよ、宮内って、どこにいたっけ」
「経済、けど」
 村西は腕時計にちらっと目をやった。
「もう昼だからな、今の時間なら食堂だろ」
「サンキュ」
 うなずいて歩き始めた俺が、それでも危うく見えたのだろう、村西は追いかけるように後ろから叫んできた。
「たまには冷たくしとかねえと、振り回されるだけだぜ、女ってのは」
(そうだな、きっと、人間なら)
 俺は手を振り返してうなずいて見せ、食堂へと急いだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

悪役令嬢は手加減無しに復讐する

田舎の沼
恋愛
公爵令嬢イザベラ・フォックストーンは、王太子アレクサンドルの婚約者として完璧な人生を送っていたはずだった。しかし、華やかな誕生日パーティーで突然の婚約破棄を宣告される。 理由は、聖女の力を持つ男爵令嬢エマ・リンドンへの愛。イザベラは「嫉妬深く陰険な悪役令嬢」として糾弾され、名誉を失う。 婚約破棄をされたことで彼女の心の中で何かが弾けた。彼女の心に燃え上がるのは、容赦のない復讐の炎。フォックストーン家の膨大なネットワークと経済力を武器に、裏切り者たちを次々と追い詰めていく。アレクサンドルとエマの秘密を暴き、貴族社会を揺るがす陰謀を巡らせ、手加減なしの報復を繰り広げる。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた

兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

処理中です...